第十一章 十字架とその継続性

ジェシー・ペン-ルイス

もし彼とともに死んだなら、彼とともに生きるようになる。
もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。
(二テモテ二・十一、十二)

彼とその復活の力を知り、
また彼の苦しみにあずかることも知って、
彼の死に同形化されるためです。
(ピリピ三・十)

私たちはまたもや「彼の死」という言葉に出くわします。今回は、パウロが彼の愛するピリピ人へ宛てた手紙においてです。

パウロはガラテヤ人への手紙で、「私はキリストと共に十字架につけられました」と歓喜して叫びます。その約六年後、ピリピ人への手紙が書かれました。しかし彼はここで、キリストの死との一致・同形化を、キリストの復活の効力の偉大な力をさらによく知るための条件として述べています。

クリスチャン生活において十字架は継続的に働きます。これを証明するこれよりも明らかな証拠は聖書中に見あたりません。

パウロは聖霊の豊かさを確かによく知っていました。彼はキリストご自身の直接の啓示によって任命され、十字架のメッセージを与えられました。彼は十字架による罪の束縛からの解放を明確に宣べ伝えました。そして、ローマのクリスチャンたちへの手紙の中で、彼の死における信者の主との一体化について、また信者を罪と死の法則から解放する、キリストにあるいのちの霊の力強い効果的働きについて説明しました。

聖霊の力はこれらのメッセージに証印を押されましたし、彼も自分の生活の中で個人的に経験していました。しかし、使徒はこれらすべてを後にして、さらに「彼の死」を知ることを求めます。

パウロの言葉の中に、いっそう深い経験の段階が啓示されています。また、霊のいのちの成長はキリストの苦しみとのいっそう深い交わりを意味することを、彼の言葉ははっきりと示しています。なぜなら、「頂点に達した復活のいのちは、奇妙なことに、十字架へ戻る」(C.A.フォックス)からです。

ですから使徒は、主の死に同形化されることを熱心に願って、「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠」を目指して進みます。なぜなら、「彼と共に苦しむ」ことは「彼と共に栄光を受ける」ことでもあることを知っていたからです(ローマ八・十七、欽定訳)。

使徒の手紙に戻って、十字架への同形化が実際の経験で何を意味するのか、彼自身の生涯から見ることにしましょう。

死の宣告

非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け
生きる望みさえ失い
という宣告を持ちました。それは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださるに拠り頼むためでした。
(二コリント一・八、九)

この節から明らかなように、どれほどよくキリストと共に死んだことを理解し、彼の復活の力を知っていたとしても、自分にはなんの力も能力も無いことを、了解済みの理屈としてだけでなく実際の事実として知る所に、私たちは何度も導かれます。

私たちは生きる望みさえ失いました」とパウロは記しています。しかし、私たちは神から答えを得ました。それは「私たちの死」であり、ただひとり死者をよみがえらせることのできる方に自分を委ねざるをえない絶望に私たちが導かれるためです。彼は大きな危難から私たちを救い出してくださいました。なおも救い出してくださるという望みを、私たちは彼に置いています。

これこそ、「私はキリストと共に十字架につけられました」と歓喜して叫んだ魂にふりかかった多くの苦難の意義です。自分の知恵を終わらされることにより、そして自分の力を越えた、神しか助けにならない状況に次々に導かれることにより、私たちは死者をよみがえらせてくださる神の力を現す方法を学ばなければなりません。

使徒パウロは神をよく知った後で自分自身についてこう記しえたのですから、私たちの生涯においても、「自分に頼る」ことは明らかに危険です。また、キリストの復活の力を現わすには、自己の終わりに保たれることが確かに必要です。

弱さを通して十字架につけられる

彼は弱さを通して十字架につけられました。私たちも彼と共に弱い者です。(二コリント十三・四、改訂訳)

この御言葉は「彼の死に同形化されること」の別の面を示しています。キリストはご自身を渡して、ほふり場に引かれて行く小羊のように、人々の手の中にある弱い無力ないけにえのように引いて行かれました。その時現わされたキリストの人間的弱さは、パウロにとって彼自身の弱さの絵図でした。

パウロは「弱さを通して十字架につけられた」神の御子を見つめて、「私も彼と共に弱い者です」と叫びます。しかし再び彼は、「御父の栄光によってよみがえらされた」キリストを思い、彼がどのように「神の力によって生きておられる」のかを思い出して、たとえ弱さの中にあっても、神の同じ大能の力により、自分もキリストのいのちにあずかれることを知って喜びます。そこで、彼はさらに言います、「私は、あなたがたに対する神の力によって、彼と共に生きます」。パウロは叫びます。私自身は弱い者です。私も自分の弱さによって「十字架につけられて」います。しかし、私は私の主の死に同形化されます。そして、私のうちに働き、私を通してあなたがたコリント人たちに働く彼のいのちに信頼します。あなたがたを取り扱う時、私は自分の弱さではなく、私にあって語られるキリストの神聖な力を示しましょう。確かに私は弱いですが、私を通して働かれるは弱くありません。彼はあなたがたの中で力強いのです。

ですから、「弱さを通して十字架につけられること」は、「彼の死に同形化されること」の一つの面です。それにもかかわらず、なんと多くの人が、自分のうちに力を感じなければならない、あるいは、力の貯蔵庫、天の「力(dunamis)」で充電された蓄電池にならなければならない、と思っていることでしょう!

私たちは、これらの天の奥義に関する人間的観念のせいで、ひどく妨げられています!しかし、カルバリの途上にある静かな受難者の中に、力の神聖な模範が啓示されています。「神の弱さ」は「人よりも強い」。しかし、これは力に関する人の考えとは正反対です。そこで私たちは、聖霊に私たちの目を開いてもらって、その模範を見る必要があります。そして、同じ御霊を受ける必要があります。聖霊は、私たちの前に置かれた御姿に同形化されたいという願いを私たちのうちに起こし、同じ力でそれを私たちのうちに実現してくださいます。

十字架の復活の面で「彼の死に同形化されること」は、私たち自身はますます弱くなることを意味するのであって、ますます力を感じるようになることを意味するのではありません!弱さこそ、真に十字架の苦難です。なぜなら、私たちは「自分はあれやこれができる」という感覚を持つことを願いますが、弱さはこの自然な願望の正反対だからです。しかし、常に弱さを意識しつつ、神の力に信頼して信仰によって歩むこと、信仰によって神の力にもとづいて行動すること、信仰によって「私にあって語られるキリスト」に信頼すること、信仰によって、自分に対する神の力によってではなく、他の人々に対する神の力によって「彼と共に生きる」こと。これが信仰生活です。

信者の「弱さ、恐れ、おののき」を通して、他の人々の心や生活の中に「御霊の現れと力」がもたらされます。これが、キリストと共に十字架につけられている人々を通して神がキリストのいのちを現わされる道です。

イエスの死

いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それはイエスのいのちが私たちの身に現されるためです。(二コリント四・十)

私たちは再び、カルバリに対するパウロの深い洞察を垣間見ます。イエスの死と復活のいのちは、彼のすべての思想中に織り込まれており、彼にとって常に霊のいのちの成長の基礎です。

この節はローマ人への手紙第六章とよく一緒にされます。なぜなら、一方は他方の結果だからです。コリント人への第二の手紙四章十節は、カルバリにおけるキリストの御業という客観面から生じる主観的結果を描写しています。「イエスの死を身に帯びる」この主観的働きが信者のうちに無ければ、イエスのいのちが私たちを通して周囲の世界に力をもってますます現されることはありえません。

多くの人は、死によるキリストとの一体化という真理を知り、自分が彼と共に十字架につけられたことを見、その新鮮な幻から生じる喜びと信仰によって、復活の主に信頼しながら奉仕してきました。しばらくの間、彼らの証しには神の証印が伴います。しかし徐々に、力強いいのちの流れは涸れていき、証しもうるさいシンバルのように空虚なものになっていきます。ああ、彼ら自身それに気づかないことがあまりにも多いのです!

何が問題なのでしょう?彼らは十字架の解放の過去の経験に基づいて生きており、カルバリの客観的な幻と、彼の死によるキリストとの一体化の後も、すべての行程において、死がなおも常に増し加わり続けるいのちの基礎でなければならないことを見落としています。「いつでもイエスの死をこの身に帯びる」ことは、絶えず彼のいのちを現わすための不変的条件なのです。

イエスの「死を身に帯びる」ことは、神の子どもの経験で実際に何を意味するのでしょう?この節の文脈がその答えを示しています。キリストは十字架上で四方八方から苦しめられましたが、耐える力を失われませんでした。彼は御父が御顔を隠されたことに困惑して、「なぜわたしを見捨てられたのですか?」と叫びましたが、絶望されませんでした。彼は暗闇の全勢力によって攻撃されましたが、神は彼を見捨てず、彼を最後まで支えられました。彼は打ち倒されて死に渡されましたが、滅びませんでした。なぜなら、彼は神の力によって生きておられたからです。

同じように、パウロも苦しめられ、困惑させられ、攻撃され、打ち倒されました。しかし、彼はキリストによって啓示された十字架の原則に常に忠実でした。自分があらゆる苦難の中で「イエスの死を帯びている」のは、イエスのいのちが死ぬべき肉体に現わされるためであることを、彼は理解しています。彼は自己の力の終わりに保たれました。それは、彼を強める力が全く神からのものとなるためでした。

全知なる主はご自身の子供たちをこのように扱われます。それは、彼らを本当に主に頼らせ、主に用いられる真に空っぽの器としておくためです。こうして主は、彼ら自身の力や能力を全く追い出して、彼らにすべての力をただ主からのみ引き出させます。

主は、ご自身のいのちしか頼りにならない所に、彼らを導く方法をご存じです。その所で、四方八方からの圧迫により、神の無尽蔵の豊富が必要になります。その所で、彼らは途方にくれて迷路の中を歩みますが、後になると、主の巧みな御手が実際に自分たちを導いてきたことを見いだします。その所で、彼らは嵐の海の中で翻弄されますが、神に見捨てられることはありません。その所で、彼らは「打ち倒され」、見たところすべてのものが彼らに敵対しているようですが、それでもなお、イエスのいのちが、彼の恵みの栄光へと至る神聖な耐久力により、自分たちを通して現わされるのを見いだします。

絶えず死に渡されている

私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちもまた私たちの死ぬべき肉体に現されるためです。(二コリント四・十一)

一見、この節は前の節を繰り返しただけのようです。しかし、「聖霊が教える御言葉」では、文章の変更には必ず意味があります。ここには一つの違いがあり、それはいっそう深い死への同形化を示しているようです。今回はイエスのため、そして他の人々のためです。

七節から始まる段落の結論の文章は、まず最初に、「いつもイエスの死を身に帯びる」のは私たち自身のためであることをはっきりと告げています。それは、頼るべき私たち自身の力が全く無く、現わされる計り知れない偉大な力は神のものであって、私たち自身からではないという点に、私たちが保たれるためです。

しかし今、このように自己の終わりに保たれて、土の体に現わされたイエスのいのちによって生きる信者は、ますます「イエスのために死に渡されます」。信者は次々と、弱さ、試み、困難、戦いに渡されます。それはみな、自分の魂の苦しみを見て満足するために死なれた方のためです。

私たち神の子供は、これほどまでに私たちの主と交わることを望んでいるでしょうか?私たちが試みに次ぐ試みを受けてきたのは、霊的生活で「栄光に次ぐ栄光」しか感じられなくなる時の到来を望んでいたからではないでしょうか?

しかし、豊かに実を結ぶための犠牲の法則を、私たちはなんと理解していなかったことか。私たちは生ける方に結ばれています。ですから、彼のいのちの真の光が私たちの上にのぼって、神の事柄に関する私たちの曇った考えが雲散霧消するまで、彼は私たちを導き続けてくださいます。私たちは彼の御顔の光の中で、自分が実際に「栄光から栄光へと」導かれているのを見ます。こうして私たちは、死なれた方といっそう深く交われるようにされ、キリストの教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを満たせるようにされます。

自分のうちに死が働くことによって
他の人々のうちにいのちが働く

こうして、私たちのうちには死が働きあなたがたのうちにはいのちが働くのです。(二コリント四・十二)

これがイエスのために死に渡される結果です。死は私たちのうちに働いて、他の人々のうちにいのちの実を結びます。

私たちは用いられること、魂を勝ち取ることを願うかもしれません。しかし、私たちの願いは十分に強いでしょうか?いのちを他の人々に与えて、自分には空しさと弱さしかなくなるほどに強いでしょうか!これは真の自己犠牲、真の自己放棄、真の自己否定です。これは真の十字架の精神であり、死ぬべき肉体におけるイエスのいのちの真の現れです。なぜなら、これは彼をカルバリへ促したキリストの愛そのものだからです。カルバリにおいて、彼には言い尽くせない恐怖と恥を伴う死しかありませんでした。それは、私たちが彼を通して神からのいのちを持つようになるためでした。

真に魂を勝ち取るには、ただ一つの道しかありません。それは犠牲の道です。キリストはカルバリでいのちを犠牲にされました。私たちはキリストと結び合わされているのですから、他の人々に彼のいのちを流す管となるには、私たちも自分のいのちを犠牲にしなければなりません。

もし私たちが自分の奥底で十字架の内なる真の力を経験するなら、他の人々の心は深く触れられるでしょう。そして、いのちの力が彼らのうちに働くでしょう。なぜなら、私たちのうちに死が働くのに応じて、いのちは周りの人々――彼らのために「キリストは死なれました」――を生かすからです。

これは贖われたそれぞれの人が送ることのできる使徒の生活であり、実を結ぶ生活です。これがパウロの言う「父たること」です。「私が福音を通して、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。養育係が一万人いたとしても、父は多くありません」。私たちのためにカルバリの十字架で苦しんだ方と交わって、喜んでこの死に同形化される人は多くありません。この死に同形化されるなら、人々のために苦しむようになります。

死は私たちのうちに働く」とパウロは記しています。ローマ人への手紙第八章には、キリストにあるいのちの霊による解放という豊かな栄光の福音、御父に近づく喜ばしさの啓示、内住する御霊の証し、キリストとの共同の相続権が記されています。注目すべきことに、この章は死への同形化の鮮やかな描写で締め括っています。死への同形化は、それらすべての外面的成就なのです。

あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちはほふられる羊とみなされた」(ローマ八・三六)とパウロは叫びます。しかし、「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、圧倒的な勝利者なのです」が、使徒の勝利の証しです。そうです、キリストは小羊としてほふり場に引いて行かれました。そして、私たちが彼の十字架を選び、彼と共にほふられたことを認める時、他の人々も私たちの見解と同じ見解を私たちについて取るようになり、私たちをほふり場に引かれて行く小羊と見なすようになります。これは実に偉大なことではないでしょうか?

ああ、神の子供よ、私たちは十字架を宣べ伝え、十字架のために戦いさえするかもしれません。しかし、もし私たちに十字架を生きる覚悟、パウロの言う「一日中、死に定められる」覚悟がないなら、私たちは自分のメッセージを空しくしてしまうでしょう。「一日中、死に定められる」ことによって、私たちのうちには死が働き、他の人々のうちにはいのちが働きます。そして、私たちのために死んで再びよみがえった方の栄光に至ります。

こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです」と使徒は記しています。私たちのうちには空しさ、弱さ、苦難、圧迫、困惑が働きます。しかし、あなたがたのうちにはいのちが働きます。

父よ、このようなことはあなたの目にかなうことだからです。どうか、あなたの御言葉どおり私になりますように。


主よ、あなたは秘訣を啓示されました、
私があなたと共に死んだという秘訣を。
私は完全な勝利を得ることができます。
他に道はなく、他に場所はありません。

あなたの十字架は私のもの。あなたの「永遠の十字架」は、
私の生涯を光で照らします。
私の神であるキリストと共にそこに釘づけられ、
世はそのあらゆる喧噪と共に色あせました。

しかし主よ、ただ一つの道しかありません、
あなたの死により、私たちは勝利します。
あなたが行かれた道を私たちも行かねばなりません、
私たちの天の住まいにたどりつくまで。

そうです、私は「あなたと共に十字架につけられ」ます。
その深さを内側で私に啓示してください。
日々私を導いてさらにそれを知らせ、
自己と罪から私を解放してください。

主が勝利されたように勝利する!
主と共に勝利のうちに座す!
これが私たちのものになります。もし私たちが、
カルバリで自分のいのちを主に明け渡しさえするなら!

G.W.R.