第1章 魂と霊

ジェシー・ペン-ルイス

大多数のクリスチャンは「魂」と「霊」の区別を知りません。そして、おもにこの知識の欠如のせいで、多くの献身的で熱心な信者たちは霊の命の完全な成長に欠けています。G.H.ペンバーは、この知識の欠如の原因として、「魂と体」(soul and body)という慣用句を挙げています。この句が英語に欠陥を生じさせたというのです*。彼は言います。「英語には『霊と魂(spirit and soul)』という名詞はあるが、それらはあまりにも頻繁に同義語として扱われている。また、英語には後者の形容詞形が存在しない。そのような形容詞が無いために、『魂に属すること』を意味するギリシャ語が『生まれながらの(natural)』とか『感覚的な(sensual)』と訳されている英語の聖書では(コリント人への第一の手紙二章十四節、ヤコブの手紙三章十五節、ユダ書十九節を見よ)、人の三部分性がほとんど隠されてしまっているのである」。

* 日本語の場合、「霊魂」という表現のせいで、「霊」と「魂」が同義語とみなされており、両者の区別が見失われています。(訳者注)

もちろん、ギリシャ語学者たちは、原典で霊、魂、体を表す異なる単語をよく知っています。原典では、霊はプネウマ(pneuma)、魂はプシュケ(psuche)、体はサルクス(sarx)です。しかし、ほとんどのクリスチャンに対して、この区別は隠されています。その結果、異なる事柄、そして自分の平安に決定的に関係している事柄を、彼らは経験的に識別することができません。その知識の必要性は、学問的重要性以上のものになりつつあります。なぜなら、超人的知恵を持つ堕落した大天使は、人の成り立ちを知っており、今、光の天使として、聖霊の御業を真似することと、人の霊の中に住んでいる神の霊の純粋な命の真っ赤な偽物――最も熱心なクリスチャンたちでさえ、ともすると欺かれてしまうほどの偽物――を魂の領域の中に造り上げることに、自分の持つ全知力を傾けているからです。ですから、魂と霊の区別に関する聖書の教えを、救われたばかりの信者にも理解できるようにする必要がありますし、神の御言葉からできるだけ明らかにする必要があります。

筆者は、ギリシャ語聖書に直接あたって自分で読める人々の必要に応じようとしているのではありません。他の助けを必要としている人々を助けようとしているのです。なぜなら、その人々は神の霊の助けを、命と敬虔において成長するのに必要なものとして熱心に求めているからです。神の霊の助けにより、真理の把握や聖書に示されている霊的事実の霊的理解が可能になります。ですから、ここで読者は立ち止まって、ヨハネによる福音書十四章二六節「聖霊はあなたがたにすべてのことを教えてくださいます」と、ヨハネによる福音書十六章十三節「彼はあなたがたをすべての真理に導き入れます」という約束を、信仰を働かせて、「神の霊はすなおな神の子供に対してご自身の務めを果たしてくださる」という確信をもって受け取ってください。たとえ信者がその真理を頭では知らなくても、聖霊は「魂と霊」の区別を経験的に信者に教えることができます。逆に、学者はギリシャ語表現における「魂と霊」の違いをはっきりと見ているかもしれませんが、その言葉の意味を経験的に知らないかもしれません。つまり学者は、霊的力によるかわりに、知力によってその真理を保持しているのかもしれません。この場合、それは霊の伴わない御言葉の文字にすぎません。さらに、「魂と霊」を分けることを聖霊から経験的に教わった信者の方が、たとえその区別をまだ頭では理解していなくても、神から教わっていないギリシャ語読者より、「真理の言葉」を理解し、「正確に裁断する」ことができます。なぜなら、聖書の御言葉の背後には霊的実際があるからです。生まれながらの人、すなわち「魂に属する」人(コリント人への第一の手紙二章十四節)は、霊的実際を理解できません。霊的実際は啓示によってのみ知りえるのです*

* コリント人への第一の手紙二章十~十二節、コニーベアとホウソンの訳を見よ。

しかしともかく、欠けている形容詞についてです!G.H.ペンバーによると、soul の形容詞を英語で表現するために、ギリシャ語の psychic を用いようという試みがなされているそうです。しかし、一般の用に供するには、この言葉はあまりにも「ギリシャ語然」としています。ヤコブの手紙三章十五節に関して、ペンバーは soulish という単語を用いています。この方が、必要なことを表現するのにより近いように思われます。ストックマイヤーも、「魂に属すること」を意味する単語として、これと同じ soul-ish を用いています。彼は、コリント人への第一の手紙二章十四節に言及して、こう述べています、「ギリシャ語のテキストには、『魂の人(soul-man)』とか、『魂的な人(soulish-man)』という単語がある。spiritual が spirit の形容詞であるように、soulish は soul の形容詞である」。ですから欠けている形容詞として、英語読者は soulish という単語を一般的によく受け入れることができるでしょう。これにより私たちは、「霊的な(spiritual)」クリスチャンや(コリント人への第一の手紙三章一節)、「肉的な(carnal or fleshy)」クリスチャンだけでなく、「魂的な(soulish)」クリスチャンについても述べることができます。この目的のために、この論文ではそれをこのように用いることにします。

魂と霊の区別に関して、「英語だけでなく、ヘブル語以降のすべての古典言語でも、その区別がされている」とガールは指摘しています。英語の新約聖書では、二つの節だけがその区別をはっきりと示しています。すなわち、ヘブル人への手紙四章十二節「魂と霊を分けて」と、テサロニケ人への第一の手紙五章二三節「あなたがた、霊、魂、体をきよめ」です。しかし、人は三部分からなるのであって、「魂」と「体」だけではないことを英語読者が見るには、この二つで十分です。

「魂」(psuche)とその機能

次に考慮すべきは、「霊と区別される『魂』とは何か?その機能は何か?」という問題です。ここで、聖書に向かう前に、他の著者たちからの引用を紹介することにしましょう。それらの引用の助けにより、「魂と霊を分ける」という言葉で使徒が何を言わんとしているのか、わかるようになるでしょう。そして、どのように「霊、魂、体」は聖なるものとされて、主の来臨の時に責められるところがないように守られるのか、いっそう明確に理解できるようになるでしょう。

キリスト教時代初期の数世紀に著述した教父の一人であるテルトゥリアヌスは、「肉」(物質的存在)を「魂のからだ」と呼び、魂を「霊の入れ物」と呼んでいます。魂は霊と体の間に位置します。「霊と体が直接交流することは不可能である。媒体によってのみ、両者の交流は可能である」*。「魂」がその媒体です。

* ペンバーの「地球の幼年期」からの引用。

アンドリュー・マーレー博士も、「魂は、体と霊が出会う所、両者の結合点であった」と記しています。「生ける魂である人(創世記二章七節)は、体を通して外側の感覚的な世界と関与し、霊を通して霊的な世界と関与する」*

* アンドリュー・マーレー博士の「キリストの霊」からの引用。

ペンバーは各々の機能を明快に説明しています。「我々は、体を感覚意識、魂を自己意識、霊を意識と称することができよう」。また彼は言います、体は「我々に五感を与え」、魂は「現在の存在状態において我々を助ける知性と、感覚から生じる感情を与える」。一方、霊は「神に直接由来する」最も高度な部分であり、「霊によってのみ、我々は神を理解し、礼拝することができる」。

アンドリュー・マーレー博士の著述はこれと一致します。「人が『生ける魂』になった時、魂に賦与された賜物は、意識と自己決定、もしくは知性と意志であった。しかしこれらは、霊の命を中に入れるための『鋳型・器』にすぎない」。マーレー博士はまた、「霊は我々が神を意識する座であり、魂は我々が自己を意識する座であり、体は我々が世界を意識する座である。霊の中には神が宿っており、魂の中には自己、体の中には感覚が宿っている」*と述べています。

* アンドリュー・マーレー博士の「キリストの霊」からの引用。

さらにペンバーは、人の創造に関して、どのように三部分が形成されたのかを記しています。「神は、最初に感覚のない枠組みを形造り、次にその中に『命(原文では複数形)の息』(創世記二章七節)を息吹かれた。これは、神の息吹が二重の命――(感覚に属するという意味で)感覚的な命と霊的な命――を生み出した事実を述べているのであろう」。彼は脚注の中で付け加えています、「『命(複数)の息』というように複数形が使われているのは、神の息吹が霊となり、同時にそれが体に作用して魂を生み出したことをおそらく意味するのであろう」。

つまるところ、これらの著者たちはみな、意志、知性、心から成る人格の座として「魂」をほぼ定義しています。魂は、霊的な世界に対して開かれている「霊」と、自然や感覚という外側の世界に対して開かれている「体」との間に位置する人格的実体であり、どちらの世界が人全体を支配統制するのかを選択する力を持っています。

たとえば、アダムがエデンの園の中を歩んでいた時のことを考えてみましょう。当時、神によって彼の中に息吹かれた霊が、彼の「魂」(知性、思い、意志)を治めていました。そして霊は、「魂」の器を通して、地上の土の幕屋である体により、また体を通して輝き出ました。体は光で輝き、寒さにも暑さにも平気で、自分が創造された目的を完全に果たすことができました。

人の堕落

しかし、ああ、「しかし」と記さなければなりません。人は堕落しました。しばらくして、主ご自身が御言葉の中で描写されたように、その結果があらわになりました。「人が心に思い浮かべる想像はみな、常に邪悪でしかない」(創世記六章五節、改訂訳)。明らかに、「堕落」は魂の知性の領域から始まりました。なぜなら、「エバがその木を見たところ、賢くするというその木は、いかにも好ましかった」(創世記三章六節、改訂訳)と述べられているからです。蛇の誘惑は、土の器、外なる人に対してなされたのではありません。なぜなら当時、体は完全に霊によって治められていたからです。蛇の誘惑は、人の知性と理解力に向けられたのです。そしてそれは、別世界の不可視の領域にある知識と力に進みたいという合法的願望に基づいていました。蛇は、「あなたは神のようになるでしょう」と言ったのであって、「あなたは神によって創造された獣のようになるでしょう」と言ったのではありません!誘惑は知識でした。おそらく、神はその知識を適切な時にお与えになるつもりだったのでしょう。しかし、その時が来る前に、しかも神の御旨から逸れて、人はその知識を取ってしまいました。

ですから、コリント人への第一の手紙一章十九節の使徒パウロの言葉は、堕落のこの面との関連で非常に意義深いです。「十字架の言葉」は「知恵ある者の知恵を滅ぼす」神の力である、と使徒は述べています。罪は知性の道を通して入ってきました。ですから、救いは堕落した「知恵」を滅ぼす十字架によってもたらされます。人が十字架のメッセージを受け入れるとき、堕落した「知恵」は滅ぼされます。なぜなら、「十字架につけられたキリスト」の宣べ伝えは、人の知恵にとって「愚か」だからです(コリント人への第一の手紙一章十八~二五節)。このように、神はその知恵により、堕落を引き起こした原因を対処する方法で、救いを用意しておられるのです!ですから、パウロは記しています、「もしあなたがたの中に、自分は賢いと思う者がいるなら、賢くなるために愚かになりなさい。なぜなら、この世の知恵は神にとって愚かだからです」(コリント人への第一の手紙三章十八、十九節、改訂訳)。

さらにエバは、サタン自身の堕落を引き起こしたのと同じ誘惑に負けて、堕落してしまいました。サタンは、「私はいと高き者のようになろう……」(イザヤ書十四章十三、十四節)と言いました。誘惑者は、どのようにエバを魅惑すればいいのかを知っていました。誘惑者は、彼女が持っていたものよりも高度なものを示すことによって、エバを誘惑しました。なぜなら、エバはちりでできた体によって制限されていましたが、彼女の魂(三部分の中でより高度な部分)は知識や成長の価値を認めることができたからです。

後年になってはじめて、堕落の影響の全貌が明らかになりました。人類の状態の記録から、人類が急速に下降線を辿ったことがわかります。エデンの園で善悪の知識を与えた「知恵」は、やがてその頂点に達しました。人は完全に「肉」の中に落ち込み、人の三部分の中で獣と共通の部分が主導権を握りました。そして、神は堕落した人類を見て言われました、「わたしの霊は人の内にとどまらないであろう。人は道に迷い、にすぎないからである」(創世記六章三節、改訂訳)。こういうわけで、堕落したアダムの種族を「死が支配した」だけでなく、最初のアダムと同じ形に生まれた人はみな、「地」に属し、「地的」であり、霊によってではなく肉によって支配されています。「自己」(ルカによる福音書九章二三節参照)の人格である魂は、霊の召使いではなく、肉と地的命の奴隷です。

今や、再生されていない人の状態は次のとおりです。(1)人の霊は神から分離され、神の命から堕落して遠く離れ(エペソ人への手紙四章十八節)、「神なく」、キリストから離れ(エペソ人への手紙二章十二節)、キリストと交わることができません。(2)魂(知性、思い、意志、自己意識)が体を治めるか、(3)体がその情と欲によって魂を奴隷にして支配するかのいずれかです。人の霊はこのように神に対して「死んで」いますが、暗闇の中で、知性や体と同じように活動に満ちています。中には、再生されていない人の霊の部分の容量が大きいため、暗闇の状態にあるにもかかわらず、霊が魂と体を支配している例もあります。その人は、魂的な人々や肉的な人々よりも多くの「霊」を持っているという意味で、「霊的」であると言えるでしょう。これらの人々は、神の聖霊から離れて霊の世界と交流しようとする人々であり、悪魔的方法で力を受けて、透視などの「オカルトの力」を使える「霊媒」になります。人の霊は、神の聖霊によって再生され、内住されないかぎり、サタンの堕落した霊どもと一つであり、空中の権を持つ支配者、今も不従順の子らの中に働いている霊によって支配されています(エペソ人への手紙二章二、三節)。

ですから、人の堕落した霊――堕落時に神から分離された――は、いわば、「魂」の器の中に落ち込み、「魂」もまた、使徒パウロが「肉の力」と呼んでいるものの下で、肉の体の中に落ち込んでしまいました。「回心していない人をまぎれもなく支配しているのは魂である。魂は知性として現れる場合もあれば、感情として現れる場合もある。時には、魂は知性と感情の両方を伴って現れる。これが十九節でユダが述べたいことである。ユダ書十九節は次のように訳されるべきである。『この人たちは分裂を起こし、霊を持たず、魂によって支配されている人間です』」*

* ペンバーによる。

フォウセットは、この節の注解の中で、これをとても明快に述べています。「人間存在の三区分で神が意図されたあるべき状態は、『霊』が第一となって、体と霊の間に位置する魂を治めることであった。しかるに、生まれながらの人の場合、霊は動物的魂の中に落ち込んで、それに隷属しているのである。動物的魂の動機や目的は地的である。『肉的な』人は、さらに低い状態に落ち込んでいる。これらの人の場合、最も低い要素である肉がおもに支配しているからである」*

* ユダ書十九節に関するフォウセットの注解より。

「再生のとき、再び生かされて新しくされるのは、暗くなって堕落した人の霊である」*。これが、「イスラエルの教師」に主が語られた言葉の意味です。彼は宗教的知識を多く知っていましたが、主は彼に言われました、「あなたがたは上から生まれなければなりません」(ヨハネによる福音書三章三節、および七節の欄外)。また、主は後に弟子たちに言われました、「人を生かすのは御霊であって、はなんの役にも立ちません」(ヨハネによる福音書六章六三節)。

* アンドリュー・マーレーの「キリストの霊」からの引用。

上からの新しい命が人の堕落した霊に届く方法を、主の御言葉は示しています。「御霊は欲するままに吹く(中略)御霊から生まれる者もみな、そのとおりです」(ヨハネによる福音書三章八節、改訂訳)。神の霊が人の霊を新しい命によみがえらせる根拠は、ヨハネによる福音書三章十四節に示されているように、罪人の身代わりとして十字架上で死なれた神・人の死です。この死のおかげで、「御子の中へと信じる者は、一人として滅びることなく、永遠の命を持ちます」。

十字架と堕落は、全く完全に対応しています。一方は他方の救済手段です。第一に、救い主が十字架上で死ぬことにより、が取り除かれなければなりませんでした。これにより、聖霊は罪人を赦すことができるようになりました。第二に、罪人は魂と体の束縛から逃れる道を与えられなければなりませんでした。こうして、人の三部分は再調整され、霊が再び支配し、体は単に外側の物質的器、魂を通して働く霊の道具として活動するようになります。

この逃れの道は、罪人が救い主と共に死んだことを示す聖書の多くの箇所で、明らかにされています。解放のためにそれを適用する方法については、後で十字架の完全な意義を考える時に見ることにします。