地面に埋められて見えなくなった麦粒は、不朽のいのちの力により、キリストと共に神の中でなおも生きています。神は今日、この麦粒が示す王国の奥義を、ご自身の子供たちの多くに教えておられます。
「自分のいのち」を「憎」んで、主のいのちにあずかればあずかるほど、彼らは「来るべき時代の力」(ヘブル人への手紙六章五節)を味わい、嗣業の担保*を持ちます。彼らはキリストに結合され、神の中に隠されて、あらゆる尊い事柄の源にとどまります。そして御座でとりなして、「国々に対して権威」を行使し、「敵のすべての力に対して」力を振るいます。まさに、「あなたは幼子たちの口を通して、力を打ち立てられました。(中略)それは、敵と復讐する者とをしずめるためでした」(詩篇八篇二節)と書かれてあるとおりです。彼らは、昇天された主との、生き生きとした、隠された合一の中にとどまることにより、「多くの実」を結びます。彼らは主の中に住みます。他方、約束にしたがって、主は彼らの中に住まわれます**。そして主は、いつまでも残る実――その実は裁きの座における火の検査にも耐えられます***――を生み出すことにより、彼らを通して御父の栄光を現されます。
*「死すべきもの」が「いのちに飲み尽くされる」時(コリント人への第二の手紙五章四節)、彼らは満ち満ちたいのちを嗣業として受け継ぎます。今日、彼らはそのいのちの一部を担保として持ちます。 **ヨハネによる福音書十四章二〇節(訳者注) ***コリント人への第一の手紙三章十二~十五節(訳者注)
主は、ご自身が教えたことを、まさに体現されました。この御方が、祈りの面における隠された生活の特徴を、マタイによる福音書第六章で解き明かしておられます。
一.その祈りは、他の人々が考えなかった祈りです。マタイによる福音書六章五節。
二.その祈りは、公のものでも、個人的なものでも、「戸を閉めて神に祈る」祈りです。神に近づいて、神だけを見、神の御声だけを聞く時、神の中に隠されている者たちは、神の臨在の内なる部屋の中にいます。マタイによる福音書六章六節。
三.その祈りは、言葉数が多い祈りというよりも、心の祈りです。彼らは「空しい言葉を繰り返す」必要はありません。なぜなら、主が祈りを聞いておられることを自覚するとき、自分がすでに主に願ったこともわかるからです。マタイによる福音書六章七節。
四.その祈りは、確実に答えられる祈りです。なぜなら彼らは、自分の必要を知っておられる御父に向かって語るからです。「あなたたちは、悪い者ではあっても、自分の子供には良い物を与えることを知っています。とすれば、なおのこと、天におられるあなたたちの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」。マタイによる福音書六章八節。
五.その祈りは、明確でポイントをついた祈りです。御父の御心を知っておられる神の御子は、「あなたたちはこのように祈りなさい」と言って、言葉数が少なくても祈りの答えを受けられることを、彼の子供たちに教えてくださいました。マタイによる福音書六章九節。
六.その祈りは、子供が父に向かって祈る祈りです。また、「天におられる私たちの父よ」という句からわかるように、その祈りは他の子供たちと共に祈る祈りです。マタイによる福音書六章九節。
七.その祈りは、神の栄光と神の王国を第一とし、個人的な関心をすべて後回しにする祈りです。「あなたの御名があがめられますように。あなたの王国が来ますように」。マタイによる福音書六章九、十節。
八.その祈りは、明け渡された意志をもってする祈りです。彼らは、神の御旨が天で行われているように、自分のうちにも確実に速やかに行われるよう、自分の意志を神の御旨に明け渡します。マタイによる福音書六章十節。
九.その祈りは、贅沢を求める祈りではなく、必要なものを求める祈りです。「私たちの日ごとのパンを今日も与えてください」という祈りは、簡素な生活と、持っているもので満足することを意味します。マタイによる福音書六章十一節。
十.その祈りは、愛と赦しの霊によって祈る祈りです。「自分に負債のある者を赦す」からこそ、私たちは「私たちの負債を赦してください」と主に求めることができるのです。マタイによる福音書六章十二節。
十一.その祈りは、悪の恐ろしい力や悪しき者を知りつつ、神の守りに信頼して祈る祈りです。悪や悪しき者は、この世にあって、天の父の子供たちに敵対します。彼らは「この暗闇の世の支配者たち」です。マタイによる福音書六章十三節。
要約すると、隠された生活とはまさに幼子の生活です。幼子は御父の臨在の中に生き、御父の御旨を行うことを願い、すべての敵から守ってくださる御父に信頼し、周囲に御父の霊を現します。
さらに、キリストと共に神の中に隠されている魂は、以下のものを与えられます。
一.内なるいのちを支える「隠されたマナ」
「勝利を得る者に、わたしは隠されたマナを与えよう。」(黙示録二章十七節) 「わたしを食べる者も、わたしのゆえに生きます。」(ヨハネによる福音書六章五七節)
二.知恵ある者には与えられない「隠された知恵」
「神の知恵は隠された知恵であり、御霊によって啓示されます。」(コリント人への第一の手紙二章七~十節) 「あなたはこれらの事柄を、知恵ある者や学識のある者から隠して、幼子たちに啓示してくださいました。」(マタイによる福音書十一章二五節)
三.試みの時にしか得られない「隠された富」
「わたしはあなたに、暗い所にある財宝と、ひそかな所に隠した富を与える。」(イザヤ書四五章三節) 「わたしはあなたの艱難を知っている。しかし、あなたは富んでいる。」(黙示録二章九節)
神を愛する者たちは、御父の食卓が与える隠されたマナで養われ、この世の君たちが知らない隠された知恵を教わり、試みと暗闇の時にしか得られない富を受けます。彼らに対して、神は確かに、「すべてのことを働かせて益」としてくださいます(ローマ人への手紙八章二八節)。また神は、彼らを御子――多くの兄弟たちの間の長子――と同じ形にあらかじめ定められました。
試みを経なければ、神の満ち満ちた深いいのちの中に入ることはできません。昔、だれかが言ったように、神が私たちを導いて、「限界をはるかに越えた」状況の中を通らせる時、私たちは神とその豊かな恵みを知ります。「限界」点を越えるたび、私たちは神にすがり、神の中に隠れます。「深みにとどまれ」と預言者エゼキエルは言いました。神を頼みとするしかなく、神の中に隠れるしかない状況になければ、どうしてそうできるでしょう?
神の中心に深くとどまっている、隠されている魂たちは、次に
舌の争いから「隠され」(詩篇三一篇二〇節)、 悩みの時に「隠され」(詩篇二七篇五節)、 嵐から「隠され」(イザヤ書四章六節)、 神のおられるひそかな所に「隠され」(詩篇三一篇二〇節)、 御翼の下に「隠され」(詩篇十七篇八節)、 主の陰に「隠され」ます(詩篇九一篇一節)。
これらの節は、神ご自身によって取り囲まれる生活について語っています。なぜなら、「私たちは神の中に生き、動き、存在している」*からです。
*使徒の働き十七章二八節(訳者注)
最後に、これらの隠されている者たちの外側の奉仕を見ましょう。彼らはもはや、「遣わされ」ないのに「走る」ことはありません。なぜなら、彼らの生活だけでなく、彼らの奉仕も変わったからです。彼らの場所は、今や神の御手の中にあります。「主は私を御手の陰に隠し、私をとぎすました矢として、矢筒の中に隠された」(イザヤ書四九章二節)。
このように、キリストと共に神の中に隠されている魂たちは、主の完全な統治下にあります。主は、「とぎすました矢」として彼らを遣わすべき時が来るまで、静かに、しっかりと、彼らを御傍に保たれます。神がその武器を使う時、神は的を射抜かれます。なぜなら、神は人の魂の中にある標的をご存じだからです。
活発に用いられていない時、彼らは神の矢筒の中に隠されます。神はいつでも彼らを用いることができます。ああ、とぎすました矢は、さらにとぎすまされて、表面の凹凸を除かれる必要があります。しかし、熟練した職工である主は、ご自身の僕を整える方法をご存じです。
「とぎすました矢」は、聖所での隠された働きのために取っておかれます。彼らは神の計画の中に入って、神の御旨を成就します。
「まことに、あなたはご自身を隠される神です。」(イザヤ書四五章十五節)
「そこに御力が隠されています」(ハバクク書三章四節)という御言葉は、神の最も深い働きは隠された働きであることを示しています。主は隠された王国を用意されつつあります。すべての準備が整うまでの間、主はこの世の王国が存続することを許されます。「この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は決して滅ぼされることがありません。(中略)その国はこれらの国々をことごとく打ち砕いて、滅ぼしてしまいます」(ダニエル書二章四四節)。
神はまた、ご自身の住まいのために、ご自身の霊を通して、隠された宮を建造されつつあります。また、御子と御座を共有する、隠された花嫁を用意されつつあります。そうです、この恵みの時代においても、神は依然としてご自身を隠される神なのです。神は御力を隠しつつ、静かに御旨を遂行されます。そしてついに、次の御言葉が成就する日が来ます。
「私たちのいのちであるキリストが現れると、その時(私たちも)彼と共に栄光のうちに現されます。」(コロサイ人への手紙三章四節)
「彼の裁きはなんと計り知れず、彼の道はなんと極め難いことでしょう!」(ローマ人への手紙十一章三三節)
「あなたはこれらの事柄を、賢い者や知恵ある者から隠して、幼子たちに啓示してくださいました。」(マタイによる福音書十一章二五節)
「そうです、父よ。これがあなたの目に喜ばしいことだったからです。」(マタイによる福音書十一章二六節)
もし死ぬなら……
「もし死ぬなら」おお、あなたの主が語られる、 このメッセージを聞きなさい。 「もし死ぬなら」それは多くの実を結びます。 これはあなたの救い主の御言葉です。
人々のうちにいのちが働くのを見たければ、 あなた自身は死なねばなりません。 地に落ちて埋められ、 死んで暗闇の中に横たわりなさい。
しかし、主はあなたを暗闇の中に取り残さず、 光があなたのまなこを照らします。 そして、喜ばしい新しいいのちと栄光の中で、 主はあなたに起きるよう命じられます。
その道を歩んで、主のいのちにあずかることを、 あなたは切望されるでしょうか? あなたが死の門をくぐる時、 主はそこであなたと会われます。
あなたは祝福に満ちた秘訣を学ぶでしょう。 死ぬ者は生き、 ひそかに注ぎ出されたいのちから、 収穫が生じます。
(フレダ ハンバリー・アレンによる)