第四章 火の炎

ジェシー・ペン-ルイス

すると主の使いが彼に現れた。
柴の中の火の炎の中のことであった。
(出エジプト記三・二)

神はミデヤンの地でモーセを整えられました。モーセの歩みは神によって命じられ、彼はパンと水を得られる場所に導かれました。モーセはパロの宮殿の壮麗な環境やエジプトの首都の高度な文明の楽しみから引き離され、平和な家庭を与えられ、異国の質素な食事と田園生活に満足するよう教わりました。

ステパノの話から、モーセは四十年間ミデヤンの地で隠遁生活を送ったことがわかります。今日、四十年という歳月は長い期間です。神は今日、ご自身の僕を用意するのにこれほど長い時間をおかけにはなりません。

モーセは毎年羊を導いて過ごしました。彼はその間、「私が報いを仰ぎ見て十字架の道を選んだ時、私が神と取り交わしたあの取り引きを、神はお忘れになったのだ」と思っていたのでしょうか?それとも彼は、「私は神の恵みを踏みにじったので、傷物の器として退けられてしまったのだ」と考えて苦しんでいたのでしょうか?彼は、「私は自分の愚かさと強情さのせいで、助けたい民から自分を断ち切ってしまった」と思っていたのでしょうか?

聖書は、この四十年間のモーセの思考の軌跡を、私たちに示していません。しかし、神はおそらく、「エジプトに戻って、抑圧されている同胞たちの解放者になりたい」という望みがモーセの中からすっかり無くなるのを、待っておられたのでしょう。

荒野の静けさの中でモーセの全存在が静まって、「被造物的な活動」や性急さや衝動が完全に消え去るのを、神は待っておられました。

おお、私たちはなんと落ち着きがないのでしょう!私たちはなんとじっとしていることを好まないのでしょう!周囲のあらゆる物事が恐ろしいスピードで動いているように見える時はなおさらです。そうです、神の教会はこの世の熱病にかかってしまいました!しかし神は依然として、隠された「地の平穏な」(詩篇三五・二〇)民を持っておられます。

神の子どもよ、あなたはおそらく、職場や台所、職務上の孤独な地位や故国の郷里に、あなたを訓練する「荒野」を見いだしたことでしょう。神があなたを解放されるまで、あなたは悩み、苦しみ、途方にくれます。あなたはかつて、神が自分を用いて偉大な御業をなさるものと思っていました。しかし、あなたは四方をふさがれて身動きがとれません。そのため、望みはすっかり絶え、計画や企画もすべて流れてしまいます。ついにあなたは、「群れを養い」、最も小さな事で主に忠実に仕えることで満足します。「ああ!ここに私がおります。私は地上の事柄に占有されていますが、神の世界が私を必要としているように感じます。くびきの縄目をほどき、抑圧されている人々を解放する特権を、私は受けられないのでしょうか?」。おお、神の子どもよ、あなたの御父は決して忘れてはおられません。彼の時計が遅れることは決してありません。待ちなさい!「しかし、私は何年も待ってきました!」。あなたの御父はご存じです。彼の御心の中に横たわって安息しなさい。彼の御心は彼の御業以上であり、あなたの主は「わたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」[1]と言われたことを、あなたはご存じないのでしょうか?あなたは待たなければなりません。主が私たちの内で行われるすべての御業の目的、意図は、「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのか」[2]を私たちに教えることなのです。

神はモーセを取り扱われました。そしてついに、神の目的が達成される時がやって来ました。神の器と民の用意が整ったのです。

青年時代のモーセを知っていたエジプトの王が死にました。イスラエルの民は束縛の下でうめいていました。「神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム・イサク・ヤコブとの契約を思い起こされた」(出エジプト記二・二四)。神が忘れることはありません。しかし、神が働くのに必要な条件が整わなければならないのです。

神聖な力が現されるには人の協力が必要です。有限な被造物にとって、この奥義は常に不思議です。それはおもに、私たちの意志の自由と関係があります。私たちが束縛からの解放を望まなければ、神は私たちを解放できません。そのため神は、なんらかの形で私たちに圧迫が臨むことを、容認しなくてはなりません。それによって、私たちは御業を求めて神に嘆願するようになります。神には御業をなす用意があり、いつでも御業をなすことができます。

神がイスラエルを解放する前に、彼らは解放を求めてうめく必要がありました。神は、彼らの縄目と苦難が重くなるのを容認することによって、彼らをその状態にもたらされました。ついに、彼らはうめいて神に叫び求めました。神は彼らを救うことをひたすら待っておられました。神の器の用意は整いました。解放者の準備は済みました。しかし、イスラエルはそれを少しも知らなかったのです!彼らは苦悩と悲しみの中にあって、神と人から見捨てられたかのようでした。

今日も同じではないでしょうか?私たちの神は同じ神です。神はゆっくりと静かに、イスラエルを解放する計画を遂行されました。私たちは、私たちに啓示された神の働きの美しさに驚きます。昔と同じように神は今、ご自身が召し出した者たちを天に登録されている長子たちの教会[3]に移す計画を遂行されつつあります。

もし、私たちがいと高き方の秘密の場所に住み、彼と共に「頂上から」眺めるなら、私たちは彼の御計画の中に立ち、主の現れを示す時のしるしを見分けることができるでしょう。

イスラエルの準備は整いました。そこで神は、御計画を完成する機が熟したことを、モーセに告げることができました。モーセを取り扱う神の方法は実に意義深いです。神がモーセに会われたのは、羊を山の牧場に連れて行くいつもの仕事の途上のことでした。もし神に用いられることを願うのなら、日常生活の中で「なすべきことをなす」ことこそ、奉仕のための最善の訓練であることを確信しなければなりません。そうするなら、神が私たちを用いる用意ができた時、私たちも神の召しに応じる用意ができているでしょう。

神は、ごくふつうの小さな柴の中で燃えている火の炎を用いて、モーセの注意を引き付けられました。不思議なことに、柴は火で燃えていたのに燃え尽きませんでした。

モーセは言いました。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう」(出エジプト記三・三)。燃える柴は人の手がたきつけているのでも、燃料が燃やしているのでもありませんでした。それは、神がモーセと共に何をなせるのかを彼に示す絵図であり、神の恵みをご自身の民に永遠に示す絵図でもありました。神は、ご自身をホレブ山の小さな茨やぶのように低く空しくして、人の中に住まうことを喜ばれます。

神はその柴の中からモーセに語られました。それと同じように、神は私たちの多くにも語られました。神は名指しで人を召されます。なぜなら、神の語りかけは常に個人的で直接的だからです。ですから、私たちは他のだれかから「あなたがその人です」と教えてもらう必要はありません。神が語られる時、私たちは自分の隣人を忘れて、彼が誰のことを言っておられるかわかります。

しかし、モーセは神とまみえることの厳粛さを知る必要があります!それはまだ「顔と顔を合わせて」ではありませんでしたが、神とまみえることはとても厳粛な事です。「モーセよ、あなたの立っている場所は、聖なる地である[4]。聖なる地!その場所は、つい先ほどまでは俗な地にすぎませんでした。ところが、栄光の主の聖なる臨在によって、そこは聖なる地になったのです。

「もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です」(一コリント三・十七)。おお、私たちはなんと深く、これを心にとめる必要があることでしょう!私たちは「あれやこれは有害だろうか?」と問うかわりに、「それは神の神殿にふさわしいだろうか?」と問うべきです。もし、神が柴の中に宿られたように、私たちの中にも宿っておられるなら、その聖なる臨在は俗な事柄さえも天の栄光で輝かせるにちがいありません。

わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト記三・六)。それはアブラハムが知っていた神でした(アブラハムは、神が語られた時、顔をふせました)。それはイサクやヤコブが知っていた神でした。「わたしは……神である」。「モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した」。その時はまだ、「顔と顔を合わせた」交友の時ではなかったのです!

「主は仰せられた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。わたしが下って来たのは、彼らを解放するためである』」(出エジプト記三・七~八)。「わたしは神である。……わたしは解放するために来た」。エホバは、偉大なる「わたしはあるI AM)」方です[5]。なぜなら、神は永遠なるだからです。苦しみ悩んでいる人々に対する神の御心は、今も、ご自身をモーセに現された時と同じです。神には移り変わりや、移り行く影はありません[6]

おお、私たちはなんと神とまみえる必要があることでしょう!私たちが神とまみえるなら、神は私たちに心を開いて、この哀れな失われた世界に対する愛とあわれみを私たちに示すことができます。また神は、世を救うために愛するひとり子を送られた愛を、私たちに示すことができます!いったい誰が十字架の愛の深さを伺い知ることができるでしょう?御子を死に渡された御父の愛の深さ、十字架を通して御父から分離されることに同意された御子の愛の深さ、贖われた者たちをねたむほど慕っておられる永遠の霊の愛の深さを、いったい誰が伺い知ることができるでしょう?

「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ」(出エジプト記三・十)。神はモーセに協力を求められたのでしょうか?「わたしが下って来たのは、彼らを解放するためである」(八節)。エホバはまず、「わたしは……神である」と、ご自身をモーセに啓示されました。次に彼は、「わたしが下って来たのは、彼らを解放するためである」と、ご自身の御心を啓示されました。そして今、神は解放を実現する御計画をモーセに啓示されます。神がモーセの手によって解放します!モーセが神の助けによって解放するのではありません!

神とこのようにまみえることによってのみ、私たちは神のために効果的な奉仕を始めることができます。私たちは神から直接任務を与えられなければなりません。さもないと、私たちは遣わされる前に走ってしまい、後にエホバがイスラエルの預言者たちに語られた御言葉のとおりになってしまうでしょう。「わたしはこのような預言者たちを遣わさなかったのに、彼らは走り続け、わたしは彼らに語らなかったのに、彼らは預言している。……見よ。わたしは、自分たちの舌を使って御告げを告げる預言者たちの敵となる」(エレミヤ二三・二一~三一)。


訳者による注

[1] マタイ十二・五〇
[2] ローマ十二・二
[3] ヘブル十二・二三
[4] 出エジプト記三・五
[5] 出エジプト記三・十四
[6] ヤコブ一・十七