第2章 「肉的な」クリスチャン

ジェシー・ペン-ルイス

さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、
霊的な人に対するようには話すことができないで、
肉的な人、キリストにある幼子に対するように話しました。
(コリント人への第一の手紙三章一節、改訂訳)

繰り返しになりますが、「魂」は自己意識(人格、意志、知性)の座であり、神意識の座である霊と、感覚・世界意識の座である体との間に位置します。ガールは言います、「『魂』は、その命と活動力を、より高度な部分である霊から得るか、より低次な動物的部分から得るかのいずれかである」。ラテン語で「魂」を表す言葉はアニマ(anima)であり、体を生かす要素を意味します。

人が回心する時、その人の霊は再生され、堕落した霊に命を与える神の霊によって、命によみがえらされます。回心した人の魂は、下からの動物的な命によって支配されるか、上からの霊の命によって支配されるかのいずれかです。ですから、クリスチャンには三種類あると言えるでしょう*。この信者の三種類は、聖書で次のようにはっきりと述べられています。

1.霊の人―――神の霊によって支配されている人。神の霊は、新しくされた人の霊の中に住んで、力を与えます。
2.魂の人―――魂(知性や感情など)によって支配されている人。
3.肉の人―――肉によって支配されている人。肉的な習慣や欲求、「肉の力」に従う人。
*人には二種類しかありません。救われた人と救われていない人、再生された人と再生されていない人です。しかし、信者の場合、神の命における成長や知識によって、数種類に分かれます。

コリント人への第一の手紙三章一節で使われている言葉は、「魂」を意味するプシュケ(psuche)ではなく、「肉的」を意味するサルキコス(sarkikos)です。この言葉は、ローマ人への手紙八章七節にある言葉の形容詞です。「肉の(sarx)思いは神に敵対します」。この御言葉によると、「プシュケ」すなわち魂の命が神に敵対するのではなく、肉の思いが神に敵対します。生まれながらの人、「魂の」人は、御霊に属する事柄を受け入れることも、理解することもできません(コリント人への第一の手紙二章十四節)。これは真実です。しかし、魂的であるという理由だけで、その人は敵対していると言われているのではありません!事実上、使徒パウロはコリント人に次のように書き送りました、「はあなたがたに向かって、霊の人に対するようには、神の深い事柄を話すことができませんでした。(なぜなら、生まれながらの人、「魂の人」は、神の深い事柄を受け入れることができないからです。)私はあなたがたに向かって、肉の人に対するように話すことを余儀なくされました」*。彼らは真に再生されており、「キリストの中」にありましたが、によって支配されていました。そのため彼は、彼らのことを依然として「肉的」(肉)な者として描写する以外なかったのです。これは、妬みや争いという肉の行いの現れから明らかでした。「肉の行いは明らかであって、不品行、汚れ、好色、偶像崇拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、異端、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです」(ガラテヤ人への手紙五章十九~二一節)。信者の間に見られるこれらの現れはどれも、ある程度、「サルキコス(sarkikos)」、すなわち肉の命の働きのしるしです。肉の命は、魂(人格)の通路を経て、妬みや争い等として現れます。このような人は、「魂の」人、生まれながらの人ですらなく、霊を再生されて命によみがえらされたにもかかわらず、「肉にしたがって」歩んでいる人です。このように「肉によって」歩んでいる人は、神を喜ばせることはできません。

* フォウセットによる。

使徒はコリントの信者たちのことを、「肉的」(肉)な者、依然として「キリストにある幼子」である者として描写しています。これからはっきりとわかるように、「キリストにある幼子」は、霊の命の初期の段階にあり、ほとんど肉の支配下、または「肉の中」にあります。再生により、彼らは真に「キリストの中」にあります。すなわち、彼らはキリストの命をもって真によみがえらされ、キリストの霊によりキリストの中に植えられています。ヨハネによる福音書三章十六節で、「御子の中へと信じる者は、永遠の命を持ちます」と記されているとおりです。しかし、これらの「キリストにある幼子たち」は、生ける信仰によって真にキリストの中にありますが、十字架が分離するものをまだすべて理解しているわけではありません。十字架の分離する働きは、彼らが十字架上の彼の死の中にバプテスマされて、彼の命によってよみがえらされることによります。

使徒の言葉を見ると、彼がこれらのコリント人たちを責めているのは、彼らが依然として「幼子」だったからです。幼子の段階は長く続くべきではありません(ヘブル人への手紙五章十一~十四節と比較せよ)。霊の再生は、神からの命の霊の息吹を通して来るものであり、十字架上の神の御子の贖いの犠牲を単純に信じる信仰に基づきます。霊の再生の後、救い主と共なる罪人の死(ローマ人への手紙六章一~十三節)の理解が直ちに続かなければなりません。その理解は、「肉」にしたがった生活からの解放をもたらします。明らかに、コリントのクリスチャンたちは、まだそれを知りませんでした。

肉的なクリスチャン、キリストにある幼子のしるしを、使徒はとてもはっきりと描写しています。今日の信者はみな、自分もまた「依然として肉的」なのかどうか、これらのしるしによって判断できます。ここでこれは、十字架の解放を考慮するよう私たちを導きます。

十字架の解放

キリスト・イエスのものである人たちは、肉を十字架につけてしまったのです」(ガラテヤ人への手紙五章二四節、改訂訳)。使徒はガラテヤ人への手紙の中で、「肉の働き」の描写をこの言葉で終えています。その箇所で彼は、「霊の」人(聖霊が内住している霊によって支配されている人)が生活の中で結ぶべき「御霊の実」を、対照的に示しています。

「依然として肉的な」「キリストにある幼子」は、十字架の意義を十分に理解する必要があります。なぜなら、神の御旨におけるキリストの死の意義は、「古い人」が彼と共に十字架につけられたこと、そうして、「キリストのものである人たちは、肉をその情と欲と共に十字架につけてしまった」ことだったからです。十字架は、再生されていない人に対して、罪が贖われる場所、小羊の血によって罪の重荷を取り除かれる場所として啓示されました。この十字架は、キリストにある「幼子」、「肉的な」クリスチャンが、たとえ長年再生されていたとしても、肉の支配からの解放を得なければならない場所でもあります。それは彼が、「肉にしたがって」ではなく、「霊にしたがって」歩み、やがて「霊的」になり、キリストにあって完全に成長した人となるためです。

ローマ人への手紙第六章は、キリストの十字架による解放の大憲章です。キリストにある幼子はこの大憲章を知る必要があります。なぜなら、この大憲章は解放の根拠をはっきりと示しているからです。ガラテヤ人への手紙五章二四節などの節は、解放の根拠を短く述べているだけです。

キリストと共に死んだことを認め、体の「行い」を死に渡すことによってのみ(ローマ人への手紙八章十三節、改訂訳:コロサイ人への手紙三章五節)、信者は御霊によって生き、歩み、行動することができます。こうして、信者は霊の人となります。パウロはローマ人に書き送りました、「私たちが『肉の中に』あった時、罪の欲情が私たちの体の中に働いて、死に至る実を結ばせていました。しかし今、私たちは(中略)死んだので、律法から解放されました」(ローマ人への手紙七章五~六節、改訂訳)。

清い聖なる神の御子は、「罪深い肉の様で」木にかけられ、「罪のための供え物」となられました。彼は、罪人の身代わりとして、罪のために、罪に対して死なれました。神はこのように、御子と真に結合されている信者の「肉の罪」の生活を、永遠に処罰されました。信者が「肉にあって」(コリント人への第二の手紙十章三節)生きているのはそのとおりですが、それは信者がまだ物質的体の中にあるという意味です。しかし、ひとたび信者が、神ご自身の御子が「罪深い肉の様」で木にかかっているのを見、彼にあって自分が罪に対して死んだことを知るとき、その時から信者は、物質的体に関するかぎり「肉にあって」生きますが(ガラテヤ人への手紙二章二〇節)、もはや「肉にしたがって」まずに(体の要求や欲求にしたがって歩まずに)、「霊にしたがって」むようになります(神の聖霊が内住している新しくされた自分の霊にしたがって歩むようになります)。(ローマ人への手紙八章五~六節参照)

カルバリの十字架における神の御子の御業により、その死の受益者である罪人は、自分のために死んでくださった身代わりと一つにされました。この御業に基づいて、自分が「罪に対して死んでいる」ことを「認める」よう、贖われて再生された信者は命じられています。なぜなら、「私たちの古い人は彼と共に十字架につけられた」からです。このとき、信者の霊の中に住んでおられる神の聖霊は、「罪の体」(堕落した人全体の中にある罪の全領域)を「滅ぼし」て廃棄する*という神の御旨を、究極的に遂行することができます。ただし、人は自分の側で、「罪に治めさせること」(ローマ人への手紙六章六、十一、十三節)を、常に忠実に拒まなければなりません。この時、「キリストにある幼子」は、「肉」の支配や統制が終わったことを知り、昇天した主との真の結合の中へと霊の中でよみがえり、キリスト・イエスにあって神に対して生きるようになります

* 欽定訳の「滅ぼされる」という言葉を、アルフォードは「終わらされる」と訳しており、ダービーは「無にされる」と訳している。この言葉は、「無効にする」(ローマ人への手紙三章三節)、「空しくする」(ローマ人への手紙三章三一節)、「無効にされる」(ローマ人への手紙四章十四節)、「解き放される」(ローマ人への手紙七章二節)、「解放される」(ローマ人への手紙七章六節)とも訳されている。ローマ人への手紙六章六節の最高の訳がなんであれ、「罪の体」は信者を罪に束縛する力を持たなくなったことを、この節が意味していることは明白である。(W.R.N.)
 その語源は、「失業させること、不毛、空虚、不要にすること」を意味する。それゆえ、「罪の体」(最初のアダムにあって、私たちが性質的に受け継いでいるすべてのものを事実上含む)を実際に「廃棄すること」は、主が天から到来して、「私たちのいやしい体」が「彼の栄光の体に同形化される」時(ピリピ人への手紙三章二一節)、はじめて究極的に達成されるのである。

これを理解した「キリストにある幼子」は、今、「神に生きる」ことの意味をいっそうよく知るようになります。そして、霊にしたがって御霊によって歩み、肉の欲望を満たすことをやめ、自分の全存在を治める権利を、神の霊が内住している霊に明け渡します。これは、「肉にしたがった」歩みに再び陥ることがないということではありません。これは、「御霊に属する事柄」を思い、「罪に対して全く死んだ」ことを常に認め、「御霊によって体の行いを死に渡し」(ローマ人への手紙八章十三節、改訂訳)、命の新しさの中を歩むときの話です。