第3章 神の幻と裁き

ジェシー・ペン-ルイス

「私が自分の家に座し、
ユダの長老たちも私の前に座していた時、
主なる神の御手が私の上に下った。」
(エゼキエル八・一)

エゼキエル書八章に行くと、再度それがどのように「神の幻」の思想と調和しているのかがわかります。

私たちに対する解放のメッセージがあります。しかし、話すことを主が願っておられる私たちの真相を、主がすべて語り終えられるときはじめて、私たちはそのメッセージを欲するようになります。主が私たちを深く取り扱えば取り扱うほど、私たちの心の中には主のための場所がますます多くあるようになります。

ユダの宗教的な人々が神について学ぶためにエゼキエルのもとに来ました。しかし、エゼキエルは彼らの前で黙って座していました。彼にはなにも言うことがありませんでした。神がエゼキエルを扱われた方法はとても印象的です。なぜなら、彼は確かに神の御手の中にある人であり、これは真に神の代弁者であることが何を意味するのかを私たちに示しているからです。

神の使者たちは、人々に合わせて楽しいメッセージをすることはできません。神の子供たちが、真に主の御手の中にある使者たちのもとに来て、いわゆる「教え」を彼らに求めるとき、神は、ご自身の民の生活の中になにか悪いものがあるのをご覧になっている間は、「教える」ことを彼らに許されません。

自分自身の能力に頼って、「期待されている」からという理由で、神から与えられたのではないなんらかの「話」をすることは、とても大きな誘惑です。

ユダの宗教的な人々は、主の御言葉を聞くためにエゼキエルの前に来ました。そして彼らが座ったとき、主の御手がエゼキエルの上に下り、神は「わたしはあなたに悪しきものを見せよう」と言われました。次に、神は彼にとてもびっくりするメッセージを与えられました。もし、人を恐れる恐れよりも神を恐れる恐れの方がエゼキエルにとって現実的でなければ、彼は神に対して真実であることはできなかったでしょうし、そのようなメッセージを与えることもできなかったでしょう。

エゼキエルは自分の経験を次のように描写しています。「主なる神の御手が私の上に下った。私が見ると、見よ、火のように見える姿があった」(一、二節)。

新鮮な神の啓示がこの預言者に与えられました。彼は自分の見たものを描写するのに、どんな類の言葉を使えばいいかわかりませんでした。それは「火のように見える」ものだった、としか彼には言えませんでした。「私たちの神は焼き尽くす火です」。

人々のもとに行って、「私はこう思う」ではなく、「神はこう言われる」と言える神の使者たちが今日必要です。クリスチャンたちがやって来て、「あなたの見解はいかがでしょう?」と言うかもしれません。しかし、「こう記されています」と率直に喜んで言う人が、私たちの間にどれくらいいるでしょう?多くの声のせいで、世界は混乱の中にあります。ああ、神の慰めの力を持つ、「主はこう言われる」という声を、人々はどれほど切望していることでしょう。

エゼキエルに対して、「そこで神の御手が彼の上に下り」ました。神の束縛する御手の下ではじめて、彼はユダの長老全員に立ち向かうことができました。そして、与えうる最も恐ろしいメッセージを彼らに与えて、聖なる事柄における彼らの罪を取り扱うことができました。

彼らは「自分たちは全く正しい」と安心していました。彼らは神の民だったのです!そしてここに、焼き尽くす火である神について彼らに告げる、この一人の人がいました。

さて、主が宗教的な人々に語るようエゼキエルに与えられた言葉を見ることにしましょう。彼のメッセージは第一にイスラエルに対してでしたが、それは今日の私たちに対するメッセージでもあることを、私たちは覚えておかなければなりません。

「彼は手の形をしたものを伸ばし(中略)御霊が私を持ち上げて(中略)神の幻のうちに私をエルサレムへ連れて行き、内庭の入口へ連れて行った。(中略)そこには、ねたみを引き起こす、ねたみの偶像の座があった。」(三節)

恵みの時代、神の子供たちは今や神の宮です(二コリント六・十六)。パウロはローマ人に書き送ったとき言いました、「あなたがたは偶像を忌み嫌っているのに、そのあなたがたが汚すのですか?」。異教的であるという理由で外側の偶像崇拝を避けていても、神の宮である自分たちの体を汚しているかもしれないのです。

私たちの入口にはどんな像が立っているでしょう?自己の像でしょうか、それともキリストの像でしょうか?他の人々は、神のねたみを引き起こす、あの大きな巨像の「私」を見ているのではないでしょうか?神はねたみの神です。私たちのうちに住んでおられる御霊は、ねたむほど私たちを慕っており、私たちをご自身だけのものにすることを欲しておられます。

私たち自身の大きな巨像があって、だれでも見れる入口に立っているのではないでしょうか?それが神の場所を奪って入口を塞いでいるせいで、神は私たちを通してご自身を現せないのではないでしょうか?

「彼は私に言われた。『人の子よ。あなたは彼らのしていることが見えるか?イスラエルの家はここで大いに忌み嫌うべきことをしているので、わたしはわたしの聖所から離れなければならないのではないか?』」(三節)

主は入口にある像を「忌み嫌うべきもの」と呼んでおられます。

「『あなたはなおまた、大きな忌み嫌うべきものを見るだろう』。それから、彼は私を庭の入口に連れて行った。私が見ると、見よ、壁に一つの穴があった。彼は私に言われた、『人の子よ、さあ、壁を掘れ』。私が壁を掘ると、見よ、一つの入口があった。彼は私に言われた。『中に入り、彼らがここで行っている悪い忌み嫌うべきことを見よ』。そこで私は中に入って見た。すると見よ、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に描かれていた。」(六~十節)

これは私たちにどう適用できるのでしょう?はうもののあらゆる像!これは確かに、地について、そして地上のものに占有されることについて、私たちに告げています。神は私たちを、走っても疲れず、歩いてもたゆまないようにしてくださるというのに、飛ぶ代わりに這い、翼をかって上る代わりに四つんばいで這うのです。地上のものが私たちの心を占めており、回りの壁一面に偶像が描かれているのです!

おそらくあなたは、「これは自分とはなんの関係もありません。神が私を清めて満たしてくださった数年前に、神はこれらのものを対処してくださったからです」と言うことができるでしょう。しかし、きわめて巧妙な形で、この中のあるものは今なおそのとおりかもしれません。読み続けましょう――

「彼は私に言われた。『人の子よ、あなたは、イスラエルの家の長老たちが暗闇の中、各々の想像の部屋の中で行っていることを見たか?』」(十二節)

想像の部屋!あなたは自分の想像を暴れ回らせたことはあるでしょうか?それは主が対処しなければならない最も困難なものの一つです。不健康な想像から、自己耽溺や非常に多くの悪いものが飛び出すおそれがあります。

彼らが暗闇の中で行っていること」と主はエゼキエルに言われました。想像の部屋の中では光が不足しています。あなたが主を知るようになる時、次のことを思い出してください。すなわち、悪魔は最高に巧妙な欺きを携えてやって来て、祝福された霊からのもののように見えるけれども、実際は光の天使を装うサタンから来た思いを、あなたの心の中に入れようとするのです。

今日の危険を切り抜ける上で、日々実際的に行動されたイエスに専念することほど、私たちの助けになるものはありません。絶対的に誠実であること、すべての行いにおいて正直であること、他人に関して不親切な言葉を話さないことを追い求めましょう。隣人たちや彼らの霊的経験さえも、決して噂しないようにしましょう。いかなる状況下でも、決して彼らのことを論じないようにしましょう。そして、神の御言葉に沿ってまっすぐに歩みましょう。

キリストと共に十字架につけられたことについて現に話しているにもかかわらず、想像の部屋の中で巧妙な自己耽溺に耽っている人に関して、神は「彼らが暗闇の中で行っていることを見よ」と言わなければならないでしょう。あなたは暗闇の中で何をしているのでしょう?あなたはどのような思いを許しているのでしょう?心は、それを治める神の力を必要とします。私たちの多くは「私のは真実です」と言います。そうかもしれません。しかし、新しくされておらず、救いのかぶとの下に保たれていない思いから生じる誤解に気をつけなさい。

あなたの想像力が昨日に逆戻りするのを決して許してはなりません。今、神と共に単純に真っすぐ歩みなさい!主にふさわしくないと思われる考えや自分の口から出た言葉に気づいたら、その瞬間直ちに、「主よ、尊い血の力を適用してください」と言いなさい。

今日、あなたは何をしているのでしょう?昨日や先週のことを考えているのでしょうか?あなたは自分の心に、三ヶ月前にくぐり抜けた苦難を思いめぐらすことを許しているのでしょうか?だめです、過去に逆戻りしてそこにとどまることを、決してあなたの心に許してはなりません。また、「来週はどうなるのでしょう」「あれこれ不安です!」と考えて、あなたの想像力が先走るのも許してはなりません。

「彼は私に言われた。『あなたはなおまた、彼らが行っている大きな忌み嫌うべきことを見るだろう』。そして彼は私を主の宮の門の入口へ連れて行った。(中略)すると見よ、女たちがタンムズのために泣きながら座っていた。」(十三、十四節)

神に対する罪のために流される涙より、悪い行いの結果のために流される涙の方が多いのです。あなたは、自分がしでかしたことに対する苦い涙と共に、主のもとに行きました。その涙の背後には何があるのでしょう?あなたは不幸な時間のゆえに自分をあわれんでいるのでしょうか?それとも、キリストの心に痛みを与えてしまったことを、本当に悲しんでいるのでしょうか?罪や神の栄光に欠けるすべてのものを、イエスの心を傷つけるものと見なすことを、あなたは学んだでしょうか?罪が主に対して何を意味するのかを思って泣く代わりに、苦難のせいで失ったもののために泣くことを、主は「忌み嫌うべきこと」と呼んでおられることに注意してください。

罪が私たちの神に及ぼす痛みを嘆き悲しめるほど、私たちは罪に対して敏感でしょうか?これは神の他の子供たちに対するあなたの関係を、大いに変えます。神の他の子供のために神が悲しんでおられる時、あなたは自分の部屋に行って泣くよう迫られるかもしれません。そのような時、あなたはこれまで、あのイエスの心と一つにされたことはあるでしょうか?

もし神の子供のだれかの中に神の栄光に欠けるものがなにかあるなら、それは私たちにも関係します。なぜなら、それはイエスの心を傷つけるからです。どうして私たちはこれを見逃せるでしょう?私たちは彼のからだの他の肢体たちと共に苦しむべきです。そして、砕かれた心を持たずに、決して彼らの悪行について話してはなりません。

この女たちは何のために泣いていたのでしょう?自分たちのためです!ああ、主が私たちを、私たちの偏狭で狭量な自己から、私たちの住まいである主ご自身へと引き上げてくださいますように。主の御心と一つにされて、主の叫びと涙を知ることができますように。主のゲッセマネと主の十字架を知ることができますように。「わたしには受けなければならないバプテスマがあります」と主は言われました。主の中には、ご自身を死に向かわせる愛がありました。主は言われました、「それが成就されるまで、わたしは苦しみます」。死を通して、ご自身のいのちが死にかけているこの世に解放されることを、主はご存じでした。

「彼は私に言われた。『あなたはこれよりも大きな忌み嫌うべきことを見るだろう』。そして、彼は私を主の宮の内庭に連れて行った。すると、(中略)玄関と祭壇の間に人々がおり、彼らは主の宮に背を向け、顔を東の方に向けて、東の方の太陽を拝んでいた。」(十五、十六節)

これは私たちにとって霊的に何を意味するのでしょう?私たちの礼拝を探る神の光です。私たちの礼拝の中に罪はないでしょうか?私たちの聖なる事柄の中に冒涜はないでしょうか?ああ、静かで恭しい敬虔な畏れの代わりに、聖なるものに関する軽率なおしゃべりがあります。他の人々の名前を用いるのと同じように、主の御名が軽率に用いられています。これは、主の御名を口にするべきではない、ということを意味するのでしょうか?そうではありません。しかし、主の御名を口にする時、聖なる方の臨在を失わないよう、恭しい静けさが私たちになければなりません。

「至聖所」という言葉を口にする時、それはどんな意味を伝えているのでしょう?「経験」でしょうか?断じてそうではありません!至聖所は御使いたちが神の御前で顔を覆う場所であり、主イエスの血がなければ、私たちがあえて足を踏み入れない場所です。

今日欠けているものがあるとするなら、それは敬虔な畏れ、敬虔な恐れです。「わたしが目をとめる者は(中略)わたしの言葉におののく者である」。そうです、神はあなたの中に、神の御言葉におののく敬虔な畏れを生じさせることができます。どうか主が、神に属する最も深遠で厳粛な事柄に対する冒涜から、私たちを解放してくださいますように。

「彼は大声で私の耳に叫んで言われた、『この町を罰する者たちを近づけさせよ』。」(九章一節)

彼はこれらのことをすべてエゼキエルに示し、「わたしはそれらを対処しなければならない」と言われます。

「すると見よ、六人の男が上の門を通ってやって来た。おのおの、ほふるための武器を手にしていた。一人の人が亜麻布の衣を着、わきに書記の筆入れをつけて、彼らの中にいた。彼らは入って行き、青銅の祭壇のそばに立った。」(九章二節)

青銅の祭壇は十字架を象徴します。裁きを求める大声に応えて、このおごそかな行列が青銅の祭壇に向かうのを見なさい。主は筆入れを持つ人に言われました、

「町の中を行き巡り、この町の中で行われているすべての忌み嫌うべきことのために嘆き、叫んでいる人々の額にしるしをつけよ。」(九章四節)

彼は人々のために悲しんでいるすべての人にしるしをつけ、これらすべてのことのために叫び、嘆いているすべての人にしるしをつけました。

「他の者たちに彼は言われた、『彼のあとについて町の中を行き巡り、打て。(中略)しかし、あのしるしのついている者には近づいてはならない。わたしの聖所から始めよ』。」(九章五、六節)

主は罪を裁かなければなりません。主は確かに青銅の祭壇――カルバリの十字架――で罪を裁かれました。しかし今、ほふるための武器がその働きをしなければなりません。キリストの十字架はほふるための武器です。キリストの死の力は刀のように私たちに臨んで、聖霊により適用されなければなりません。

主はあなたにしるしをつけてくださったでしょうか?主を告白する今日の教会の中にあって、あなたはこれらのことのために嘆いている人々の一人でしょうか?

今日、神の子供たちの間に、ねたみを引き起こすあの大きな像は現れていないでしょうか?神の子供たちは地のはうものに占有されていないでしょうか?神の宮の中に冒涜はないでしょうか?主は記録を取っておられ、すべてを見ておられます。その記録を携えて主は来臨されるでしょう。そうです、裁きは今も神の家から始まるのです。