第五章 魂的なものを「霊的」と呼ぶ危険性

ジェシー・ペン-ルイス

黙示録十三章五節によると、龍によって力を与えられた「獣」は、「けがしごと」を言うことを許されます。「彼は口を開いて神に向かって冒涜し、神の御名と神の幕屋を冒涜した」(六節)。聖書は、反キリストの出現に伴うしるしを、あらかじめすべて予告しています。今日、それらのしるしが急速に現れているため、一つ一つ解き明かして、「世の基が据えられる前からほふられていた小羊のいのちの書」(八節)に名を記されている人々を守るのは困難です。

特に、神に対する冒涜はますます顕著になっています。キリストの福音の最も聖なる項目ですら、悪魔の教えや悪魔の力を広めるために誤用されているほどです。冒涜のさいたるものは、主の食卓でなされています。主の食卓は当初、主が来られるまで主の死を示すために設けられました。それが今や、「魂」の力の所業とされて、悪鬼どもの食卓にされているのです。最近出版されたある司教の本によると、それは「秘蹟の科学」と呼ばれており、「魂の能力を発達させた」人には明らかなのだそうです。彼は次のように書いています、「祭司は主の『』を人々に分け与える分配者である。これらの『力』は、祭司の体の中に伝達され、物質化され、法衣の中に蓄積されつつある」「また、祭壇上の磁化された石、十字架、燭台からは、強力な力が常に放射されている」「特に、香がたかれる時、聖なる天使たちが降臨して、彼らから素晴らしい力が絶え間なく流れ出る。会衆が適切な礼服を着て、媒介者として振る舞うなら、彼らはこの力を受けて、用いることができる」。

「秘蹟の科学」について教える本の著者は、また次のようにも記しています。「この神聖な力は、確固たる科学的事実である。それはしばしば、神の恵みと呼ばれることがある。この力は蒸気や電気と同じように、まぎれもない事実である。この力は魂、精神、感情に力強く働く。……」

宗教的な教えのどれを見ても、「魂的」とか「魂の」という言葉が目に入ります。キリスト教会の指導者たちですら、しばしばこれらの言葉を使っています。たとえば、カレドニアの大司教は英語の論文の中で、「魂の世界で偉大な発見がなされつつある」と書いています。

「我々の魂的な霊は、物質的な障壁によって特定の空間に限定されない。我々の霊は、それが体の中にあろうと、体の外にあろうと、他の人々の霊と混ざり合える。これは霊の交わりである」。

「現代の弟子たちは、心理学の教えによって、キリストのあらゆる美徳と聖霊の力に注意を集中している。完全な人であるキリストを通して、彼らは無限の神との交わりに入る。これは霊の交わりである」。

「人の精神は、個人的であると同時に、宇宙的な精神の一部である。人の霊は、各人の特徴を有すると同時に、宇宙的な霊の一部である」。

今日の文献から引用したこれらの文章を読むと、魂的なものを「霊的」と呼ぶことの危険性がわかります。ですから、聖書に啓示されている「魂」と「霊」の違いを、もう一度強調することにしましょう。

「魂的(psychic)」という言葉は、ギリシャ語の「魂(psuche)」から派生した単語です。それは英語の新約聖書では、四十回「いのち」と訳され、四十八回「魂」と訳されています。辞書によると、それは「動物的ないのち」、「動物的な性質」を意味します。「魂」は、生来のいのちによって生かされている人を意味します。

聖書は、「生ける魂」になった「最初の人」は「地に属し、地的」であり、「第二の人」は「天から出た」である、とはっきり告げています(コリント人への第一の手紙十五章四七、四八節)。

「魂」の性質は、霊に敵対します。これはコリント人への第一の手紙二章十四節にはっきりと記されています。「生まれながらの(魂の)人は、神の霊の教えを受け入れません。なぜなら、それは彼にとって愚かなことであり、理解することができないからです。それは霊的に識別されるべきものです」。コニーベアは注釈の中で、「この『魂の人』は、霊の原理とは異なるアニマ(生存本能)を賦与された人であると考えられる」と述べています。彼はさらに付け加えて、「『動物的な人』と訳すのがもっともよいであろう。しかし、この訳は少々荒っぽい」と述べています。

ですから、今日流行している「魂」の力は「霊」ではありません。なぜなら、それは全く、人の堕落した性質に属しているからです。「魂の能力」を発達させることは、「生まれながらの人」の中に眠っている能力を引き出して、働かせることです。「秘蹟の科学」の著者が、「『祭司』の『体の中』に物質化され、蓄積される」と言った「力」は、自然の力であって、神の聖霊からではありません。聖書が教えているように、そのような力は「神の恵み」を構成するものではありません。

魂の力を完全に発達させるには、超自然的力が必要なようです。そして、堕落以降、魂の力は神の力によってではなく、サタンの力によって発達させられています。こう考えると、これまで説明できなかった多くのこと――ここ数年の間に神の子供たちの多くが経験した、悪魔の超自然的働きの台頭――を説明することができます。これはまた、神からのものであると思われた「力のバプテスマ」が、どうして、深い謙遜、砕かれた霊、人々に対する優しい愛情、自己放棄を生み出さずに、個人的な力を誇示する「利己主義」という結果になりえたのかをも説明します。

神の御言葉は、今日のこのような新たな危険に対する答えを与えています。いたるところで耳にする叫び、クリスチャン雑誌のページの中ですら繰り返されている叫びは、「人格を高めよ」、「意志を強めよ」です。しかし、魂のいのちに関して、主ご自身はどう教えておられるでしょう?主は十字架への途上、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。……わたしのために自分の魂のいのち(プシュケ、psuche)を失う(憎む)者は、それ(魂)を救って(保って)永遠のいのちに至ります」*と言われました。ここでも、魂と霊の区別が鍵です。すでに見たように、「魂」は人の霊を通して神の霊によって治められ、上からいのちを受けるか(ヨハネによる福音書三章三節、欄外)、あるいは、肉体からの動物的ないのちや魂の潜在的な力によって支配され、生かされるかのいずれかです。前者の場合、人は「霊の人」であり、その「魂」は「救われて」います。しかし後者の場合、人は「動物的な魂」であり、その魂は失われています。主は、「自分のいのち(魂、psuche)を愛する者はそれを失い、この世で自分のいのち(魂、psuche)を憎む者はそれを保って永遠のいのち(ゾーエ、zoe)に至ります」(ヨハネによる福音書十二章二四、二五節)と言われました。

* ルカによる福音書九章二三~二七節、ヨハネによる福音書十二章二五節などを参照。(訳者注)

これは、生来のいのちの「魂的」な部分を放棄すべきこと、そしてそれを「啓発」してはならないことを示しているのではないでしょうか?魂(プシュケ、psuche)の低いいのちは、十字架を負うことによって、絶えず死に渡されなければなりません。そうするなら、主ご自身から来るより高度な「いのち」(ゾーエ、zoe)が働くようになります。贖われた人に対して、主は「いのちを与える霊」です。

キリストの十字架は、万事に対する「試金石」です。これはなんと素晴らしいことでしょう!「超自然的な力」は、信者の内にある魂の潜在的な力を引き出して、それを働かせることができます。ですから、十字架の道によって与えられ、信者を十字架の道に導く「力」だけを受け入れる必要があります。それ以外の「力」の現れを受け入れることは、安全ではありません。強制的に働いて、「自己」を建て上げさせる「力」は、魂の力によります。この場合、十字架を適用して魂の力を死に渡す代わりに、それを発達させてしまったのです。十字架だけが、聖霊の満ちあふれのために道を備えます。聖霊は人の良心に働かれます。それは強制することによってではなく、神の御言葉の光と真理により、良心に確信を与えることによってです。