第4章 十字架と解放

ジェシー・ペン-ルイス

「キリストの愛が私たちに押し迫っています。
なぜなら、私たちはこう考えているからです。
一人の方が死なれた……。」
(二コリント五・十四)

コリント人への第二の手紙に向かって、エゼキエル書の主の御言葉と好対照をなすメッセージを見ることにしましょう。

主は御光を私たちに当てて、「私はつまらない者です。私は自分をさげすみます」と叫ぶしかできない所に、私たちを導かれました。今、主は、私たちを生かすいのち、その源と結果に光をあてます。

コリント人への第二の手紙五章十四節「キリストの愛が私たちに押し迫っています」という御言葉の中に、私たちは新しいいのちの原動力を見ます。「押し迫る」という言葉はギリシャ語原文では、堤防を決壊させて、その前にあるすべての障害物を打ち破る、一つの奔流を表します。

これは、今朝私たちが見た、自分のために泣き、自分を生活の中心とする、偏狭で利己的な自己の絵図の反対です。

この節で、私たちに押し迫っているのは、キリストに対する私たちの愛ではなく、キリストご自身の愛であることに、よく注意しましょう。神が「そのひとり子をお与えになったほど世を愛された」時、神の御心の中にあった愛です。

イエスがおられなかった間、天はどうなっていたのでしょう?御父のひとり子が人の姿でこの地上を歩むのを見た時、御使いたちはどう思ったのでしょう。彼は私たち人類の制約の下に身を置き、一歩一歩へりくだりの道を歩まれました。そして、彼はご自身が造った被造物にご自身を渡して、その手の中に力無く横たわりました。そして、彼らがご自身を恥の十字架に連れて行き、そこに釘付けるのに身を任されました。

ああ、あなたや私のためにひとり子を与えてくださった御父の愛。故郷を離れて、この貧しい世に来てくださった御子の愛。ああ、朝から晩まで人々のために身を捧げ尽くした愛。罪人たちを引き寄せた愛。罪人を受け入れて、一緒に食事をした愛。カルバリへの道を歩み通した愛。恥をものともせず、十字架を堪え忍んだ愛。

私たちの愛はあらゆる点で挫折します。キリストに対する私たちの愛はとてもちっぽけです。しかし、もし私たちがあの力強い愛の奔流の水路になることができてさえいれば、この状況は変わっていたのではないでしょうか?あの愛の奔流は、御父から発し、御子において現され、死にかけている世に向かって流れました。私たちを通して広範囲に及び、すべての障害を打ち破る、キリストの愛を考えてみてください。

愛されている者よ、使徒パウロが注ぎ出された生活を送れたのは、この素晴らしいキリストの愛のおかげでした。キリストを見るなら、彼が神の聖なる方であることを忘れることはできません。しかし、自分を「罪人のかしら」と呼んだ使徒パウロを思う時、いかにキリストの愛が「罪人のかしら」さえも力づけられるのかがわかります。

自分をむち打ってこの愛に到達するのは不可能です。私たちは、「自分はなんと悪い人間だろう」と言い、「私は自分をさげすみます」と告白するかもしれませんが、旧態依然として利己的かもしれないのです。

この新しいいのちはどのように私たちの中で現実のものになるのでしょう?もう一度十四節を読みましょう、「キリストの愛が私たちに押し迫っています。なぜなら、私たちはこう考えているからです。一人の方がすべての人のために死なれた」。

パウロはカルバリに向かいます。死なれた方に向かいます。パウロの心を砕き、彼を通して神の愛の奔流を解き放ったのは、カルバリの幻でした。カルバリは私たちにとって現実的ではない、というのはそのとおりではないでしょうか?私たちは十字架について歌い、十字架について話します。そうです、私たちは十字架に関する最もおごそかな賛美歌を歌うのですが、少しも感動しません。一粒の涙の跡すらないのです!聖霊が十字架を私たちにとって現実のものにしてくださるなら、十字架について言及されるたびに、それは私たちの内側にある深い泉に触れるような働きをするでしょう。

パウロが送った生涯の秘訣はすべて、彼が見ていたカルバリの眺めにあります。彼は主イエスが亡くなるのを実際に見たことはありませんでした。これをあなたは覚えておられるでしょう。彼は(ペテロのような)「イエスの苦難」の目撃者ではありませんでした。それなのに、パウロがあのように十字架を宣べ伝えたのはどうしてでしょう?それは、決して忘れられない十字架の内なる幻を、神が彼に与えられたからです。

パウロが初めて十字架を見たのはいつでしょう?一時の間、使徒の働き七章五九、六〇節を見ることにしましょう。「彼らがステパノを石打ちにしている時、ステパノは主を呼び求めて言った、『(中略)主よ、この罪を彼らに負わせないでください』」。これは、ご自身を十字架に釘付ける者たちのために祈った時の主イエスの言葉とほぼ同じです!「そして証人たちは、自分の衣をサウロと呼ばれる若者の足もとに置いた」。

パリサイ人サウロは、殉教者ステパノの中に、十字架につけられたイエスの霊を見ました。それが彼を絶えず悩ませたことは確かです。それが彼を悩ませば悩ますほど、ますます激しく、彼は十字架につけられたナザレ人に従う者たちに敵対しました。しかし、彼が憤りながらダマスコへの道を進んでいたその日、彼は生けるキリストに出会いました。キリストは彼に言われました、「サウロ、サウロ、とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことです」。ステパノの中に見たイエスの霊の光景が彼の心に焼き付き、彼を捕らえました。そして、ついに彼は生ける方、復活したキリストに出会いました。これがパウロを変え、私たちの人生を変えたのです。

これを幻と呼べるのでしょうか?私は「幻」という言葉を使うことにこだわりません。なぜなら、この言葉は何か外面的なものを連想させるかもしれないからです。カルバリとキリストの死の啓示を私たちの心に与えてくださるのは、たしかに神の霊です。私たちはその啓示を決して失いません。そしてそれ以降、その啓示が私たちの人生を支配します。

パウロの心と人生にとって、十字架は大いなる現実でした。そのため、彼の書き物の中には、常に十字架の思想が織り込まれています。素晴らしいことに、主イエスご自身がご自分の死の意義をパウロに説明されました。パウロがガラテヤ人に言ったことを読んでください、「私が宣べ伝えた福音は人によるものではありません。(中略)それはイエス・キリストの啓示を通して私に臨んだのです」(ガラテヤ人への手紙一章十一、十二節)。パウロは、メッセージを主イエスから直接受けた、とはっきり述べています。栄光を受けた主、御手に苦難の跡を持つ方が、パウロにご自身の十字架を説明されたのです。これを考えてみてください。「それはイエス・キリストの啓示を通して私に臨んだのです」。

「キリストの愛が私たちに押し迫っています。なぜなら、私たちはこう考えているからです。一人の方がすべての人のために死なれた」。ここでとてもはっきりと、身代わりについて述べられています。カルバリの身代わりをないがしろにしている人たちは、復活した主に会う時、何と言うのでしょう?神に感謝します。私たちはそのメッセージが真実であることを証ししました。また、私たちは十字架の血を通して平和を得ていることを知っています。

しかしまた、こうも書かれています、「一人の方がすべての人のために死なれたからには、すべての人が死んだのです」。自分はカルバリの十字架上のキリストの死に結ばれている、とパウロは見なします。彼の心を照らす光と共に、「十字架は私の場所でもある」という確信が聖霊によって彼の心に与えられました。

十字架を負うことについて話すとき、私たちは何を言わんとしているのでしょう?「だれでもわたしについて来たいなら、自分を否み、自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい」と話された時、主イエスは十字架への途上にありました。

弟子たちに話す時、主はごく身近な例を使われました。弟子たちは、エルサレムの犯罪者たちが十字架を担い、城壁の外で十字架につけられて死ぬのを当時見ていました。主イエスが「自分の十字架を負いなさい」と言われた時、彼は弟子たちにこう言っているかのようでした、「時が来て、わたしが十字架を担い、それに付けられて死ぬのをあなたたちが見る時、あなたたちの道も同じでなければならないことを思い出しなさい。あなたたちも十字架を負い、わたしのように、そしてわたしと共に、自分のいのちを捨てて、十字架上で死ななければならないのです」。

私たちはささやかな困難をすべて「十字架」と呼んできましたが、真に十字架を負うことはもっとそれ以上の意味があります。それは、キリストの十字架を負うことに同意して、キリストがそれに対して死なれたすべてのものに対して、キリストと共に死ぬことを意味します。それは、キリストの死を私たちの死として受け取ることです。それは、キリストにとって死が何を意味したのか、その意義に完全に同意することです。それは、十字架上でキリストから分離されたすべてのものから、キリストの死は私たちを分離するということです。そうです、真に十字架を負うことはあまりにも多くのことを意味するため、私たちは一生その深さを発見し続けるでしょう。

さらに、私たちはキリストの十字架を負い、キリストが死なれた時にキリストと一体化されたことを信じるだけでなく、キリストの死の力に明け渡します。それは、キリストの死の力が日ごとにますます深く私たちの内に働いて、ついには私たちの存在のすべての部分が全くキリストに同形化されるためです。

「キリストの愛が私たちに押し迫っています。なぜなら、私たちはこう考えているからです。一人の方がすべての人のために死なれたからには、すべての人が死んだのです。」

キリストの死の恩恵を受けた人はみな、キリストと共に死にました。これはなんとはっきりと書かれているのでしょう。これは私たちの内にある神のいのちの基礎です。この基礎をはっきりした確かなものにしないかぎり、私たちは屋根から建てることになるでしょう。古いいのちの上に新しいいのちを加えようとしている神の子供たちは、どれくらいいるでしょう?新しいいのちのための場所を設けるために、古いいのちは十字架に行かなければならないことを、彼らは見ていません。悲しいことですが、飾り立てられて新しいいのちのように見える、おびただしい古いいのちによって生きることも可能です。古いいのちが、事実、新しいいのちの言葉を用いることがあるのです。

古い生活方法に属していると神から示されたものは何でも、私たちは喜んで十字架に明け渡すでしょうか?直ちに神の御言葉を受け入れましょう。生きているというのは名ばかりで、依然として死んだ働きを多かれ少なかれ産み出してしまうことほど、深刻なことがあるでしょうか?ああ、聖潔という名目の下で、そうしてしまうおそれがあるのです。キリストと共に喜んで十字架の上に身を置きさえすれば、そして十字架が私たちの間で真に実際のものとなるよう、喜んでキリストに働いてもらいさえすれば、神のいのちと愛の奔流が内側に流れ込んで、私たちの存在全体を満たすでしょう。

しかし、もう一度読みましょう、「すべての人が死んだのです。そして、彼がすべての人のために死なれたのは、生きている者が……!」。神に感謝します。聖書では、死と復活は決して別々ではありません。「彼がすべての人のために死なれたのは、生きている者が、もはや自分自身にではなく、彼に生きるためです」。これはさいわいな結果です!今から後、自分自身に生きる代わりに、神に生きます。今から後、朝も昼も夜も、神に生きます。こうして私たちは日々、信仰の足でこの二つを踏みしめて歩みます。「主よ、私は古いいのちを十字架に渡します。そして、自分のいのちの代わりに、あなたのいのちを取ります」。

私たちの多くはかつてこの立場を取りました。しかし、毎瞬このように行動しなかったため、それを失ってしまいました。一度だけでは不十分であることを、私たちは忘れています。「イエスのいのちが現されるために、絶えずイエスの死を身に帯びて」いなければなりません。私たちは、十字架の基礎を明確なものに保たなければなりません。最初から、二つの面が一緒でなければなりません。その二つの面とは、死から出たいのちと、全行程にわたっていのちの基礎である死です。

キリストと共に自分の立場に立った後、私たちは断固として古いいのちを死に渡さなければなりません。この時、悪魔は言うでしょう、「自分は十字架につけられた、とあなたは言わなかったでしょうか?それでは、あれやこれはどういうことでしょう?それは自己ではないのでしょうか?」。その時、私たちは正しく率直に言わなければなりません、「私はそれをすべて十字架に渡しました。そして、『私はキリストと共に死んだ』という神の御言葉の立場の上に絶えず立ちます。、これは私の自由意志であり、選択です。私はこの自己の現れを死に渡し、それからの解放を求めます」。

これは理論ではありません。これは証明済みです。毎瞬この基礎に基づいて進むなら、私たちは絶えずキリストの死に同形化されるでしょう。なぜならあなたは、キリストの死は自分のものであるという信仰の立場を取らなければならないだけでなく、実際にキリストの死に徹底的に同形化されなければならないからです。このように据えられている土台の上に立つ時、イエスの霊は毎日あなたを満たすでしょう。小羊の霊があなたを通してますます現されるでしょう。そしてあなたは、かつて自分自身のために戦った場所で、今やイエスの霊が治めてくださるのを見て驚くでしょう。

これが神の解放の道です。これが私たちを自己から引き上げて新しい領域にもたらす神の道であり、実際生活の中でイエスの霊といのちをさらに知るよう私たちを導きます。

「キリスト・イエスの中にバプテスマされた人はみな、彼の死の中にバプテスマされたことを、あなたたちは知らないのですか?」(ローマ六・三)

彼が探照灯で内側を照らし、私たちの姿を私たちに見せてカルバリに向かわせる時、それは大いなる解放ではないでしょうか?キリストの死のゆえに神に感謝します。「あなたはキリストの死の中に植えられた」と神は仰せられます。「それは、キリストが死者の中からよみがえられたように、私たちがいのちの新しさの中を歩むためです」。私たちは、「キリストは私たちのために呪われた者となって、私たち呪われた者たちを十字架に連れて行かれた」と告げる神の御言葉に専念するよりも、あまりにも見なすことに専念してきました。

どうか主が、キリストの十字架を知るさらに深い知識の中に私たちを導き、キリストのいのちを現すための場所をさらに広げてくださいますように。これを少ししか知らないのに、「自分はこれをすべて知っている!」と思い込む過ちを、私たちは犯しています。「私はキリストと共に十字架につけられました」と、あなたは確信をもって言うことができます。しかし、その意味の深さをまだ知らないのも確かです。

ただこの基礎に基づいてのみ、神の光と愛は私たちの中に流れ込むことができます。キリストの死が聖霊によって私たちの内に働くことに同意する時だけ、そのいのちの奔流はその水路に立ちはだかるものをすべて洗い流せます。「あなたたちから生ける水の川々が流れ出るでしょう」。

人々はキリストの愛を待ち望んでいます。私たちはそれについて話し、「私はあなたを愛しています!」と言います。しかし、その愛はなんと冷たく、なんと現実離れしていることか。自然に無意識のうちに自分を費やし尽くさせる愛を、私たちは必要としています。世界はそれを欲しています。私たちは中に油が入っている石膏の壺のようです。壺は砕かれる必要があります!

乱暴な例として、水が入っている二つのコップを考えましょう。二つとも透明なコップですが、一緒に置くとなんと硬いことか。互いに接触すると、なんとやかましいことか!コップを割って、中の水を一緒に流すなら、やかましさや硬さはなくなり、ただ一つになります。これと同じように、神が私たちを偏狭な自己から引き上げてご自身の中にもたらされる時、私たちは一つ御霊の中へと共に流れて行きます(イザヤ六五・五)。神の子供たちがこのさいわいな生活を自分たちの家庭や世の中で送るなら、人々はどれほど栄光の主に引き寄せられることでしょう。

人々がキリストから離れる時、それは大抵、私たちの何らかの過ちによります。これを悟ることが最も重要です。もし私たちの回りの人々がキリストに魅了されず、キリストに引き寄せられないなら、それは器のせいにちがいありません。それは確かに、器の中に住んでおられる生けるキリストのせいではありません!私たちが暮らしている所でイエスが生きてくださるなら、人々は感動して溶かされないでしょうか?もちろん、彼らは感動して溶かされるでしょう。それでは、イエスは私たちにあって生きることを望んでおられるのに、どうして彼は私たちが暮らしている所で生きておられないのでしょうか?

さあ、これについて議論したり規定したりするのではなく、信仰によって率直に言いましょう、「私はキリストの死を自分のものとして受け入れます。私は自分の家に戻って毎瞬言います、『主よ、あなたの死は私の死であり、あなたのいのちは私のいのちです』」。

これが、自分の内にある自己を顕わにする、あらゆる恐ろしい暴露に対する答えではないでしょうか?これは、私たちが自分に絶望している時、私たちのところに垂らされる一本の紐のようです。これは私たちをキリストとの合一の中に引き上げる力です。キリストの光と愛が毎日私たちを通して流れ、私たちは十字架につけられた私たちの主の傷跡を身に帯びます。私たちは偉大な経験を渇望せず、十字架につけられたイエスの霊が私たちを通して現される歩みに満足します。家庭の中で、私たちは多事争論するのをやめて、すべての人の僕となられた方と共に歩んで生活することを静かに学びます。