第二章 今日世界が直面している諸問題

ジェシー・ペン-ルイス

前号掲載した小論文「魂の力対霊の力」に関して、手紙が数通寄せられました。ある牧者はその画期的重要性を評価してくださいました。また、他の人々は自分の経験を証しして、記事の内容を確証してくださいました。彼らは、今日増大しつつある悪魔的活動が、世界を聖書が予言している大艱難の時代へと向かわせつつあることを、はっきりと示してくださいました。

しかし、私は、「魂の力」の意味について、そして今日促進されつつある魂の力がなぜ神の子供にとって危険なのか、もう少し詳しく説明するよう求められました。「魂の力」は何から成り立っているのでしょう?また、どうして「魂の力」が今日出現して、神の真理に対する戦いの最後の大きな局面で、暗闇の軍勢によって用いられているのでしょう?これらの問いに答えるには、まず最初に聖書に行く必要があります。そして、神の霊の照らしの下で、聖書が「魂と霊」の主題に関して何を教えているのかを見る必要があります。

「魂」(プシュケ、psuche)とは何か、そして霊と体に対する魂の関係について、アンドリュー・マーレーは明快な説明を与えています。人は(1)霊、(2)、(3)体から成り立っています。「は我々が神を意識する座であり、は自己を意識する座であり、は世界を意識する座である。(信者の)霊の中には神が住んでおられ、魂には自己が宿っており、体には感覚が宿っている……」。

の区別は非常に重要です。なぜなら、悪魔が神の子供たちさえも欺き、誤導することができるのは、この知識の欠如ためだからです。

聖書の中には、「魂と霊」が同義語であるかのように見える節がいくつかあります。しかし、クリスチャンがキリストの満ち満ちた身の丈に達して、「霊」が「魂」を貫くのを経験する時、この同義語的用法の理由が明らかになります。

キリストは、「神はですから、神を礼拝する人はの中で礼拝しなければなりません」と言われました。人はだれでも霊を持っています。しかし、堕落によって、人の霊は神から分離されました。人の「霊」は、神の光によって再び灯され、キリストのいのちの分与によって再生される必要があります。その時、人は再創造され、上から「生まれ」ます(ヨハネによる福音書三章三節欄外)。堕落以降、人の生まれながらの性質中に神の「輝き」はありません。あるのは、堕落して、再生もしくは新生を必要とする「霊」です

これが重要な点です。その重要性は学問的重要性を遙かに上回ります。ここで間違いを犯すなら、その結果は永遠にまで及びます。「堕落」の事実性と、キリストの身代わりの死による再生の必要性は、単なる人の「見解」の問題ではありません。これこそ、人類を神から生まれた人とそうでない人に二分する分水嶺です。これこそ、悪魔が関心を寄せている点であり、日の下のあらゆる「~主義」の根本問題です。

マーレーは、「『魂』は我々の『自己意識』の座である」と記しています。「魂は我々の道徳、知的能力、意識、自己決定、精神、意志を含む」「人は霊によって神とその御旨に結合される。アダムの堕落のとき、『魂』(自己)は霊に従うか、それとも体や目に見えるものの誘惑に従うのか、決定しなければならなかったのである」「堕落のとき、魂は霊の支配を拒み、体の奴隷となった。……こうして、魂は肉の支配に服し、人は『肉になった』と述べられている。それゆえ、魂のあらゆる属性は肉に属し、『肉の力の下』にある」。

この説明は、問題に対する明瞭な展望を与えます。生まれながらの人が「魂の力」を発達させて、それを行使することは、堕落した状態で、神から離れて、あらゆる「魂の属性」を発達させ、行使することを意味します。たとえそれが神の奉仕であるように見える場合でも、これは真実です。「魂の力」の源は魂(自己)にあり、霊――クリスチャンの霊は神が住まわれる場所です――にはありません。神の霊は、御旨を遂行するのに、人の生来の力を使われません。真に再生された信者は、これを事実として認識する必要があります。とはいえ、神は聖別された人の魂の能力を、神のいのちを現す媒体として使われます。

マーレーの次の厳粛な言葉から、この事実の重要性がわかります。「教会や個々の信者が恐れなければならない最大の危険は、精神や意志の力によって魂が過度に活動することである。多くの人の中で、魂は長い間支配してきた。そのため、キリストに服する時でさえ、『今こそ服従の働きを成し遂げなければならない』と魂は思い込むのである。この自己(魂)は非常に巧妙で強力なため、魂が神に仕えることを学ぶ時ですら、肉が依然として力をふるって、御霊だけに導かれることを拒むのである。宗教的であろうとする魂の努力もまた、大いなる敵であって、御霊を妨げ、消してしまう。……御霊によって始まったことが、非常に速やかに、肉に信頼する結果に終わってしまうのである」。

ここに、インドの特派員が記した、終末における世界の諸問題の意味を見ることができます。それは、パウロがガラテヤ人への手紙五章十七節で描写した昔ながらの戦いです。「肉の欲は御霊に逆らい、御霊は肉に逆らいます」。「肉の思いは神に対して反抗します」(ローマ人への手紙八章七節、参照コロサイ人への手紙一章二一節)。「肉」と「霊」は真っ向から対立しますし、今後も常にそうであり続けるでしょう。「肉」が「魂」の形を取って現される時、すなわち「肉」が生まれながらの人に固有の精神や意志などの力を通して現される時も、「肉」と「霊」は真っ向から対立します。これらは「肉の行い」として、次のように列挙されています。「偶像崇拝、魔術(魔法、コニーベア)、憎しみ、不和、騒乱異端」(ガラテヤ人への手紙五章十九~二一節)。これらの活動はみな、肉の力の下にある魂の力によります。

しかし今、個人の経験を離れて、世界の諸問題という観点からこれを見ることにしましょう。どうして、世界の争いが「魂(プシュケ、psuche)の力」対「霊(プネウマ、pneuma)の力」という問題になりつつある、と言えるのでしょう?この根本原因に関する光を得るには、エデンの悲劇に再び戻って、アダムの堕落の意味と、現在達成されつつある蛇の狙いを見る必要があります。なぜなら、堕落の結果の深刻さと悲劇について、そしてアダムと共に堕落したものについて、私たちはこれまで明確に理解していなかったからです。また、アダムが罪を犯す前に持っていた神から与えられた力が、堕落の後、誘惑者の手に渡ったことを、私たちは認識していなかったからです。

エバを誘惑するために使われた誘い文句は、「あなたは神のように(as God)なるでしょう」(創世記三章五節)でした。これは、アダムとエバが堕落する前に、神が二人に対して持っておられた御旨でした。創世記一章二六節の「似せて(likeness)」という言葉は、「似るようになることbecome like)」を意味するようです。これは、アダムを神の形に構成するために彼の中に息吹かれた素晴らしい潜在的な力は、ある過程を経て発達させられ、ついには万物に対する支配権という点で、『人を創造者に似た者』*とするはずだったことを示唆します。神だけが、これらの潜在的な力をただしく発達させ、ただしく人に用いさせることができました。しかし、その神がご自身の創造した素晴らしい人から追い出されなければならなかったとは、なんという悲劇でしょう。しかも、さらに恐ろしいことに、まさに神に由来する諸々の能力は、今や神の敵の手に渡ってしまったのです。

* E. McHardie 夫人による。

堕落のこの特別な面によって歴史の中に起きたことを、今は辿ることができません。聖書を見ると、神の敵と人がこれらの能力を使う方法を知っていたことを示唆する箇所や、異常な力を持つ「魔法使い」や「魔術師」が悪の力と結託していたことを示唆する箇所が、何度も出てきます。これらの箇所は、エデンにおけるサタンの狙いを完全に明らかにするために、私たちが生きている「終わりの時」のために取って置かれたのです。サタンの狙いは、地上に住むすべての人を支配することです。そして、聖書が告げるところによると、サタンは短い間、一人の超人(サタンは彼に異常な力を与えます)を通して、自分の狙いを達成することを許されるでしょう。ですから、「魂(プシュケ、psuche)の『力』が一丸となって、霊の『力』に反抗している」という言葉は、今日まさに真実なのです。なぜなら、世界が反キリストの支配を受け入れるようになるのは、人の堕落した魂の力を通してだからです。これは、一時の間、神が宇宙から排除されるであろうことを意味します。エデンにおいて、罪のない人に潜在的な力が与えられました。この潜在的な力は、適切に発達させられたなら、統治する力という点で人を「神のように(like God)」するはずでした。しかし、人は堕落しました。そして、神から与えられた潜在的な力も堕落して、敵の手に渡りました。今後、この潜在的な力はますます現れて、行使されるでしょう。そしてついには、堕落した状態にある人が「自分は『神のよう(like God)』である」と信じて、これらの力を悪魔の支配や促しの下で用いるようになるでしょう。心霊主義者たちはすでに、「これまで神に帰せられていた属性を、人はすべて持っている」と豪語しています。グラットン・ギネスは数年前、「背教は堕落したアダムのいのちを誤用する形を取るだろう」と記しました。

これは現在起きつつある出来事の上に驚くべき光を投じます。今日、信仰を告白するキリスト教会の指導者たちの間に、急速に背教が広がっています。これは、敵にそそのかされて、堕落した「魂の力」を使った結果です。別の方面における大きなテーマは「心理学」です。「心理学」は、死すべき人間がこれまで夢想だにしなかった「心」の力を「発見」しつつあります。そのため、人々は「教えの風に吹き回される子供のように、誤りに至らせる罠へと導かれて」(エペソ人への手紙四章十四節、コニーベア)います。彼らは、自分たちが悪魔の壮大な世界計画に荷担しているとは、少しも思っていません。

大いなる策略家であるサタンが、科学者、ビジネスマン、宗教家を捕らえるために考え出した計画については、別の論文で述べることにします。ここでは、その計画の骨子は、「心霊科学」の名の下で人を「自然現象」の「発見」に導くことだった、とだけ述べておきましょう。これらの発見のリストは、預言について記したある著者によって与えられています*。そのリストに、最近の発見も加えることができるでしょう。それらの発見は、霊の中にある素晴らしい神のいのちの偽物を、魂の領域の中に造り上げることができます。神のいのちを少しでも知っている人なら、これに驚かずにはいられないでしょう。今日、魂の力が発達させられつつあり、ますます用いられるようになっています。ここに神の子供たちが陥りかねない危険があります。真に「霊的」ではあるけれども、人の中にあるこれらの潜在的力について知らない神の子供たちは、この危険に注意しなければなりません。

* E. McHardie 夫人の小冊子「背教」