第3章 「魂の人」

ジェシー・ペン-ルイス

十字架を知り、「肉にしたがって」歩むことをやめる段階に達したクリスチャンたちは、「自分は今や『霊的な』信者であり、神の霊によって全く新しくされ、導かれている」と思うかもしれません。しかしこの時、最も重要な学課がやってきます。アンドリュー・マーレー博士が言うには、それは「思いや意志の力による魂の過度の活動」の危険性に関する学課であり、「教会も個々の信者も恐れなければならない」「最大の危険」*です。

* アンドリュー・マーレー博士の「キリストの霊」の補遺からの引用。

霊において再生された信者は、御霊から生まれました。信者の霊の中には、神の霊が住んでおられます。信者は十字架の啓示を受けました。そして十字架は信者に、肉にしたがった生活を克服する道を示しました。信者は今、命の新しさの中を歩み、「肉の働き」として現れる罪に打ち勝ちます。しかし、ここで問わなければなりません。人の人格そのものである「魂」と、知性や感情の活動についてはどうでしょうか?「肉の働き」を離れた人の活動を促しているのは、どちらの力でしょうか?次の二つのうち、信者はどちらによって生かされ、支配されているのでしょうか?

1.上からの霊の命。最後のアダム、命を与える霊である、復活した主からの命。
2.下の領域からの命。最初のアダムの堕落した命。

キリストと共に罪に対して死んだことを理解し、習慣的に「肉にしたがって」歩むことをやめるとき、信者は「霊の人」となり、「完全に潔められる」―――今日、このような考えが普及していますが、私たちはすでにこの考えの誤りを指摘しました!肉や肉の命の支配からの解放は、「魂的」でなくなること、天然の命にしたがって歩まなくなることを意味しません。なぜなら、「罪に対する死」や「肉」の磔殺は、贖われた人の内に成されるべき、神の霊の働きの一つの段階にすぎないからです。信者は「サルキコス、sarkikos」(肉的)ではなくなったかもしれませんが、依然として「サイキカル、psychical」(魂的)かもしれません。つまり信者は、霊の領域、神意識の領域に生きずに、魂の領域に生きているかもしれないのです。

これをはっきりと理解するには、「肉的」ではなくなって、「肉にしたがって」生きることをやめた、「魂的」クリスチャンの特徴について考えなければなりません。

すでに見たように、魂には、それを自己意識の座とする中心的人格だけでなく、知性や感情もあります。信者は、ガラテヤ人への手紙五章十九~二一節に描かれている、明白な「肉の働き」からは完全に解放されているかもしれませんが、その知性や感情はいまだに、「プシュケ(psuche)」あるいは「動物的な魂の」命によって動かされているかもしれません。つまり、知性や感情はまだ新しくされておらず、再生された人の霊を通して働く聖霊によって、十分に生かされていないかもしれません。ですから魂的なクリスチャンとは、命を与えるキリストの霊(コリント人への第一の手紙十五章四五節を見よ)によってではなく、最初のアダムの命によって、その知性や感情をいまだに支配されている人のことです。信者が霊によって歩む時、命を与えるキリストの霊は、知性や感情を完全に支配下に置かれます。信者の知性や感情が依然として「魂的」であっても、聖霊は信者の霊の中に住んで、「体の行いを死に渡す」ことを可能にすることができます。

例として、知的生活の問題を取り上げましょう。ヤコブの手紙の一節は、天的な知恵と生来の魂的な知恵の違いを明確に示しています。それによると、「上から」ではない知恵は、(1)地的であり、(2)魂的*であり、(3)悪魔的(改訂訳)であって、ねたみ、党派心、分裂、分派を生み出します。それに対して、上からの知恵は、人の霊の中に住んでおられる神の霊からであり、純真、平和、寛容、慈悲によって特徴づけられており、「えこひいきがない」という神の特質があります(ヤコブの手紙三章十七節)。純粋な天的知恵には、魂の命の要素(自己意識、自己の意見、自己の見解)が全くありません。ですから、争いやねたみではなく、平和をもたらします。魂的な知恵の三番目の特徴である「悪魔的」という点については、別の関連で取り扱うことにします。

* プシキコス(psychikos)。改訂訳では、「天然的な(natural)」「動物的な(animal)」と訳されています。この単語は「魂に属すること」を意味します。

ヤコブの手紙のこの節の光により、神の教会の状態と、教会が多くの宗派や「分派」に分裂した理由がはっきりとわかります!ああ、ねたみや争いなどの「の働き」は、信仰を告白する神の民の会衆の中に、「党派心、分裂、分派」(ガラテヤ人への手紙五章十九、二〇節)をしばしば引き起こします!しかし、信仰を告白する教会内の不和の原因には、もう一つあります。魂的な知性が、その分裂の要因です。魂的な「知恵」を用いて神聖な真理を扱うことは、キリストに従う者たちを分裂させようとする悪鬼どもの働きを助長するのです。

「知性は、神の霊によって導かれないなら、間違いを犯しやすいだけでなく、あらゆる賜物の中で最も危険である」とペンバーは述べています。しかしクリスチャンの間で、神聖な真理を把握し、霊的実際を理解するのに、なおも知性が頼りにされています。しかし、聖書は告げます、「『魂の』人(魂的な信者を含む)は、御霊に属する事柄を『受け入れる』ことができません。なぜなら、それらは霊的に識別されるものだからです」。

また、分裂や不和をたびたび引き起こすのは、聖潔の教師や教授たちの内にある魂的な要素です。これら「異なる」人々の心の中には、確かに愛があるかもしれませんが、それにもかかわらず、その「相違」が分裂を引き起こします。なぜなら、信者の中の魂的な要素に働くことができる悪魔の勢力は、一致点を強調するかわりに、「真理観」の相違を常に強調・誇張し、熱心な信者たちを駆り立てて、「神を証しする」という名目の下、彼らの「真理」観のために戦わせさえするからです。ああ、熱心な信者たちは、「自分は他の人々の祝福を求めている」と思っているのですが、「改宗者を一人つくるのに、海と陸とを飛び回る」(マタイによる福音書二三章十五節)ことにより、知らず知らずのうちにパリサイ人と同じことをしているのです。

「真理観」や「はっか、いのんど、クミン」に関して、言葉の上で厳密に同じであることに固執し、「律法の中でさらに重要なこと」をおろそかにするのも、クリスチャンの内にある魂的要素です。福音の時代において、「律法の中でさらに重要なこと」はキリストの律法であり、信者たちが成長して「信仰の一致」(エペソ人への手紙四章三、十三節)に達する条件として、信者間の愛と御霊による一致を課します。

つまり、悪の超自然的力によって影響されている魂の命は、信仰を告白する人たちや神の真の子供たちさえも分裂・分離させる主要な原因なのです。ユダは、「この人たちは分離する人々であり、魂によって支配されている人間です」(十九節)と記しています。欽定訳では「自らを分離し」と訳されており、改訂訳テキストでは「分裂をおこす」と訳されています。「これは、彼らが傲慢であることを意味する。彼らは、自分は他の人々と違って、優れた聖性、知恵、独特な教理を持っていると思っているのである」とフォウセットは注解の中で記しています。フォウセットはまた、欽定訳と改訂訳で「感覚的な」と訳されているこの節の言葉を、文字どおり「動物的魂の」と訳しています。

「優れた聖性を持っている」として「自らを分離すること」は、常に魂の命のしるしです。主イエスは言われました、「人の子のために、人々があなたたちを憎む時、また人々があなたたちを分離する時、あなたたちは幸いです」(ルカによる福音書六章二二節、改訂訳)。使徒パウロも、分離に関する質問に答えて、「各自は自分が召された召しの中にとどまっていなさい」、「その中に神と共にとどまっていなさい」と言いました。神ご自身が、光の中を歩んでいる者と暗闇の中にとどまっている者とを、光であるご自身の臨在によって「分離」されます。「暗闇」の中を歩むことを選ぶ人は、光の中にとどまっている人を追い出すか、自分も光の中にもたらされるかのいずれかです。聖霊を宿している人でも、「魂によって支配される」おそれがあります。これらの魂的な人たちは、常に「自らを分離し」、「分裂を起こし」ます。こうして彼らは、自分たちが「魂的」であって「霊的」ではないことを、幾分身をもって示します。

魂の命の他の器官は感情です。感情は肉体の感覚から生じます。ここで再び、クリスチャンは魂的なものに支配されて、それを全く「霊的」であると思い込むおそれがあります。ペンバーは言います、「感覚に訴えることによって、何らかの聖なる霊的影響を及ぼせるという考えを、聖書心理学の知識は一掃する」。しかし、感覚を通して霊に達することが、多くの教会奉仕の目的であり、福音を宣べ伝える多くの伝道集会の目的ですらあります。この問題に関するペンバーの言葉は啓発的です。「輝かしい建物、豪華な祭服、視覚に訴える絵画的儀式、甘い香水の香り、聴覚に訴える美しい音楽。これらのものは、最高に心地よい感覚で人の意識を魅惑するかもしれないが、魂までしか届かない。我々の霊は感覚からの影響を受けない。我々の霊は霊からのみ影響を受けるのである」*。彼はまた、神から見た私たちの成り立ちの順序が、魂、体であることも指摘しています。「神の感化はの中から始まる。次に、神は感情と知性を掌握し、最後に体の抑制を開始されるのである」。サタンの観点では、これは逆転します。ヤコブの手紙三章十五節では、(1)地的、(2)魂的、(3)悪魔的という順序です。サタンの感化は土の体によって入り、次に魂を捕らえ、可能ならばいつでも霊に入り込みます。

* ペンバーの「地球の幼年期」からの引用。

ここに示されている事実はなんと厳粛でしょう!これこそ、真のクリスチャンの内なる命のしるしを帯びていない、名ばかりのキリストの礼拝者たちが教会に満ちている理由です!悲しむべきことに、これらの礼拝者たちの存在は、彼らが無意識のうちに霊の中で神を求めて叫んでいることを示しています。しかし多くの場合、その要求は決して満たされません。なぜなら、彼らの魂の命しか顧みられていないからです。真理の文字を知的・魂的に提示することにより、彼らの知的器官は顧みられているかもしれません。あるいは、心を静める音楽や、静思の時の落ち着かせる効果により、彼らの感覚的命は満足させられているかもしれません。しかし、彼らはと真理による真の神礼拝に導かれていません。霊と真理による神礼拝だけが、神に受け入れてもらえるのです。

このような影響はすべて退けるべきでしょうか?決してそうではありません。しかし、それらは「魂」を救いません!それらは、聖書の真理が朗読されている所に人を連れて来ることにより、たとえ説教者がそれを説いていなくても、救いの道を備えてくれるかもしれません。義に寄与するこれら外側のものにはみな、それなりの価値や役割があります。

しかし、ここに深刻な問題があります。魂を貫くだけで、再生する力によってに達しない影響は、人を迷わせて、人を「見えるところは敬虔であっても、その力を持たない者」*にし、イエス・キリストの霊的な宗教を異教の哲学やカルトの水準にまで引き下げてしまうのです。そのため、「魂の人」にすぎない「宗教的な」人々は、神の御子をモハメッドや孔子と同列に置いて、この世の「宗教の一つ」としてキリスト教を論じます。しかし、ペンテコステの初代教会の時代のように、人々は神の大能の力を見せつけられねばなりません。初代教会の時代、神は大能の力をもって、失われた世界の唯一の救い主である御子の御名を証しされました**

* テモテへの第二の手紙三章五節(訳注)
** 使徒の働き四章十二節(訳注)

また、確立されない回心者の割合が多いのも、膨大な福音宣教の働きの効果がたちまち消え去ってしまうのも、宣教の働きが感覚や魂の感情に訴えることによってなされているためです。働き人が過労に陥って、最終的にしばしば「燃え尽きて」しまうのも、多くの場合このためです。ある投稿者は次のように記しています。「働き人が神経衰弱に陥るのは、公的・私的に人々に向かって語る時、熱意、感覚、感情、力といった、魂的・天然的人を用いているからではないでしょうか?体にストレスや疲労や涙を強いずに、御霊は真理に命を賦与できるのではないでしょうか?我々は『興奮』せずに神の真理を語れるのではないでしょうか?言葉があなたの口から出て、人々の心の中に入った後、あなたやあなたの証しによらずに、神はあなたの言葉に力を賦与できるのではないでしょうか?もし私の推測が正しければ、遙かに少ない労力で、もっと多くの働きがなされうるように思われます」。

ある人は、生まれつき「情熱的な」魂を持っていて、その情熱的な魂で人々の魂の感情を揺り動かすかもしれません。しかしその時、人々の信仰は神の力によって支えられずに、話し手の力や知恵によって支えられることになります*。アンドリュー・マーレー博士は、教会や個々の信者が恐れなければならない最大の危険は「思いや意志の力による魂の過度の活動」であると言っていますが、私たちは今、この言葉の意味を理解できます。昔のクエーカーたちは、これを「被造物的活動」とよく呼んでいました。それは明らかに、神の奉仕の中で用いられている被造物の力であって、復活した神の御子の賜物として与えられている聖霊と霊の中で協力しようとすることではありません。

* コリント人への第一の手紙二章四、五節(訳注)

知者が、まだ霊を再生されていないにもかかわらず、不死の魂の永遠の運命を扱うのを、私たちは見かけます。また、意志の強い人が、その意志と支配的個性を人々の良心や生活に対して及ぼすのを、私たちは見かけます。ですから、喫煙コンサートや、音楽的催しや、人気の話題に関する講演等により、人々の心を動かして神にもたらそうとする計画は、他人を助けることを願う人々の内にある「魂」の様々な型の所産にすぎません。このような人々は再生されているかもしれませんが、「魂によって支配」されており、自分の霊の中に神の霊が宿っていることを知りません。信者の霊の中に宿っている神の霊は、その内住する力により信者を強めて、人々を救う神の使者として用いることができます。

しかしキリスト教会には、非常に少数ながら、神の霊の内住を知っている、あまり「魂的」ではない、別の部類の人々がいます。これらの人々は、その宗教経験において「魂と霊」が混交している人々であり、自分の意識領域の中に神の臨在を常に感じないかぎり満足しない人々です。その結果彼らは、自分の内に聖霊が住んでおられるにもかかわらず、しばしば魂の命の領域の中に落ち込んでしまいます。なぜなら、霊の命も、神と協力して働く人の霊の活動も、理解していないからです。

「魂」は知性と感情だけから成るのではありません。聖書からわかるように、魂は、愛情、喜びや悲しみの力といった人格の座です。次のように記されています。

「わたしのは、悲しみでいっぱいです。」(マタイによる福音書二六章三八節)
「私のは、主をあがめます。」(ルカによる福音書一章四六節)
「今、わたしのは騒いでいます。」(ヨハネによる福音書十二章二七節)
「あなたたちは、忍耐によって、自分のを勝ち取ることができます。」(ルカによる福音書二一章十九節)
「彼の義しい痛めていたからです。」(ペテロの第二の手紙二章八節)
不安定な魂を誘惑し」(ペテロ第二の手紙二章十四節)

ですから、体に肉体的個性があるように、魂にも個々の個性があることは明らかです。そして、喜び、愛、悲しみ、忍耐などを入れる容量を持つ、魂のこの形態は(もしこのような表現を使ってもかまわないなら)、第二のアダムの霊の命から魂の器の中に注がれる霊的喜びで満たされることもできますし、あるいは、最初のアダムの劣った命から魂の器の中に流れ込む魂的(感覚的)喜びで満たされることもできます。後者の場合、聖霊によって内住されているにもかかわらず、魂のこの様々な容積の領域内で動物的魂の命が果たす役割の程度に応じて、信者は「魂的」になります。信者は、魂的喜びに固執して、自分の感情の領域内に生きるかもしれません。信者は、神意識の場所である霊の中に生きるのではなく、自己意識の座の中に生きるかもしれません。そうして、純粋な神意識の領域(再生された人の霊)ではなく感覚意識の領域で、霊的「経験」を求めてやまない信者たちの仲間入りをするかもしれません。

ここで、悪霊どもが魂の命の各面にどのように働くのかを見ることにしましょう。

魂と暗闇の勢力

もしあなたたちの心の中に、ねたみや敵対心といった苦い感情があるなら、
真理に逆らって、傲り偽って語ってはなりません。
そのような知恵は、上から下って来るものではなく、
地に属し、非霊的性質(ギリシャ語、psychical、サイキカル)に属し、悪霊どもに属しています。
(ヤコブの手紙三章十四、十五節。ウェイマス訳)

すでに見たように、改訂訳では、「このような知恵は上から下って来たものではなく、地的であり、感覚的*であり、悪鬼的(悪魔的、改訂訳欄外)です」となっています。すでにこの節を引用しましたが、悪の勢力と動物的魂の命の関係を確証するために、再び引用することにします。この御言葉は、「肉の働き」に言及しているのではなく、人の知的器官、すなわち魂に言及しています。このテキストの御言葉によると、悪霊どもは人の肉的性質に働くのと同じくらい確実に、人の魂的部分にも働きます。

* すなわち、生まれながらの。原文のギリシャ語は「魂に属すること」を意味します。

これほど明白に真理が述べられているのを見て、びっくりします。驚くべきことに、ねたみや敵対心といった苦い感情はみな、知識の獲得や所有をめぐって、魂の命に働く悪霊どもによって引き起こされるのです。フォウセットが記しているように、その起源は地獄です。

神の真の子供たちの多くは、これをほとんど理解していません。彼らは、醜悪な罪や「肉の働き」の現れの中に悪魔的影響を認めることはできますが、現代文明の最高峰と思われているものの領域内にそれを認めることができません。これは、堕落に関する神の御言葉の宣言を、彼らが喜んで認めようとしないためです。最初の創造は完全に腐敗と死の中に沈んでいるため、「人の心の思い」の「想像」(知的観念)ですら、神の目に「邪悪でしかない」のです*。そしてまた、この全体的堕落の背後には蛇の毒があります。蛇は「知恵に対する願望」という経路を通して侵入しました。

* 創世記六章五節(訳注)

贖われた人が新しくされる過程では、肉の命であれ、魂の命であれ、堕落した命の要素が活発なままの方が、悪の勢力にとっては好都合なのです。なぜなら、「霊的」になるにしたがって、信者はますます栄光の主と霊の中で実際に結合されるようになり、それゆえますます悪霊どもの力を逃れ、悪霊どもを認識し、悪霊どもと戦うために装備されるようになるからです。しかし最初に、次のことをはっきりと認識しなければなりません。「堕落」は、堕落した大天使であるサタンの嘘を信じた結果でした。そして、サタンが成功した時、堕落した人類の中に毒が入り込みました。その毒は人のあらゆる要素中を巡っています。これによりサタンは、人の三部分すべてに出入りする力を得ました。すなわち、(a)堕落した霊は神に対して死んでおり、暗闇の君によって支配されている地獄の暗黒の霊の世界に対して開かれています。(b)知性、想像、思い、意志、愛情を含む魂は、最初のアダムの堕落腐敗した命によって支配されています。(c)それゆえ、体と魂のすべての器官は、毒殺者の力に対して開かれています。こういうわけで、使徒ヨハネは率直な言葉で、「全世界は悪しき者の中に横たわっています」(ヨハネの第一の手紙五章十九節)と宣言しています。

堕落した人は、神の御子の命の血によって贖われる必要があるだけでなく、暗闇の力から神の御子の王国の中に実際に移される必要があります。そして、罪の力と動物的な魂の命の力から解放されることにより、霊から始まって、存在のすべての領域を段階的に実際に新しくされる必要があります。最初の創造がとても素晴らしい働きだったように、再創造も実に素晴らしい働きです。被造物は、動物的魂と動物的肉の中に全く落ち込んでしまいましたが、再創造によって再び霊の領域の中に引き上げられ、霊に魂と体を治めさせるようになります。三位一体の神だけが再創造の働きを成し遂げることができました。御父は御子を与え、御子はご自身の命を与え、神の霊は三位一体の御旨を成就するために忍耐と愛をもってご自身を与えられました。

暗闇の君は、人が束縛から解放される過程をことごとく邪魔します。これは容易に理解できます。私たちは、暗闇の君の力に対して開かれている堕落した創造の要素を、はっきりと知る必要があります。暗闇の君が再生されていない人を完全に支配していることを、エペソ人への手紙二章二節ははっきりと示しています。使徒はその箇所で、「肉と心の欲望」(魂的生活)を行う「御怒りの子ら」は完全に彼に支配されている、と述べています。ですから、人の霊が命によみがえらされ、罪の力から解放されたとしても、魂の命と肉体の要素は悪の勢力に対して開かれているのです。

1.魂の命に働く悪の勢力の影響
魂的な知恵は、悪霊どもが自分の計画を成し遂げるためにそれを用いる時、「悪魔的」になります。たとえば、敵は人の心の中に偏見や先入観をこっそり植え付け、決定的瞬間にそれを用いて、神の霊の働きを邪魔することができます。たとえ信者の心と霊が神に対して真実だったとしても、敵は信者の思いを通して働きます。これは、今日の神の教会における、最も深刻な事実です。なぜなら、善良な人々の様々な「考え」は、この世の不信仰や憎しみ以上に、神の霊をしばしば妨げるからです。また、魂の命の感情の領域においても、敵は生まれながらの命を掻き立てて、神の霊の深い働きを抑圧阻止し、神の声を聞こえなくすることができます。
2.肉体に働く悪の勢力の影響
敵は神経系に働くことができます。敵は、「肉の働き」や一般的にと称されているものに加えて、悪の勢力に対して開かれている多くの他の要素や、人体固有の動物的引き付けを用います。これらの要素は、人の器の「構成」自体の中にあります。信者は、神の光が自分の複雑な存在を照らすよう、熱心に求めなければなりません。それは、自分自身を知るためであり、復活した主に対するへりくだった信頼によって行動し、歩む方法を学ぶためです。イエスの血を仰ぎ、聖書の御言葉に絶対的に服従し、自分をすべての真理に開き続けるなら、信者は悪しき者から守られます。聖書の真理は、信者が悪霊どもに与えてしまった立場――そこから悪霊どもは信者を攻撃し、信者の思いや体に入り込みます――を、ことごとく光で照らします。

暗闇の勢力はきわめて狡猾です。彼らは人の気質や肉体の不調といった「自然の」状態に沿って働きます。あるいは、それらの状態を擬似的に造り出します*。彼らは肉体的病や精神的病を見張り、それを自分たちの働きのための隠れ蓑、「口実」として利用します**

* 敵の攻撃は自然の領域や物質の領域で行われることがあります。しかし、その攻撃の源は、その領域にはありません。
** 真理のこの面に関する十分な説明については、「聖徒と戦い 神の子供たちの間における偽りの霊どもの働きに関する教科書」(The Overcomer Book Room 刊)をご覧ください。