第五章 ためらいと失敗

ジェシー・ペン-ルイス

モーセは神に言った。
「私が行かなければならないとは、私はいったい何者なのでしょう?
…………………………
私は何と言えばいいのでしょう?
…………………………
ですが、見てください。彼らは私を信じないでしょう。」
(出エジプト記三・十一、十三、四・一)

なんというモーセの変わりようでしょう!進む意欲に満ちていた四十年前とは、なんと対照的でしょう!今、彼はしりごみしています。「私が私が行かなければならないとは、私はいったい何者なのでしょう?」。自信はすっかりなくなりました。これが、言葉にもわざにも力があった人[1]なのでしょうか?

神としりごみしている僕との間で幾度も言葉が交わされました。この会話は今日も多くの人の心の中で繰り返されています。一つには、その務めが途方もないものだった、ということがあります。その務めは何を意味するのでしょう?神は彼をどうされるのでしょう?モーセは抑圧されている同胞たちの重荷を見ました。彼はパロの圧制を知っており、パロを敵にまわすことがどういうことかも知っていました。イスラエルを解放するために遣わされる!神が立てた作戦計画は全く不可能に見えました。イスラエルをエジプトから連れ出して、今他国に占領されている良き地に導くとは!しかも、モーセは一人の人間にすぎません。彼にはなんの能力も影響力も方策も無く、一人の同労者もいません!不可能です!

しかし、人には不可能なことも神にはできます!神が立てた以上、その計画がどんなに壮大でも関係ありません。神が責任を負われる以上、困難がどんなに克服しがたく見えても関係ありません。

モーセはその計画についてあえて尋ねようとはしませんでした。しかし彼は、自分がその計画に参加するのにふさわしいかどうか尋ねました。彼はしりごみして反対を繰り返しました。「私がパロのところに行くのでしょうか?」。しかしエホバは「わたしがあなたと共にいる」とお答えになりました。

王の王によって遣わされた大使には、主の権威という後ろ盾があります。モーセが遣わされるのは、彼自身の個人的な能力によってではありませんし、かつてかの地の皇子だった者としてでもありません。神は、そうしたものがすべて過ぎ去るよう、十分時間がたつのを許されました。神は、ご自身が選んだ使者に対して、地的な影響力や、地位からくる個人的な力を要求されませんでした。今やこの召しを恐れるべきではありません。モーセは神の権威と力だけを頼りに進まなければなりません。

「私がイスラエル人のところへ行って、彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言うなら、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらいいのでしょうか。」(出エジプト記三・十三)。

忍耐深い主は、この躊躇している男にたいそう手を焼かれました。しかし、主は優しく彼の恐れをなだめ、すべての異議にお答えになりました。モーセは、神が自分に語られたとおりに、抑圧されているイスラエル人に語るべきでした。彼は、「父祖たちの神が私に現れて、私をあなたがたのもとに遣わされました」と言うべきでした。神はモーセになすべきことをはっきりと告げ、彼に指示を与えることを約束されました。また神はあらかじめモーセに警告して、彼に行うよう命じたことは最初のうちは成功しないだろうと言われました。しかし、神はご自身の民のために働かれます。最終的に、イスラエル人はエジプトを出ることを許されるでしょう。彼らは逃亡奴隷のように空手でエジプトを出ていくのではありません。彼らは、すべての人の目の前で、せき立てられ、宝を携えて、エジプトから出て行くのです!

神が着手されることはなんであれ、神はそれをすべての人の前で堂々と行われます。イスラエルは、追い使う者たちから逃れられさえすれば、どんな惨めな状態でも喜んだでしょう。しかし神は、力強い御手と伸ばされた御腕によって、勝利のうちにご自身の民を導き出されます。

神の子どもである私たちが窮地に追い込まれる時、たとえそれが自分の愚かさや悪行のせいだったとしても、もし私たちが王であり父である神に向かい、神に自分を委ねさえするなら、神は私たちのために働いて、王にふさわしい気高い方法で私たちを窮地から安全に救い出してくださいます。

エホバはモーセの二つの異議を解決されました。しかし、モーセは依然として納得しませんでした。彼はそのような計画に従えませんでした。なぜなら、彼にはつらい思い出があったからです。その思い出とは、昔、ヘブル人の一人が彼に向き直って、「誰があなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか?」[2]と言ったことでした。彼は今まさに、そのヘブル人のもとに遣わされようとしていたのです。

敵は、繊細な人々を苦しめるために、つらい思い出を保存しています。そして、敵は重大な瞬間にその思い出をよみがえらせるすべを心得ています。その気性の激しい繊細な男の心を、矢が深く貫きました。抑圧されている同胞たちを守り、彼らのために復讐しようしたために、モーセは大きな犠牲を払いました。

他の人々を助けるための代価や犠牲が大きければ大きいほど、その助けが拒絶された時の傷は深くなります。モーセはかつて、望みを失ってエジプトから逃亡しなければなりませんでした。感受性の鋭い人だけが、モーセがその時経験しなければならなかった苦しみを理解することができます。

自分を拒絶した人々のもとに遣わされるとは!エジプト人を打ち殺して、その死体を砂の中に隠した惨めな苦い思い出のゆえに、モーセの心は痛まなかったでしょうか?再びあざけられ、恐れて逃亡しなくてはならなくなるかもしれないことを、彼は恐れなかったでしょうか?それを思って、いかに彼は恥じ入ったことでしょう!神の目にモーセの動機は純粋でした。しかし、彼は決して自分の愚かさを赦せませんでした。

悪魔はこのような思い出を利用して、どれほど神の子どもたちを苦しめることか!パウロは晩年、昔自分が神の教会を迫害したことや、無実の人を死刑にするために賛成の票を投じたことを、忘れることができませんでした。「神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのは誰ですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着いて、私たちのためにとりなしてくださるのです」(ローマ八・三三~三四)。「死んでよみがえられた方であるキリスト・イエス」は、パウロの過去を完全に解決しただけでなく、ほふられた小羊の血の下に避難するすべての人の過去をも完全に解決してくださいます。

モーセは再び言いました。「ですが、見てください。彼らは私を信じないでしょう。……彼らは、『はあなたに現れなかった』と言うでしょう」(出エジプト記四・一)。モーセはかつて、「神が自分の手によって解放しようとしておられることを、彼らは理解するだろう」と想像していました。その時の失敗に懲りて、今、彼は恐れています。想像だけでは不十分です。確信がなければなりません。……モーセは、真に神に遣わされる時、状況が一変することを知るでしょう。

神は、モーセに御力を示すことにより、そしてイスラエル人の目の前で彼を証しすると約束することにより、この恐れを解決されました。

神はモーセに、御旨を達成するには一本の杖があれば足りることを、実例を用いて示されました。神がモーセに持っている杖を地面に投げるよう命じられると、その杖は蛇になりました。そして、神がモーセに蛇の尾をつかむよう命じられると、蛇は杖に戻りました。

その時モーセは知りませんでしたが、これはエジプトでの働きのための下準備だったのです!モーセはエジプトで魔術師たちに直面しなければならないでしょう。彼はまず神の力を実証しなければなりません。そうすることによって、彼は静かに恐れることなく魔術師たちに対面し、彼らを打ち破ることができます。

再び「信仰」の必要性がわかります。信仰は、無にすぎないものを全能の神に結合します。「もしあなたがたに信仰があるなら、あなたがたにできないことはなにもないでしょう」。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります」(マルコ十一・二二~二三)。モーセが神に命じられて「語る」時、その語ったことが成就するためには、彼の心の中に一片たりとも疑いがあってはなりません。

今日も神は同じ苦労をしておられます。神は、ご自身の子どもたちを訓練して、彼らが自分たちの手の中にある武器、すなわち霊の剣である神の言葉[3]を絶対的に堅く信じるよう、導いておられます。神の言葉には要塞を打ち破る力があります。

「モーセは主に申し上げた。『ああ主よ。私は雄弁な人(ことばの人)ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌も重いのです』。」(出エジプト記四・十)。

さて、これですべてです。最初は「私はいったい何者なのでしょう?」でした。私には地位も、影響力も、権威もありません!次は「彼らは私を信じないでしょう」でした。彼らは以前信じませんでしたし、私ももう一度やろうとは思いません。そして三番目が「私は雄弁な人ではありません」でした。おそらくモーセは自分に言ったことでしょう。「荒野での四十年間が、私から雄弁さを奪い去ってしまいました。かつて私は言葉に力がありました。でも今は違います。私は寡黙で、口が重く、舌の重い人になってしまいました」。

これこそ最高の備えであることを、モーセが知ってさえいれば!雄弁さは長所であるよりも邪魔な場合の方が多いのです。神が語られるとき、神は少ししか語られません。しかし、神が語られることは実現します。神にとっては、語ることが行うことです。たった一つの御言葉が神の御旨を成就します。ご自身の代弁者を選ばれる時、神はしばしば、雄弁ではなく、自分の言葉を持たない人を選ばれます。それは、神がその人を通して語るためです。

「キリストの十字架がむなしくならないために、言葉の知恵によってはならないのです」(一コリント一・十七)と書いた時、パウロはこれをはっきりと理解していました。ああ!キリストの十字架は、美辞麗句によってむなしくされます!残念なことに、十字架が美辞麗句で飾られることがあまりにも多いのです。神は、私たちが十字架を花輪で飾ることを許されます。言葉の花輪や、思想の花輪で飾ることすら許されます。しかし、十字架がその働きを達成するには、強烈な実際が必要です。大いなる暗闇がエルサレムを覆ったあの重大な日に、都を揺るがした恐るべき力に匹敵するほどの、強烈な実際が必要なのです。

モーセに対する主の答えは決定的でした。主がモーセに口をつけました。それでもう十分でした。モーセに口をつけた神は、彼の口を開いて、語るべき事を教えることができます。「さあ行け。わたしはあなたの口と共にある」[4]。これで一件落着です。地位、人、力、言葉といった問題はすべて片付きました。これ以上何が必要でしょう?

しかしモーセは弱気です!そうです、すべては真実であり、道は明らかであり、召し、命令、装備、力に関して問題はありません。モーセはただ、自分の手の中にある杖のように、自分を神に明け渡すだけでいいのです。そうすれば、神が残りをすべて行ってくださいます。今や不足しているものはなにもありません。必要なのはただ一つ、神の器となることを自ら進んで喜んで同意することだけです。神は待っておられます。しかし、モーセは気おくれしています。彼はその働きに向かえません。主は恵み深くモーセの恐れに耳を傾けてくださいました。ですから、モーセはあえて拒否できません。そのため、ほとんど恐怖にかられて彼は言いました。「ああ主よ。どうか他の人を遣わしてください」(出エジプト記四・十三)。彼はまるでこう言っているかのようでした。「主よ、あなたはご自身の道を行かなければならないのでしょう。もし私が行かなければならないのでしたら、仕方ありません。でも私は本当は行きたくないのです!」。これはもっとも情けない、不承不承の同意でした。

私たちがためらわずに心から神と共に働かないかぎり、神は深遠な御旨を成就できません。なぜなら、いやいや働く僕は、必要な「信仰」を行使できないからです。神聖な力が働くのは信仰を通してです。たとえしりごみしていても、意志が全く神の御旨と一致していれば、妨げにはなりません。モーセは行くことを拒否しませんでした。彼は神の御旨に従うことに同意しました。しかし、彼の信仰は不十分でした。神は、彼の口を用いることも、彼に言葉の力を授けることもできませんでした。

聖書は告げます。「の怒りがモーセに向かって燃え上がった」[5]。主は悲しまれました。あるいは、主は失望された、と言ってもかまわないでしょうか?主の御旨は、モーセを通してすべてを行うことでした。しかし、モーセがしりごみして、不承不承その奉仕に同意したため、主は別の器をモーセと一緒に用いざるをえませんでした。「神は必要な言葉を与えてくださる」という信仰がモーセにない以上、神はモーセを代弁者として立てることができませんでした。

全能の神といえども、不信仰の前ではなにもできません。私たちに対する神の恵みは、私たちの信仰の不足のせいで制限され得るのです。

代弁者としてアロンをモーセに与えるという決定は、突飛なものではありませんでした。神が器たる人の中で働かれる唯一の条件は、服従と信仰です。この原則の下でその決定がなされました。

アロンが代弁者としてモーセに与えられました。あるいは主ご自身の表現によると、アロンはモーセの「口の代わりに」与えられました。モーセは、神の御業を経験するせっかくのチャンスを失いました。彼は神の最善ではなく、神の次善を選びました!彼は「人にはできない事も神にはできる」と信じるかわりに、恐れに屈しました。後日、モーセはこの日の自分の臆病さを後悔する羽目になりました。なぜなら彼は、本来生じなかったはずの諸々の問題を、アロンを通して抱えることになったからです。

私たちも毎日同じ事を繰り返しているのではないでしょうか?決して人の側を見ないようにしましょう。なぜなら、私たちが人の側を見る時、私たちは気おくれして、神の次善を選んでしまうかもしれないからです。

しかし、たとえ私たちが今神の御旨から後退したとしても、神は遅かれ早かれ私たちを御旨に連れ戻してくださいます。数十年後にアロンが死んだ時、モーセはより親密に神を知るようになっていました。そして、その舌も解けました。人生の終わりの時、彼はイスラエル人たちに別れの「歌」を語って聞かせました(申命記三二・一~四三)。それはおそらく、彼が間もなく歌うことになる「新しい歌」の準備だったのでしょう。「彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った」(黙示録十五・三)。

会見は終わりました。モーセはイテロのもとへ行き、エジプトに戻らなければならないことを告げました。彼は山の麓であったことを一切話しませんでした。モーセのように神と出会った人々は、そのことについて多く話そうとはしません。人が神と共に静かに歩むことを学ぶまで、神はこのようにご自身を啓示されることはありません。


訳者による注

[1] 使徒七・二二
[2] 出エジプト記二・十四
[3] エペソ六・十七
[4] 出エジプト記四・十二
[5] 出エジプト記四・十四