いまだ地に落ちていない麦粒を見よ。……その麦粒は自分自身であり、自分自身を保っており、自分自身のまま残るであろう。それは「孤独」であり、「一粒」にすぎない。我々は、それを傷つけたり、砕いたりしないよう、大事に世話してやらなければならない。それは受けることも、与えることもできない。
「地に落ちて死ぬ」。なんと多くのクリスチャンが、この御言葉を意義深いものにする経験を見逃していることか!天のいのちを包み込む自己の上に、それに対抗する力がせわしく働いている。この力は恵みの力である。この力は十字架から来る。そしてこの力は、殺し、生かす権能を持つ神の霊によって執行される。しかし、この力はしばしば、貧困、試み、病気、挫折した計画、厳しい摂理などという「土地」の中で我々に届く。我々は霊を徹底的に剥ぎ取られ、身にまとうものが何もなくなったかのように感じるかもしれない。我々は自己を粉々に砕かれて、人生に何の感興も魅力も感じなくなるかもしれない。
(中略)
しかしこの時、人を生かす方は我々を覆われるのである。試みと死の経験の真っただ中で、不思議ないのちがゆっくりと自分のものになりつつあることを我々は意識する。この新しいいのちとは何か?このいのちを経験したことのない者にそれを説明するのはとても難しい。「私にとって生きることはキリストである」という使徒の言葉で十分であろう。(中略)おそらく、以前なら決して夢にも思わなかったような意味で、「すべては我々のもの」である。そして語り尽くせない祝福の中で、我々は「神のために実を結ぶ」のである。自分のために実を結ぶのではない。 (C.G.ムーアの「震われないもの」からの抜粋)
「私たちは四方から圧迫されますが、窮しません。途方にくれますが、行き詰まりません。……絶えずこの体にイエスの死を帯びています。……私たち生きている者はイエスのために絶えず死に渡されていますが、それはイエスのいのちが私たちの死ぬべき体において現されるためです。こうして、死は私たちの内に働き、いのちはあなたたちの内に働きます。」(コリント人への第二の手紙四章八、十~十二節)