第十三章 十字架の宣べ伝え

ジェシー・ペン-ルイス

十字架のつまずきは取り除かれたのでしょうか?
(ガラテヤ五・十一)

私は、あなたたちの間で、
イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、
何も知るまいと決心しました。
(一コリント二・二)

霊によって与えられるカルバリの啓示、神の御子と死にかけている世に対するカルバリの意味に関する啓示があります。その啓示は信者のうちに、十字架によって産み出された情熱を生じさせます。その情熱は、心の中で燃える炎のようであり(エレミヤ二〇・九)、カルバリの人がご自身の魂の苦しみを見て満足されることを願う強烈な願いです。この願いは人生を支配する力となり、いわば個人的な損得勘定をすべて飲み尽くします。

このような情熱が、使徒パウロの生涯や言葉に表れており、彼のコリント人への手紙の中で著しく強調されています。彼は、「私は、あなたたちの間で、『イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方』のほかは、何も知るまいと決心したからです」と記しています。

この決心は彼にとって完全な自己放棄を意味しました。ところが今日、私たちはこれをほとんど理解しません。なぜなら、キリスト教が十字架を美化してしまったからです。パウロの時代、十字架は「凶悪な犯罪者を罰する道具」(コニーベアの注解)でした。それは、「今日の絞首台という言葉のように、最も邪悪で、忌まわしく、恐ろしい、あらゆることと関係していました」。

傲慢なパリサイ人が十字架に栄光を帰し、このように奇妙な福音を恥としなくなるには、確かに神からの啓示が必要でした。犯罪者をさらしものにする所が世の救いの場所とは!人々が彼を気違い呼ばわりしたのも不思議ではありません。

それにもかかわらず、彼はコリント人に、「私は、あなたたちの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知るまいと決心しました」と書いています。

コリントは知的にかなり啓蒙されていましたが、道徳的に退廃していました。それは哲学と文学で満たされていましたが、罪の中に沈んでいました。パウロはコリントとその民の状況を熟慮した時、「私はメッセージをコリント人に合わせるべきだろうか?人の知恵や知識を用いて、福音に耳を傾けさせるべきだろうか?」と心に問うたにちがいありません。

使徒は、人の知恵という武器を用いてコリント人たちに対応する決心をすることもできたはずです。なぜなら、彼はタルソで一般教育を受けていましたし(タルソの学校はアテネよりも優れていたと考える人たちもいます)、エルサレムでヘブルの律法全般による訓練を受けていたからです。これに加えて、彼はローマ市民であり、支配的立場を取ることも、あらゆる点で彼ら自身の立場に立って文化的なコリント人たちに対応することも、しようと思えばできたはずです。

そのうえ彼は、そうすることに失敗した場合、彼らが言うであろうことをすべて承知していました(鋭い洞察力を持つ鋭敏な人ならわかります)。十字架のメッセージは全く馬鹿げたものと思われ、彼自身も愚か者と見なされるでしょう。

使徒はそれをすべて予見していますが、肉の武器への信頼を退けることを皆の面前で慎重に選び、「十字架の言葉」を「神の力」とする聖霊に全く拠り頼んで、十字架につけられたメシヤの評判の悪いメッセージを宣べ伝えることを決意します。それは、信じたすべての人たちが、「人の知恵の説得力ある(または、魅惑的な)言葉」(一コリント二・四、欽定訳欄外)にではなく、ただ神の力だけに自分たちの信仰の錨をおろすようになるためです。

使徒のこの決心から、彼がそのメッセージのために自己を絶対的に放棄していることがわかります!彼はなんと完全に、個人的な自己の栄光をすべて退けていることか!今日、このような十字架の使者が必要です。なぜなら、二十世紀初頭、私たちは使徒が文化的なコリントで出会ったのとほぼ同じ状況に直面しているからです。神の使者たちは依然として、肉的な武器や「人の知恵が教える言葉」に信頼するのか、それとも神の力に拠り頼んで十字架のメッセージを証しするのか、決めなければなりません。生まれながらの人は今も、パウロの時代と同じように、十字架のメッセージを嫌っています。

十字架の宣べ伝え

さて兄弟たち。私があなたたちのところへ行ったとき、私はすぐれた言葉、すぐれた知恵を用いませんでした。私の言葉と私の宣べ伝えは、説得力のある知恵の言葉によりませんでした。(一コリント二・一、四)

使徒はこの世界で御旨を成就するために神に用いられる者たちについて描写しました。神は、知恵ある者や強い者を辱めるために、愚かな者、弱い者、取るに足りない者、見下されている者を選ばれました。神は実に、「有るものを無いもののようにするため」、「無に等しいもの」を選ばれたのです!

「さて兄弟たち」と使徒は記します。あなたたちのところへ行った時、私は「魅惑的な言葉」や「説得力のある知恵の言葉」を用いませんでした。私は人からさげすまれている者として、「あなたたちといっしょにいたとき、弱く、恐れ、とてもおののいて」、神の奥義を宣べ伝えました。神は、「御霊と御力の現われ」によって、私のメッセージを証ししてくださいました。

聖霊によって証しされないなら、十字架の宣べ伝えはつまずきにさえなるでしょう。なぜなら、照らし、確信させる御霊の力がそのメッセージの背後になければ、肉的な思いはそれを拒んで「別の福音」(そのようなものはないのですが)に向かいかねないからです。あるいは、十字架に関する知的考察は良心を麻痺させる働きをするかもしれないし、盲目な人々はそのメッセージを物質化すらして、十字架の外側の象徴をあがめ、外面的形式に頼るかもしれないからです。十字架の敵は、聖霊の力によって十字架の真の意味を学んだことがない人々を、「十字架のしるし」という覆いの下で奴隷にしておけるのです。敵はこれをよくわかっています。

それに、「十字架の言葉」がその力を現わすには、人の知恵の説得力ある言葉は必要ありません。使徒は、「言葉の知恵」は十字架を「無効にする!」(一コリント一・十七、欽定訳)とさえ言っています。

これは、かくも多くキリストの死に関する知識が存在していながら、なぜ人々の生活が大して変わらないのかを説明しているのではないでしょうか?

十字架は宣べ伝える人によって空しくされうるのでしょうか?なんと恐ろしいことでしょう!神・人は、人々の永遠の救いのために、魂を注ぎ出して死に渡されます。それなのに、彼の使者たちが十字架を「無効」にするのです!そんなことは断じて許されません。

しかしどのようにして、十字架は宣べ伝える人の「言葉の知恵」によって「空しくされ」うるのでしょう?それは、宣べ伝える人が、死なれた方の死によってではなく、自分の言葉によって満たされないかぎり、「人の知恵が教える言葉」はまず存在しえないからにちがいありません。また「言葉の知恵」は、よりも話し手に、内容よりも雄弁さに、主よりも僕に、注意を引かずにはおかないからにちがいありません。

「カルバリのメッセージは、父なる神にとって最も聖なる主題でなければなりません。御父は、御子の死の宣べ伝えにおいて、人に一片たりとも栄光をお与えになりません」と、私たちは慎んで言わないかもしれません。

悲劇的な恐ろしいカルバリの物語が、死にかけている世に対して宣べ伝えられなければなりません。「華々しい言葉」は、十字架の周りの花(かりに神・人の死を眺めていた人が花をまき散らしたとするなら)のように、メッセージを駄目にします。なおまた、十字架の主題は美辞麗句や詩的修飾には向きません。つまり、十字架の現実や宣べ伝えには、肉に栄光を帰す余地が全くないのです。

実物教材である使徒パウロから、十字架の効果的宣べ伝えに必要な条件を見ることができます。カルバリのメッセージは、主の十字架の宣べ伝えそのものによって喜んで十字架につけられる人によって、宣べ伝えられなければなりません。

十字架は、その力を知る人々によって宣べ伝えられなければなりません。その時、聖霊はそれを証しされ、「十字架の言葉」は人々に対して神の力となります。御霊がどのように神の御子の死と復活の宣べ伝えを証しされたのかは、使徒の働きからわかります。カルバリのそばに立った人々は、カルバリを宣べ伝えることができました。復活した主を見た人々は、彼の復活を証しすることができました。それは彼らにとって、歴史的事実、教理、根本的真理以上のものだったのです。

「私はキリストが昨日死なれたかのように感じる」とマルチン・ルターは言いました!今日、十字架の使者たちにキリストの死を啓示することが、聖霊の特別な任務です。それにより、使徒たちにとって十字架が現実だったように、彼らにとっても十字架が現実となります。その時、聖霊は彼らを遣わして、人々の目の前に十字架につけられたキリストをはっきりと示すことができます。砕かれた心で、使者たちが神の御子の死を死にかけている人々に対する唯一の希望として宣べ伝える時、十字架によって産み出された情熱が、人の賞賛や批判を気にする思いを一掃します。

こうして、「もし福音を宣べ伝えないなら、私は災いです」と叫ぶことしかできなくなるまで、それはパウロに啓示されました。神と、ご自身の前に置かれた喜びのゆえに「はずかしめをものともせずに十字架を忍ばれた」方の観点からカルバリを見て、自尊心はすべて一掃されます。そして彼は、たとえ自分の宣べ伝える十字架が自分の十字架となり、彼の主のように人々からさげすまれ、拒絶されるようになっても、十字架を宣べ伝えることを選びます。

十字架のメッセージ

十字架の言葉は神のです。(一コリント一・十八)

この節で力と訳されているギリシャ語は、デュナミス(dunamis)です。英語のダイナマイト(dynamite)という言葉は、この言葉に由来します!「十字架の言葉」は神のデュナミス、神の力です、と使徒は宣言します。その表現は、潜在的な力ではなく、活動中の力を意味します。神は、失なわれて破滅した世界を救うために、御力をカルバリの十字架に集中されました。「十字架の言葉」は、それを受け入れるすべての人にとって、神の「活動中の力」です。なぜなら、全能者がその背後におられるからです。主イエスは言われました、「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人をわたし自身に引き寄せます」。

しかし、神の力であるのは「十字架言葉」であって、「十字架に関する言葉」ではありません。十字架の意味に関する推測ではなく、パウロが宣べ伝え、復活した主ご自身によって教えられた、純粋で単純なキリストの十字架の宣べ伝えなのです。

今日、神の僕たちは問いに直面する必要があります。彼らは、十字架のメッセージには神の力が宿っていると本当に信じるのでしょうか?それとも、私たちは神を制限して、「十字架の言葉」には多くの説明の言葉が必要だと考えるのでしょうか?それは、人々の心を開くために、全知なる創造主によって考案された鍵ではないでしょうか?ある人は、「鍵が鍵穴にぴったり合うように、それは私にぴったりです」と言いました。これは、異教徒であれ、いわゆるクリスチャンであれ、すべての人の心にあてはまります。

全能の神が十字架のメッセージの背後におられ、その中におられます。なぜならそれは、罪を負う罪人だけでなく、「救われつつある私たちにとって」も神の力だからです。それは、人生のあらゆる点、霊的成長のあらゆる段階で魂の必要を満たし、必要を訴えるすべての叫びに応じます。それが無効だったり、使い尽くされたりすることは決してありません。それは神の力です

十字架への敵対

私はしばしばあなたたちに言ってきましたし、今も涙をもって言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいます。彼らの思いは地上のことだけです。(ピリピ三・十八、十九)

カルバリのメッセージを宣べ伝える時、そのメッセージによって強い敵対心を引き起こされて、その敵になる人々を、この御言葉は描写しています。なぜなら、十字架への敵意はみな、十字架がそれからの解放を宣言するすべてのものを愛することに、実際その源があるからです!地上のものを愛する人々は、自分の愛するものからの解放を与えるメッセージに憤慨します!

知者が十字架につまずくのは事実です。しかし、罪人や救われた人が十字架に敵対するのは、もっぱら心の問題です。なぜなら、罪の束縛からの解放を望む人々、神の義に飢え渇く人々だけが、そのメッセージを喜んで受け入れるからです。

十字架の敵!「言葉の知恵」を用いて宣べ伝える人は、十字架を宣言する時、十字架を空しくします。外面的な事柄に固執する人々にとって、この世の要素からの解放を告げるという点で、十字架は「つまずき」です。しかし、地上のものを愛する人々は、十字架の「敵」と呼ばれています。なぜなら、彼らはその生活により、十字架の目的自体と真っ向から対立する立場に自分自身を置くからです。なんと厳粛な事実でしょう!なんと恐ろしいことでしょう!彼の友であると告白しているかもしれませんが、私を自己から救うために死なれた方の敵なのです。また、おそらく十字架の使者でさえあるかもしれませんが、「言葉の知恵」によって自己の栄光を求め、地上のものを愛してそのメッセージを空しくするなら、彼の敵なのです。なぜなら、自己執着はすべて、事実上キリストの十字架の敵だからです。

キリストを再び十字架につける

彼らは、自ら神の御子を再び十字架につけて、さらし者にします。(ヘブル六・六)

この節の文脈はさておき、この厳粛な御言葉に注目するだけで十分でしょう。この御言葉は、神の御子は再び十字架につけられうる、と告げています。しかも今回は、彼が贖った人々、いのちを味わった人々(彼が来たのは、彼の召しに従うすべての人にいのちを与えるためです)によってです。

キリストはこの世と悪魔の力を超越されました。そして今、血によって買い取られた者たちだけが、小羊を再び十字架につけることができます。彼らは聖霊にあずかっていながら恵みの霊を侮り、かつて逃れた「この世の汚れ」に逆戻りすることを選んで、自分たちを買い取ってくださった主を「さらし者」にする人々です。

聖書のこの節は、光に対する責任について警告しています。使徒ペテロは厳かに、「伝えられた聖なる命令にそむくよりは、義の道を知らなかったほうがよかったのです」と述べています(二ペテロ二・二〇、二一)。

ああ、どうか聖霊が、神のすべての子供たちに十字架上の死を解き明かし、カルバリの光の中で罪の極度の罪深さを見せてくださいますように。この終わりの時代にあって、死に至るまでも罪に抵抗することが、贖われたすべての者たちのしるしとなりますように。彼がご自身の血をもって買い取られた者たちが今罪にふけることは、神の御子―――「彼は罪のために一度苦しみをお受けになりました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは私たちを神のみもとに導くためでした」(一ペテロ三・十八)―――を「再び十字架につけ、再び縛り、再び釘付けにし、再び拷問にかけ、再び苦しめ、再び殺す」(ディーン・ボーハン)ことであることを、どうか彼らが深く理解しますように。

「だれかが彼に、『あなたの両手の間にあるこの傷は何か?』と聞くなら、彼は、『わたしの友人の家でつけられた傷です』と言おう」(ゼカリヤ十三・六欄外)。私たちが彼の十字架の交わりから身を引くのを彼がご覧になる時、そして、彼の死によって解放されたものに私たちが心の中や生活の中で執着するのを彼がご覧になる時、確かに私たち神の子供は彼の傷口を再び開いているのです。罪を軽視したり、契約の血を俗なものと見なして恵みの霊を侮るなら(ヘブル十・二九欄外)、確かに私たちは彼の傷口を再び開いているのです。

ああ、神の子供よ、罪の欺きに用心しなさい。神の恵みを当てにして、「自分はいつでも赦してもらえる」と考え、誘惑に屈することのないよう気をつけなさい。を「弱さ」という名で呼んではいけません。失敗に対して、どんな言い訳もしてはなりません。キリストが死なれたからには、あなたは完全な勝利を得ることができるのです。しかしあなたは、敬虔な畏れをもって主の御前に歩み、あなたにとって清くないものに触れないようにしなければなりません。