最初にこの節を語られたのは、明らかに主イエスご自身でした。しかし主は、「王国の子供たち」をご自身との全き交わりに召すために、「もしわたしに仕えるというなら、その人はわたしについてきなさい」と付け加えられました。それは、彼らも自分のいのちを放棄することにより、多くの実を結び、御父に栄光を帰すためでした。ただし、それは罪の贖いの面においてではないことを覚えておく必要があります。なぜなら、「彼は一人で酒ぶねを踏み、民の中に彼とことを共にするものはなかった」*からです。それは、「犠牲を通して実を結ぶ」という法則に、従順に従うことにおいてです。もし自分の存在目的をまっとうしたいなら、今日彼に従う私たちは、最初の麦粒としてご自身のいのちをお与えになった方に結合される必要があります。
*イザヤ書六三章三節(訳者注)
神の麦粒の歴史をたどるには、その「始まり」のたとえである、種を蒔く人のたとえに戻る必要があります。
「イエスは彼らに言われた。『このたとえがわからないのですか?そんなことで、いったいどうしてすべてのたとえを理解できるでしょう?』」(マルコによる福音書四章十三節)
種がどのように聖霊によって芽生え、魂の中で神のいのちの始まりとなるのかを理解しなければ、どうしてそのいのちの発達や、その後の成長過程を、それが他のたとえで語られた時、理解できるでしょう?またどうして、最初の麦粒である主がご自身のいのちを死に至るまで注ぎ出すことによって啓示された「犠牲の法則」を、理解できるでしょう?なぜなら、王国の奥義の真の知識は、私たちのうちにある隠された王国のいのちの発達と、つねに呼応するからです。
始まりのたとえ 種を蒔く人と種と土地
「見よ。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。」(マルコによる福音書四章三節)
種を蒔く人は、おそらく農夫である主ご自身か、あるいは、主の命令によって遣わされた労働者たちを意味するのでしょう。いずれにせよ、魂を追い求めることや、いのちの種を蒔くことは、すべて神の側から、神ご自身をもって始まります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネによる福音書三章十六節)。
種を蒔く人が蒔いた種
「種は神の言葉です。」(ルカによる福音書八章十一節) 「王国の言葉」(マタイによる福音書十三章十九節)
書き記された御言葉の中には、永遠のいのちの胚珠が含まれています。生ける御言葉である神のキリストは、書き記された御言葉の中に隠されています。それが人の心の中に植えられる時、新しいいのちが伝達され、人々は「真理の御言葉をもって生まれ」ます(ヤコブの手紙一章十八節)。「あなたたちが再び生まれたのは、朽ちる種からではなく、生ける、いつまでも存続する、神の御言葉によるのです」(ペテロ第一の手紙一章二三節)。
種が蒔かれた土地
「ある種は道ばたに落ちた。」(マルコによる福音書四章四節) 「ある種は岩地に落ちた。」(マルコによる福音書四章五節) 「ある種はいばらの中に落ちた。」(マルコによる福音書四章七節) 「他の種は良い地に落ちた。」(マルコによる福音書四章七節)
種はみな同じ種であり、同じいのちの胚珠を持ち、同じ可能性を秘めていました。しかし、種は四種類の心の中に蒔かれ、四つの異なる結果を迎えました。おお、この「始まり」のたとえはなんと厳粛なことか!多くのことがはじめにかかっているのです!
種蒔き
道ばたに蒔かれた種
「道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。御言葉を聞いたが、後から悪魔が来て、御言葉を持ち去ってしまうのです。」(ルカによる福音書八章十二節)
地表にある種は、たやすく取り去られてしまいます。いのちの言葉の種が蒔かれたところには、必ず悪魔がやって来ます!悪魔は「直ちに」やって来て、種を奪い取らなければなりません。それは、聞く人に考えるゆとりを与えないためです。悪魔は、「彼らが信じて救われる」ことを恐れます。
悪魔が何としても奪い取りたいのは、神の御言葉です!神の使者はこれを覚えておきましょう。悪魔は御言葉に関する演説を恐れません。悪魔が恐れるのは、いのちの胚珠を含む御言葉そのものです。演説がどんなに素晴らしくて雄弁だったとしても、真の「種」を全く含んでいないかもしれませんし、聴衆の心の土地に全く届かないかもしれないのです。
岩地に蒔かれた種
「岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んで御言葉を受け入れますが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときには退いてしまいます。」(ルカによる福音書八章十三節、マルコによる福音書四章十五節)
これらの聞き手は、喜んで御言葉を受け入れます。彼らは深く感動しますが、彼らの中には根がありません。彼らが深く根を下ろすには、岩地を耕し、石を集めて捨てる必要があります。種を蒔く人は種を蒔くだけでなく、耕された土地に種を蒔かなければなりません。
この二種類の土地に蒔かれた種は、全く無駄になります。聞き手は、他の種蒔きが再び来るまで(そのような機会があると良いのですが)、待たなければなりません。
いばらの中に蒔かれた種
「他の種はいばらの中に落ちた。するといばらが伸びて、それをふさいでしまったので、何の実も結ばなかった。(中略)いばらの中に蒔かれるとは、こういう人たちのことです。これらの人たちは御言葉を聞いてはいますが、この世の思い煩いや、富の惑わしや、その他の欲望が入ってきて、御言葉をふさいでしまうので、実を結ばないのです。」(マルコによる福音書四章七、十八、十九節)
ここでは、いのちの種は根を下ろし、成長しました。それは心の中に植えられましたが、成熟に達するための十分な余地がありませんでした。いのちの種は、(1)思い煩い、(2)富、(3)快楽または(4)「その他のもの」への愛によって、ふさがれてしまいました。
ここで私たちは、心を開いて神の御言葉を受け入れはしたものの、欲望から一度も清められたことがなく、神に全く明け渡したこともない人を見ます。このような肉的なクリスチャン、実を結ばないクリスチャンが、なんと多いことでしょう!彼らは実を熟すに至りません(ルカによる福音書八章十四節、黙示録三章二節と比較せよ)。彼らは決して、「神の麦粒になる」という本来の目的に達しません。「小さな麦の葉が姿を現し始めた」という意味では実がありますが、それは弱く、もろく、成長を阻まれています。
「始まり」のたとえが「実を熟すに至らない」という結末を示している以上、いばらの土地にはもはや全く手のつけようがないのでしょうか?神に感謝します、そんなことはありません。なぜなら他のたとえが、神がどのように実を結ばない魂を取り扱われるのかを述べているからです。いばらの土地からいばらを取り除いて、いのちの種を成熟させることができるのです。
預言者イザヤは旧約の言葉を用いて、いばらを生じさせる生活を対処する神の方法を、生き生きと私たちに見せています(これは第一に、イスラエルについて語られました)。
「万軍の主は、火の燃えるような炎を燃やされる。イスラエルの光は火となり、その聖者は炎となり、そのいばらと、おどろとを一日のうちに焼き尽くす。また、魂から体に至るまでも焼き尽くす。」(イザヤ書十章十六~十八節)
地上のいばらは、かつて神のキリストを苦しめる茨の冠になりました。そしてそれは、彼に従う私たちの道を茨の道にします。このような地上のいばらは、焼かれねばなりません。次の御言葉がその意味を簡潔に示しています。
「聖霊を受けなさい。」(ヨハネによる福音書二〇章二二節) 「人の心を知っておられる神は、彼らに聖霊を与え、彼らの心を信仰によって清めて、彼らのために証しされたのです。」(使徒の働き十五章八、九節)
多くの人は、救い主イエス――永遠のいのちの賜物である主ご自身――を受け入れる時、復活された主の賜物――慰め主なる聖霊――も受け入れられることを知りません!聖霊は、信者に臨んで心を清め、神のキリストの実際を絶えず深く啓示してくださいます。しかし、これを知っている人はわずかしかいません!いのちの種を成熟に至らせるには、聖霊に全存在を治めてもらわなければなりません。
主イエスは、「慰め主が来るとき、彼はわたしについて証しします」(ヨハネによる福音書十五章二六節)と仰せられました。聖霊は、贖い主が成就された御業を証しし、カルバリの十字架の真の内的知識を与え、さらに復活・昇天された主を啓示してくださいます。聖霊は、十字架につけられた方の死を適用することにより、私たちの心を古い欲望から清めてくださいます。また、十字架の力を常に働かせることによって、いばらを生じさせる地的ないのちから私たちの心を分離してくださいます。こうして、天的ないのちが私たちの内で成長し、成熟します。なぜなら、「十字架の言葉は、救われつつある私たちには、神の力だからです」(コリント人への第一の手紙一章十八節)。