抜粋

ジェシー・ペン-ルイス

1.キリストの十字架

信者の個人的経験、教会生活全般、この世での教会の働きにおいて、聖霊の喜びと力がこんなにも少ししか知られていないのは、いったいどういうことでしょうか?

これは、真の十字架――信頼されるべき十字架だけでなく、担われ、その殺しの力を経験されるべき十字架――が知られておらず、受け入れられていないことではないでしょうか?

肉の磔殺を宣べ伝えること、そして、キリストの十字架をそのあるべき場所に回復することが、私たちの時代の教会の大いなる必要です。

キリストの十字架をこの世で高く上げ、それを敬い、それを宣べ伝え、特にそれを担って生きるという聖なる委託が、キリスト教会に委ねられています。

「世の人々の心を説得し、納得させることにより、十字架を受け入れさせることができる」という思想で人を迷わすかわりに、人々の心が生来持っている神への敵意を示す十字架を、福音は大胆に宣言します。

神の僕たちが十字架に関する神の御思いの何たるかを知ろうとしさえするなら、彼らは心への道を切り開く十字架の十全性を信じるようになるでしょう。そして、キリストと共に十字架につけられた生活を通して、神ご自身によって、十字架の奥義へと導かれる必要性を見るようになるでしょう。

十字架、十字架だけが、担われてその殺しの力を経験された十字架だけが、御座、神の霊へと至る唯一の道です。

信者よ、あなたの内には生ける神の霊が住んでおられます。十字架、十字架につけられた生活、そして肉の磔殺について、私たちがあなたに告げることはみな、あなたのなすべきことをあなたに告げているのではなく、聖霊があなたの内で行ってくださるとあなたが期待してもよいことを告げているのです。

十字架はあらゆる奥義の中で最大の奥義であり、それらの総計、中心です。十字架は死と生の奥義です。かつて死が支配しましたが、十字架は死を征服し、いのちの門を永遠に確立しました。十字架は贖いの奥義です。罪と恥を伴う十字架は罪人を征服する力です。

十字架は罪に対する神の裁きです。神は肉とこの世を罪に定めて、十字架に渡されました。キリストとの結合により、私はその判決を受け入れました。そしてキリストのいのちの力により、私は彼と共に十字架につけられた者として生きます。

キリストの救いの力が啓示されたのは、十字架の霊の中で、十字架の霊を通してでした。あの霊とあの力は、一つの性質、一つの生命原理として彼のうちに宿っていました。今、彼は天におられます。彼の救いの力は他の道では働きません。彼の救いの力は、聖徒を満たし、彼らを通して働く、一つの生命原理として働きます。

十字架と御霊は、どちらも同じく神の力です。しかし、十字架はあの力の隠れ場であり、それゆえ「神の弱さ、神の愚かさ」と呼ばれています。十字架に力を求めようとは、だれも思わなかったでしょう。

十字架とその死が意味するすべてに、私たちはあずからなければなりません。私たちが十字架の贖いの中で持つ分は、私たちの十字架の交わりによって試されなければなりません。なぜなら、十字架の交わりとは、その分に喜んであずかることだからです。

人を十字架につけない十字架に人々を勝ち取ることなら、人の知恵でも容易にできます。

アンドリュー・マーレー

2.十字架の二つの面

十字架につけられたキリストは生けるキリストです。生けるキリストは十字架につけられた方です。この真理の二つの面は、さいわいな統一のうちに常に保たれなければなりません。死がなければ、決して復活のいのちはなかったでしょう。十字架とその恥がなければ、決して御座とその栄光はなかったでしょう。この二つがキリストにあって結合されているのと同じように、私たちは自分の知識と経験の中に両方ともしっかり保つ必要があります。十字架の力に対する洞察と、それへの明け渡しに欠けるなら、そのいのちを経験することにも欠けるでしょう。生ける救い主と彼の人格的な愛と交わりを信じる信仰、そしてそれを喜ぶ喜びの中で求めないなら、十字架を信じ、それを負い、その素晴らしい救いの力をすべて知ろうとする試みも、同じように失敗するでしょう。

復活のいのちの宣べ伝えが新しい啓示のように多くの人に臨んだのは、遠い昔のことではありません。生けるキリストは常に私たちと共におられ、私たちのためにすべてを成してくださいます。十字架が勝ち取ったものは、すべて私たちのものです。主ご自身こそ私たちの救いであり、救いの保証です。このような知らせは、前は知らなかった喜びと希望で心を満たしました。しかし、その希望は常に実感されるわけではありませんでした。そこで疑問が生じました。主を信じる私たちの信仰の力を妨げているのは何でしょう?私たちは、生ける、栄光を受けた方として、主を知らなければなりません。この疑問への答えはどれも、この世の霊がひそかに自分を現すなんらかの形を指し示します。この世を征服しうる唯一の道、神の道、すなわち十字架の道が忘れられているのではないでしょうか?「この十字架によって、この世は私に対して十字架につけられ、私もこの世に対して十字架につけられました」(ガラテヤ六・十四)。

十字架につけられたキリストは神の力です。彼の弟子たちが、「私たちを主にあってあなたが十字架につけた人々とみなしてください。今、私たちはあなたに対して十字架につけられています。キリストと共に十字架につけられることが私たちの栄光です」とはっきり宣言してこの世に立ち向かうなら、パウロのうちに働いた力が私たちのうちにも働くでしょう。カルバリはキリストの生涯の至聖所であり、彼の死は栄光の門です。

私たち自身を新たに主に明け渡しましょう。主は死なれましたが、永遠に生きておられ、決して分離されえない二つの祝福を私たちに豊かに与えてくださいます。その祝福とは、いのちと死です。いのちの中で、罪とこの世に対する死の力が常に働きます。そして死は常に、いっそう深いいのちへの入口です。

アンドリュー・マーレー

3.自己のいのちからの解放

三つの段階があります。十字架、御霊、復活したキリストを見つめることです。今、これらの段階を考慮することにしましょう。どうか神の霊が、一人一人にこのさいわいな秘訣を啓示してくださいますように。

第一は十字架です。十字架上でイエス・キリストは、全世界の罪のためのなだめの供え物となられました。しかし、十字架には重要な第二の意味があります。ローマ人への手紙八章三、四節を見ましょう。「律法が肉のゆえに弱くてできなかったことを、神はなしてくださいました。神はご自身の御子を、罪のために、罪深い肉の様で遣わし、肉において罪を処罰されました。それは、肉にしたがってではなく、御霊にしたがって歩む私たちにおいて、律法の義の要求が満たされるためです」。神はご自身の御子を、罪のために、罪深い肉の様で遣わされました。「罪のために」は身代わりです。キリストのパースンにおいて、神は私たちの罪深い肉の様を十字架に釘づけられました。私はこれをあなたがたにこれ以上説明できません。しかし、私はこれを知っています。私は言いましょう、「私の罪深い自己の肖像を、罪のない、死にゆく救い主のうちに見ることは、イエスを私の犠牲として見ることに次いで、私の生涯に大変革を起こした」と。

神は私の自己のいのちの様を十字架に釘づけられました。十字架は堕落と呪いの象徴です。十字架にかかる者はみな呪われています。罪のないキリストが私の罪深い自己の様を担われた時、もし神がそれを呪いを受けるべきものとして扱われたとするなら、私自身がそれを抱きしめ、それを受け入れ、その中に生きることは、神の目にどれほど忌まわしいことでしょう!

おお、素晴らしい十字架!しかし、それで終わりではありません。

キリストと私は一つです。彼にあって私は十字架にかかりました。私はキリストにあって自己の終わりに達しました。そして、彼の十字架でひざまずき、彼の死によるキリストとの合一の立場を取り、私の自己のいのちを十字架に渡しました。それはあたかも、私の自己を、その情熱、その選択、その完全さへのあこがれ、その苦闘、その気まぐれさ、人々に対するその判断、その無慈悲さと共に、重罪人として引き渡し、こう言ったかのようでした。

「お前は呪われている。お前は死ななければならない。私の神はお前をあの十字架に釘づけられた。来い、お前は来なければならない。私は自分の選択、自分の意志、自分の信仰でお前を十字架につける。十字架にかかれ」。

あなたがたはガラテヤ人への手紙の「キリストのものである者たちは、肉をその情と欲と共に十字架につけてしまったのです」という御言葉がアオリスト時制であることを覚えておられるでしょう。あの瞬間から、私の人生のあの決定的瞬間から、「私の自己のいのちは十字架上にあります。キリストの死が私とそれとの間に横たわっています」と私は絶えず認めてきました。

しかし、あなたがたは言います、「私はどうやってそう生きればいいのかわかりません。私はいつも針のむしろの上に座ることになるでしょう。これは自己なのかどうかと常に苦しむことになるでしょう。どう生きればいいのか、私にはわからないのです」。

ああ、私はあなたがたがそう言うだろうと思っていました!私は自分自身のことを言ったのです。ここで第二の点、聖霊にやって来ます。

御霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きます」。「御霊の願うことは肉に逆らいます」。

キリストが傷のないご自身を神にささげられたのは、永遠の御霊によってでした。そして、あなたがたと私の生活の中で、呪われた自己の霊と戦われるのも永遠の御霊です。

しかし、あなたがたは言います、「私が常に自己のいのちを対処するなら、それは私を傷つけるでしょう。私はこれを恐れます。私はあたかも、棺のそばに立って、死が体を腐敗させるのを眺めているかのようでしょう」。

これは私を第三の点に導きます。私は答えましょう(これはその麗しい点です)、「神の霊があなたの心の深みで自己のいのちと戦っておられる間、彼はそれを、イエス・キリストを生ける輝かしい現実とすることによってなさるのです。彼はあなたの思いをイエスにつけさせます。あなたは御霊を思いません。自己をほとんど思いません。あなたはあなたの主を多く思うようになるのです」。

おお、紳士淑女のみなさん、私を許してください!これは、聖書の中で最も深遠な奥義を述べる、とてもざっくばらんな方法ですが、「イエスを生活の源、中心とすることがどういうことか、どうか聖霊があなたがたに知らせてくださいますように」と祈ることしか私にはできません。これまで、あなたがたの生活の源泉、源は自己ではなかったでしょうか?おお、呪われた自己!バラバよ、バラバよ、十字架へ行け!この世は言います、「キリストではなく、バラバ(自己)を」と。クリスチャンは言います、「バラバではなく、キリストを」と。

どうか神が、御名のために、これをあなたがたに解き明かしてくださいますように。

F.B.マイヤー、アメリカ・ニューヨークでの講演

4.死への同形化

私たちのなすべき分は、キリストの死の中に下ることです。彼のなすべき分は、ちょうど水が泉から湧き出すように、ご自身のいのちを私たちの中で生かし出すことです。その時、「キリストが私の内に生きておられます」と使徒が言った時、彼が何を意味したのかを私たちは知ります。このように妨げられずにキリストが働いておられる所には、着実な成長、絶え間ない新鮮さ、豊かな結実があります。そして、人生は平穏でのびのびとしたものになります。なぜなら、それが自然になるからです。

このことから、彼の死の重要性はどんなに強調しても強調しきれないことがわかります。

私たちは、彼の死に下らずに、そのいのちにあずかろうとしているのではありません。聖化における十字架の力を見ることに失敗したせいで、過去の失敗や霊的力の不足が生じたのではないでしょうか?「死は義認に影響を及ぼすだけであり、聖化は全く彼のいのちによる」と考えるよう、私たちは誘惑されてきました。そしてこれは、次のような考えに至りました。「十字架につけられたキリストのもとに来て、十字架の贖いと義認の面を見たので、今、私たちはそれを通過し、それを後にしました。なぜなら、私たちは復活したキリストとの生ける結合の中に入ったからです」。この考えは多くの人の心を多かれ少なかれ占めています。

「キリストが十字架で罪に対して死なれた時、私たちはキリストと一つにされた」という事実を信者が理解する時、信者の経験と実際の歩みに、しばしば突如として重大な結果が生じます。それは、以前の人生行路から突然私たちを分離します。そして、私たちは罪の力とその仕業からの輝かしい解放を見いだします。しかし、この効力は突然、即座に働きますが、発展的・継続的働きがそれに続きます。キリストと共なる信者の死とその結果を初めて理解することに続いて、今、十字架につけられたキリストに心と精神を同化させる深い働きが進行します。

この働きが深まるにつれて、死にゆくキリストとの一つが経験上ますます現実となるにつれて、いのちは増し加わります。生ける復活した主は、御力を現して、ご自身の豊かさで魂を満たされます。信者の真のいのち、すなわち信者の内にあるキリストのいのちは、その時、常に死から生じるいのちです。

エバン・ホプキンス

5.キリストの贖いの働き

「贖い(atonement)」という語は、欽定訳の新約聖書中、ローマ人への手紙五章十一節にしか現れません。しかし、それは厳密な訳ではありません。改訂訳では「和解」と訳しており、正確な意味を伝えています。「贖い」という語はおもにレビ記の中で用いられており、そこでは供え物に関して何度もこの言葉が現れます。しかしこれすら、ある聖書注解者が指摘しているように、ヘブル語の原語の正確な訳ではなく、「ヘブル語で『覆う』、『覆い』、『覆うこと』を意味する語を訳すために使われている」英単語なのです。それは、「純粋に神学上の概念であり、(中略)神学において、キリストの犠牲と贖いの働きをすべて網羅するために用いられている用語」です。ですから、レビ記の型の成就である十字架が神と人を「一つにしたこと(at-one-ment)」は確かに事実ですが、ヘブル語原語には「一つにすること(at-one-ment)」という思想はありません。

「贖い」と訳されているヘブル語は「覆い」を意味します。レビ記の供え物は、十字架を予期しつつ、十字架の時までイスラエルの罪を「覆い」ました。著者は言います、「十字架において、イエス・キリストが『なだめ』として公に示されるまで、神はそれらの罪を『過ぎ越された』(ローマ三・二五)のである」。

翻訳者たちが贖いと訳した言葉で神が何を意味されたのかを、ヘブル語聖書は明らかにします。そのヘブル語の単語は非常に明確であり、その用途は聖書全体を通して一貫しています。

あるヘブルの学者によると、互いに置換可能なものとして用いられていて、八個以上の英単語、すなわち「贖う(redeem)」、「贖い主(Redeemer)」、「贖い(redemption、atonement)」、「代価(ransom)」、「解放する(deliver)」、「和解(reconciliation)」等というように広く訳されているヘブル語には、三つの言葉しかありません。セセニウスによると、この三つのヘブル語は次のようにまとめられます。

ゴエル(またはガアル):(1)取り戻すこと、買い戻すこと、(2)血に復讐すること、(3)近親者、など。
パダ:解くこと、(1)代価を払って取り戻すこと、(2)らせること、(3)自由にすること、など。
コファ(またはカファル):(1)覆うこと、すっぽり覆うこと、(2)なにかをかぶせること、(3)罪を覆うこと、すなわち罪を償うこと、など。

まず最初に、この著者は言います、「この言葉が現れる箇所では、旧約聖書全体を通して、それは近親者という独特な思想を表現している。たとえば、イザヤ書四三章十四、二五節、イザヤ書四五章二二節の『贖い主』、『贖われた』という語は、原語ではゴエルである。エホバは、この名でご自身を呼ぶことにより、彼は我々の『近親者』だったので、エデンの園で我々が罪に『売られた』時、我々のために介入する権利を持っていたことを、我々に告げておられる。その時、神は人類の『ゴエル』になられたのである。彼はご自身を贖い主と呼んでおられる。この方は、しかるべき時に、贖いの代価を払って、罪と違反をぬぐい去ってくださったのである」。

その理由は以下の御言葉を参照。創世記一・二六、二七、五・一、九・六、ルカ三・三八、コロサイ三・十、エペソ四・二四
イザヤ五二・三、ローマ七・十四、一ペテロ一・十八、十九を参照。

二番目の言葉「パダ」も、「代価を払って取り戻す」ことを意味します。しかし今、代価を支払われた者たちを「去らせること」、「自由にすること」という意味を含んでます。この語は、「贖う(redeem)」と英訳されることもありますし、「解放する(deliver)」と訳されることもあります。

ゴエル」という語には、取り戻す権利という思想があります。しかし「パダ」には、権利だけでなく、「解放する意志と力」という思想もあります。

三番目の言葉「コファ(またはカファル)」は、「贖い(Atonement)」と訳されることもあれば、「代価(Ransom)」(出エジプト記三〇・十二、ヨブ三三・二四など)、「和解する(Reconcile)」(レビ記六・三〇、十六・二〇など)、「和解(Reconciliation)」(レビ記八・十五、エゼキエル四五・十五、十七、ダニエル九・二四など)と訳されることもあります。それには、「すっぽり覆うこと」、償いという思想があります。これは、「贖い」の真の意味を明確に保持している言葉です。それは、「近親者―贖い主が解放の働きを成就される方法を取り扱っている。この方は代価を払って、罪の下に売られていた者たちを贖い、自由にしてくださったのである」。

レビ記の供え物は、十字架上の贖いの償いの働きを象徴し、予表していました。十字架で、「近親者―贖い主」、エホバ―イエス、肉において現れた神は、ご自身の尊い血という代価を支払ってくださいました。それにより、全人類の罪は「なだめ」である方によって償われました。そこから、「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて立ち返りなさい」(使徒三・十九)というメッセージが万人に向けて宣言されえたのです。

J.P-L