第十章 十字架と暗闇の勢力

ジェシー・ペン-ルイス

神の子が現われたのは、悪魔の働きを滅ぼすというこの目的のためです。
(一ヨハネ三・八)

彼は私たちの負債を記した手書きの書を消し去り、
(それを)彼の十字架に釘づけにされました。
彼はその体を渡すことにより、彼ご自身において、
支配たちや権威たちを辱め、さらしものにされました。
(コロサイ二・十五、シリア訳)

カルバリの十字架におけるキリストの御業の別の面が、ここで私たちの前に示されています。彼はその死により、「支配たちや権威たちをはぎ取り」、「さらしものにして、彼らに勝ち誇られました」とパウロはコロサイ人たちに書いています。

これらの支配たちや権威たちは、エペソ人への手紙六章十二節で、「この暗闇の世の支配者たち」、高きところ、天にいる、もろもろの悪霊――「邪悪な霊の軍勢」――として描かれています。

十字架の勝利は、特にイザヤによって語られました。彼は、悲しみの人が「強い者と共に獲物を分かち取る」ことを預言しました。そして今、使徒パウロは、「主キリストは十字架上で、支配たちや権威たちをはぎ取り、彼らに勝ち誇られました」と宣言します。

十字架の復活の面にある魂に与えられる、カルバリで成就された御業全体に関する明瞭な幻に、私たちは再び気づきます。キリストが自分のために死なれたことだけでなく、自分がキリストと共に死んだことを理解する時はじめて、信者はパウロが「天」として描写している領域の中に実際に入ります。パウロは「天」の領域の中を「御霊によって」生き、「御霊にしたがって」歩みます。

信者はこの領域の中で、使徒が描写した暗闇の勢力が実在することを悟ります。彼らは「霊の」軍勢ですから、「肉にしたがって」歩み、「まだ肉的」で「ただの人のように」(一コリント三・三)生きている人はそれを知りません。

ですから、神の子供たちが十字架の二重のメッセージを理解しないでいることは、「この暗闇の世の支配者たち」にとって好都合なのです。なぜなら、十字架の二重のメッセージを通して神の子供たちは天の領域に入り、そこで悪魔の策略に対して目を開かれ、自分たちの「格闘は血肉に対するものではなく、邪悪な霊の軍勢に対するもの」(エペソ六・十二)であることを見るからです。

魂の敵は十字架のメッセージのあらゆる面に反対する、というのは真実です。しかし地獄の勢力は、暗闇の君とその邪悪な軍勢に対するカルバリの勝利を信者が知るのを、こぞって邪魔します。なぜなら十字架の地的な面において、狡猾な敵はしばしば神の真の子供たちすら説き伏せて、「敵は全く存在しない」と思い込ませるからです。あるいは、自分の力を現して、「この墓の側には解放がない」と彼らを欺いて信じ込ませ、彼らを常習的な罪の虜にするからです。

神のための奉仕においても、多くのクリスチャンは肉的な武器を用いていますが、それは現実の敵に対して全く役に立ちません。他の人々は真剣な計画に没頭し、群衆を彼らの主に勝ち取るために、心や魂を用いて労しています。しかしその背後や周囲には、邪悪な者と実在するけれども目には見えない悪の軍勢がいて、あらゆる肉の武器をあざ笑っているのです。彼らはキリストが成就された御業の力以外なにも恐れません。キリストが成就された御業の力は、十字架につけられた主の真に十字架につけられた使者となった男女を通して、聖霊によって現わされます。

こういうわけですから、暗闇の君が十字架を憎み、十字架のメッセージを無にしようと躍起になり、その完全な意義を神の子供たちから隠し、その力を知ることからなんとしても彼らを遠ざけようとするのも、驚くにはあたりません。

イザヤの預言によると、カルバリの人はその魂を注ぎ出して死に渡すことにより、「恐るべき者から獲物」を取り、「強い者と共に分捕り物をわかちとる」ことになっていました。ですから、神のキリストが地上を歩まれた時、イザヤの預言を熟知していたその「恐るべき者」は、彼のみもとにやってきて、彼を十字架から遠ざけるために徹底的に彼を試みました 。試みる者は荒野で、もし自分に頭を下げさえするなら、十字架に行くまでもなく、この世の王国をすべてさしあげましょう、とキリストに申し出ました。しかしキリストは、御父の御旨を成就するために、御顔を火打ち石のようにして答えられました、「あなたの神である主を礼拝せよと書かれている」。そして、誘惑者から転じて恥の十字架に向かわれました。

後に、彼の弟子ペテロの口を通して、その誘惑が繰り返されました。ペテロは主から受難と死の予告を聞いて、「ご自分をあわれんでくださいますように」と主をいさめました。主は、「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ十六・二三参照)と言われました。

サタンは再び失敗して、執拗な攻撃を再開するまで、「しばらくの間」神の御子から離れました。サタンは人の体に取り憑いた悪鬼どもにより、彼を激しく攻撃しました。なぜなら、「邪悪な霊ども」はみな、この神の聖なる方が人に対する自分たちの権威と権力を終わらせるであろうことを知っていたからです。

ついに、最後の戦いが間近に迫りました。敵はキリストを十字架から逸らすことに失敗しました。そして今、激しく十字架を煽る者になります。

受難の時に近づいた際、神の御子が語った御言葉は、彼がご自身の死の目的をはっきりと知っていたことを示しています。彼の死は「すべての人のための贖い」であっただけでなく、地獄の勢力に対する最終的な完全勝利でもありました。主は弟子たちに、「今、この世の君は追い出されます。わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を私自身に引き寄せます」(ヨハネ十二・三一、三二欄外)と語って、カルバリを中心とする力について予告されました。その力は、魂を罪の死と悪魔の捕囚から解放して、彼ご自身に引き寄せます。

晩餐の席上、主は再び、「この世を支配する者が来ます。しかし、彼はわたしのうちになにも持っていません」(ヨハネ十四・三〇、三一)と言われました。彼は御父を愛して、御父が彼に与えた「十字架へ行くように」という命令を、そのとおりに行おうとしておられました。彼は、狼が神から奪った羊たちを救うために、自分自身の自由な意志で自分のいのちを捨てようとしておられました。

暗闇の君は、神の御子を十字架から引き離す試みに完全に失敗すると、主を十字架に導くために、主ご自身の弟子の一人の中に入りました。

晩餐の席上、悪魔は主を裏切るという恐ろしい思いを「ユダの心の中に入れ」ました(ヨハネ十三・二)。そして、ユダがキリストの手から直接パンを受け取った後、「サタンが彼の中に入り」ました。そして彼は、自分の主の敵の願望を成就するため、急いで外に出て行きました。

神の聖霊は、神の御計画を成就するために、明け渡された心と生活を求めておられます。それと同じように、悪霊も自分の計画を実行する人間を見つけなければならないのです。これはなんと厳粛な事実でしょう!

血の汗を流すほどの彼の苦しみの後、人々はゲッセマネの園で彼を捕らえ、彼を法廷に連れて行きました。その時、キリストは言われました、「今はあなたがたの時です。暗闇の力です」(ルカ二二・五三)。この時から、彼はこの暗闇の世の支配者たちに引き渡されました。彼らは、彼に対して極みまでも力を振るうことを許され、彼らの意志を行なう邪悪な人々の手によって、「いのちの君を殺しました」。

勝利の時

彼は、支配たちや権威たちをご自身から引き離し、さらしものにして、それによって彼らに勝ち誇られました。(コロサイ二・十五)

これが、神の観点から描写したカルバリの悲劇です。

その時、世の人々の目には、この世の君がまんまと神のキリストをさらしものにし、彼の体を死に渡して勝ち誇っているように見えました。その同じ時、神と天の軍勢の前では、支配たちや権威たちの方が、彼らが十字架につけたキリストによって、さらしものにされ、打ち負かされていたのです。

パウロは言います、「勝利者が凱旋行進で捕虜や戦利品を見せ物にするように、彼らは見せ物にされました」(ライトフット)。征服者はいわば、天の軍勢の前で、彼らを「凱旋行進の中で引いて行かれ」ました。ここで使われている比喩は、コリント人への第二の手紙二章十四節で使われている比喩と同じです。そこではこう言っています、「キリストは、彼の愛によって征服されて、喜んで彼の死の戦利品となった人々を、勝利のうちに導かれます」。

カルバリの勝利のなんという絵が、ここで私たちの前にあるのでしょう!地上の光景に対するなんという対比が、いま示されているのでしょう!悪の全軍勢が征服者によってさらしものにされた時、十字架の周囲で嘲っていた群衆は、目に見えない領域で起きていたこの凱旋行進について、少しも知りませんでした。

使徒はこのような描写によって、「十字架の逆説を強力な光の中に置きます。(中略)罪人をさらしものにする道具は、勝利者を乗せる車だったのです」(ライトフット)。

聖霊の証し

慰め主は裁きについて認めさせます。なぜなら、この世の君が裁かれたからです。(ヨハネ十六・七~十一)

十字架と受難の前の晩、主は弟子たちに、真理の霊が到来して彼らの中に住み、彼を証しし、彼の栄光を現わすであろうことを語られました。

十字架の前、主は、「今、この世の君は追い出されます」と言われました。しかし、彼の死と復活の後、「この世の君は裁かれた」と御霊は証しされます(ヨハネ十六・十一)。

神の御子はカルバリの十字架上で地獄の勢力に対して勝利を収められました。聖霊は、その勝利をこの世に認めさせ、神の御子の御業を証しするために与えられます。

カルバリの死により、魂の敵は征服されました。しかし、これを悟っている神の子供はなんと少ないことか!邪悪な者の策略を対処する方法を知っている人は、なんと僅かなことか!しかし、果敢に戦って敵を攻撃し、十字架の勝利にあずかる方法を知っている人となると、さらに少ないのです!

小羊の血

彼らは、小羊の血と自分たちの証しのことばのゆえに、彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでも自分のいのちを愛さなかった。(黙示録十二・十一)

黙示録のこの章は、覆いを一瞬取り去って、目に見えない世界の戦いを示します。

この章がある特別な時のことを預言的に語っているのかどうかは、私たちにとってさしあたり重要な問題ではありません。少なくとも次のことは明らかです。すなわち、十字架上でいのちの君と暗闇の君との間に最後の戦いがあったように、天で最後の戦いがあるでしょう。十字架における戦いでは、十字架につけられた方に信頼する人々に対する権威の座から暗闇の君が投げ落とされました。天における戦いでは、主の軍勢がやって来て、竜とその使いたちを地に投げ落とします。続いて、彼らは最終的に底知れぬ穴へ、それから火の池へ行きます。

しかし、竜とその使いたちはまだ自由なのです!支配たちと権威たちはカルバリの十字架上で征服されましたが、あの輝かしい勝利と彼らが最終的に投げ落とされる時との間には、ある期間があります。この期間、贖われた各人はカルバリの勝利を行使し、征服済みの敵に個人的に打ち勝ち、そうして勝利者の座にあずかる勝利者たちと共に冠を勝ち取らなければなりません。

この天での最後の戦いの啓示の中に、勝利の三重の秘訣と、各々の勝利者が敵に打ち勝つ方法が示されています。

「彼らは小羊の血のゆえに彼に打ち勝った」。これは私たちをカルバリとキリストの受難に連れ戻します。この勝利者たちは聖霊から十字架の勝利をはっきりと教わりました。ですから、小羊の血――小羊の死――は勝利者たちが敵に対して用いた一つの武器でした。

これには「彼らの証しのことば」、すなわち恐れずにキリストを告白することと、「死に至るまでも自分のいのちを愛さない」ことが伴いました。勝利者たちは邪悪な者に打ち勝つために十字架の力を用いただけでなく、死なれた方の霊を飲み、その結果十字架につけられたいのちを生き、主の霊を通して暗闇の君に勝ち誇ったのです。

神のすべての子供たちにとって十字架は勝利の道です。彼らは彼の死の中で主に結び合わされ、彼の復活のいのちにあずかり、地獄の支配たちや権威たちを「遙かに超越し」、天で彼と共に座に着いています。

十字架の苦難

このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。(一ペテロ四・一)

敵はすでに征服されており、私たちは戦いの時いつでも血の力を用いることができます。しかし、十字架につけられたイエスの内なる霊を絶えず深く知ろうとしないかぎり、私たちを攻撃する悪の勢力との戦いにおいて、私たちは依然として無力なままでしょう。

使徒ペテロは、「キリストは肉体において苦しみを受けられました。あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい」と記しています。主イエスはよくよく考えた上で、この今の悪の世で苦難を受ける道を選ばれました。彼は万物の主であるのに僕の姿をとり、全能者であるのに「人と同じような姿になって」弱い立場を取り、天では神と等しい方なのに、地上で最も低い所に行って人としてご自身を低くし、苦しみと恥の十字架に至るまで神の御旨に従う道を歩まれました。主イエスはよくよく考えた上で、このような苦難の道を歩まれました。一歩一歩、彼は低くなられました。彼にとって十字架は理屈ではありませんでした!彼は肉体において苦しみを受けられたのです。

ああ、神の子供よ、同じ心構えで自分自身を武装しなさい。キリスト・イエスの心をあなたの心としなさい。十字架上の彼の死の霊を受け入れることを選ぶなら、あなたは「罪をやめ」(一ペテロ四・一欄外)、もはや生まれながらの人の通常の欲望にしたがってではなく、それとは反対の「神の御旨」の観点にしたがって生きるようになるでしょう。他の人々は「それを奇妙に思い」、「あなたがたの悪口を言う」かもしれません。しかし、「もしキリストのために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の霊、神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。彼らの方は彼を悪く言いますが、あなたがたによって彼は栄光を受けられます」(一ペテロ四・十四、欽定訳)。

内側に息吹かれたイエスの十字架の霊により、私たちは内側を武装されなければなりません。そうするなら、私たちは外側で勝利し、「小羊の血」の武器を用いて確かな勝利を収め、悪魔はカルバリで征服されたことを経験的に知るようになるでしょう。

神のすべての武具

神のすべての武具を身につけなさい。悪魔の策略に対して立ち向かい、いっさいを征服して、立つためです。(エペソ六・十一、十三、欽定訳)

ここでパウロは、カルバリの復活の面で私たちが直面する敵や戦いについて、非常に克明に描写しています。

「主にあって、その大能の力によって強められなさい」(エペソ六・十)とパウロは記しています。これは、信者が自分の力の終わりに達していることを前提とします。なぜなら、使徒が書いているのは、「キリストと共に生かされ」、彼と共に「よみがえらされ」、「キリスト・イエスにあって彼と共に天の所に座らされ」、こうして「新しい人」を着た人々に対してだからです(エペソ四・二四)。

「激しい誘惑の時、どう振る舞えばいいのでしょう?」。これが彼らの心中の疑問です。彼らは「キリストと共に十字架につけられ」、今、毎瞬、彼のいのちによって生きています。彼らは戦うべきなのでしょうか?彼らはどうすればいいのでしょう?

彼らは「主にあって強く」なければなりません。そして、彼らの内にある彼の力によって強められなければなりません。彼らはただ、自分の立場に立つべきです!悪魔は彼らをカルバリから、「主にあって」彼らのいるべき所から引き離そうとします。この「悪魔の策略」(十一節)に立ち向かいなさい。

「私たちの格闘は血肉に対するものではないからです」(十二節)とパウロは記しています。そうです、これはまさに「格闘」です。霊的な敵は霊的な人を霊的な方法で攻撃します。信者は、目に見えないなんらかの敵と取っ組み合いの格闘をしていることに気づきます。言うなれば、敵は内なる人に絡みつき、実際に「格闘」しているのです。戦っても望みはありません。信者にできるのは「堅く立つ」(コニーベア)こと、どんな代価を払っても、キリストにあって自分のいるべき立場を放棄しないこと、そして悪魔の策略に屈しないことだけです。

「血肉」への言及は、これらの「策略」がしばしば人の姿を取って来ることを暗示しています!しかし、主の中にしっかりと守られている魂は鋭い視力を与えられて、「不従順の子ら」(エペソ二・二)のうちにその霊が働いているのを見るだけでなく、しばしば神の僕たちによっても働くのを見ます。実際、その霊はペテロを通して働いて神の御子を誘惑しましたし 、サタンがダビデを神の命令によらずに行動させた時にも働きました。

聖霊により力をもって内なる人の中で強められることにより、信者は神の真の戦士となり、支配たちや権威たちを「この暗闇の世の支配者たち」としてますます認識できるようになります。「空中の権の支配者」(エペソ人への手紙二・二)は、昔ヨブを攻撃したように、空中の勢力を用いて神の子供を攻撃します。また、彼は自分のたくらみを成し遂げるために、人々を無意識のうちに手先として操ることができます。信者はこれらのことも学びます。

「ですから、戦いのために神のすべての武具を取りなさい」(エペソ六・十三、コニーベア)と戦士パウロは叫びます。キリストは彼の十字架によって、これらの邪悪な霊の軍勢を勝利のうちに引いて行かれました。しかし、彼に結ばれている人々よ、あなたはあなたのためにこのように用意されている武具を常に積極的に「取り」なさい。

ああ、神の子供よ、キリストはいのちを犠牲にして勝利されました。しかしこれは、あなたのなすべき分がなにも無いということではありません。戦いにおいて、あなたにはあなたの分があります。彼の御座にあずかりたければ、彼が勝利されたように、あなたも勝利しなくてはなりません。

あなたがカルバリの勝利を学び、自分から出てキリストの中に駆け込む時、次々と敵があなたに襲いかかり、あなたをあなたの主から連れ出そうとするでしょう。「邪悪な日に際して彼らに対抗するために」(コニーベア)、信仰の手で神の武具のすべての項目を取るよう、あなたは気をつけなければなりません。

悪霊どもは無数の策略を巡らして、あなたの周りに群がるでしょう。すべての武具を身につけるなら、あなたは敵に「対抗し」、「すべての敵を投げ落とす」(コニーベア)でしょう。あなたは小羊の血により勝利のうちに堅く立つでしょう。

「すべての武具」とは主キリストご自身です。地獄のすべての軍勢を対処するために、あなたは「主の中に」住み、「彼にあって」「強くされ」なければなりません。

彼の内に住むことを願うなら、「真理の帯を腰に締め」(コニーベア)なければなりません。なぜなら、あなたの生活の中に、真理である方の目から見て真理に反するものが少しでもあるなら、あなたは敵の手によって完全に打ち負かされるからです。

あなたの義である方の中に住んで、彼の義――彼の王国の杖はまっすぐな杖です(ヘブル一・八)――に反するいかなるものもあなたの生活の中に許さないなら、義の胸当てがあなたのものになります。

「主にあって」、あなたは常に平和の福音の使者でなければなりません。なぜなら、あなたは「仕えるために救われている」からです。地上を歩む時、あなたは御霊の促しに直ちに従わなければなりません。さもないと、あなたを見張っている敵につけ込まれるでしょう。

あなたは「信仰の盾」を素早く取って、その後ろで「悪い者が放つ火矢」から隠れなければなりません。そして、蛇がその悪賢さによってエバを欺いたように、あなたの「思い」が「キリストにある単一さ」(二コリント十一・三、改訂訳と欽定訳)から堕落することが決してないよう、特に「救いのかぶと」を頭にかぶらなければなりません。とりわけ、防御と攻撃のために、あなたは御霊の剣である神の御言葉を常に必要とするでしょう。神の言葉は生きていて、力があり、いかなる両刃の剣よりも鋭いのです。

あなたの主との親密な会話により、「どんなときにも御霊によって」(エペソ六・十八)主に語りなさい。そうすれば、あなたは敵を対処するために装備され、あなたを愛しておられる方によって圧倒的な勝利者になるでしょう。

また、あなたは戦いの激しさを知り、キリストのからだの一肢体が苦しむ時、全体も苦しむことを知ります。あなたは「忍耐のかぎりを尽くし」、「すべての聖徒」のために祈るようになるでしょう。特に、戦士パウロのように主の戦いの最前線にいる人々のために祈るようになるでしょう。

その時あなたは、「主の日に際して戦いの中に立つ」方法を彼から教わり、輝く鎧を身にまとう武装した戦士として、敵を攻撃する戦いに送り出されるでしょう。あなたは、十字架につけられて復活した主の御名によってなされるしるしや不思議を目撃し、十字架の栄冠を勝ち取るでしょう。