第6章 土の器の中にある天のいのち

ジェシー・ペン-ルイス

「神は私たちの心の中を照らして、
イエス・キリストの御顔にある
神の栄光の知識の光(照らし、欄外)を与えてくださいました。
しかし、私たちはこの宝を土の器の中に持っています。
それは、その力の卓越した偉大さが神のものであって、
私たち自身からではないことが現れるためです。」
(二コリント四・六、七)

コニーベアの七節の訳はとても美しいです。「この宝は脆い土の体の中に宿っています。それは、(働きを成就する)その卓越した力が神のものでなければならず、私たち自身のものであってはならないからです」。

コリント人への第二の手紙一章のパウロの経験の中に、私たちは脆い土の体と、その体における、またその体による、困難に際しての天のいのちの現れを見ます。キリストの復活の中で真にキリストとの合一を知るとき、私たちは決して落胆することはないし、悲しげに見えることもない、と思っている人もいるでしょう!しかし、パウロがこれらの節を書いた時、彼が困難の中で落胆していたかどうか見ることにしましょう。彼は涙を流したことがなかったのでしょうか?

「兄弟たちよ、アジアで私たちにふりかかった艱難について、あなたがたに知らずにいてもらいたくありません。私たちは極度に、耐えられないほどに圧迫されて、生きる望みさえ失ったほどでした。実に、私たちは自ら、自分自身のうちに死という答えを持ちました。それは、私たちが自分自身にではなく、死人をよみがえらせてくださる神に信頼するためでした。」(二コリント一・八、九)

使徒パウロは、耐えられないほど「極度に圧迫」され、「生きる望みさえ失った」ほどだった、と述べています。これは土の器に対する重圧です。どこに私たちは天のいのちの現れを見るのでしょう?「私たちの慰めもまた、キリストを通してあふれています」。苦しみや圧迫と共に天の慰めが与えられました。その慰めにより、彼は艱難の中で勝利することができたのです。

それが天の慰めであることは、どのように現されたのでしょう?もう一度読みましょう。「私たちを慰めてくださる方(中略)それは、私たち自身が、神によって慰められているその慰めを通して、あらゆる艱難の中にいる人たちを慰めることができるようになるためです」。この言葉は、パウロの無私の心をなんと表していることでしょう!極度の困難の時に、彼は自分自身を忘れ、自分の苦しみを通して、人々を慰めるのにいっそうふさわしい者になれることを喜びました。「私たちが艱難に遭うなら、それはあなたがたの慰めのためです。(中略)私たちが慰められるなら、それはあなたがたの慰めのためです。その慰めは、私たちが受けているのと同じ苦難を耐え忍ぶことの中で働くのです」と彼はコリント人に書いています。

私たちは、あらゆる面で砕かれている心に対する天の油の流れの経路となることよりも、キリストのために働くことを重んじているのでしょうか?

私たちはキリストの復活の力を知ることを願います。その実際生活における現れを、私たちはこの一つの器に垣間見ます。この器は慰めを注ぎ出し、自分に臨むあらゆる苦難の中で喜びます。苦難は人々を理解して助けることができるようにします。なぜなら、もし自分自身で苦しんだことがないなら、どうして私たちは人々を理解して助けることができるでしょう?

主は、たとえ外側のすべてが繁栄しているように見える時でも、私たちをご自身の苦難の交わりの中に導く素晴らしい方法を持っておられます。きわめて繁栄しているように見える生活でも、その背後にはきわめて深い苦難が潜んでいる場合があります。主はどうにかして、私たちに苦難の交わりを教えなければなりません。さもないと、私たちはたいして役に立てません。私たちはあまりにも、喜びに満たされる側にとどまっています。しかし、忘れないようにしましょう。私たちの周りには心を砕かれた人がいるのです。また、もし彼らに対する神の慰めの経路になりたければ、経験的に苦難について学ばなければならないのです。

パウロは九節で、なぜ神がこのすべての圧迫を許されたのかを私たちに告げます。「これは自分自身の内なる死である、という答えを私は得ました」。彼はまるでこう言っているかのようです、「主は私を、なにもする力がない所に連れて行かなければなりませんでした。この徹底的な弱さと無力さの中から、私は死人をよみがえらせてくださる神に頼らなければならなかったのです」。

私たちは徹底的弱さの場所に、自分自身の能力、「忍耐力」さえも尽き果てる場所に、連れて行かれたことはあるでしょうか?主は時々、私たちの幾人かが持っている途方もない忍耐力を取り去ることにより、以前なら全く不可能だったような方法で、私たちを通して他の人々を砕くことができます。

神が私たちを通して他の人々を砕けるようになるために、神に私たちを砕いてもらうことは、素晴らしいことです。砕かれていない殻の下に自分の最も深い感情を隠す力を失ってしまったことを悲しんでいる人が、私たちの間におられるでしょうか?自分の部屋に一人でいる時は、主の御前で泣き崩れても、私たちは気にしないかもしれません。そして、微笑みとともに出てきて、「全く大丈夫です!」と言えれば、それは輝かしい勝利だと思うかもしれません。しかし、土の器は砕かれなければならないのです。それは、この砕かれた器を通して、その中心にあるいのちが流れ出て、他の人々を主の足下で砕けるようになるためです。

きわめて麗しい生活を送っているのに、決してあなたの心に触れたことのない人々を、あなたは思い浮かべることができるのではないでしょうか?彼らの経験はあなたを遙かに上回っているようですが、彼らに会う時、あなたの目に涙は浮かばず、心も溶かされません。なぜでしょう?それは、内側にあるいのちが自然に人々に真に流れるようになるには、なおも砕かれる必要があるからです。

私たちを砕く出来事が私たちに臨むのを神はどうして許されるのだろう、と私たちは怪訝に思います。そして、「元気を取り戻す」力を失ってしまいます。パウロの生涯からわかるように、彼の祈りがかなえられて、キリストの苦難の交わりを知るようにされ、キリストの死に同形化された時、彼は大いに成熟し、深められ、他人に対して見事なまでに優しくなりました。

私たちは知覚可能ななんらかの経験――突然私たちを引き上げて、霊的高台の上に置き、ずっとそこにとどまらせる経験――を求めているかもしれません。しかし、真の生活は瞬間瞬間の信仰生活です。力の感覚は無力さの感覚ほど強くありませんが、神の復活の力を信じる信仰による生活です。神の復活の力は、弱さの中にある私たちを引き上げて、不可能なことを行えるようにします。

二章には、パウロがコリントの教会の数人の神の子供たちに書き送って、彼らを叱らなければならなかったことが記されています。彼は自分を高みに置いて、「あなたがたは間違っています」と厳しく言ったでしょうか?

いいえ、彼はとてもやさしく書き送りました。「多くの艱難と心の苦しみから、多くの涙をもって、私はあなたがたに書き送りました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対してさらにあふれるばかりに抱いているを、あなたがたに知ってもらうためでした」(二コリント二・四)。私たちはここに、神に対する責任を果たしているパウロを見ます。しかし、彼はそれをイエスの霊の中で、心の苦しみと多くの涙をもって行います。

家庭で子供たちに対して、あるいは同労者に対して、神と共に立つべきなんらかの立場にない人は、私たちの間にほとんどいません。神は私たちをご自身に対して忠実な者にしなければなりません。しかし、人々の罪を効果的に対処することは、ただ天的な霊の中でのみ可能です。私たちが叱らなければならない時、それは心の苦しみと多くの涙をもってでなければなりません。

これがどれほど密接に、神との日々の歩みに影響を及ぼすのか、私たちにはわかりません。過ちを犯している神の子供をやさしく脇に連れて行き、「あなたは私の主を悲しませています」と言うには、イエスの霊が必要です。

十節は、パウロにおいて現された天的な霊を見せています。「しかし、なにかの事であなたがたが赦す人を、私も赦します。(中略)なぜなら、私はあなたがたのために、それをキリストの御前で赦したからです」。ここに、深刻な罪を犯した人々に対する愛と赦しの優しい霊の中で示された、天のいのちの現れがあります。

コリント人への第二の手紙三章五節は、土の器の自己評価を見せています。「なにかを自分から出たものと評価する資格が自分にある、というわけではありません。私たちの資格は神からです」。

これが土の器の継続的な姿勢でなければなりません。「私はキリストと共に十字架につけられた」ことを認識することと、それを常に実践することとは別のことです。なにかを自分から出たものと評価しない、とあなたは本当に言えるでしょうか?自分にとって自分は何者でもない、というのは本当でしょうか?そしてそれと同時に、神はあなたのすべての必要に対して常に十分である、と言えるでしょうか?これがあなたの継続的な姿勢でしょうか?土の器に資格はありません。しかし、天の宝には資格があります

コリント人への第二の手紙四章八、十二節には、脆い土の器の極度の必要をすべて満たす神の十全性が記されています。「私たちは四方から圧迫されますが、窮しません。困惑させられますが、絶望しません。迫害されますが、見捨てられません。打ち倒されますが、滅ぼされません。いつもイエスの死を身に帯びています。それは、イエスのいのちもまた、私たちの身に現されるためです」。

これらの節はみな、なんと美しいのでしょう。土の器は圧迫されますが、天のいのちは窮しません。「土の器は困惑させられます」。あなたは、「神の光の中を歩んでいるのに、どうしてそんなことがありえるのでしょう?」と言います。「私たちは明確な導きを得るので、歩みはすべて確固としたものになり、決して困惑することはありません」と私たちは考えます。しかし、これはなんという誤りでしょう。パウロは「困惑させられ」ましたが、内住のキリストを知っていたので、「絶望しません」と付け加えたのです!彼はこう言っているかのようでした、「この困惑の時、主は私を見捨てることはありません。状況はひどく恐ろしく混乱しているようであり、私も単なる一人の器にすぎません。しかし、私の御父は信実です。御父は私を切り抜けさせてくださいます。私は絶望しません!」。

「いつもイエスの死を身に帯びています」とパウロは付け加えます。コリント人への第二の手紙十三章四節の彼の言葉が、これを解き明かします。「彼は弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられます」。

たしかに、キリストは「弱さのゆえに十字架につけられ」ました。「いつもイエスの死を身に帯びています」とパウロは叫びます。このコリント人への手紙は、使徒の弱さと無力さ、そして彼がどのようにキリストの復活の力に頼り、キリストのように神の力によって「生きる」ことができたのかを、一貫して示しています。偉大な経験は一つもなく、真実な神を信じる信仰しかないことがたびたびでした。彼は力の感覚を求めずに、自分を弱さの中から引き上げてくれるキリストの力に毎瞬頼りました。彼はイエスのためにいつも死に渡されていましたが、イエスのいのちが彼の死ぬべき体に現されました。死にそうなのに、見よ、彼は生きていました。

他の人々に及ぼした効果にも注意してください。「ですから、死は私たちの内に働き、いのちはあなたがたの内に働きます」。私たちは、たとえどんな代価を払っても人々が祝福されることを願うほど、神に用いられることを望む神の子供でしょうか?自分を通していのちをことごとく人々に流れさせて、自分は空っぽのまま残されても本望でしょうか?このように神と共に歩む覚悟はあるでしょうか?報いはありませんが、主キリストが満足しておられるという深い喜びが心の中に湧き起こるでしょう。注ぎ出された主の生活を送ること、そして決してご自身のことを考えなかった主のようになることだけを願っているなら、確かにこれだけが私たちの唯一の希望でしょう。

「いつもイエスの死を身に帯びています。それは、(中略)いのちが現されるためです」。いつもいつも!「でも、忘れてしまったら?」。再び戻りなさい。いつも!私たちはキリストと共に死にました。それは、私たちのために死んで再びよみがえった方に生きることができるようになるためです。これを覚えておきましょう。

コリント人への第二の手紙六章四節に、実際生活についてさらに記されています。「あらゆることで、自分を神の奉仕者として推薦しています」。どのようにして、どんな状況においてでしょう?「多くの忍耐によって」です。「艱難の中で、窮乏の中で、行き詰まりの中で、むち打ちの中で、投獄の中で、争乱の中で、労苦の中で、徹夜の中で、断食の中で」です。

艱難における多くの忍耐。これは実に神の力です。窮乏の中で――絶対に必要だと思われるものがなくても過ごすことができます。あなたは余剰品がなくても過ごせますが、必需品についてはどうでしょうか?「行き詰まりの中で」「むち打ちの中で」――時々、言葉のむちがあります。「投獄」の中で。あなたは外国の地に行くことを願いますが、あなたの友人たちは「だめだ!」と言います。あなたは「投獄」を受け入れて言います、「そうです、主よ。あなたの御旨なら、私を閉じ込めておいてください。あなたの時が来たら、扉は開くでしょう」。

「争乱の中で」。欽定訳の欄外では、「四方八方に翻弄される中で」となっています。すべてが歪んでいる時、翻弄されることによって多くの忍耐を学びますように。間断なき労苦の中で。徹夜の中で――決して魂を見放しません。知識において――神を知ることです。辛抱強さにおいて。親切において――親切になろうと決してあわてません。「聖霊により」。「真理の言葉により」。「神の力により」。「右と左の義の武器により」。正しい行い、実直さ、すべてを万人の目の前に正直に示すこと。「栄誉と恥辱により、悪評と好評により。欺く者のようでも、真実であり、知られていないようでも、よく知られており、死にかかっているようでも、見よ、生きており、懲らしめられているようでも、死に渡されておらず、悲しんでいるようでも、常に喜んでおり、貧しいようでも、多くの者を富ませ、なにも持たないようでも、すべてのものを所有しています」(二コリント六・八、九、十)。土の器の中にある天のいのちのなんという絵でしょう!なんと「神にふさわしい」ことでしょう!

コリント人への第二の手紙十章一節は、次に土の器の外観を見せています。「私パウロが自ら、あなたがたに懇願します。(中略)私はあなたがたの間で、面と向かっている時は卑しくなっています」。「実際に会ったときの彼は弱々しく、その話はつまらない」。人の判断では、つまらない器だったのです!神のいのちはどこに到来するのでしょう?「私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神の御前に力があって、要塞をも破壊し、(中略)神の知識に逆らい立つあらゆる高ぶりを破壊します」(四、五節)。

人の判断では、弱々しく卑しい器、話の下手な器でした。しかし、要塞を破壊するために神に用いられました。「実際に会ったときの彼は弱々しく、その話はつまらない」。私たちの中には雄弁家になることを願っている人々がいます。私たちは某氏のように賢くなければ全く何もしようとせず、某氏のように祈れなければ声を出して祈ろうとせず、某氏のように話せなければ全くメッセージをしようとしません。

しかし――「神は賢い者を辱めるために、この世の愚かな者を選び、(中略)有るものを無いものとするために、この世の卑しい者、さげすまれている者、実に無きに等しいものを選ばれました。それはいかなる肉も、神の御前で誇ることがないためです」(一コリント一・二七、二九)。私たちはつまらない器であることを喜ぶべきではないでしょうか?私たちは喜んで人々に自分をそう呼ばせ、しかも傷つかずにいるべきではないでしょうか?傷つけられること、短気を起こすこと、受けて当然と思われる栄誉を受けない時、落胆することはありえます。ああ!ああ!これはみな、神の子供たちの間でもありえるのです。とはいえ、私たちの中になにか美点があるとき、栄誉を受けるのは私たちであり、神ではありません。しかし、私たちが弱く無力な神の僕であることが明らかなとき、私たちの神が栄光をすべてお受けになります。

最後にコリント人への第二の手紙十二章七節を見ましょう、「その啓示があまりにもすばらしいため、私が高ぶりすぎないように、一つのとげが私に与えられました。それは、私が高ぶりすぎないように、私を打つためのサタンの使いなのです」。

これは土の器とその危険性を短く見せています。私たちが土の器であり、依然として卑しい体の中にあるかぎり、神が私たちを用いれば用いるほど、ますます高ぶりの危険性が大きくなります。神は私たちの上に御手を置いて、私たちを砕かれた状態に保つ必要があります。それは私たちが、なにかを自分から出ていると言って、自分に栄光を帰せなくするためです。

主は私たち一人一人を用いて、予期せぬほど多くの人々に対するいのちの経路とすることができます。しかし、主がそのように私たちを用いても大丈夫でしょうか?もしかすると、私たちに耐えられる程度の「豊かさ」しか、主は私たちに与えてくださらないかもしれません。ずっと求めているのに待たされ続けるとき、あなたはあなたの父なる神に信頼できないのでしょうか?あなたの求めるものがあなたに対して安全になった瞬間、神はあなたの上にすべてを注がれるでしょう。神の御心に制約はありませんが、土の器には制限があります。霊的祝福を求めるあなたの祈りの中には、神が答えてくださらない祈りは一つもありません。しかし、時と方法については神にお任せした方がいいでしょう。

「私たちはこの宝を土の器の中に持っています。それは、働きを成就するその卓越した力が神のものでなければならず、私自身のものであってはならないからです。」