第1章 開かれた天

ジェシー・ペン-ルイス

「天が開かれて、私は神の幻を見た。」
(エゼキエル一・一)

「神の幻!」。これは必ずしも、エゼキエルがその現れを見たような外側の幻を意味しません。使徒パウロはエペソ人のために、「あなたたちの心の目」が照らされるように、あるいは「光で満たされる」ように祈りました。これが意味するのは、神の霊は神に属する事柄を「私たちの心の目」に啓示し、いわば「視覚教材」を私たちに与えて、私たちに理解させたいことを教えてくださる、ということなのかもしれません。神はしばしば、聖書中の実際の人物を私たちに示すことによって、これをなさいます。

聖書を開いて、直接的で個人的な神の啓示が様々な人に与えた影響をざっと見ることにしましょう。

創世記二八章はベテルにいるヤコブを描いています。彼が石を枕にして堅い地面の上に寝ていた時、地と天の間にある一つのはしごが彼に啓示され、神との交わりが開かれました。

これは霊的生活の第一段階です。主は天の故郷から遠く離れた荒野にいる私たちを見つけて、はしご、神への道である主イエス・キリストを私たちに示されます。主キリストは、「わたしは道である……わたしを通してでなければ、だれも父のもとに来ることはできない」(ヨハネ十四・六、欄外)と言われました。

創世記三二章二四節で、私たちはヤコブの人生のさらに進んだ段階を見ます。「ヤコブは一人残された。その場所で、一人の人が夜明けまで彼と格闘した」。ここで、主がヤコブのところに下って来て、親密な個人的取り扱いのために彼に近づかれます。ベテルで彼ははしごの頂に主を見ましたが、ここペニエルでは、神の人が彼と格闘し、ついに彼は砕かれた人になりました。主は彼の力の筋に触れました。そしてその後の全生涯、彼はこの個人的な神との接触の跡を身に帯びました。

私たちはこう言えるでしょう。「たしかに私はベテルを知っています。主に近づく道、地と天の間のはしごを主が啓示してくださった時のことを、私は覚えています。しかし正直に言って、まるで神は上の天におられ、自分は下のこの地上にいるようだ、というのがこれまでの経験でした」。

あなたの「ペニエル」が来るのは今週かもしれません。神は親密な個人的取り扱いのために、あなたに近づかれるかもしれません。自分が人々の間で孤独なことに、あなたは気づくかもしれません。まるで神とあなたしかここにいないかのようです。あなたは自分の周りで起きていることをすべて完全に忘れるでしょう。神はあなたをとらえて、あなたの力の筋に触れるでしょう。あれやこれをしようというあなたの決意に、神は触れるでしょう。自分が砕かれた人になったことに、あなたは気づくでしょう。

神の力を持つ「イスラエル」になるには、まず、私たちは神によって真に砕かれて、征服されなければなりません。力を持つことができるのは、私たちが砕かれて、神にしがみつく以外何もできない時だけです。神の多くの子供たちは「砕かれる」ことについて話しますが、実際のところ、とても強いのです。私たちの弱さに応じて、神の力は私たちの内に働き、そして私たちを通して働きます。神に属すると思っていた当のものこそ、実は捨てるべきものであることがわかるかもしれません。自分が最も強く見える所こそ、最も弱いのかもしれません。しかし、神だけがこれを私たちに示せます。

次にギデオンに進んで、神の幻がどのように彼に臨んだのかを見ることにしましょう。ギデオンは小麦をミデヤン人から隠すために、それを酒ぶねで打っていました。「すると主の御使いが彼に現れて言った……主は彼を見て言われた、『あなたのこの力で行き、イスラエルを救え……わたしがあなたを遣わしたのではないか?』」(士師記六・十二~十四)。

ここに、しりごみしている臆病な人に対する神の啓示があります。ギデオンはおののき、悲しみ、イスラエルのために祈っていました。自分が解放のために選ばれた器であるとは、少しも思っていませんでした。主は彼に近づいて、「勇敢な勇士よ」と言われました。彼は、「何によって私はイスラエルを救えばいいのでしょう?」としか言えませんでした。

主が私たち自身の何かを私たちに啓示される時、私たちは他の極端に走り、舞台から身を引いて、攻撃的な働きに出かけるのを嫌がるおそれがあります。

私たちの中には、あまりにも砕かれ、あまりにも神に取り扱われたため、神が召しておられる働きから震え上がって身を引こうとしている人がいるかもしれません。神は有るものを無いものとするために弱いものを選ばれたこと、実に「無きに等しいもの」を選ばれたことを、私たちは忘れています。私たち全員に今必要なのは、ギデオンのように神と出会うことだけなのかもしれません。そうすれば、後にギデオンについて記されたように、私たちについてもこう記されるでしょう。「主の霊が覆った――」そして彼らを「勇敢な勇士たちとして」その奉仕に遣わされた。「自分の神を知る人々は力強く事を成すでしょう」。

ギデオンを少し見た後は、ヨブに向かうことにしましょう。

「ヨブは主に答えて言った。ああ、私はつまらない者です。私はあなたに何と答えることができるでしょう?私はあなたの噂を耳で聞いていましたが、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」(ヨブ四〇・三、四二、四二・五、六)

ヨブの人生の中に、「聖別される」ことの意味を多少なりとも知っている人々に対する、神の啓示の効力を見ることができます。

神ご自身がヨブのことを、「彼は悪を憎んでいる人であり、全き心で神に仕えている」と仰せられました。ヨブの良心は神に対しても人に対しても咎めが無かったので、彼は「私は自分の義を堅く握りしめて、決して手放すまい」と言うことができました。彼の友人たちが彼と論争しましたが、攻撃を受けるいわれはないと彼は主張しました。しかし、それは神の啓示が彼に臨むまでのことでした。彼は神の啓示を受けて、「私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます」としか言えませんでした。

これが示しているのは、長きにわたって神と交わり、全き心で神の御前を歩んだ末に訪れる、神の啓示があるということです。神の大能と神の義の啓示により、「私は自分をさげすみます」と私たちは叫ぶようになります。この啓示を神に関する自分の過去の知識と比べるとき、自分は神のことを耳で聞いていたにすぎなかったが、今、「顔と顔を合わせて」神を見ている、と私たちは感じます。

神がご自身をヨブに啓示された時、「私は自分をさげすみます」が神に対するヨブの唯一の返事でした。ヨブがどのように神と共に歩んだのか、そして神が彼の心の完全さについて何と言われたのかを思い出すなら、これはとても注目すべきことであり、主を知るにつれていっそう深い取り扱いが必要になることがわかります。

また、ヨブの人生から、心が完全だったとしても、無意識の自己義認がかなりあるかもしれないことがわかります!

繰り返しますが、決して忘れえぬ神との出会いがあります。この出会いは私たちを砕くので、私たちは他人を裁けなくなります。唯一の願いが自己を真に消し去られることである地点に導かれるには、長い時間が必要です。その地点に至る時、自分自身を知る知識により、私たちは何事にもでしゃばらないよう注意深くなります。なぜなら、私たちに言えるのは、「私を裁くのは主です」ということだけだからです。

真の自己放棄により、私たちは大いに素直になり、喜んで他人よりも低い地位につくようになって、努力せずともちりに下れるようになります。その時、「自分を低くする者は高くされます」。

再びイザヤについて考えることにしましょう。神の幻は彼にとって何を意味したのでしょう?

「私は主を見た。……そして私は言った、『災いなるかな、私はもうだめだ!私は唇の汚れた者だからだ。……しかも、私の目が万軍の主である王を見たのだから。』」(イザヤ六・一、五)

これが神のメッセージを託される者たちに対する神の幻です。神はエレミヤに言われました、「もしあなたが卑しいことではなく尊いことを言うなら、あなたはわたしの口のようになる」。神の子供よ、あなたは自分の口をただ主の口としてのみ主に用いていただくことに満足を覚えるほど、主に明け渡しておられるでしょうか?これは浅はかな会話をやめることを意味します!

主イエスは「問題児」について弟子たちに話されたことがあったでしょうか?彼はユダについて他の人々と議論されたでしょうか?他の働き人たちにあなたが話を漏らすかもしれないので、あなたに心を開くのを人々が恐れる、という経験をあなたはしたことがないでしょうか?私たちは多くのことを不注意に話しているのではないでしょうか?私たちは「問題児」呼ばわりされることを好みません!信頼する人に自分の本心を打ち明けて、後でそれが他人に筒抜けになっていたことを知るのは、愉快なことではありません。

神に真に占有されることは、実際生活に深く切り込みます。これは、神に私たちの生活全体を、地上におられた時の主イエスの歩みと全く同じにしてもらうことを意味します。舌は神の支配下に置かれる最後の器官のようです。

使徒ヤコブは、神に全く占有されている人かどうかの最高の試金石として、舌を抑えることをあげました。私たちが神との交わりをこれほど多く失ってしまう理由、そして神の臨在の環境からこれほど速やかに出てしまう理由を、彼は私たちに告げます。ヤコブは舌を「船の舵」として描写しています。彼が言うには、舵手が舌を握るなら自分の望むままに体を動かすことができます。ヤコブはさらに、舌は全身を汚し、天然の車輪すなわち天然のいのちを燃やす、と言っています。たとえば、あなたが傷つけられたとします。あなたはそれを話して、自分だけでなく他の人々も燃やします。そして、神聖な臨在の香りを失ってしまいます。

神の啓示がイザヤに臨んだ時、それは彼の唇を対処しました。彼は、「私は唇の汚れた者で、汚れた唇の民の間に住んでいる」と言うしかありませんでした。

舌が神の支配下にあるとき、神は他の人々に関して私たちを沈黙させ、傷について沈黙させ、時として自分の経験についても沈黙させます。キリストの生涯はとても静かな生涯でした。

絶えず神の力の下にとどまりたければ、張り詰めた不自然な沈黙ではなく、神の中に静かに隠れることを学ばなければなりません。神の中に静かに隠れることは、私たちをとても静かにします。そのため、状況がどんなに悪くなったとしても、私たちはとても静穏に保たれて、瞬間的に不親切な言葉が口をついて出てくることはありません。自分の経験、自分の傷、自分の働きについて、もはや人に話す必要がないこと、これが神と共なる深い歩みのしるしの一つです。大いに用いられていても、決してそれを話さないこと、傷つけられ、誤解されても、それを決してだれにも話さないことは、神がどれほど私たちを支配しておられるかを示します。

私たちは神にまみえるためにここに来ました。私たちはヤコブのように神を知っているかもしれません。しかし、一見したところ、主は遙か遠くの天におられるようであり、私たちは地上で主を見上げ、主を求め、もしかするとヤコブのように主の御旨を成就する手助けをするために計画や計略を練っているかもしれません。

私たちが主の足下に集う時、主は私たちに近づいて、それまで思いもよらなかった何らかの力の筋を私たちに示されるでしょう。砕かれていない何らかの強固な点を示された結果、私たちは「主よ私を砕いてください」と叫ぶしかないでしょう。

あるいは、主はあなたに近づいて、「子よ、わたしはすでにあなたを砕きました。今あなたを用いたい時に、あなたは隠れ、おののき、しりごみしています。わたしは弱いあなたを用いて、サタンの要塞を破壊したいのです。来なさい!あなたは自分の弱さから立ち上がって、わたしに身を委ねなければなりません」と言われるかもしれません。

あるいは、あなたはここに来て、「私の知るかぎり、神と私の間には何の問題もありません」と言うかもしれません。これは知らず知らずのうちに、「私は自分の義を堅く握りしめて、決して手放すまい」と言うことです。神はあなたに近づいて、あなたが無意識のうちに自分自身の義にしがみついていることを啓示されるでしょう。神に由来する義なのに、あなたはそれを自分に由来するかのように握りしめています。しかし、神の光の中で、「私は自分をさげすみます」とあなたは叫ぶでしょう。

おそらく、あなたは主の使者の一人でありながら、「自分は断続的にしか神の油注ぎの中にとどまっていません。しかし、その理由がわかりません」と告白しなければならないかもしれません。主はあなたに、「あなたの唇から出た言葉の中に、私が決して授けなかった言葉があるのではないでしょうか?」と言われるかもしれません。するとあなたは、「主よ、それらの言葉は悪いものではありません」と答えるでしょう。「しかし、あなたは必要以上に自分の経験を話さなかったでしょうか?」「主よ、たしかにそれは考えていませんでした。自分に注意を引きつける危険性がわかりました」。すると主は再びあなたに、「わたしがあなたを用いたのはそのとおりですが、あなたはそれをあまりにも言いふらさなかったでしょうか?」と言わなければなりません。「はい、主よ、私はたしかにそうしました。多く話す必要はないという、あのさいわいなイエスの隠れた生活をもっと学ばなければならないことがわかりました。彼が私に御言葉を与えてくださる時、私は語ります。それ以前には語りません」。

以上のことを主のもとに持って行き、私たちの生活のあらゆる領域を永遠の光で照らしてくださるよう、主に求めましょう。主はこれを行ってくださいます。私たちを破壊するためではありません。主に似つかわしくないものを主がことごとく啓示されるとき、私たちが尊い血によって清められるためです。人々にならって自分のために生きるのは、過ぎ去った時で十分です。これからは、私たちの人生は神の御旨のためでなければなりません。