第九章 この世に対して十字架につけられた

ジェシー・ペン-ルイス

イエスは門の外で苦しみをお受けになりました。
ですから、私たちは、彼のはずかしめを身に負って、
宿営の外に出て、彼のみもとに行こうではありませんか。
(ヘブル人十三・十二、十三)

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に
誇りとするものが決してあってはなりません。
この十字架によって(この方によって、欄外)、
この世は私に対して十字架につけられ、
私もこの世に対して十字架につけられたのです。
(ガラテヤ六・十四)

カルバリの復活の面から使徒はこの世を眺めます。そして、十字架が再び分離する力によって、自分とこの世の間に立つのを見ます。カルバリに注がれる神の光により、「私には十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」と彼は叫びます。

使徒がこう叫ばずにいられないのは、十字架のゆえに受ける迫害を避けようとする人々を知っていたからでした。パウロの時代、十字架は特に「つまずき」でした。十字架は外側の割礼の儀式とは関係無く、ユダヤ人にも異邦人にも、すべての人に救いを豊かに無償で提供しました。これは、ユダヤ教がその排他性や肉的な戒めと共に終わったことを意味しました。霊なる方は、霊とまことによって礼拝し、心の霊の宮の中で賛美の霊的いけにえをささげる礼拝者たちを求めておられました(ヨハネ四・二三、二四)。

このような福音の宣べ伝えは、つまずきを意味するものであり、人よりも神を喜ばせることを意味します。

いいえ、それ以上です。パウロは叫びます、「私はキリストと共に十字架につけられました」。私は宗教的な世界に対してさえも十字架につけられました。もし主キリストが啓示された十字架を私が宣べ伝えるなら、彼の十字架は「彼を磔にしたように、私をも磔にします!」(ライトフット)。事実、私はすでにあらゆる事で損失を被りました。しかし、神は私に、キリストのために受ける苦難を取るに足りないものとみなし、「私のために彼が受けてくださった苦難」(ライトフット)に栄光を帰すよう求めておられます。カルバリがに対して持っていた意味を洞察することにより、「十字架のつまずきは私の最大の誇り」となります。「私にはキリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。あの十字架上で、私はこの世に対して十字架につけられ、この世は私に対して十字架につけられました。今から後、両者とも互いに対して死にます。キリスト・イエスにあって古いものは過ぎ去りました。割礼も無割礼もありません。あらゆる外側の区別は消滅しました。新しい霊的な創造がすべてのすべてなのです」(ライトフット)。

このようなカルバリの展望は、十字架のいのちの面でしか見れません。その時、神の光の下で、十字架は神の知恵、神の力として栄光のうちに立ちます。

最初の頃、私たちは十字架の要求にしりごみし、十字架は分離と死しか告げていないように思います。しかし、人が生ける方との親密な交わりの中を歩む時、カルバリにおける彼の死は天の光で照らされるようになります。そして、その幻はますます明瞭になり、キリストの受難の深さとそれに続く栄光――「御使いたちもはっきり見たいと願っている」(一ペテロ一・十二)――を見るようになります。

パウロにとって十字架はいわば、自分とこの「今の悪の世」のあらゆる面との間に横たわる、大きな深淵のようでした。彼はキリストと共に十字架につけられて、罪の圧制と律法の要求から解放されるだけでなく、この世そのもののあらゆる面からも解放されます。

主キリストは、「この今の悪の世から私たちを解放するために」(ガラテヤ一・四)死なれました。そして、十字架上で私たちを「暗闇の力から」(コロサイ一・十三)――「この暗闇の世の支配者たちから」(エペソ六・十二)――解放し、「御子の王国の中に」移してくださいました。ですから、私たちはこの世に対して十字架につけられています。「この世的な」物事や慣習に対してだけでなく、この世そのものに対して十字架につけられているのです。私たちはキリストと共に十字架につけられているのですから、この世は木にかけられたキリストを見るように私たちを見るであろうことを私たちは覚悟しなければなりません。彼と共にそこに釘づけられて、私たちも十字架からこの世を眺め、十字架につけられたイエスと同じ精神で、私たちを十字架に釘づける者たちのために祈らなければなりません。

十字架の光の中でこの世を眺めるために、もう一度カルバリと呼ばれている場所へ行き、この「今の悪の世」を構成するすべての要素が神の聖なる方に敵対して集結するのを見ましょう。そして彼と共に苦しんで共に栄光を受けるために、彼と結ばれている人が何を覚悟しなければならないのかを知りましょう。

兵士たちは、イエスを十字架につけると、彼の着物を取り、互いに言った、「さあ、くじを引こう」。(ヨハネ十九・二三、二四)

十字架の下で賭事に興じている四人の兵士たちの姿から、人の苦しみに無頓着で、自分の支配下にあるすべての人から搾取しようとする、人の性質を見ることができます。

ああ、今日なんと多くの人が、このキリストの死刑執行人たちのようでしょうか!彼らは、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」と叫び、刹那的な物質的必要しか顧みません。

苦しみに敏感で、同情心のある人にとって、この邪悪な世のこの要素に出会うことは、なんという苦しみでしょうか!ああ、その力の中にあるすべての人のゆえに!

祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、彼をあざけって言った、「今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから」。(マタイ二七・四一、四二)

イエスの十字架を拒絶する「宗教的な」この世もあります。彼らは十字架につけられた主に従う覚悟がありません。彼らは「上座や上席が好き」で、「広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです」(マタイ二三・六、七)。彼らは「言うことは言うが、実行せず」、「彼らのすることはみな、人に見せるためです」(マタイ二三・五)。二十世紀において、宗教的な世は十字架で死なれた方の御名を帯びていますが、十字架を愛していません。権力や人からの栄誉を愛することは、十字架の精神とは正反対です。

道を行く人々は、頭を振りながら彼をののしって言った、「おお!神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ」。(マルコ十五・二九)

様々な人が十字架のそばを通り過ぎ、大衆の叫びに加わります。彼らはしかし、人の指導者たちに群れとして導かれる羊にすぎません。彼らは指導者たちの思いを伺って、時代精神にすぐに左右されます。彼らは十字架のそばを通り過ぎ、彼が語られた言葉を浴びせて、十字架につけられた方をののしります。

あの恐るべき日、兵士たちや強盗たち、指導者たち、祭司長たち、長老たちと律法学者たちは、群衆全員と共に心を一つにしました。宗教的な人々、乱暴な兵士たち、犯罪者たち、この世の人々らはみな、自分たちを隔てていた壁を忘れて、カルバリで一致団結しました。彼らは一つになって、「もしキリストなら、自分を救ってみろ」と叫びました。彼らにとって、十字架は彼が神の御子ではない証拠のように見えました。彼が超自然的なしるしを見せるなら、彼らは信じるでしょう。自分がメシアであることを証明するのは、まだ遅すぎません。「十字架から降りてこい」―――これに尽きました!

今日も同じです。この今の悪の世の要素はことごとく、カルバリで一致団結します。肉的な要素、この世の知者たち、犯罪者階級、伝統的宗教家たちは、邪悪な者の特別部隊と共に団結し、十字架に大反対しています。そしてまた、イエスの十字架の傍らに立つ人々は小さな群れであり、十字架の宣べ伝え自体が「この世に対して十字架につけられた」者として彼らを分離します。十字架は彼を磔にしたように、彼らをも磔にします。十字架は再び分離する力を現わします。カルバリでは中立の立場はありません。

あの恐るべき日、もしイエスの十字架のそばに立っていたなら、私たちは「十字架のつまずきは私の最大の誇りです」と叫んだでしょうか?十字架を負うこと、この世から追放されることに、私たちは同意するでしょうか?世はこの世的な世界であり、固有の目的、固有の関心、自己追求・自己賛美・自己愛の固有の精神を持つ世界であり、「この世の要素」を内に持ち、私たちと主との間に割り込もうとする宗教的世界ですらあります。「イエスは門の外で苦しみをお受けになりました。ですから、私たちは、彼のはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、彼のみもとに行こうではありませんか」(ヘブル十三・十二、十三)。

クリスチャン生活におけるこの世の要素

もしあなたがたが、キリストと共に死んで、この世の要素から離れたのなら、どうしてまだ、この世に生きているかのようなのですか?(コロサイ二・二十)

ガラテヤの信者たちは、クリスチャン経験において成長しようとして、律法の行ないへの信頼に逆戻りする危険の中にありました。しかしコロサイ人たちは別の方法、すなわち「哲学」や「人の伝統」によって、キリストから引き離されつつありました。パウロは、「哲学」や「人の伝統」は「この世の要素によるものであって、キリストによるものではない」と断言しました。

ガラテヤ人にもコロサイ人にも、パウロは同じメッセージ、カルバリのメッセージを語りました。

彼はコロサイの騒ぎに、さらにもう一つの声を付け加えようとはしませんでした。なぜならコロサイ人たちは、「食べ物」や「飲み物」や祭りのことで互いに裁き合い(コロサイ二・十六)、「人の教訓や教義」ですでにかなり混乱していたからです。それらはみな外面的な事柄であって、古い律法の下ではキリストにあって「来るべきものの影」でしたが、今や少しも重要ではありません。使徒は彼らをカルバリに連れ戻して言います、「もしあなたがたがキリストと共に死んだのなら」、「どうして」まだ「この世に生きている」かのように振る舞っているのですか?

なぜあなたがたは、「外側の事柄に関する幼稚な教え」(コロサイ二・二〇、C.H.)に逆戻りして、「見える事柄に安住し、肉の思いによっていたずらに誇る」(コロサイ二・十八)、キリストにしっかりと結びつくことをしない人々の支配に服するのですか?キリストはそのからだである教会のかしらであり、その肢体のいのちです。こうして彼のからだは、まさに「神の増し加わり」である自然ないのちによって、内側から増し加わります(コロサイ二・十九)。

しかし、キリストと共に死んで、あなたがたのいのちである彼に今結ばれているのなら、どうしてあなたがたはあれやこれに「触るな」という方面に戻るのですか?このような外側のものはみな、「用いれば滅びる」ものです。「私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはなりませんし、食べても益にはなりません」(一コリント八・八)。

パウロは、禁欲主義は「賢いもののように見える」けれども、神からの戒めに関するかぎり、「人の好き勝手な礼拝」(コロサイ二・二三、C.H.)にすぎないと指摘します。禁欲主義は「謙遜」であるかのように、また賢い「肉体の苦行」であるかのように見えますが、これらのものはみな、「肉の欲望に対してなんのききめもありません」(コロサイ二・二三)。

コロサイ人たちはキリストと共に死んで、このようなこの世のすべての要素――「人の伝統に基づく」要素――から解放されました。それらの要素は、人が自分自身を克服できると夢想して考え出した「虚構」の産物であり、キリストにしたがったものではありませんでした。キリストの中に真の割礼(コロサイ二・十一)であるの割礼がありました。コロサイ人たちは彼と共に彼の墓の中に葬られ、彼と共に新しいいのちによみがえらされました。ですから彼らは、今「この世に生きている」かのように振る舞うべきではありませんでした。

彼らはキリストと共に十字架につけられ、「キリストと共によみがえらされ」ました。これを心で信じることは、超自然的な力、キリストの復活の力をもたらします。ですから彼らは外側の事柄を禁止したり、あれやこれをするべきかと問う代わりに、キリストにあって所有している天の富を思い、上にあるものを求めるべきでした(コロサイ三・一~三)。

使徒は繰り返します、「なぜなら、あなたがたは死んだのであり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されているからです」(コロサイ三・一~三)。彼らはキリストのいのちにあずかるために、古いいのちから分離されました。この神からのいのちにより、彼らは「肢体」を「死に渡す」ことができ(コロサイ三・五欄外)、肉の欲からの解放の秘訣を学ぶことができました。

コロサイの信者たちを脅かした危険に、今日私たちも直面しています。この危険はしばしば、聖潔や献身といった名目の下に隠れています。

この世的なクリスチャン(なんと矛盾した言葉でしょう!)が、このような特別な罠にかかることはまずありません。しかし、主に従うことを願う人ほど、「人の教え」、特に働きのゆえに敬愛してやまない人々の教えによって、すぐに影響されてしまうのです。

キリストの十字架は万人のためのメッセージであり、万人のための救済手段です。キリストと共に十字架につけられることに、心から真に同意しましょう。そうするなら間もなく、この世は私たちに対して十字架につけられたこと、この世は魅力を失ったこと、宗教的な世は主の御前における私たちの歩みに影響を及ぼさなくなったことがわかるでしょう。

すべて「世にあるもの:肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」:すべて「御父から出たものではなく、この世から出たもの」(一ヨハネ二・十六)は、私たちに対して十字架につけられます。そして、私たちはこの世に打ち勝ちます。なぜなら、私たちのうちにおられる方は、「この世のうちにいる者」(一ヨハネ四・四)よりも偉大だからです。

合一の基礎としての十字架

キリストの血によって近い者とされたのです。
彼は私たちの平和であり、二つのものを一つにし、両者を十字架を通して一つからだの中で神と和解させてくださいました。敵意は十字架によって葬り去られました。
(エペソ二・十三、十四、十六)

十字架は神の子どもとこの世とを分離する力であるだけでなく、尊い血によって神に近づくすべての人を結び合わせる力でもあります。

キリスト・イエスにある」すべての人が一つであることを、血によって買い取られた神の子どもたちがきわめて明確に悟るのは、十字架のいのちの面においてです。カルバリのメッセージは、罪人に対して、神との和解の基礎として宣べ伝えられます。しかしそれは、人と人との間の、またキリストを告白して彼に従う者たちの間の、合一の基礎として特に宣べ伝えられなければなりません。

神の真の子どもたちの間にある分裂はみな、「この世の要素」によります。私たちはどれほど痛ましい思いで、この事実を見る必要があることでしょう。神の子どもたちは、十字架につけられた主と共に、「この世の要素」に対して死にました。キリストが死によって解放してくださったものを私たちが生活の中で許容するなら、それは「事実上、キリストの死の効力を拒む」(ライトフット)ことです。

かつてヘブル人の中で最も排他的な階級に属していた使徒パウロは、キリストの死が同じ主を礼拝することを求めている人々の間のあらゆる隔ての壁を打ち壊したことを、はっきりと見ました。彼はかつて、いやしいナザレ人に従う人たちを根絶しようとしましたが、その時と同じ熱意で、十字架につけられた方の求めに応じ、「かつて滅ぼそうとした信仰」(ガラテヤ一・二三、欽定訳)を高らかに宣べ伝えました。

十字架の言葉は彼の生涯に革命を起こしました。それは、彼の先入観、国民的偏見、民族的誇り、排他的身分を一掃しました。

新しいいのちへの門としての十字架がパウロの不変のテーマです。彼はコロサイ人に手紙を書いて、彼らが死なれた方と共に死んだこと、それは今後、地的な区別や分裂の余地のない新しい領域に生きるためであることを、彼らに印象づけます。この新しい領域では、「ギリシャ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開人、スクテヤ人、奴隷、自由人はありえません。キリストがすべてのすべてなのです」(コロサイ三・十一)。

パウロはコリント人にも、「私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つ御霊の中で、一つからだの中へバプテスマされました」(一コリント十二・十三)と書いています。

ユダヤ人は異邦人を「無割礼の者」と呼びました。彼らの間の壁は、外面的儀式、モーセの律法、レビ的いけにえから成っていました。それらはみな、キリストご自身がすべてのものの成就として、また人々の罪のための一つの完全で十分ないけにえとして来臨されるまでの間、神によって定められたものでした。

パウロは言います。キリストは「彼の肉において、敵意と様々な規定から成る戒めの律法さえも廃棄し」(エペソ二・十五)、彼ご自身が平和となって、ユダヤ人と異邦人から「ひとりの新しい人」を創造されました。なぜなら、ユダヤ人と異邦人は、ユダヤ人と異邦人として、彼と共に死んだからです。もし彼らが彼を通して神に近づくなら、ユダヤ人と異邦人はキリストのからだの中で神と和解します。ですから、十字架を通して彼は彼らの間の敵意を廃棄されたのです。

ああ、カルバリの栄光のメッセージ。そのメッセージからクリスチャンの教会が起こり、二十世紀に私たちが享受している解放の祝福がことごとく流れ出ました。なぜなら、復活した主ご自身が使徒パウロに鮮やかに啓示されたカルバリの十字架を通して、またパウロ自身の忠実な十字架の宣べ伝えを通して、私たち「異邦人」は、福音により、イエス・キリストにあって、「共同の相続者」となり、「ともに一つのからだに連なり」、「ともに約束にあずかる者」となったからです(エペソ三・六)。

しかしながら、キリストの御名によって呼ばれている、主を告白するクリスチャンの教会の中には、依然として、神を礼拝する者たちの間に壁が見られるのです!この壁はパウロの時代にユダヤ人と異邦人の間にあった壁と同じです。

パウロはエペソ人に、「彼は来て、平和の良いたよりを宣べ伝えてくださいました」(エペソ二・十七)と記しています。両手に受難の傷跡を持つ復活の主、あらゆる人種から「ひとりの新しい人」を創造するために死なれた方が、自ら平和のメッセージを携えて来てくださいます。ああ、どうか主が今日再び、同じ喜びのたよりを携えて、ご自身の民を訪れてくださいますように!彼の両手と脇腹を私たちに示して、

「あなたがたに平和があるように」

と語ってくださいますように!そして、彼の教会の生ける肢体のすべての部分を「十字架を通して」結び合わせてくださいますように!