第5章 「霊的な」(プネウマチコス)クリスチャン

ジェシー・ペン-ルイス

そして平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖別し、
あなたがたの霊(プネウマ、pneuma)と魂(プシュケ、psuche)と体(ソーマ、soma)を
完全に守って、責められるところのない者にしてくださいますように。
(テサロニケ人への第一の手紙五章二三節、改訂訳)

すでに見たように、テサロニケ人への手紙のこの節は、英語で人の三部分性を明白に示している、二つしかない箇所のうちの一つです。この節はまた、人の三部分をあるべき本来の順序で述べています。注目すべきことに、神の子どもたちの多くは、テサロニケ人への手紙のこの節を引用して祈る時、しばしば「体、魂、霊が聖別されますように」と順序を変えてしまいます。このことは、信者が神の霊によって照らされ、人のあらゆる他の活動においてだけでなく思いにおいても霊が支配的地位に戻されないかぎり、思いが無意識のうちに堕落した創造の真の状態を伝えることを示しています。

使徒は、テサロニケ人のための祈りの中で、「霊的な」信者の絵を包括的に与えています。使徒は回心者たちのために、彼らが全く聖別されるように、という祈り以外の祈りができませんでした。それはまさに、「………キリストにあって『まったき』人、『完全に成長した』人をささげるためです。このために、私もまた労苦しているのです」と、彼がコロサイ人に書き送ったのと同じでした。彼が用いた「完全に成長した」という言葉は、「成熟に至るまで成長したこと」*を意味します。彼は言います、「私は神に祈ります。あなたがたの霊、魂、体すべてが、責められるところのないように守られますように」(欽定訳)。「全く聖別される」ことの次に、「責められるところのないように守られる」ことが続きます。簡単に言うと、これは次のことを意味します。

(1)霊に関して:人はまず、御子の贖いの働きを通し、聖霊によって、霊の中で再生されます。霊なる三位一体の神は、再生された人の霊の宮の中に住まいを定められます。

(2)魂に関して:霊の中に住まわれる三位一体の神は、魂(人格)の器を通してご自身を現されます。それは、(a)神の御旨と全く一つである意志によってであり、(b)聖霊によって更新され、照らされている知性によってであり、(c)完全に人の支配下にあり、あの同じ御霊によって導かれている感情によってです。

(3)体に関して:三位一体の神は、霊の中に住み、魂の通路を通してご自身を現し、体を完全に支配下に置かれます(コリント人への第一の手紙九章二七節)。神は、各肢体を「義の武器」(ローマ人への手紙六章十三節)として直ちに従わせ、こうして外なる人(体)をまさに聖霊の宮(コリント人への第一の手紙六章十九節)とされます。

* コロサイ人への手紙一章二八~二九節。コニーベアの脚注を見よ。

これが、「成熟」に至るまで成長した「霊的な」信者です。彼らは、霊・魂・体を全く聖別されており、自分の存在の中心たる宮の中に住んでおられる平和の神により、責められるところのないように(間違いを犯さないことではありません)「完全に守られる」必要があります。

どのようにして魂的な人は霊的になるのか

しかし、どのようにして、信者は「魂的」な段階を過ぎて、実際に「霊的」な人になるのでしょう?フォウセットは、「霊的な人は、霊が支配している人であり、それゆえ、その同胞を抜きん出ている人である」と記しています。「霊の支配」とは、神の霊が肉的・魂的な人を支配されることを意味するだけでなく、再生された霊が、魂や体よりも強くされて、両者を支配することをも意味します。再生された霊は、神の霊によって内住され、強められます。パウロはエペソ人のために、「あなたがたの内なる人が、力をもって、御霊により、強められますように」*と祈りました。この「内なる人」は再生された人の霊を意味します(モール司教)。

* エペソ人への手紙三章十六節。(訳注)

「霊の人」は、「霊にしたがって歩み」、霊を「思う」人です。このように、彼の霊は聖霊と共に働きます。そのため、第二のアダムのいのちを与える霊は、自由に、完全に、魂の諸機能(思い、想像、理性、判断)にいのちを与え、体の肢体を生かし(ローマ人への手紙八章十一節)、それらを通して完全な最高の御旨を実現することができます。

これが実現されるには、「霊」から「魂」を切り離すというヘブル人への手紙四章十二節に描写されている神の取り扱いの消極面だけでなく、テサロニケ人への第一の手紙五章二三節に描写されている積極面も、信者は理解しなければなりません。平和の神は、霊を所有し、霊を通して働き、魂と体がその適正な機能を果たすよう配慮することにより、すべてを「聖別」されます。

「主に結合される人は、主と一つ霊です」(コリント人への第一の手紙六章十七節)と使徒は記しました。「あなたがたもキリストの体を通して、律法に対して死に渡されました。それは、あなたがたが別の方、すなわち、死人の中から復活させられた方に結合されるためです」(ローマ人への手紙七章四節、改訂訳)。ここで、霊におけるキリストとの「結合」、合一がはっきりと述べられています。この「結合」、合一は、十字架の働きの目的であり、結果です。復活・昇天した主とのこの合一は、ただの中でのみ可能であり、信者の霊が魂の覆いから分離される時、経験上実現されます。なぜなら、ストックマイヤーが述べているように、復活した主はの花婿とは言えないからです。人の人格である魂は、主がご自身のいのちを現すための器でしかありえません。主は信者の霊と結合して「神のために実を結びます」。

ですから霊の人は、神の御言葉による魂と霊の切断を通して、「魂」の束縛から霊を解放された人です。ブロムレーは一七七四年にこう記しました、「信者の霊は、その覆いから引き上げられて、本質の合一、霊と霊の合一、一つ霊によって主に結合された。これにより、魂と体は信者を通して、主ご自身の御旨、いのち、愛を表すための媒体として仕えることができる」。

この光により、ガラテヤ人への手紙五章十八~二四節に記されている「肉」の「働き」と「御霊」の「」の対比が、とても際立ったものとなります。「肉」は働いて、その忌まわしい現れを表に現し出します。しかし、ローマ人への手紙第六章のカルバリの面(肉の磔殺)と、神の御言葉による魂の霊からの切断を知る人の内で、主に結合された霊は(実の形による、いのちの自然な現れ)を結びます。この実は、魂(人格)において、また魂を通して、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制といった様々な形で現されます。

御霊の「実」の一つとして述べられている「自制」という言葉からわかるように、神の霊は人の「自己」(人格、「魂」)を治める手段として使われます。ですから、自己や魂を意味する人格は、破壊・抑圧されるべきではなく、内住するキリストの霊を表現する媒体となるよう高められるべきです。つまり、「愛、喜び、平和」といった「御霊の実」は、魂のいのちから発するのではなく、人の霊の中の聖霊から発して、「魂」を通して現された愛を意味するのです。

霊からいのちを得ている「魂」には、様々な活動機能があります。聖書には、それらの機能を描写している節がたくさんあります。

「霊の中で燃え」(ローマ人への手紙十二章十一節)
信仰の霊」(コリント人への第二の手紙四章十三節)
「霊にある」(コロサイ人への手紙一章八節)

これらはみな、人の魂(人格)の通路を通して現された霊の活動です。人の知性を通して「知恵」が現され、人の意志を通して「決意」が現され、人の愛情の部分を通して「愛」が現され、人の感情を通して「喜び」が現されます。これらはみな、人の霊の永遠の深みから発するのであって、人の感覚だけから発するのではありません。

霊のいのちの法則

この段階で、霊のいのちの法則と、霊にしたがって歩む方法を、信者は学ばなければなりません。これはとても重要です。これらのことを学ぶなら、聖霊に協力しそこなうことや、サタンの欺く霊どもに機会を与えることはないでしょう。サタンの欺く霊どもは、真の霊のいのちの偽物を魂の領域に造り上げて、信者を欺こうとします。信者はこの偽物に気がつきません。彼らの狙いは、信者をおびき寄せて、無意識の内に再び魂の領域の中を歩ませることだからです。霊を魂から解放されて「切り離された」霊の人は、魂や体によってではなく、によって歩み、によって支配されている人です。しかしこれは、霊の人は二度と魂のいのちに巻き込まれることはありえない、ということではありません。霊の人でも、霊の法則を知らず、霊に治めさせることに失敗するなら、再び魂のいのちに巻き込まれるでしょう。何がからなのかを識別する方法、霊を自由に保ち、神の霊に開き続ける方法、絶えず聖霊と協力するのに必要な条件を、霊の人は学ばなければなりません。霊の人は、悪霊どもの攻撃を見抜いて、対処できなくてはなりません。悪霊どもは、霊の人の霊を攻撃して、神との交わりを妨げようとします。あるいは、霊の機能を麻痺させ、受動的にさせて、霊を魂に追いやろうとします。これに失敗すると、悪霊どもは霊の人の霊を過度の活動に駆り立てようとします。その狙いは、自分たちの攻撃に対する絶え間ない抵抗を阻止して、妨害することです。

霊にしたがって歩むには次のことが必要です。(1)信者は何が霊なのかを学ばなければなりません。そして、霊の要求に注意を払って霊を消さない方法を学ばなければなりません。例として、霊を圧迫されている人を考えましょう。その人は圧迫に耐えながら仕事を続けます。仕事は困難ですが、その原因を調べている時間はありません。圧迫が耐えられなくなるに及んで、その人は問題を突き止めざるをえなくなります。しかし、その人は最初に霊の要求に注意を払い、短い祈りで神に「重荷」を渡し、敵からのあらゆる圧力を退けるべきだったのです。

(2)信者は自分の霊を識別できなくてはなりません。そして、自分の霊が聖霊と協力していない時、直ちにそれを見抜き、霊を神との交わりの静けさから引き離しつつある攻撃を、すべて急いで退けなければなりません。

(3)信者は、悪霊どもの毒が自分の霊に触れた時、それを見抜かなければなりません。敵は、悲しみ、悪意、不平、ぐち、あらさがし、短気、苦々しさ、傷心、嫉妬などを、信者のに直接注入します。信者は、自分の霊の中に注入された、悲しみ、憂鬱、ぐちに抵抗するべきです。なぜなら、解放された霊の勝利の生活は、喜びを意味するからです(ガラテヤ人への手紙五章二二節)。信者が霊にしたがった生活を送っている場合、今あげた様々なものが霊に触れたとしても、それは「肉の働き」の現れではありません。しかし、信者がそれらを見抜いて、直ちに拒否・抵抗して対処しないなら、それらはすぐに肉の領域に達してしまいます

(4)信者は、自分の霊がいつ魂と体を支配する正しい地位にあるのか、知らなければなりません。戦いや情勢といった緊急事態の時でも、霊を酷使してはなりません。以下は霊の三つの状態であり、信者はそれらを識別して対処できなくてはなりません。

(a)抑圧され、打ち砕かれ、「ダウン」した霊
(b)正しい地位にあって、静穏に治めている霊
(c)「静けさ」から引き離され、緊張状態にある、駆り立てられている霊

人が霊にしたがって歩み、これらの状態を識別するなら、霊が抑圧されている時、それを「引き上げる」方法がわかります。また、過度の熱心さや霊の敵の圧迫により、霊が静けさから引き離されている時、意志の穏やかな働きにより、その行き過ぎを抑制する方法がわかります。

人の霊は電球のようです。神の霊と接触しているとき、それは光に満ちます。しかし、神から離れているとき、それは暗闇です。人の霊には神が内住しています。「人の霊は主のともしびである」(箴言二〇章二七節)。また、人の霊はゴムのようです。縛られたり、圧迫されたり、加重がかかったりすると、それは動くのをやめ、力をたくわえ、「跳ね上がり」ます。圧迫を感じたら、その圧迫が何か突き止めなければなりません。「圧迫されているのはあなたの体ですか?」と尋ねられるなら、おそらくその人は、「違います。内側が縛られているのを感じます」と言うでしょう。それでは、「縛られ」、「圧迫されている」のは何でしょう?それは霊ではないでしょうか?霊は、圧縮されるか、膨張するかです。霊は、縛られているか、自由であるかです。人の霊がその可能性や潜在力を発揮するのは、それがキリストに結合され、聖霊によって強められて、「暗闇の軍勢に立ち向かう」時だけです。*

* 霊にしたがった歩みのこの面に関するさらに十分な洞察については、「聖徒と戦い」をご覧ください。この部分は「聖徒と戦い」からの抜粋です。

霊の人はキリストにあって「完全に成長」している

使徒の描写によると、「霊の」人はキリストにあって「完全に成長した」人でもあります。コリント人への第一の手紙には、霊的な信者と肉的な信者の鮮やかな対比が描かれています。肉的な――肉の――信者は、福音の最も初歩的な要素である「乳」で養われることしかできません。それに対して、「完全に成長した」「霊の」人は、「神の深い事柄」を受け入れることができます。「私たちがそれらの事柄を語るのは、人の知恵が教える言葉によってではなく、御霊が教える言葉によってであり、霊の事柄――これは真理のことではなく、地上の物質と同じくらい現実的な事柄、事実、実体です――を霊の人に解き明かすのです」(コリント人への第一の手紙二章十、十三節、改訂訳欄外)。

また、使徒が明らかにしているように、「魂的な人」「魂の人」は、肉的な「キリストにある幼子」と同じように、御霊に属するこれらの「事柄」を受け入れることができません(コリント人への第一の手紙二章十四節)。なぜなら、魂的な知性や知恵にとって、それらは愚かに見えるからです。「霊的な」人たちだけがそれらを識別して、確かめることができます。それらは、物質的な事柄と同じように、実際に「確かめる」ことができるのです!「霊の」人は「すべての事柄を確かめます」。なぜなら、霊の人は聖霊によって、すべての事柄の内なる霊的起源を見抜き、感覚や視覚の覆いを貫いて、すべての事柄の背後にある霊的真実に至ることができるからです。しかし、「魂の」人は天然的な知性しか用いることができないため、知性の及ばない領域には至れません。魂の人は、すべての事柄を「天然的な」領域の中で確かめられるだけで、それ以上進めないのです!

『霊の人』は理解力において成熟している」と使徒は記しています。パウロの手紙の中の、「霊の」人と「完全に成長した」人に関する節を全部注意深く調べるなら、どうして信者の内で魂と霊を切り離すことが、「霊的な」段階、「完全に成長した」段階に至る条件なのかがわかります。「完全に成長した」段階は、知識、教え、霊の事柄を見分けることと、何度も関係づけられています。それらはみな、魂と関係があります。

使徒は手紙の中で次のように記しています。

「私たちは『完全に成長した人』の間では知恵を語ります。」
(コリント人への第一の手紙二章六節、改訂訳欄外)
思いにおいて子供であってはなりません。
 思いでは成熟していなさい。」
(コリント人への第一の手紙十四章二〇節、改訂訳欄外)
「私たちは知恵を尽くしてすべての人を教えています。
 それは、完全な人をささげるためです。」
(コロサイ人への手紙一章二八節。同じギリシャ語が「完全に成長した」と訳されています)
「固い食物は完全に成長した人たちのためです。彼らは訓練の結果、
 その機能が活用されて、善悪を識別することができるのです。」
(ヘブル人への手紙五章十四節、改訂訳)
「こういうわけで、完全な人*はみな、この思いを持とうではありませんか。」
(ピリピ人への手紙三章十五節)
* 「理解力において成熟した」。「完全」は「幼子」の対句です。コリント人への第一の手紙二章六節の「完全に成長した」と同じギリシャ語。

パウロはコロサイ人のために、「どうかあなたがたが、あらゆる霊的知恵と理解力によって、神の御旨の知識で満たされますように」(コロサイ人への手紙一章九節)と祈っています。また、あやまちに陥った兄弟を回復するよう命じられているのは「霊の」人です。なぜなら、霊の人だけが天的な知恵を用いることができるからです。あやまちに陥っている兄弟を優しく愛する一方で、神の観点から忠実に罪を対処するには、天的な知恵が必要です。*

* ガラテヤ人への手紙六章一節

使徒はまた、「ついにわたしたちはみな、信仰の一と神の御子を知る知識の一に到達し、一人の完全に成長した人になって、キリストの豊満の身の丈の度量にまで到達します」(エペソ人への手紙四章十三節、改訂訳)とエペソ人に書いています。ここで再び、知識が完全な成長とキリストの豊満に関連づけられています!「信仰の一」は、キリストの奥義的からだの特徴であるべきであり、その「豊満の身の丈」をもたらします。しかし、個々の肢体が完全に成長した段階に到達して「霊の」人にならないかぎり、「信仰の一」が現されることはありえません。そしてまた、魂と霊の分離がなされないかぎり、各肢体はそのように「霊的」になれません。魂と霊が切り離される時、霊は復活の主に完全に結合されます。そして、知性などの機能を持つ「魂の器」は、最初のアダムの劣ったいのちからではなく、神意識の領域から、霊によって力づけられ、支配されます。

霊の人は「愛において完全にされる」

この「完全」(「完璧」)という言葉は、コリント人への第一の手紙二章六節では、「完全に成長した」(改訂訳欄外)と訳されています。パウロはこの言葉を頻繁に知性や知識と関係づけていますが、使徒ヨハネは愛と関係づけています。彼は、信者が「愛において完全にされる」ことについて語り(ヨハネ第一の手紙四章十八節)、どのように「完全な愛が恐れを締め出し」、「完全にされた愛」が「裁きの日に大胆さ」を与えるのかについて告げます。ですから、ヨハネの手紙によると、「霊の」人とは、魂の愛情を神の愛で完全に満たされている人であり、霊の中に住んでいる方から流れる愛で全く完全に満たされている人です。「神は私たちの内に住んでおられ、そして神の愛が私たちの内に『全うされ』るのです」と使徒は記しています。魂の器は神の愛で完全に満たされるため、それは神の愛に関してその度量・容量の限界まで「完璧」であり、「恐れ」の入り込む隙間や余地はありません。

信者の霊の中に住んでいる方の神聖な愛は、魂の器を通して自由に流れることができます。しかし、ヨハネが言っているのは、その事実以上のことです。実はヨハネは、霊の人の御霊による生活、すなわち、「神意識」の領域の中に生きてその中に住むことが何を意味するのかを描写しているのです。「神は愛です。愛の中に住んでいる人は神の中に住んでおり、神もその人の中に住んでおられます」(ヨハネ第一の手紙四章十六節)。愛の霊によって生き、それによって歩む「霊の人」は、このように「神の中に住んで」います。もし「恐れ」や「憎しみ」が入り込むなら、その人は魂の領域に下って天然的な魂のいのちの要素を大目に見ていたか、あるいは、悪霊どもの攻撃によって霊の中で神と協力するのをやめていたのです。これに気づいたら、直ちに十字架に行き、魂的な要素を十字架の分離する力に渡さなければなりません。また、神に向かってそれを「」と呼び、ヨハネ第一の手紙一章七節にしたがって血潮の清めの適用を求めなければなりません。それと同時に、暗闇の軍勢に抵抗し、再び「神のすべての武具」を取って、勝利しなければなりません。

霊の人は「全うされて」すべての信者と「一つになる」

「霊の人」は全うされて、キリストにある他の人々と一つ霊となります。コリント人への第一の手紙二章六節で使われている「全うされる」という言葉を、主イエスも大祭司の祈りの中で用いて、ご自身が贖った者たちの合一を描写されました。その合一を可能にするために十字架へ行く前の晩、これが彼の心の中に負担としてありました。「父よ、あなたがわたしの中におられ、わたしがあなたの中にいるように、彼らもわたしたちの中にいるためです。(中略)それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つとなるためです。わたしが彼らの中におり、あなたがわたしの中におられるのは、彼らが全うされて一つとなるためです」(ヨハネによる福音書十七章二一~二三節、改訂訳)。御父と御子の間に存在する本質的結合(霊と霊による本質の結合)が、神にある信者同士を結び合わせます。主の御言葉は明白です、「わたしたち一つであるように、彼らも一つとなるためです!」。御父と御子は完全(完璧)に一つであり、聖霊によって信者の霊の中に住んでおられます。ですから必然的に、この同じ霊の結合が信者の間にも存在することになります。「霊の」人は、愛なる神にあってキリストと一つであるだけでなく、他の人々の中に住んでおられる神とも一つなのです。ですから、(1)分裂、(2)えこひいき(ヤコブの手紙三章十七節、改訂訳)、(3)党派心(ガラテヤ人への手紙五章二〇節、改訂訳)として現れる天然の魂のいのちを少しでも大目に見るなら、信者は神の中に十分に住むことはできません。

霊の人は「光の中を歩む」

再び、使徒ヨハネは「霊の」人について記します、「神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、私たちは互いに交わりを持ち、御子イエス・キリストの血は、すべての罪から私たちを清めます」(ヨハネ第一の手紙一章七節)。光の中を歩めるのは、神意識の領域(神が内住している霊)の中に生きる人だけです。魂の領域に下ることは、光なる方と結合されている「霊」を、不透明な器の中に沈めるようなものです。そんなことをすれば、霊の光は曇り、さえぎられてしまいます。光なる神の中に住んでいる信者は、光の中に住み、光の中を歩みます。そして、その光の中で神と交わり、光の中に住んでいる他の人々と交わります。「魂のいのち」の侵入により、また周囲の世の罪との接触から、罪は光の中に住んでいる信者に無意識のうちに触れるかもしれませんが、イエスの血はすべての知られざる罪から絶えず清め続けます。*

* 違反による既知の罪に対しては、ヨハネ第一の手紙一章九節がその解決策です。

「神は光であって、神の中には少しの暗闇もありません」*。「自分の兄弟を愛する者は、光の中に住んでいます**。これは、使徒パウロが記している、昇天のいのち、キリストと共に神の中に隠されているいのち***です。主イエスは、エルサレムの二階の部屋で別れの言葉を語った時、弟子たちにこのいのちについて話されました。そしてペンテコステの日に、弟子たちはこのいのちを聖霊によって実際に経験しました。その時、栄光を受けたイエスの霊が彼らの霊の中に入り、彼らは魂の領域の中から引き上げられて、栄光の主と霊的に一つとされました。彼らは主の中に住み、主は彼らの中に住まわれました。それゆえ、「世」は信じました。世の人々は、御霊に満たされた群れの一つを見ました。その群れは「愛において完全にされ」、あらゆる「恐れ」を取り除かれました。彼らは光の中を歩んでいたため、アナニヤが見せたような罪深い利己主義は彼らの間に存在することを許されませんでした****。世の人々はこれを見ました。

* ヨハネ第一の手紙一章五節(訳注)
** ヨハネ第一の手紙二章十節(訳注)
*** コロサイ人への手紙三章三節(訳注)
**** 使徒の働き五章一~十一節(訳注)

キリストのからだのすべての肢体は、このように「霊的」になって、復活の主との合一により、自分のいるべき所に調整され(全うされ)なければなりません。これは、キリストとその教会にとって、大きな意味を持っています。これらすべてに関する光により、「魂」と「霊」の違いを信者が理解する重要性は、どんなに高く評価しても評価しすぎることはありません。なぜなら、信者が成長して完全な「霊の」人になること、すなわち、自分の霊を理解して霊の事柄を識別・確認できる人になることは、感覚意識の中で「肉にしたがって」生きるのをやめることにかかっているからです。魂や体の支配から完全に霊を解放されることによって全く聖別され、三位一体の神によって内住されている人、そして自分の達したところにしたがって歩んでいる人は、さらなる「完全」(完成)を目指して進みます(ピリピ人への手紙三章十五、十六節)。

最初の新生の段階からキリストのいのちの中で完全に成長するまで、どれくらい時間がかかるのかは明言できません。使徒がコリント人に用いた言葉と、ヘブル人への手紙の著者が用いた言葉は、多くの人がかなり長い間「依然として肉的な」幼子の段階にとどまっていたことを責めています。彼らは、他の「幼子たち」を完全な成長に導く教師になっていなければならなかったにもかかわらず、霊のいのちが弱かったため、まだ乳を必要としていました。明らかに、幼子の段階は長引くことも、早く終わることもありえます。この段階を通常の時間で計る必要はありません。おそらく、幼子の段階が長引くか早く終わるかは、信者が理解した真理の程度と、信者の知識・自己放棄の程度によるのでしょう。いずれにせよ、信者の姿勢が成長と大きく関わっていることを、ヘブル人への手紙の著者の言葉は明らかにしています。彼は、「あなたがたは『耳が鈍くなっており』、福音の初歩をもう一度教わる必要があるのです」と言って非難したばかりの人々に、「キリストについての初歩の言葉を後にして、完全な成長を目指して進もうではありませんか」(ヘブル人への手紙六章一節、改訂訳)と書き送りました。この言葉は、パウロがピリピ人への手紙第三章で記した言葉とほぼ同じです。その章でパウロは、自分がひたすら前進していたことを告げています。彼は、「すでに完全にされている」とは思っていませんでしたが、「私たち完全な(完璧な、完全に成長した)者は………」と言うことができました。彼はこのような思いで、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の目標に向かって前進していたのです。

霊の人と「霊の体」

コリント人への第一の手紙十五章四四節に述べられている「霊の」体は、これまで考えてきた霊的段階の論理的帰結です。信者は復活のとき、この霊の体を着せられるでしょう。使徒は、「霊のものが最初ではなく、天然のものが最初であり、それから霊のものが来ます」(四六節)と記しています。キリストにある幼子は、「依然として肉的」ですが、ローマ人への手紙第六章を理解することにより、肉にしたがって歩むことをやめ、御霊にしたがって歩むようになります。そのとき、彼は「魂と霊の切り分け」を理解して、「霊の人」になります。思いは新しくされ、魂と体は神がご自身を現す媒体となります。今、三部分からなる人の本来の序列が回復されます。すなわち、

解放された霊(神意識の座)の中で、
器である魂(自己意識の座)と
しもべである体(感覚意識の座)により、聖霊が支配されます。

今、その人は真に「霊的」です。あるいはもっと乱暴に、「その人は『魂』の器の中に住む『霊』であり、肉体という死ぬべき『体』の中に閉じ込められている」と言ってもいいでしょう。主が天から現れる時、体は完全に贖われます。パウロはこれを次のようにはっきりと述べました。

「私たち自身も、うめきながら、子としていただくこと、
 すなわち、私たちの体の贖いを待ち望んでいます。」
(ローマ人への手紙八章二三節)
「私たちは救い主、主イエス・キリストを待ち望んでいます。
 キリストは私たちの卑しい体を変貌させ、
 ご自身の栄光の体に同形化してくださいます。」
(ピリピ人への手紙三章二〇、二一節)
「私たちは上からの住まいを着せられるでしょう。
 それは死ぬべきものが、いのちによって飲み尽くされるためです。」
(コリント人への第二の手紙五章四節)

ですから、体はまだ「天然の」体であり、死ぬべき体であり、土の器(コリント人への第二の手紙四章七節)です。それは、死んで地に蒔かれるまで、あるいは、主が来られる時、たちまちのうちに変えられるまで、「霊の体」に復活させられることはありません。

しかし、日々聖霊の支配の下に生きる「霊の」人は、来たるべき体の贖いをますます「切望」するようになります。なぜなら、霊の人が御霊によって歩む時、ローマ人への手紙八章十一節にしたがって、体はいのちを与える霊の力にあずかるからです。「もしイエスを死人の中から復活させた方の霊が、あなたがたの中に住んでいるなら、キリスト・イエスを死人の中から復活させた方は、あなたがたの中に住んでいる彼の霊のゆえに、あなたがたの死ぬべき体をも生かしてくださいます」(改訂訳欄外)。天然の魂のいのちを十字架の力によって絶えず「失う」時だけ(マタイによる福音書十六章二四~二六節)、「死ぬべき体を生かす」この実際の力を、「イエスを死人の中から復活させた」御父のまさに同じ霊によって、信者は知ることができます。なぜなら、いのちを与える霊が魂と体に自由に力を与える時だけ、死ぬべき体は聖霊によって生かしてもらえるからです。

コリント人への第二の手紙四章十~十二節の使徒の示唆的な言葉は、信者の生活のこの段階と関係があります。魂の容量や機能を用いて、聖霊から流れ込む霊のいのちを得るには、魂のいのちが「失われ」なければならないように、「得る」ために「失う」というこの同じ原則が、死ぬべき体にも働かなければなりません。ですから、こう記されています、「いつもイエスの死をこの体に帯びていますが、それはイエスのいのちが私たちの体において現されるためです」。

天の大祭司は霊の剣で魂と霊を切り離されます。信者がこの働きに自分を明け渡すとき、魂を生かす肉のいのちは次第に失われ、御霊のいのちが流れるようになります。それと同じように、信者が十字架の道を歩み続け、「苦しめられ、途方にくれ、迫害され、打ち倒され」、「耐えられないほどの圧迫を受けて、生きる望みを失う」(コリント人への第二の手紙一章八、九節)とき、「イエスの死」が死ぬべき体に継続的に縫い込まれます。それは信者が、死人を復活させる神に信頼し、「イエスのいのち」を現すためです。イエスのいのちは死ぬべき体を支え、生かします。イエスのいのちを「得る」ために、このようにいのちを「失う」ことは、信者が主を知ることを求め続けるとき、聖霊によって実現されます。使徒は次のように記しています、「私たち生きている者は、絶えず死に渡されています。それは、イエスのいのちが、私たちの死ぬべき体において現されるためです。こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです」*

* コリント人への第二の手紙四章十一、十二節(訳注)

「死ぬべき体」にとって、これは苦痛です。しかし、これらの神の深い事柄を「確かめ」られる「霊の」人には、次のことがわかります。すなわち、その死と生の内なる働きは、主とその民にとって、決定的に重要な二つの結果を意味するのです。

1.イエスのいのちが、霊の宮から魂の諸部分を通して自由に流れ、圧倒的な力で「死ぬべき体」を生かすとき、それは信者自身にとってだけでなく、他の人々にとってもいのちを意味します。生ける水の川々の約束の中で主が描写されたように、このいのちはキリストの全教会を生かすいのちです。

2.死ぬべき体がこのように生かされることは、「御霊の保証」です。体はこの保証により、「死ぬべきものがいのちによって飲み尽くされる」時のために備えられつつあります。使徒は、「まさにこの事のために、私たちに働いてくださった方は神です。神は私たちに御霊の保証を下さいました」(コリント人への第二の手紙五章四、五節)とさえ書いています。

霊の人が直面する危険

真に「霊的」になった信者、すなわち霊によって魂と体を治めている信者は、戦いの領域を出たわけではありません。むしろ、エペソ人への手紙六章十~十八節に記されているように、いっそう難しい戦いの段階に入ったのです。エペソ人への手紙二章六節では、その人は「キリストと共に天上に座らされて」いると述べられています。しかし後の所では、彼が「高きところ」にいる悪霊の軍勢と「格闘」している様子が描かれています。彼は特に、悪魔の「策略」に立ち向かわなければなりません。

これからわかるように、戦いの中にある霊的な信者は、おもに霊の敵の巧妙な霊的策略に対して警戒しなければならないのです。敵は霊的な信者を、ガラテヤ人への手紙五章十七節に描写されている肉と霊の戦いよりも、霊の領域に関する事柄に巻き込もうとします。

戦いのこの局面における暗闇の軍勢の策略は、霊の人を霊にしたがってではなく、ある程度魂にしたがって歩ませること、すなわち、神の聖霊と協力している霊によってではなく、感覚領域の中にある事柄によって歩ませることに、おもに向けられています。

サタンの欺く霊どもは、人の霊の偽物を魂の領域に造り上げることができます。霊的な信者はこれを理解しなければなりません。これは重要です。欺く霊どもは、策略を用いて外なる人に接触することにより、次に霊からではない動きをその人の中に生じさせることにより、これを行います。このような動きは霊的に見えるかもしれませんが、いったん主導権を握ると、真の霊の動きを封じて圧倒するほど強くなります。もし信者がこのような敵の戦略を知らないなら、たやすく真の霊の動きを棄ててしまうでしょう。「霊にしたがって歩んでいる」つもりなのですが、霊的な感覚の偽物にしたがっているのです。

真の霊の動きがやむ時、「神は今、新しくされた思いを通して導いておられます」と悪霊どもはほのめかすかもしれません。これは、悪霊どもの偽りの働きと、人が霊を用いていないことを隠すためのたくらみです。それと同時に偽りの光が思いを照らし、続いて偽りの推論や判断などが生じます。その人は、「自分は神からの光を持っている」と思います。なぜなら、自分が「霊にしたがって歩む」ことをやめてしまったこと、そして今、天然的な思いにしたがって歩んでいることに、気づいていないからです。

霊の人が直面するもう一つの危険は、肉(体)にしたがって歩ませようとする、サタンの欺く霊どもの巧妙なたくらみです。欺く霊どもは、人が「霊的」だと思う感覚を体の中に生じさせることにより、「自分はなおも霊にしたがって歩んでいる」という確信をもって、人を肉にしたがって歩ませようとします。これらの策略を打ち破るには、信者は次のことを理解しなければなりません。すなわち、超自然的事柄を知覚するあらゆる肉体感覚だけでなく、通常の事柄を知覚する過度の肉体感覚をも拒まなければならないのです。なぜなら、両方とも思いを「霊にしたがって歩むこと」から逸らして、肉体的な感覚に向かわせるからです。過度の肉体感覚は、精神集中を絶えず邪魔する妨げでもあります。敵は、霊的な信者の「肉体感覚」を「攻撃」することによって、精神の集中を乱し、霊を覆おうとします。ですから、体を平静に保たなければなりませんし、完全な統制の下に置かなければなりません。この理由により、過度の笑いや、精神と霊を支配するまでに肉体のいのちを高揚させる「衝動的行動」は、すべて避けなければなりません。「霊的」になって神のいのちの中で「成熟」することを願う信者は、あらゆることで行き過ぎ、不節制、極端を避けなければなりません。(コリント人への第一の手紙九章二五~二七節参照)

人の肉体的部分が支配して、人が体に感じる超自然的経験を誤解するとき、体は霊の働きをさせられる羽目になります。そして、体は真の霊の動きを抑圧する最悪の立場に無理矢理置かれることになります。このような状況のもと、は圧迫を感じ、葛藤を感じます。こうして、精神と霊の代わりに、体が「感覚」となります。信者は、真の霊の感覚を識別することを学ばなければなりませんし、それを見分ける方法を知らなければなりません。霊の感覚は、感情的(魂的)な感覚や肉体的な感覚ではありません。(マルコによる福音書八章十二節、ヨハネによる福音書十三章二一節、使徒の働き十八章五節などを参照)*

* マルコによる福音書八章十二節「イエスは霊の中で深くうめいて言われた」。ヨハネによる福音書十三章二一節「イエスはこれらの事を言い終えると、霊の中で騒ぎ、証しして言われた」。使徒の働き十八章五節「パウロは霊の中で迫られて」(欽定訳、訳注)

信者の多くは、無知のせいで、「霊にしたがって歩んでいる」と感じつつ、「魂にしたがって」、すなわち思いや感情にしたがって歩んでいます。信者は活気に満ちた霊の力を奪われています。悪魔の軍勢は、あらゆる策略を用いて信者をおびき寄せ、魂や体によって生きさせようとします。悪魔の軍勢は、閃く幻を心に見せたり、祈りのとき思いに出現したり、強烈な喜びや生命の躍動感を体に与えたりします。

外から与えられる超自然的現象や感覚領域の経験に頼ることは、内側の霊のいのちを妨げます。感覚による「経験」というエサにより、霊の真実な領域に生きる代わりに体の外側の領域に生きるよう、信者はおびき寄せられてしまいます。そのとき信者は、自分の中心から行動することをやめ、自分の周辺領域で外側の超自然的働きに捕らえられ、無意識のうちに内側で神と協力することをやめてしまいます。そして、霊の敵と戦う聖霊の器官である霊は、機能停止に陥り、黙殺されてしまいます。なぜなら、その信者は感覚的経験に満たされているからです。その結果、霊は事実上、導く働きをやめてしまいますし、奉仕や戦いの力を与える働きもやめてしまいます。

聖霊と協力せずに働く人の霊から、深刻な危険が生じます。霊が魂から「切り離されて」支配的になるとき、霊は欺く霊どもの影響を全く別の方法で受けるようになります。前に示したいずれかの方法により、あるいは他の方法により、(無意識のうちに)聖霊と協力するのをやめてしまった人のことを考えましょう。その人はなおも自分の霊によって導かれており、「自分の力強い霊は神の力の証拠である」と考えます。なぜなら、他の方面で聖霊が自分を用いて魂を勝ち取られるのを、その人は見るからです。このような幻想のもと、その人の霊の中に怒りが込み上げてくるかもしれません。その人は、その怒りは全く神からのものであると考えて、怒りをぶちまけます。しかし、真の識別力を持つ他の人々は、明らかに神からではない荒々しい調子に気づきます。祈る人が警戒していなければ、語る時だけでなく、戦いの時にも、このようなことがすぐに起きてしまうでしょう。悪魔的な力は、直接的に、または魂的な感情を通して、霊に影響を及ぼします。

悪霊は人自身の内に働く神の働きを真似します。人が聖霊と協力していない時、人の霊は悪霊の影響を受けます。神と共に歩むことを求める信者は、この影響を理解する必要がありますし、察知する必要があります。霊的だからこそ、信者の「霊」は霊の領域の二つの力に対して開かれているのです。信者はこれを知る必要があります。もし「霊の領域で自分に影響を及ぼせるのは、聖霊だけである」と考えるなら、確実に誤りに導かれるでしょう。もしそうなら、信者は絶対に間違いを犯さなくなるはずです。しかし、信者は目をさまして祈る必要がありますし、神の真の働きを偽物から区別するために、理解力の照らしを求める必要があるのです。

「霊的」な信者は、エペソ人への手紙第六章に記されている天的戦いの啓示を、深く熟慮しなければなりません。そして、「神のすべての武具」の経験的な意味を完全に知るよう努めなければなりません。敵の猛攻の「邪悪な日」に際して、信者は神のすべての武具を「取り」、用いなければなりません。

この現在の時における神の霊の負担は、キリストのからだの肢体を完成させること、完全に成熟させることです。それは、キリストの再来が速やかに起きて、キリストとその共同の相続人たちの千年間の統治が実現されるためです。こうして、世界は平和になり、サタンは敗北します。サタンは穴に投げ込まれ、この世の王国は主とそのキリストの王国となります。

「主イエスよ、速やかに来てください。アーメン」

解放された!イエスにあって解放された!
我らは主の死の中に深く植えられた。
主はいのちの力を解放し、
主の霊の息を息吹かれる。
その時、復活のいのちの力により、
我らは霊の中で強められ、
魂と体を治め、
体の肢体は争いをやめる。

解放された!イエスにあって解放された!
我らは復活の主に結合された。
戦いの祈りであなたは勝利し、
主の勝利を宣言する。
主の栄光の自由により解放され、
暗闇の軍勢を超越する。
罪と死の法則は今や、
主のいのちによって征服される。

M.M.