第一区分

ジェシー・ペン-ルイス

生きものの幻(第一章)
奉仕のために整えられるエゼキエル(第二、三章)
神に用いられるエゼキエル(第四章他)

エゼキエル書には、神の霊に明け渡すことの素晴らしい絵図が含まれています。この書の預言的内容とは別に、私たちはこの書の中に神の働きを追うことができます。まず最初に、神は魂の内に働かれます。次に神は、御手の中で従順な僕となった魂を通して働かれます。

第一章は、神が備えられた魂に対して、天が開かれるところから始まります。エゼキエルは祭司であり、すでに主への奉仕のために分かたれていました。しかし、彼を取り巻く状況が、彼を通常の任務から引き離しました。天が開かれた時、彼はケバル川のほとりの捕囚の民と共にいましたが、彼だけがこれらの幻を見ました。なぜなら、彼だけが霊の中で神を待ち望んでいたからです。神がご自身を啓示されるのは、このように主の御前で静まっている魂に対してだけです。

「そのところで」、すなわち人々の真っただ中で、「主の御手」が彼の上にありました。そして、神を待ち望んでいる僕に「主のことば」が臨みました。主のことばは単なる語りかけだけでなく、視覚的なものでもありました。それはあたかも、母親が子供を教えるかのようでした。

最初に、生きものの幻がエゼキエルに与えられました。

生きものの幻

「私が見ていると、見よ、火がひらめき渡りながら来た。・・・・・・その火の真ん中から、四つの生きもののようなものが現れた。」(一章四、五節)

スコフィールドは、彼の聖書注解の中で、「この聖書の節はかなり比喩的である」と述べています。どんな聖書注解者も、「生きもの」の実際的な意義を確定することはできません。しかし私たちは、「エゼキエルに示されたケルビムは、キリスト・イエスにある新創造を示すために、聖霊によって与えられた絵図である」という霊的解釈に立つことにしましょう。新創造は、十字架におけるキリストの死からだけでなく、火の真ん中から――聖霊の火の中から――生み出されます。これらの生きものによって示されている「新創造」の中に、私たちは「多くの兄弟たちの間の長子」であるキリストの姿を追うことができます。「鷲の顔」(十節)は、信仰と愛の翼で神に向かって舞い上がり、神と交わることを示唆します。「牛の顔」は、神の御旨に従順な忍耐強い生活を示唆します。「獅子の顔」は、恐れを知らない大胆さと、「忠実な証人」(黙示録三章十四節)の神聖な勇気を示唆します。「人の顔」は、人なるキリスト・イエスの完全な人間性を示唆します。

聖霊の火の中から生まれたキリストにある新創造は、神と交わる力を持ち、神の御旨の中を歩み、人なるキリスト・イエスと彼の苦難の中で交わりを持ちます。私たちは、御子と同じ姿に変えられる時(ローマ人への手紙八章二九節)、これを見ます。

これらの「新創造」はまた、「互いに結合して」(十一節)います。「それは彼らがみな一つとなるためです」(ヨハネによる福音書十七章二一節)という主の祈りは、こうしてはじめて成就されます。それから、「彼らはみな前に向かってまっすぐに行き」(十二節)、「行くとき、向きを変えなかった」。これは、「私は前に向かって進み」、「この一事に励んでいます」という聖パウロの叫びを思い起こさせます。「生きもの」は「主を知ることを追い求め」ます。

十五節から二一節に、「輪」が出てきます。この輪は、神の聖霊に完全に従う、キリストにある新創造の生活を表します。

「これらは霊が行かれる所に行き・・・・・・なぜなら、生きものの霊が輪の中にあったからである。」(一章二〇節)

環境という輪の中におられる神の霊と、新創造の中に住んで行動しておられる神の霊は、互いに衝突しませんでした。なぜなら、「その霊が輪の中に」あり、いのちの霊が生きものの中にあったからです。それゆえ、彼らは完全に調和して共に動きました。*

*これは幸いにも真実です。神の御旨以外の望みを全く持たない、神と完全に調和している魂は、神の摂理の中で、常にすばやく神の御旨に応答します。そのような人は、内側で神と共に動いているので、容易に外側で神に従うことができます。しかしこれは、このように神と全く調和している魂は、あらゆる「出来事」を神の御旨として黙々と受動的に受け入れる、ということではありません。神の霊は、人格全体を全く新しくするために、贖われた魂の内に働かれます。神は人のすべての部分――霊・魂・体――を、まず最初にキリストの死の交わりにもたらし、次に主の復活の命の力の下にもたらされます。それによって、贖われた者は「神と共に働く者」(コリント人への第二の手紙六章一節)となります。神の働きに黙々と受動的に従う人形になるのではありません。新しくされた人は、身の回りの出来事のうち、どれが真に神からのものであるのかを、御霊によって識別します。その人は、神の明確な「摂理」の中で、神と共に直ちに進みます。しかし、自分の内におられる神の霊が、悪しきもの(ローマ人への手紙十二章二節、テサロニケ人への第一の手紙二章十八節)として明らかにされたものに対して、その人は直ちに抵抗します。

これは、神の御旨の中にある生活を描写しています。神はエゼキエルに、神の中で神と共に歩むことの意味、そして神が彼の中で動くことの意味を教えようと望まれました。自分の内におられる神の霊に信頼して従うことは、環境という輪の中におられる神の霊と完全に調和することを意味します。この輪は「みこころの御計画」(エペソ人への手紙一章十一節)を成就します。

さらに、これらの新創造は、神の臨在の「澄んだ水晶」の中に生き、動いていました(二二節)。彼らは、「神が光の中におられるように、光の中に」住んでいました(ヨハネ第一の手紙一章七節)。彼らと神との間には、隔てるものがなにもありませんでした。

私たちはこれから何を学ぶのでしょう?私たちが神の「澄んだ水晶」の中に生きるとき、光が当たらないところや、「曲がった」道はありません。政策や戦略、計略や策略、欺きや偽り、本音と建て前の使い分け、「目的が方法を正当化する」といった類の詭弁は全くありません。神を批判するために、この世が私たちの落ち度を見つけようとしても見つけられませんし、神の光に耐えられないものもありません。

このように神は、ご自身の中に生き、そして動いている、新創造の絵図をエゼキエルに示されました。それから神は、さらにずっと高いところにエゼキエルの目を向けさせました。そして、あらゆる幻を遙かに超越した、祝福に満ちた最高の幻――主ご自身――を示されました。

「上のほうには、王座に似たようなものがあり・・・・・・そして、その上には、人の姿に似たものがあった。」(一章二六節)

王座の上に人なる方を見るまで、私たちは自分のいるべき正しい場所――主の御足下のちり――に決して達しないでしょう(参照、ヨブ記四二章五、六節)。パウロは「その光の栄光」を見ました。そして、その瞬間から彼は、「私の主であるキリスト・イエスを知る知識の卓越性のゆえに、すべてのことを損失と勘定する」*ようになりました。おお、どうか主が私たちの目を高く上げて、王座の上に人なる方を見せてくださいますように!

*ピリピ人への手紙三章八節(訳者注)

エゼキエルは主を見たとき、ひれふしました。神は彼に語り、自分の足で立つよう仰せられました(二章一節)。霊が彼の内に入って、彼を立ち上がらせるまで、彼は自分の足で立つことすらできませんでした。神の命令には常に、従うための力が含まれています。

エゼキエルに示されたこの幻は、私たちを取り扱う神の道を示しています。最初に、神の光と御旨の中に生き、そして動いている、新創造の啓示が来ます。それから、神は御座の上の人――栄化されたキリストご自身――を啓示されます!次に私たちは、エゼキエルがパトモスにおけるヨハネのように、主の足もとで死んだようになったこと、そして神からのいのちの霊が彼の中に入って、幻を実行するためのより深い力を与えたことを見ます。これが神の道です。

神はどのようにご自身の僕を用意されたのか

彼は言われた。「人の子よ。わたしはあなたを遣わす……あなたは、『神である主はこう仰せられる』と言え」。(二章三、四節)

今私たちは、エゼキエルの任命と、彼がいかにして聖霊によって用意されたのかを示す箇所にやって来ました。聖霊は彼を、第一に神の使者として、第二に「しるし」として、第三に来たるべきことを告げる先見者として用意されました。

第一の条件は、神と会見して、「わたしはあなたを遣わす」(二章三節)という任命を受けることでした。第二の条件は、「巻物」を「食べること」(三章一節)、あるいはそれを自分の存在中に受け入れることでした。その後、神は「行って語れ」と彼に言うことができました。

主のメッセージを伝える人は、全員この学課を学ぶ必要があります。「私はこのクラスや集会にどう備えればいいのでしょう?」という質問がよくされます。ここに答えがあります。すなわち、「食べ、行き、語る」こと、「自分の心の中に受け入れ、自分の耳で聞き、行く」ことです。使者が御言葉を食べなければ、御言葉は聴衆に力強く迫りません。神の真の使者になりたければ、御言葉は私たちの内なるいのちの一部分とならなければなりません。聖霊は、私たちの心と性格の中に、御言葉を造り込んでくださいます。

それから、再び栄光に来ます(三章十二、十四節)。神の霊がエゼキエルを捕らえ、高く上げて、連れ去りました。彼は苦々しさと「霊の熱心さ」の中で出て行きました。しかし、それにもかかわらず、「主の御手が強く私の上にのしかかっていた」と彼は言いました。次に、彼はものを言わなくなりました。これは、またもや捕囚の民の間でのことでした。彼は自分が見聞きしたことに「驚いて」、捕囚の民の間で七日間ただ唖然と座っていました。

神が特別な奉仕のために従順な魂を用意された方法は、なんと変わっているのでしょう!私たちは、「以前の出来事で、もはや十分備えはできた」と思うかもしれません。神はご自身の僕に何をなさっていたのでしょう?私たちは少なくとも次のことを理解できます。すなわち、神はエゼキエルを従順な僕にしようとしておられたのであり、またイスラエルに対する使者として、神のすべての御旨を行える者にしようとしておられたのです。最初に、神は「行け」と仰せられました。エゼキエルは神の命令に従い、遣わされた場所に行き、同胞たちの間でなにも言わずに座り続けました。その後、神は彼にメッセージをお与えになりました。私たちを御手の中で従順な者とするために、神はどれほど苦労されることでしょう!おお、木の葉が風に敏感なように(イザヤ書七章二節)、私たちの心も神の霊に対して開かれていたら!

私たちはエゼキエルの物語の中に、神がご自身の子供たちを御霊に従順な者とされる方法を見ることができます。聖霊に平野に行くよう命じられた時、彼は平野に行き、そこで「主の栄光」を見ました。彼は再びひれ伏しました。そして、再び霊が彼の中に入って(すなわち、聖霊の新たな流入があって*)、彼を自分の足で立ち上がらせ、神からの次の命令のために彼を整えました。今や彼は、「行って、あなたの家に閉じこもっていよ」(三章二四節)と命じられます。そして、神が再び彼にメッセージを与えられるまで、他の人々の手によって苦しみを受け、黙ってそれを耐え忍ぶべきことを告げられました。神が彼に再び語りかけられた時、使者が耐え忍ばねばならなかった苦しみに、神は一言も言及されませんでした(三章二五~二七節)。これこそ真の自己放棄であり、神の御旨に対する絶対的服従**です。

*使徒の働き四章八節のペテロのように。
**エゼキエルは神の命令に絶対的に服従しました。エゼキエル書の他の節を見ると、彼は受動的な人形のように聖霊の命令に従ったわけではないことがわかります(たとえば、四章十四節、十一章十三節)。この点は重要です。明らかに、エゼキエルは自分の精神力を働かせて、それにより自分に対する神の御旨を知り、賢く慎重に神の御旨に従ったのです。これを覚えておく必要があります。そうでないと、エゼキエルの従順と、催眠術師に従う被験者の従順とを、混同してしまうかもしれません。一八九七年にこの小著が初めて出版されて以来、聖霊に対する真の明け渡しの偽物が存在することを、キリスト教会は多くの苦しみを通して発見しました。偽物を恐れるあまり、本物を失わないよう注意する必要があります。理解力をもって、自ら進んで神の御旨に服従するようにならないかぎり、だれも完全に神に用いられることはできません。神が「平野に行け」と命じられた時、彼は自分の個人的な意志を用いて、そこに行かなければなりませんでした。このような意味で、エゼキエルは自分で行動しなければならなかったのです。これを心に留めてください。エゼキエルの従順のこの面を覚えておくことが必要です。「命じられたとおりに神と共に働いた時、エゼキエルは知性を用いなかったのだ」などと思ってはなりません。

神がエゼキエルを試されたのは、これだけではありませんでした。神はアブラハムを試されたように、御旨に対するエゼキエルの従順を試されました。つらい経験によって、エゼキエルは完全な従順を示さなければなりませんでした。家族関係においても、彼はそうしなければなりませんでした。彼の妻が亡くなった時(二四章十六節)、彼は「泣いてはならない」と命じられました。「彼は命じられたとおりにした」。こうして彼は、最も困難な領域――愛情の領域――で、自己を治められることを示しました。おお、神に従うことは、なんということでしょう!

また、神のメッセージを伝える時、エゼキエルは人の判断にしたがってではなく、神の御旨にしたがって、喜んでその結果を受け入れなければなりませんでした。彼が語っていた時、一人の人が死にました(十一章十三節)。エゼキエルは悲嘆にくれてひれふし、「ああ、主なる神よ、あなたはイスラエルの残りの者たちを、ことごとく滅ぼされるのですか?」と叫びました。裁きを告げる使者は、なんとつらい目にあうことか!彼は、もはや一言も話せないかのように感じました。しかし、主は再び彼を遣わされました。

「神への全き従順」を説く人でも、神に自分を明け渡して聖霊の御手の下に服従することを、実際はほとんど学んでいないかもしれません。私たちはあまりにもかたくなです。神は私たちを従順にしなければなりません。私たちは自分の「慣例」に捕らわれているため、「この方法でなければ働けません!」と言います。このため、神は私たちを対処して、慣例から解放しなければなりません。他の人々に自分の実行を押しつけないようにしましょう。神は人を各々完成することができます。ですから、神の完成する働きの下にとどまるよう、人々を助けましょう。全部同じ形をしたつぼや、一色に染まった庭の花々を見ることを好む人は、ほとんどいないでしょう。神はすべての木に成長する自由を与えておられます。聖霊は、主に仕えるすべての神の子供たちの内で働いておられます。どうか神が、この聖霊の御業を邪魔することから、私たちを守ってくださいますように。*

*この本が書かれてから、キリスト教会の中に、ある「出来事」が起きました。そのため、ここで再び次のことを述べる必要があります。すなわち、これは、欺く者が神の霊を装って他の人々を誤導するのを、私たちは「黙って」見ていなければならない、ということではありません。エゼキエルのように神に全く明け渡している魂は、神に従う方法を知っています。ヨハネ第一の手紙四章一~四節。

私たちは喜んで自分を聖霊に明け渡すでしょうか?真に神と出会い、神から任命を受けないかぎり、私たちは奉仕できません。

ああ、神の働きではない「クリスチャンの働き」が、今日たくさんあります。神の働きは、器なる人を通して、神ご自身によってなされます。「彼らが私をぶどう園の見張りに立てたのです。しかし、私は自分のぶどう畑を見張りませんでした」(雅歌一章六節)。神があなたを遣わされる時、見た目の結果がどうでも全く問題ではありません。これに注意してください。

もう一度、三章二二~二四節を見ましょう。エゼキエルは言いました、「その所で主の御手が私の上にあった。そして、主は私に仰せられた。『起きよ……』。私は起きあがって、まっすぐ進んだ。……すると、見よ。主の栄光がそこに現れた。……私はひれふした。すると、霊が私のうちに入り……言った……」。

神はエゼキエルの内でこんなにも力強く働くことができました。なぜなら彼は従順であり、神の聖霊に直ちに従ったからです。この章の後の物語を見ると、啓示された神の御旨に彼が少しも抵抗しなかったこと、また、神の御旨に従うことを彼が少しも躊躇しなかったことがわかります。神は安心して彼に御旨を行わせることができました。これは、明け渡された生活のなんと幸いな絵図でしょう!

このように全く服従し、絶対的に自己を放棄する人は、なんと少ないことか!しかし、使徒たちはペンテコステの日に、これを経験しました(使徒の働き二章四四~四七節を見よ)。ペンテコステの真の力を経験するには、まったき服従と絶対的な自己放棄が必要です。個人的な損得勘定は、神とその王国の権益の中に全く飲み込まれなければなりません。

神が私たちの服従と従順を試すために、私たちの上に御手を置いて、私たちが理解できない環境の中に私たちを置かれる時、どうか私たちが私たちの信実な神に堅く信頼することができますように。

神はどのようにエゼキエルを用いられたのか

1.「しるし」として(四章三節)

すでに見たように、エゼキエル書の最初の三つの章は、エゼキエルに対する神の啓示と、彼を奉仕のために整える神の準備について述べています。神の御旨にしたがってエゼキエルの内で働くために、神の霊が彼の中に入りました。聖霊は「彼を高く上げて」、様々な場所に連れて行かれました。それはすべて、エゼキエルを試すためであり、神の霊に従うことを教えるためでした。エゼキエルが行ったことは、質問したり、ためらったりせず、ただ神の霊に従うことだけでした。四章から最後の章までは、エゼキエルを通してなされた神の働きについて記しています。

さて、「しるし」としてのエゼキエルを見ましょう。彼がなんと絶対的に神に従ったかを見てください。「しるし」は、知らず知らずのうちに常に「語り」ます。私たちは「しるしと不思議」でしょうか?ペンテコステの後には、つねに「しるしと不思議」が続きます。ダビデは、今日の多くの神の子供たち以上に、「しるしと不思議」として生きました。彼は、「多くの人は私を不思議に思います」と言いました。ゼカリヤ書三章八節(欄外)は「彼らは不思議な人々である」と述べており、イザヤ書八章十八節は「見よ。私と、主が私に賜った子たちとは、イスラエルでしるしとなり、不思議となっている」と述べています。

エゼキエルはイスラエルに対する「しるし」でした。なぜなら、彼は主のために喜んで苦しんだからです。彼は「しるし」として、自分の家財が神に属すことを示しました。彼は「しるし」として、自分の食物を食べました。これは私たちへの「しるし」でもあります。ここにいる神の子供たちのうち、どのくらいの方が束縛の中におられるでしょうか?日々の生活の中で、食物について不平を言わなくなる時、私たちは恵みの「しるし」になります。なぜならそれは、体を全く従わせていることを意味するからです。

神はあらゆる点でエゼキエルを取り扱われました。神は彼を宗教的偏見から解放し(四章八~十七節)、食べ物に関する束縛から解放されました(四章九~十一節)。明らかに、エゼキエルは体に支配されていませんでした。さもなければ、「はかりにしたがって」食べることは困難だったでしょう。彼は外見を気にすることから解放されました(五章一節)。彼の財産は神の裁量に委ねられていました。神が彼に引っ越す用意をするよう仰せられた時、彼は、「私はこの場所が一番気に入っているのです」とは言いませんでした。私たちなら、「ここにはこんなに素晴らしい教会や、クリスチャンの交わりがあります!」とか、「そんなことをいきなり言われても動けません」と言うのではないでしょうか。私たちは自分のすみかを快適に整えて、ヨブのように「自分はこれらのものに取り囲まれて死ぬのだ」と思いがちです。

二一章のエゼキエルを見ましょう。彼の心は溶かされています!主の御言葉がエゼキエルに臨みました。「それゆえ、腰が砕けるほど嘆け。彼らが見ているところで激しく嘆け」(六節)。「叫べ。泣きわめけ。人の子よ。……それゆえ、あなたはももを打って嘆け」(十二節)。人々はエゼキエルの涙を見て、どれほど蔑んだことでしょう!神の子供たちはあまりにもよそよそしくて、近寄りがたいです。しかし、神に触れるなら、透明にされます。過去の経験が人々の困難を解決する助けになる場合、もし私たちが自分を神に全くささげているなら、人々を助けるために自分の心を極みまで裸にされても気にしないでしょう。悪魔は証しを憎みます。彼はできることなら、私たちの口を閉ざして、証しが周囲の人々の心に触れないようにしたいのです。主は私たちを砕かなければなりません。人々が祝福を受けるために、主は私たちを注ぎ出さなければなりません。イエスは泣かれました。エルサレムと、イスラエル人の罪のために、彼は涙を流されました。彼はベタニヤで、悲しむ者たちと共に泣かれました。私たちには溶かされた心、人々の重荷や罪のために嘆き叫ぶ心が必要です。

神がエゼキエルの「目の喜ぶ者」を一撃で取り去られた時*、彼は「しるし」でした。神は彼の悲しみをご存じでしたが、「泣くな、嘆くな」と命じられました。これから私たちは次のことを学びます。すなわち、生まれながらの人にとっては苦痛でしかない事柄を、復活のいのちの力によって、この世とは正反対の態度で受け入れる時、私たちは「しるし」になるのです。キリストの十字架と墓の中でキリストとの死の交わりを学んだ神の子供にとって、肉体の死はではありません。それは「眠り」にすぎない、とパウロは述べています(テサロニケ人への第一の手紙四章十四節)。

*二四章十六節(訳者注)

2.「預言者」として(六章一、二節)

さて、神の御旨を民に知らせる預言者としてのエゼキエルを見ましょう。彼は裁きのメッセージを携えて、「盲目な指導者たち」とイスラエルの「君たち」のもとに遣わされました。神は御言葉を、それに続いて起きた「しるし」(十一章十三節)によって証しされました。神はエゼキエルを「しるし」として、それから「使者」として、交互に用いられたようです。エゼキエルは、黙っているよう命じられた時も、語るよう命じられた時も、また主の欲するままに、裁きのために用いられる時も、祝福のために用いられる時も、主の御旨に従いました。どうか主のすべての子供が、神の御旨のために自分を神に全くささげることの意味を学びますように。なぜなら、これこそ新契約が私たちに示す、神にある正常な生活だからです。エゼキエルが歩んだ道は、当時ですら異常でした。しかし、その道はパウロの手紙の中に描写されており、私たちの主の地上生涯の中に示されています。神に対するエゼキエルの従順は、贖われたすべての人が送るよう召されている生活の数々の原則を、胚珠の形で含んでいます。なぜなら、神の御旨に対する絶対的従順こそ、神に用いられるために最も必要な条件だからです。それゆえ私たちは、「あなたがたの体を生きた供え物としてささげなさい。この世と同化してはいけません」(ローマ人への手紙十二章一、二節)と命じられています。思いを新しくすることによって「造り変えられる」ことは、エゼキエルに可能だったように、私たちにも可能です。それにより、私たちは各自の生活の中で、「何が善であって、神に受け入れられ、神のまったき御旨なのか」を知ることができます。初期の教会の弟子たちは、この従順を実行しました。彼らは、エゼキエルと同じように「しるし」となることを命じられただけでなく、エルサレムの人々に対して、彼らが十字架につけたキリストが今も生きておられることを示す「しるし」となるよう命じられました。今日の私たちも同じです。私たちもまた、この不信仰な世代に対して、神が願っておられる仕方で、キリストの実際を示す「しるし」になることができます。私たちもまた、「無言の証人」(参照、ペテロ第一の手紙三章一節)として、あるいは「いのちの言葉を告げる」使者として、喜んで神に用いていただかなければなりません。どちらにせよ、「私たちは救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の御前にかぐわしいキリストの香りなのです」(コリント人への第二の手紙二章十五、十六節)。