第四章 「子は自分からは何もすることができない」

ジェシー・ペン-ルイス

これは特別集会で語られたメッセージです。前の数章で述べた「魂」と「霊」の区別を、より簡単な言葉で示すため、特別にここに収録しました。

「魂の力」の意味は、「その源が魂にある力」として簡単に定義できます。そして、「霊の力」は「その源が霊にある力」として定義できます。魂は両者が働くための媒体です。魂の力は魂の機能を通して現され、同様に霊の力も魂の機能を通して現されます。これを大ざっぱに次のように説明しましょう。上から下に並んでいる三つの区分を描いてください。そして、上の区分に「霊」、真ん中の区分に「魂」、一番下の区分に「体」という印をつけてください。それから、「霊」から魂に下って外に出て行く矢印を描いてください。この矢印は、人の霊の中に住んでおられる聖霊を表します。聖霊は霊から魂に下り、魂の機能を通して働かれます。次に、「体」の区分から魂に上がり、魂の機能を通して外に出ていく矢印を描いてください。一番目の矢印は、神から来る霊の力です。それは魂を強めます。二番目の矢印は「魂の力」、肉から生じて魂に流れ込み、外に出て行く力です。「魂」は中央の区画であり、「霊」の力と「魂」の力両方の媒体です。どちらの力が働いているか知るには、その実を見るしかありません。(参照マタイによる福音書七章十六、十七節)

「魂の力」の源は魂にあります。もっと正確に言うと、それは聖書が「肉」と呼んでいる体のいのち、動物的ないのちから生じます。今日、私たちの先祖が夢想だにしなかった、大いなる「魂」の力が発見されつつあります。これらの力の源は「肉」にあり、「霊」にはありません。たとえそう見えない場合でも、これは真実です。なぜなら、内住する聖霊の力によって再生された霊が治めるようにならないかぎり、「魂」は肉の力の下にあるからです。聖霊は、魂の機能を治めて用いることを願っておられます。たとえば、魂の機能の一つである精神は、魂の力によって強められ、生かされるか、聖霊によって新しくされ、強められるかのいずれかです。

霊の領域の中にあるものを真似て、魂の領域の中に造り出された偽物―――これが今日の危険です。多くの人は無知のゆえに、魂の力を霊的だと思い、それを発達させて、行使しています。しかし、キリストが語られた御言葉が試金石です。彼は「人を生かすのは霊である」と語られました。あなたの霊を通して聖霊から来るものだけが、神に由来するのです。魂の中にある潜在的な力を神聖だと思っている人々もいますが、そうではありません。たとえば、「『癒しの賜物』はの内にあり、それを持つ人はその賜物を発達させる必要がある」と言う人々がいます。ある牧者は、「この力は『魂の力』と呼ばれることがある。……この力は、神にささげられる時、『聖霊の賜物』になる。……」と記しました。しかし、実際のところ、聖霊の真の賜物は霊なる神から人の霊を通して来るのであって、「魂」から来るのではありません。

また、「聖霊のバプテスマ」を受けた証拠としての「聖霊の現れ」を求めることに関しても、催眠術と同じような手法が導入され、こうして偽物がキリスト教会の中に入り込みました。他にも、自分の霊の中に聖霊の注入を受けているにもかかわらず、無知のせいで魂の潜在的な力を発達させてしまい、自分の生活や神のための奉仕の中に混ざりものを生じさせてしまった信者の例があります。たとえば、歌を何度も繰り返し歌うことは、集会を一種の催眠状態にもたらすことができます。このような状態にある人は、知的に判断したり、意志を用いて決断することができなくなります。

このように今日、魂の力の潮流が世界に押し寄せています。そして、悪鬼どもは自分たちの計画やたくらみを遂行しつつあります。「人を生かすのは霊であって、肉は何の役にも立ちません」。福音の宣べ伝え、教え、働きなどの奉仕に携わっている神の子供はみな、聖霊によって支配されているか、魂の力によって支配されているかのいずれかです。再生されたのは霊です―――「わたしはあなたたちに新しい霊を与える」。フォウセットは、「人の霊は聖霊が住まわれる宮であり、聖霊は人の霊を通して働かれる」と言いました。聖霊が人の霊の中に到来し、それを新しくして、そこに住まわれる時、聖霊は精神をも新しくして、魂の諸機能を治めてくださいます。霊によって歩んで、聖霊の働かれる条件を満たすなら、私たちはあらゆる行いにおいて「霊的」になることができます。聖霊が触れたものはすべて霊の証印を押され、すべての機能は変えられ、生かされ、高く上げられます。信者は「新しい人」になるだけでなく、自分の霊の中に神のいのちを持ちます。精神を新しくされることを通して、混乱した思いは過ぎ去り、精神は明瞭になります。

肉は何の役にも立ちません」。これは霊的な働きにおいて、なんと真実でしょう!もし、働きが魂の肉のいのちによってなされるなら、何の実も得られません。どんなに労苦しても、実は全く得られません!なぜなら、働いているのは、天然のいのちによって強められた「魂」だからです。それゆえ、「何の役にも立ちません」。さんざん苦労しても、全く成果はありません!「肉」が何の役にも立たない以上、魂の力もまた何の役にも立ちません。こう述べることは、聖書釈義的に全く正しいことです。

ヨハネによる福音書から、主の模範を見ることにしましょう。主は、ご自身とその力――主の場合、それは罪のない力でした――に対してどのような態度を取られたのでしょう?私たちの主は、「わたしの肉を食べ」「わたしの血を飲むこと」について語られました(ヨハネによる福音書六章五三~五八節)。弟子たちはこれを聞いて、「これはひどい言葉だ」と言いました。この主の御言葉は、「肉は何の役にも立たない」という霊的真理を理解することと関係していました。肉にとって、そして霊の事柄を受け入れることのできない生まれながらの人にとって、主の御言葉は「ひどい言葉」に聞こえます。

主イエス・キリストは「子は自分からは何もすることができません」と言われました。これはなんと驚くべき御言葉でしょう!主は決して自分自身の活動をされませんでした。主は御父のなさるわざを見て、そのとおりに行われたのです――「わたしの中に住んでおられる御父が御業をしておられるのです」。私たちは、何が主からのものであり、何が自分自身からのものなのかを見極め、言葉や行いをもって神と共に働くことを学ぶまで、一歩一歩絶えず主を待ち望む必要があります。

また、主イエスは言われました、「わたしは聞くとおりに裁くのです」、「わたしは人からの栄光を受けません」、「わたしが来たのは、自分の意志を行うためではありません」、「わたしは自分の栄光を求めません」。神への全き信頼―――これが主の取られた立場であり、私たちが取るべき立場です。主はまた、「御父が引き寄せられるのでなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません」と言われました(ヨハネによる福音書六章四四節)。

神の真の子供たちが今日直面している危険は、魂の力の存在を知らずに、それを発達させてしまうことです。また、広く普及している心理学の教えから来る危険もあります。心理学は、「あなた方は認罪、回心、再生によってではなく、精神療法によって、自分の『弱さ』から救われることができます」と教えます。神の子供といえども注意する必要があります。決して心理学的な自己像を抱いてはなりません。また、霊・魂・体の「諸法則」に気を取られるあまり、聖霊ご自身に信頼することを忘れてはなりません。聖霊はキリストから受けたものを、私たちに啓示してくださいます。今日の大いなる超自然的運動の中には、膨大な量の魂の力があります。私はたった今、ある大きな癒しの運動に関する手紙を受け取ったばかりです。手紙の差出人は次のように記しています、「この運動は全く間違っています。数千もの人が続々とやって来ますが、それでも間違っています。人々に『手を置く』指導者がタバコを吸い、ウイスキーを飲んでいる有様です。こんな状態でいったい何を期待できるというのでしょう!」。

クリスチャン生活における「魂の力」の危険性について、もう少し述べることにします。意志と関係する「魂の力」も存在します。主は意志を解放して、それを強めてくださいます。しかし、意志は肉によってではなく、御霊によって強められなければなりません。魂の力の危険性の一つは、意志による祈りです。魂の力によって強められた意志を用いて祈るなら、その意志の力を他の人に及ぼしてしまうかもしれません。この危険性を知らない信者の中には、「何某さんは、これをするべきです」とか、「これをするべきではありません」と言って、自分の思いを祈りの対象に投影する人がいます。魂の力によって祈る危険性を避けるには、神に向かって祈るよう常に注意する必要があります。すべての祈りを神に向けなさい。また、だれかのために何かをするよう神に指図してはいけません。「何某さんを導いてください」と神に願う分には結構です。しかし、「何某さんはこれこれのことを『するべきです』」とか、「これこれのことを『するべきではありません』」と言ってはなりません。他の人々のために祈る時、神の御旨に関する自分の見解や、悪に関する自分の判断を祈ってはいけません。私たちは一つからだの肢体ですが、各々はただ神に対してのみ責任を負っています。私たちが立つにしても、倒れるにしても、それは主の御前でのことなのです。

それから、礼拝において魂の力を引き出してしまう危険性があります。主は、「神は霊ですから、神を礼拝する者はと真理の中で礼拝しなければなりません」と言われました。それでは、教会の中で感覚的なものが奨励されている事実は何を意味するのでしょう?どうして、月曜から土曜までこの世的な生活をしている人でも、日曜日に教会に行って幸せな気分になれるのでしょう?彼らが幸福で心地よい気分になったのは、音楽などの影響によるのではないでしょうか?彼らは満足を与えられました。しかし問題は、彼らが本当に罪を認めて、再生されたかどうかです。音楽を演奏してはいけないのでしょうか?そんなことはありません。歌には神への賛美が込められています。しかし、ローマ・カトリック教会の礼拝の中に見られる、魂的な要素の数々を考えてみてください!アンドリュー・マーレーは、「魂の月並みな働きが礼拝の中に侵入している」と指摘しました。彼はさらに付け加えて、「人々が罪に打ち勝てない理由の一つは、彼らが自分の宗教生活の中に魂のいのちを持ち込んでいることである。しかし、彼らはこれをほとんど考えもしない」と述べました。彼らは礼拝の中に自己(肉)を持ち込み、こうして肉的な罪を生かし、活動させています。彼らは「自分は『肉』を始末したはずなのに、どうしてまだ肉が残っているのだろう?」と疑問に思います。「罪」の力は、神への礼拝における魂の働きにあります。それは、宗教生活の覆いの下に隠されている「肉」です。私たちはまず第一に、神に近づく必要があります。次に、私たちは霊と真理の中で神を礼拝しなければなりません。「なぜなら、神はこのような礼拝者を求めておられるからです」。

今日、霊的な信者が直面している危険は、魂の力の危険です。思いを四方に押し流す潮流がいくつもあります。多くの人がそれらの潮流に捕らわれており、無防備です。キリストの死の中に立って、それが自分と空中の勢力とを隔てるよう求めるなら、あなたはそれらの潮流を完全に自分から断ち切ることができます。

私たちの思いは本当に新しくされたでしょうか?それは神の霊によって力づけられているでしょうか?それとも、私たちは生まれながらの人の思いしか持っていないのでしょうか?今日の合理主義は、知的な議論によってではなく、霊の力と祈りによって対処できるでしょう。霊にしたがって生活し歩む方法を、主が私たちに教えてくださいますように。新しくされた思いによって、魂と霊の違いを識別できますように。「神の言葉は生きていて、力があり、魂と霊を分けます」。魂のいのちは十字架上で死に渡されます。そして、私たちは「霊的」になります。