第二章 転機と十字架

ジェシー・ペン-ルイス

信仰によって、モーセはパロの娘の子と呼ばれることを拒み、
はかない罪の楽しみを受けるよりは、
むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、
エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。
彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。
(ヘブル人への手紙十一・二四~二六)

神の時が満ちた時、モーセの生涯に転機が訪れました。モーセが下した決断は、彼が後に享受することになる、神との「顔と顔を合わせた」交友のまさに基礎である、と言えるでしょう。それまで、神はモーセの生涯を導いてこられましたが、彼はそれに全く気づいていませんでした。彼の記憶の中には、幼少の頃のことが眠っていたかもしれません。しかし、彼の進路はとてもはっきりしていて、唐突な変化の兆しは全く無いように見えました。神の御旨の中で、モーセ自身が理解力をもって神と共に働く必要が生じるまでは………。

神はモーセを選ばれました。しかし今、モーセが神を選ぶべき時が来ました。聖書は、どのように転機が訪れたのか告げていません。私たちはただ結末を知っているだけです。モーセに行動する力を与えたのは、信仰――彼の母親の神を信じる信仰――でした。なぜなら、ヨケベトは自分の子に、自分が信頼する方のことを教えたにちがいないからです。冷静に落ち着いて考えた結果が、信仰でした。聖書は、「彼は報いとして与えられるものから目を離さなかった」と述べています。これを文字どおり訳すと、「彼は自分の目の前にあるものから目を離して、彼方を見た」(コニーベア)となります。モーセは、永遠の光の中で自分の立場を熟考し、現在のために生きるのか、それとも将来の報いのために生きるのか、どちらか一方を選ぶよう迫られました。

モーセは、人の心が願ってやまないあらゆるものに取り囲まれていました。「言葉にもわざにも力がある」[1]彼は、栄誉を受け、力強くありました。言い伝えによると、彼はエジプト軍の将軍として成功を収めていました。もし、モーセに高度の軍事的能力がなければ、イスラエルの集団を導けなかっただろう、と言われています。いずれにせよ、パロの娘の養子として、彼の前途には素晴らしい未来が広がっていました。しかし、彼の目は開かれて、この今の世の「彼方」にある「報い」を見ました。モーセは報いに向かい、代価を計算し、自分の目の前にあるすべての事から目を離して、永遠と神のために生きることを選び取りました。モーセが下した決断には、この世を拒むことも含まれていました。この世に関するかぎり、それは莫大な損失を意味しました。彼はエジプトの「楽しみ」や「宝」をすべて理解していました。しかし、彼は将来を見つめて、現在の益を放棄し、自分の立場に立って、「パロの娘の子と呼ばれることを拒み」ました。

神の高い召しに関する天的な幻がキリスト・イエスにあって開かれる時、このようななんらかの転機が私たち一人一人にも必ず訪れます。私たちは天の王の子どもですが、父の定めた日まで後見人や管理者の下にあります[2]。私たちは彼によって、全くこの世としか思えない状況や環境の中に取り残されました。しかしその間彼は、将来の奉仕に備えて、私たちの思いや性格を訓練しておられたのです(私たちはそれを知りませんでした)。その後、キリストの共同相続人として[3]、私たちが自分の聖なる高い召し――「キリスト・イエスにあって上へと召してくださる神の召し」[4]――を理解し、十字架の道を選ぶべき時がやって来ます。それは、私たちが私たちの主のように完成されるためです。聖書は主について、「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学ばれました」(ヘブル五・八)と記しています。「キリストと共に栄光を受けるために苦難を共にしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人なのです」(ローマ八・十七)。

モーセが「楽しみ」よりも「苦しみ」を、「富」よりも「そしり」を選び取れたのは、「信仰」によってであった、と聖書ははっきりと述べています。「信仰は、望んでいる事柄を実体化することであり、目に見えない事柄を確かめることです」(ヘブル十一・一、アメリカ標準訳欄外)。

ああ!私たちに対する神の約束のうち、一体どれくらいが、「説かれた御言葉も、彼らには益になりませんでした。御言葉が、それを聞いた人たちに、信仰によって結びつけられなかったからです」(ヘブル四・二)と言われずにすむでしょう!信仰は、神の御言葉に基づいて行動することにより、神の御言葉を証明します。信仰は、行いによって、神の御言葉の実体と実際を獲得します。信仰は、目に見えない事柄を確かめ、それを現実の経験にします。

これは、モーセの場合、特にそうでした。信仰によって、彼は目の前にある物事の彼方を見つめ、現在の「楽しみ」や「宝」をすべて拒むことを選択しました。そして、信仰が彼の望みを確かめ、証明し、実体化しました。彼は、一歩一歩、目に見える事柄から、目に見えない神との交わりと交流に導かれました。(彼がエジプトで決断を下した時、彼には「目に見えない神」という観念がありませんでした。)

信仰こそ、神のあらゆる宝への鍵です。福音は事実上、何が霊の世界にあるのかを告げる神の託宣です。たとえ、感じることや目に見えることと矛盾するように見えても、単純に神の御言葉を信じること―――これが信仰です。私たちに対する神の御言葉を信じる信仰は、行いによって証明されます。私たちは、神が私たちに語られた御言葉にしたがって行動します。私たちは神の御言葉を信じ、必ずそれに従わなければなりません。生ける信仰には行いが伴います。行いのない信仰は死んでいます[5]。なぜなら、神の真理を心の中で承認するだけでは、それは決して私たちの生活の中に実体化されないからです。もし、私たちが本当に神の御言葉を信じるなら、神の御言葉にしたがって行動するはずです。

しかしながら、「目に見えない事柄を確かめる」信仰には、神との直接的交流が必要であることを、忘れてはなりません。この点で多くの人がしばしば難船してきました。彼らは、御言葉の中におられる神ご自身に信仰を置くかわりに、他の人々によって語られた言葉に信仰を置いてしまったのです。

モーセが行動したように行動することを可能にする「信仰」は、生ける神の御言葉――書き記された神の御言葉の中に与えられている、生ける神の託宣――をその土台としなければなりません。しかし、神の御言葉は、聖霊によって、彼の直接的な言葉として人に適用されねばなりません。神が語られるとき、その命令は御力を与えます。神によって私たちの内に働く信仰により、そして「顔と顔を合わせて」彼を知ることができるという報いの保証により、私たちもこの世に属することを拒んで、「私たちは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷を求めています」[6]と、はっきりと宣言することができます。私たちも、罪や自己の享楽を拒んで、十字架の道を選ぶことができます。私たちも、他の人々が胸に抱いている「宝」を軽んじて、キリストと共に受けるそしりをそれらにまさる大きな富と思うことができます。「そしり」を「富」と勘定する信仰は、その勘定を実体化するでしょう。そして私たちは、「今の時の軽い艱難は、私たちのうちに働いて、計り知れない、重い永遠の栄光をもたらす」[7]ことを知るでしょう。

モーセは「罪の楽しみ」を放棄したと述べられています。わたしたちは「罪の楽しみ」を、わたしたちが捨てた「この世の快楽」としか考えてこなかったかもしれません。しかし、私たちのクリスチャン生活で、自己享楽や自己追求ほど義しくないものがあるでしょうか?

モーセにとって、これらの楽しみはエジプトの宮殿の中にありました。その宝、知的な交わり、文明的な環境もそこにありました。私たちは、彼がそれらを放棄したことに、大いに感服せずにはいられません!しかし、私たち自身はどうでしょう?私たちは安楽を選んでいるでしょうか、それとも十字架の道を選んでいるでしょうか?容易な道でしょうか、それとも苦難の道でしょうか?私たちは苦難を避けているでしょうか、それともキリストのための艱難を選んでいるでしょうか?私たちはこの世と妥協しているでしょうか、それともこの世に同化されることを拒んでいるでしょうか?私たちは地上の宝を握りしめているでしょうか、それとも自分のために古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積んでいるでしょうか?[8]

私たちは、モーセのように目の前にあるすべてのものから方向転換して、私たちの神の御顔を知ることを追い求めているでしょうか?私たちは、神の恵みによって、地上で出来るかぎり親密に神を知ろうと決意しているでしょうか?


訳者による注

[1] 使徒七・二二
[2] ガラテヤ四・二
[3] ローマ八・十七
[4] ピリピ三・十四
[5] ヤコブ二・二六
[6] ヘブル十一・十六
[7] 二コリント四・十七
[8] ルカ十二・三三