神にある命への道

第四版
一九二五年発行

ジェシー・ペン-ルイス

割礼を受けているかどうかは、大事なことではありません。
大事なのは新しい創造です。
この道を進む人々の上に平安がありますように。
(ガラテヤ六・一五~一六、シリア訳)

あなたは命の道を私に示されます。
(詩篇一六・一一)

目次

序言

§贖いの働き

Ⅰ.なぜ新しい命が必要だったのか
Ⅱ.どのようにして新しい命が可能になったのか

§聖霊の主観的働き

Ⅰ.聖霊はどのように罪の中に死んでいる魂を取り扱われるのか
Ⅱ.聖霊は「まだ肉的な」信者をどのように取り扱われるのか
Ⅲ.聖霊による解放とその結果
Ⅳ.聖霊に完全に満たされる
Ⅴ.もし死ぬなら…………多くの実を結ぶ(ヨハネ一二・二四)
Ⅵ.キリスト…………私たちの命(コロサイ三・四)
Ⅶ.キリストと共に神の中に隠されている(コロサイ三・三)
Ⅷ.御父の小さな子供たち
Ⅸ.子供たちの中にある御父の命
Ⅹ.「油塗りを受けている」(一ヨハネ二・二〇)
ⅩⅠ.油塗りの特徴

付録


序言

一八九五年七月に発行された版への脚注から

「この小冊子は、聖霊が魂を取り扱われる主観面に基づいて、キリストと共なる死をある程度解説するために書かれています。教理を立てたり、体系化したいとは思っていません。おもに経験の道を示したいだけです。聖霊は縛られてはおらず、多くの異なる方法で魂をこの道に沿って導かれるでしょう。今のところこの小冊子に用のない方は、神がご自分の時にご自分の方法で解き明かし手となられるまで、この小冊子を脇に置いて下さるよう切にお願いします」

一九〇〇年の拡大版への脚注

この小冊子の新しい拡大版を送り出すにあたって、私はただ次のお願いを繰り返したいと思います。もし今のところこの小冊子に用がなく、本書が読者の必要に対する神のメッセージでもないなら、本書を脇にやって下さってかまいません。「本書で描写されている詳細な点を、神はすべて厳密に辿られる」と期待することには注意しなければなりません。「見よ、これらは神の道の一部なのです」

一九二五年一月の再発行版への脚注

数年にわたる休眠の後、この小冊子の再発行を望む要望が、過去数ヶ月の間に突然持ち上がりました。その要望は執拗なものだったので、この時期にこのメッセージが必要になったことについて、神の霊は何か特別な目的を持っておられるにちがいありません。本書は著者が顕著な導きの下で送り出した、まさに最初の小冊子でした。その話については、いずれ語ることがあるかもしれません。

J.P.-L.

§贖いの働き

Ⅰ.なぜ新しい命が必要だったのか

1.私たちの生まれつきの状態

「すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に及びました」(ローマ五・一二)
「あなたたちは自分の罪過と罪の中で死んでいました」(エペソ二・一)
「神の命から遠く離れています」(エペソ四・一八、参照ローマ三・一〇~一二、エペソ二・三)

Ⅱ.どのようにして新しい命が可能になったのか

1.神のひとり子の賜物によって

「神はひとり子を遣わして下さいました。(中略)私たちが生きるためです」(一ヨハネ四・九)
「神は私たちの罪のために、御子をなだめの供え物として遣わして下さいました」(一ヨハネ四・一〇)

2.神の御子が罪人のために贖いの死を遂げることによって

「神は私たちの罪のために、罪を知らない方を罪とされました」(二コリント五・二一)
「神はこのキリストを立てて、なだめの供え物とされました」(ローマ三・二五)
「彼がすべての人のために死を味わうためでした」(ヘブル二・九)

3.キリストの死によって贖われた人がキリストと共に死ぬことによって

「ひとりの人がすべての人のために死んだからには、すべての人が死んだのです」(二コリント五・一四)
「私たちが罪に対して死に、義に対して生きるために、キリストは十字架にかかって、私たちの罪をご自分の身に負って下さいました」(一ペテロ二・二四)

4.キリストにあって死んだすべての人が、命の中でキリストに結合されることによって

「死人の中からよみがえった方と結ばれて」(ローマ七・四)
「あなたたちはキリストを死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストと共によみがえらされました」(コロサイ二・一二)
「私たちをキリストと共に生かし(中略)共によみがえらせ」(コロサイ二・五~六)

5.キリストがご自分にあって生きるすべての人を神に連れ戻すことによって

「キリストは私たちを神にもたらすために死なれました」(一ペテロ三・一八、参照エペソ二・一三)

6.すべての信者に対して命の源となることによって

「この命は御子のうちにあります」(一ヨハネ五・一一)
「御子を持つ者は命を持ちます」(一ヨハネ五・一二)
「もし敵であった時に御子の死によって神と和解させられたのなら(中略)なおさら、彼の命にあずかることによって救われます」(ローマ五・一一、コニーベア訳)

7.命の分与者である聖霊を与えることによって

「イエスは神の右に上げられ、御父から約束の聖霊を受けて、それを注ぎ出されました」(使徒二・三三)
「イエスをよみがえらせた方の御霊が(中略)生かして下さいます」(ローマ八・一一)

神の聖なる御子は私たちの性質を着て、それを十字架へと運び、罪人の代わりに死なれました。神に立ち返る唯一の道は、命への門である十字架を通してです。

三位一体の神はこのように大きな代価を払って贖いの計画を成就されたのですから、「なおのこと、あなたたちの天の父は、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがあるでしょう」(ルカ一一・一三)

§聖霊の主観的働き

「神は新生の洗いと聖霊の更新によって、私たちを生かして下さいました。神は、この聖霊を、私たちの命の分与者であるイエスによって、私たちの上に豊かに注いで下さいました」(テトス三・四~六、シリア訳)
「真理の御霊は(中略)私から受けて、あなたたちに知らせます」(ヨハネ一六・一三~一四、欽定訳)

聖霊は、成就されたキリストの御業を罪人に適用するために与えられます。今や聖霊は、死の陰の中に横たわっている世界の上を動いておられ、個々の魂の中にまずキリストの死を、次にキリストの復活の命を適用しようとしておられます。順番に追っていきましょう。

Ⅰ.聖霊はどのように罪の中に死んでいる魂を取り扱われるのか

1.認めさせる霊として

「彼は(中略)罪について世に認めさせます」(ヨハネ一六・八)
「罪の報酬は死です。しかし、神の無代価の賜物はキリスト・イエスにある永遠の命です」(ローマ六・二三)

2.啓示する霊として

「彼は私をあかしします」(ヨハネ一五・二六、欽定訳)
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ一・二九)
「その十字架の血を通して平和をつくり」(コロサイ一・二〇)

カルバリ――命の場所――

「私が地上から上げられるなら、私はすべての人を私に引き寄せます」(ヨハネ一二・三二)
「十字架の言葉は(中略)神の力です」(一コリント一・一八)

聖霊は罪の重荷を負う魂をカルバリに引き寄せます。キリストの身代わりの死による命という知らせは、人がそれを心に受け入れる時、私たちの主イエス・キリストを通して神との平和をもたらします。

「風はその思いのままに吹く(中略)あなたはそれがどこから来てどこへ行くか知らない。御霊から生まれる者もみな、そのとおりです」(ヨハネ三・八、改訂訳及び欽定訳)
「生かすのは御霊です」(ヨハネ六・六三)
「聞いて(中略)信じる者は永遠の命を持ち(中略)死から命に移っているのです」(ヨハネ五・二四)

新生した人の経験

「私はただ一つのことを知っています。私は盲目だったのに、今は見えるということです」(ヨハネ九・二五)
「朽ちない種から(中略)新しく生まれ」(一ペテロ一・二三)

神の息は死んでいる魂を生かします。神との交わりは回復され、恵みの御座への道が開かれます。「見よ、彼は祈っています」(使徒九・一一)。子とする御霊は「父よ」と叫ばせます。聖書は新しい本のようです。なぜなら、新生した人は成長するために御言葉の霊の乳(一ペテロ二・二)を慕い求めるようになるからです。また、信仰による喜びと平安、新しい望み、新しい希望が生じるので、まったく新しい世界を歩んでいるかのようです。

しかし、キリストにある赤子は霊的理解力が制限されているため、幾分「まだ肉的」です。けれども、パウロがローマの回心者たちに教えたキリストにある新しい命の基礎をはっきりと見るなら、より早く「霊的」になることができます。なぜなら聖書は、罪の赦しと、罪の束縛から解放するキリストの死との生き生きとした交わりとの間に、長い期間を置いてはいないからです。パウロはコリント人たちに次のように書き送りました、

「私はあなたたちに、霊の人に対するようには話すことができませんでした。むしろ肉の人に対するように、キリストにある赤子に対するように話しました。私はあなたたちに乳を飲ませて、固い食物を与えませんでした。あなたたちには、まだ無理だったからです。(中略)あなたたちはまだ肉的だからです」(一コリント三・一~三)

またローマ人たちにこう書き送りました、

「あなたたちは知らないのですか。キリスト・イエスの中にバプテスマされた私たちはみな、彼の死の中にバプテスマされたのです」(ローマ六・三)

Ⅱ.聖霊は「まだ肉的な」信者をどのように取り扱われるのか

「肉の願いは御霊に対して戦い、御霊の願いは肉に対して戦います。この二つは対立しているので、あなたたちは自分のしたいことをすることができません。しかし、キリスト・イエスのものである人たちは、肉を十字架につけてしまったのです。(中略)御霊に導かれて進もうではありませんか」(ガラテヤ五・一七、二四、二五、コニーベア訳)

御怒りから救われて神と和解したものの、まだ十字架の完全なメッセージを知らない人は、ふたたび深い必要を悟らされなければなりません。古い命から出たすべてのものに対して戦い、それを十字架に渡すことが、御霊の働きです。ですからここで聖霊は次のように魂を取り扱われます。

1.罪の束縛を悟らせる

「私は肉であって、罪の下に売られています」(ローマ七・一四)
「肉の思いは神に敵対します。それは神の律法に服従しませんし、服従することができないからです。肉の中に生きている者は神を喜ばせることができません」(ローマ八・七~八、コニーベア訳)

2.御霊の完全な満たしの必要性を悟らせる

「神の御霊があなたたちの内に住んでおられることを知らないのですか?」(一コリント三・一六)
「もし神の御霊があなたたちの内に住んでおられるなら、あなたたちは肉の中にではなく、御霊の中にあるのです」(ローマ八・九)

3.解放を求める強い叫びを生み出す

「私は、私の肉の中に善が住んでいないことを知っています。(中略)私はみじめな人間です。だれが私を解放してくれるのでしょう?」(ローマ七・一八、二四)

御霊は罪の極度の罪深さと「肉に従った」生活の極度の無益さを啓示されます。御霊は強烈な願いの炎を生み出されます。これにより、いかなる代価を払ってでも、御霊に御業をなしていただく用意、また御霊にご自分の道を進んでいただく用意が魂に整います。聖霊はあらゆる方法を用いて、神に贖われた人が古い命に対抗して神の側に立ち、無条件に断固として神に服従することを決意するよう導かれます。これは解放に必要なことです。

信者はいわば「死亡証明書にサインして」、キリストと共なる死を経験上実際のものとされることに同意しなければなりません。ここで信者は解放の場所であるカルバリに到達します。

カルバリ――解放の場所――

「私たちは次のことを知っています。私たちの古い人はキリストと共に十字架につけられました。(中略)それは私たちがもはや罪の奴隷ではなくなるためです。というのは、死んだ者は罪から解放されたからです」(ローマ六・六~七)

聖霊は魂をカルバリへ連れ戻されます。それは、自分はすでにキリストと共に十字架につけられていること、それゆえ罪の束縛や罪の要求から自由であることを、信者が学ぶためです。信者はキリストにあって自分を捕らえていたものに対して死にました(ローマ七・六)。聖なる方は呪いを引き受けて、呪われた者たちをご自分のパースンの中であの木へ連れて行かれました。ですから今や、信者は信仰を通して約束の聖霊を受けることができます(ガラテヤ三・一三~一四)。

Ⅲ.聖霊による解放とその結果

「キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死の法則から、私を解放したからです」(ローマ八・一~二、欽定訳)

1.罪の力からの解放

「罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう」(ローマ六・二)
「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり(中略)あなたたちも、自分は罪に対して死んでいるが、神に対してはキリスト・イエスにあって生きていると勘定しなさい」(ローマ六・一〇~一二)

私たちがキリストから賜った自由により神の御言葉の上に立つ時、キリスト・イエスにある命の霊は、私たちを古い束縛から解放し続け、私たちが神に対して生きることができるように、また命の新しさの中を歩くことができるようにして下さいます。

2.肉の欲からの解放

「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲を満足させることはありません。(中略)キリスト・イエスのものである人たちは、肉を十字架につけてしまったのです」(ガラテヤ五・一六、二四)

パウロは通常、「肉」という言葉で、人の中にある地的なもの――霊的なものと対立します――を示しています。キリストのものである人たち、無条件にキリストのものであろうと決意している人たちは、肉をそのすべての好みと「強烈な欲望」と共に十字架につけてしまいました。彼らは「御霊によって生き」ます。そして、御霊に歩みを導いてもらうことを求めます。

もし私たちが本当に「キリストと共に十字架につけられ」ているなら、「キリストがその人のために死なれた」(ローマ一四・一五、二一)自分の兄弟たちのために、どんなことでも容易に断念することができます。そして、天然的な欲から出た不適切な嗜好を放棄して、神の宮にふさわしくない習慣を捨てることができます。

「魂の中にある神の命は、一般に考えられている以上に、生活様式と密接な関係にあります。もしクリスチャンが、食欲に耽って飽食するかわりに、質素で体に適量の食事で満足するなら、どんなに豊かな祝福が体と魂にもたらされることでしょうか」(隠された命、T. C. Upham, D. D.)

もしその人が熱心なら、御霊は「肉のために備えようとする」行動をすべて細かく対処されます。また、全く御霊の支配下にいたいと願う人々の「生活様式」に関しても、多くのことを対処されます。

3.この世からの解放

「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇るようなことがあってはなりません。この方を通して、この世は私に対して十字架につけられ、私もこの世に対して十字架につけられてしまったのです」(ガラテヤ六・一四)
「もしあなたたちがキリストと共に死んで、この世の要素から離れたのなら、なぜこの世に生きているかのように」(コロサイ二・二〇)

パウロをこの世から分離したのは、キリストの十字架と、「キリストと共に十字架につけられた」というパウロの立場でした。パウロのように、今や私たちは「この世にあって生きているのではない」と勘定するべきです。なぜなら、私たちの命は天にあるからです。私たちはこの世的な目的、野心、興味とは関係ありません。私たちはもはや、この世の非難や称賛、慣例、決まり切ったやり方、暮らし向きの自慢、地位や権力を一切顧みません。また、キリスト教界や、その中にある宗派の奢り、様々な「見解」、称賛や非難、人を誇ることも、一切顧みません。使徒パウロだったら、今日またこう書き送るでしょう。「あなたたちはそれぞれ、『私はパウロにつく』『私はアポロに』『私はケパに』『私はキリストにつく』と言っています。キリストは分けられたのでしょうか?」(一コリント一・一二~一三)

キリストの十字架によって、私たちは「邪悪な今の世」を構成するすべての要素から分離されました。私たちが世の中にあるのは事実ですが(ヨハネ一七・一五)、私たちはその中にあってキリストが生きたように生きなければなりません。なぜなら、こう記されているからです。

「彼の中に住んでいると言う者は、彼が歩かれたように、自らも歩くべきです」(一ヨハネ二・六)
「彼がそうであるように、私たちもこの世にあって彼のようだからです」(一ヨハネ四・一七)

復活した神の御子に結合されることにより、私たちは「世に打ち勝ち」ました(一ヨハネ五・四~五)。その詳細な適用は、それぞれの人の内に住んでおられる聖霊によって示されなければなりません。けれども主な秘訣は、「超俗的」な心や精神を持つことにより、生活上のあらゆる職務の中に天的な霊をもたらすことです。

4.律法の束縛からの解放

「あなたたちもキリストの体を通して、律法に対して死に渡されたのです。それは、あなたたちが別の方、すなわち死者の中からよみがえった方に結ばれて」(ローマ七・四)

「キリストにある命の霊の法則」が私たちを自由にしたので、私たちは律法の要求から解放されました。イエスの霊の日毎の供給により、「肉に従ってではなく、御霊に従って歩く」時、今や私たちの間で律法の要求を満たすことが可能になります。(ローマ八・四)

「愛(私たちの内にあるイエスの愛の命)は隣人に害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします」(ローマ一三・一〇)

理論上の「死」や、心理的な思い込みは、これを私たちの内に完全に実現することはありません!キリストの死との大いに実際的な交わり、そして、イエス・キリストの死と復活を通して私たちに与えられた栄えある自由を神が私たちに啓示される時、神によって私たちの内に造り込まれる信仰――これ以外に実現するすべはないのです。

Ⅳ.聖霊に完全に満たされる

「人の心を知っておられる神は、私たちと同じように彼らにも聖霊を与えて、彼らのために証しされました(中略)彼らの心を信仰によって清め」(使徒一五・八~九)
「キリストが信仰を通してあなたたちの心の中に住んで下さいますように」(エペソ三・一七、コロサイ一・二七)

神の光が御業をなしました。信頼に満ちた従順な服従により、すべては十字架に明け渡されました。信者は解放されました。その解放は、一大転機の場合もありますし、穏やかで気づかない場合もあります。

少なくとも四つのことが明らかです。

1.魂は、罪が力を失ったことを証明します。また、魂は古い習慣の束縛から解放されます。(ヨハネ八・三六)

2.魂は、前にはなかった確信をもって、「私はキリストと共に十字架につけられています」と言うことができます。魂は、「キリスト・イエスにあって神に対して生きている」ことを知ります。(ローマ六・一一)

3.復活した主が内側に啓示されます(ガラテヤ一・一五~一六)。そして、魂は新しい命の中を歩みます。それはまるで天の前味わいのようです。

4.聖霊は油塗りの証しをされます(一ヨハネ二・二七)。また、聖霊は闊達に話す自由と奉仕の力を与えて下さいます。聖霊ご自身が油塗りです。もし魂が主を知るために絶対的従順によって従い続けるなら、聖霊の力強い働きは日に日に増し加わります。

「御霊の現われ」が益のために与えられます(一コリント一二・七)。それは、御霊に満たされた器の信仰明け渡しに応じてです。ある人々のもとを、聖霊は穏やかに訪問されます。そのため、その人々は深い平安と明るい光を感じるだけです。彼らは闊達に話す自由、祈りによる交わり、御言葉の照らし、罪の束縛からの自由を得ます。また聖霊は、別の人々のもとを、いかなる拒否も許さない徹底的な無条件の明け渡しを要求した後に訪問されます。これらの人々は「御国を力ずくで奪い取り」ます。聖霊は彼らに対して爆発的な力でご自分を現わすことができます。

多くのことが、御霊のそれまでの取り扱いだけでなく、器とその容量、強さ、理解にかかっています。ですから、似通った経験は二つとありません。

いずれにせよ、魂は聖霊で満たされて、あふれるほどになります。数ヶ月の間、ことによると数年の間、魂は神の光に従順に歩むので、他の人々のために「用いられ」ます。そのため、「自分は霊的生活の頂点に達した」と魂は思いがちです。しかしながら、まだまだ多くのことが前途に横たわっています。なぜなら、聖霊の内なる満たしは、神と共なる真の歩みの始まりにすぎないからです。キリストとの合一の生活から、御父のふところにおられるキリストとの生活へ、私たちを引き続き導くのは、聖霊の祝福に満ちた御業です。

主を知るために従い続ける魂は、やがて奇妙な経験の変化に気がつきます。聖霊の「満ちあふれ」はやみ、天然の人がその個人的特徴と共にふたたび目立ってきます。しばらくの間、これらのことはみな隠されていました。しかし今や、魂が部分的に天然の命によって生き、部分的に神の命によって生きていることがわかるようになります。

衝動的な人は、自分の衝動を抑えることに、多かれ少なかれ失敗します。敏感な人は過敏になります。控え目な人は、依然として痛ましいほど控え目です。強烈な個性の人は、自分が見ている真理のために戦い、それが自分の言葉で表現されることにこだわります。心は正しく真実なのですが、「天然の人」が神のために働いているのです。

Ⅴ.もし死ぬなら…………多くの実を結ぶ(ヨハネ一二・二四)

「最初の人アダムは生ける魂となりました。最後のアダムは命を与える霊となりました。(中略)第一の人は地から出ていて地的です。第二の人は天から出ています。地的な者たちはこの地的な者に似ており、天的な者たちはこの天的な者に似ています」(一コリント一五・四五、四七~四八)
「自分の命(魂)を愛する者はそれを失い、この世で自分の命(魂)を憎む者はそれを保って永遠の命に至ります」(ヨハネ一二・二五、参照マタイ一〇・三九、一六・二五、マルコ八・三五)

御霊は心を占有しておられますが、さらに二重の働きをなさなければなりません。地から出ている地的なものをすべて死に渡すこと、そして主の霊の命を天から伝達すること、これが御霊の務めです。

御霊は絶えず継続的に、心の中の御座から周辺に向かって、死と命を交互にますます施されます。御霊は、新創造を建て上げるために、私たちの中にそのための場所を設けなければならないからです。それは、私たちがもはやもてあそばれる「子供」ではなくなって、

「信仰の一に、また神の御子を知る知識の一に到達し、ひとりの完全に成長した人に到達し、キリストの豊満の身の丈の度量にまで到達する」(エペソ四・一三)

ためです。

天からの主の命にあずかるには、最初のアダムから受け継いだ命を放棄しなければなりません。

私たちが「命」と呼んでいる、人の諸器官を活動させるこの不思議なものは、神から出ているか地から出ているかのいずれかです。この命は、間違っていることが見てわかるとは限りませんが、その活動は被造物のそれであって、内に働く創造主の力ではないおそれがあります。(ヨハネ三・二一と比較せよ。ヨハネ八・二八、コロサイ一・二九)

私たちが「霊的」になって、神の王国の中で「成熟期」に達するには、十字架によって罪とこの世の霊から分離されるだけでなく、十字架によって「自分の命」からも分離されなければなりません。そうしなければ、私たちは混合した命を生きることになるでしょう。そして、私たちの奉仕は、真に御霊による奉仕、真に御霊から出た奉仕になるかわりに、一部は霊的で、一部は自分たちから出たものになるでしょう。

すでに罪の束縛の問題は解決し、聖霊が要塞を獲得しておられるかもしれません。しかし魂は、イエスの命を現すために周辺を獲得しようとされる聖霊の御業を、無知のせいで妨げてしまうかもしれません。

聖霊の御業のこの段階で聖霊に協力するなら、聖霊は最も深遠な目的を成就することができます。聖霊は光に対する忠実さだけを要求されます。それより前の段階では、主を知るために従い続ける上で対処されるべきものがたくさん残っていたとしても、信者が恵みの度量に応じて忠実に従うなら、聖霊は信者を用いて下さいました。多くの実を結ぶには、信者はイエスの死に一体化されるよう、引き続き導かれなければなりません(ピリピ三・一〇、シリア訳)。なぜなら、主ご自身がこう言われたからです、

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。しかし死ぬなら、多くの実を結びます。(中略)自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至ります」(ヨハネ一二・二四~二五)
「あなたが蒔く種は、死なない限り、命に生き返らされることはありません」(一コリント一五・三六、C. H.)

十字架の言葉

「神の言葉は生きていて活動しており、どんな両刃の剣よりも鋭く、魂と霊さえも刺し通して切り離すことができます」(ヘブル四・一二)

御霊は神の御言葉を通して働かれます。この節の原文の思想は、祭儀用の刀を意味します。存在全体が神にささげられ、神聖な御霊の内住によって証印を押されて、徹底的に対処されなければなりません。御言葉が、魂と霊さえも刺し通して切り離さなければなりません。

聖霊は、私たちに耐えられる範囲内で、私たちに地的な命を示されます。聖霊がそうされる時、それまで純粋に「霊的」だと思っていたものの中にどれほどたくさん私たち自身の命が混ざっていたかを知って、私たちは落胆します。聖霊は私たちに、この源から出るものはすべて堕落していること、また私たちの「被造物的活動」や「奮闘と試み」はまったく神の奉仕の役に立たないことを示されます。

聖霊は、すべての能力、力、智恵、知識を、私たちから枯渇させてしまわれます。かつて私たちは、自分は有能であり、聖霊が用いることのできる「賜物」を持っている、と思っていました。ところが、今や失敗だらけです。私たちが尊んだ神の御業の上に「イカボテ」と記され、破滅に瀕しているかのようです。そのため、「私は空しく自分の力を費やした」と私たちは叫びます。

さらに、私たちの感情も冷めてしまったかのようです。私たちは自分の「かたくなさ」に愕然とします。「自分は後退しつつある」と私たちは思いますし、それを避ける力も無いかのようです。すべてが非現実的に思われて、自分は偽善者であると考えそうになります。できるものなら、聖書の授業から逃げてしまうでしょう。

しかしこれこそ、完全に神に焦点づけられた命への道なのです。すべては死ななければなりません。見返りを切望する私たちの愛さえも死ななければなりません。それは神のために、また神の愛のために、場所を設けるためです。神の愛は見返りを求めることなく愛します。神の愛は純粋で非利己的です。

御霊はまた、霊的な事柄における天然の命の別の面をも暴露されます。それは極めて狡猾です。それを「献げられた自己」と呼ぶことができるでしょう。この自己は過去の豊かな経験を誇り、神の栄光のために神経質に心配し、「契約の箱のために震え」、成功することを願い、神の王国の中で最も偉大な者になることを求め、しるしや経験を切望します。それは、「私を祝福して下さい、私を祝福して下さい、主よ」と絶えず叫び、集会で霊的な楽しみを追い求めます。また、神の使者たちを批評し、自分の霊的経験の地点に達していない他の人々を見下します。さらにこの自己は、「人々の霊的状態」について話し合い、人々が受け入れることができるようになる前に「真理」を無理強いします。この自己は初期の段階の神の御業を軽んじます。

変化に注目しましょう。かつては自己のための自己でした。今は神のための自己です。

神の霊は、魂の命のこの巧妙な形態を、かつて与えた霊的な富――祈りの力、人々への愛、約束に関する理解、神の臨在の感覚――を(見かけ上)引き上げることによって対処されます。御霊は、私たちが以前ならありえなかったような些細なことで失敗することを許されます。また、特異な個人的特徴を持つ自我が、その醜悪な醜さをことごとく私たちに見せつけることを許されます。これらのものを御霊はすべてご覧になっていましたが、私たちが御霊の恵み深い臨在と力をに経験している間は、私たちから隠されていたのです。

ついに私たちは自分自身を知ります。私たちはかつての歩みを取り戻そうともがきますが、すべては空しく思われて、絶望してしまいます。

この剥ぎ取りは、ヨブ記一九・六~二一に生々しく描写されています。また苦々しい苦悩の中にある魂の叫びは、詩篇八八篇に記されています。

この時期に魂が持つべき姿勢

「たとえ彼が私を殺すとしても、私は彼を待ち望みます」(ヨブ一三・一五)
「彼は私の歩む道を知っておられます。彼が私を試みられるとき、私は金のように出て来るでしょう」(ヨブ二三・一〇)

この剥ぎ取りの道では、解放して下さる神の霊にしっかりと従いつつ、絶えず信仰によって、カルバリの十字架で成就されたキリストの御業に向かわなければなりません。「もし御霊によって体の行いを殺すなら、あなたたちは生きます」(ローマ八・一三~一四)。

明け渡されている人、自己放棄から逸れない人、何ものにも目をくれず神と共に歩み、道中ずっと「はい」と言い続け、「キリストの内に見いだされる」ためにすべてのことを損失と見なして、キリストを知るためにひたすら進み続ける人―――このような人たちに対して聖霊は大いに速やかに御業をなすことができます。

カルバリ
キリストの墓

「神の安息に入った者は、自分のわざを休みました」(ヘブル四・一〇)
「私たちは死の中へとバプテスマされることを通して、彼と共に葬られました」(ローマ六・四)
「彼の死と同じようになることによって、彼に結合されます」(ローマ六・五)

魂は御霊の導きにより、「自分は無力で無価値である」と感じるようになるので、「あなたは私を死のちりに伏させられました」(詩篇二二・一五)と言うことしかできません。新鮮な光がキリストの墓を照らします。そして私たちは、自分はキリストと共に十字架につけられて罪に対して死んだだけでなく、キリストの墓の中で終わらされたことを見ます。

御霊は、カルバリの十字架のさらに深い意義を啓示して下さいます。「十字架の言葉」は罪の束縛から救いへと至らせる神の力でした。今、十字架はふたたび、自己と自己の業がやんだ魂に対して、神のエネルギーとなります。魂は真実な神に錨を下ろすので、自分のために求めるものは何もありません。「父よ、御名をあがめます」と言う以外に、何も言うことはありません。魂は自分の命から出る活動を恐れます。その麗しさは腐敗であることを、魂ははっきりと見ます。今や魂は、神の上で破船して、神の御手の中にじっととどまらなくてはなりません。

注意書き

霊的生活の各段階で魂が直面する危険について、ここで注意することにしましょう。

1.経験を見ること

神はすべての人をまったく同じ方法で取り扱われることはありません。神は御業をなさなければなりませんが、神にはそれをなす多くの方法があるのです。抵抗するなら、苦痛な無力感だけでなく、激しい苦しみを招くだけです。

2.自分を裁くこと

死の証拠を求めて内側を見てはいけません。死の自覚がないこともありえるのです!私たちの信仰はキリストの死に基づいていなければなりません。また、自分はキリストの死の中に植えられて彼と共に死んだという事実に基づいていなければなりません。

3.自分で自分を死に渡そうとすること

これは自己の努力の別の形に他なりません。これは、御霊の御業を妨げる病的な自己分析を生み出します。私たちは自分を神の御手に委ねなければなりません。また、私たちの中で力強く働いて下さる生けるキリストに、絶えず頼らなければなりません。

4.自分で「真理」を「見」ようとすること

これは知性の働きであって、神に委ねなければなりません。御霊による啓示と信仰による理解が必要な事柄を、知的に「把握」することはできません。これほど妨げになる被造物的活動形態はありません。「真理」を「見ようと欲する」誘惑に屈することを、私たちは拒絶することができます。

5.他人の経験を自分も経験したいと欲すること

聖霊が私たちを取り扱われる方法に関して、他人の経験に基づいて先入観を持たないよう用心しなければなりません。聖霊は各々の魂を、各自の必要、性格、気質などに応じて、個別に導かれます。

自分を神の御手の中に置くとき、単純で子供のようであればあるほど、御霊はいっそう速やかに、私たちを妨げから解放することができますし、私たちの父なる神の御心の中にある私たちの住まいを私たちに啓示することができます。

私たちの「敵である悪魔」は、あらゆる方法で魂を悩ますために見張っていますが、神の力強い御手の下にあります。悪魔は「兄弟たちを訴える者」として、優位に立つための特別な機会を狙っています。私たちは悪魔に打ち勝たなければなりません。それは「小羊の血」(黙示録一二・一一)によってであり、真実な神を信じる信仰を絶えず証しすることによってであり、「自己の命」が固執しようとするすべてのもの――たとえそれが霊的経験であっても――を死に至るまでも忠実に放棄することによってです。

Ⅵ.キリスト…………私たちの命(コロサイ三・四)

「主イエス・キリストを着なさい」(ローマ一三・一四 コニーベア訳、参照ガラテヤ三・二七)
「だれでもキリストの中にあるなら、その人は新創造です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(二コリント五・一七)

命の領域であるキリストの中へのこの移行は、気づかない場合もありますし、転機である場合もあります。魂は墓から出て新しい世界に入ったかのようです。魂はその世界をかすかに見ていただけでしたが、今や、「あなたたちは私の中にいます」(ヨハネ一四・二〇)という御言葉を理解します。

どの段階でも「十字架は命の門」です。しかし、私たちが「自己の命」とその活動をキリストの墓へ渡すときはじめて、「古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました」と真に言えるようになります。

今や「私にとって生きることはキリストです」が心からの言葉です。なぜなら、キリストが御父によって生きたように、私たちもキリストによって生きるには、キリストがすべての活動で命の源とならなければならないからです。

確立された命

「私たちをキリストへと堅く結びつけて(中略)私たちに油を注がれた方は神です」(二コリント一・二一)

魂はキリストに結合され、キリストを着せられ、信仰の霊で満たされました。ですから、信仰生活は呼吸するのと同じくらい容易になります――子供が父親に信頼するのは自然なことです!魂の中にある神の命は、子供のような単純な信仰により、神に環流します。今や信者の状態は次の通りです。

1.特に努力しなくても、古い命からの継続的解放の基礎である十字架とキリストの墓に戻ることができます。今や魂は次のように言うことができます、

「私はキリストと共に十字架につけられました。生きているのはもはや私ではなく、キリストが私の内に生きておられます。この命を(中略)私は信仰によって生きます」(ガラテヤ二・二〇)

この事実を認める時――それは以前の知的了解とはまるで異なっています――今や聖霊がそれを証しして下さいます。私たちは、私たちを自己と過去から分離するキリストの十字架を見ます。それは強烈な現実味を帯びています。ですから、私たちはこれを真実と見なすことを忘れてしまいます。なぜなら、自分が神の御言葉にしたがって真実を認めていることを知っているからです。罪を犯すこと、内住の主に従わないこともできますが、その代償はあまりにも苦いので、「どうしてそんなことができるでしょう?」と私たちは叫びます。私たちは、神の聖霊――私たちは贖いの日に至るよう神の聖霊によって証印を押されています――を悲しませることを、なにものにもまして恐れるようになります。また、魂は単純に信仰によって立ちます。ただし、その「信仰」は「神によってあなたたちの内に造り込まれた信仰」(コロサイ二・一二、コニーベア訳)です。

2.生ける方であるキリストに絶えずより頼みます。それは、努力や信仰の明確な行動によるのではなく、キリストの中に安らかに住むことによります。

「生きているのはもはや私ではなく、キリストが私の内に生きておられます。そして、依然として残っている私の外側の生活を、私は神の御子の信仰によって生きます」(ガラテヤ二・二〇、コニーベア訳)
「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ四・一三、参照二コリント一三・三、コニーベア訳)
「私は、キリストが私によってなさった御業だけを話しましょう。(中略)神の霊の力によって」(ローマ一五・一八~一九、コニーベア訳)

キリストの十字架と墓を通してキリストの中に移されることは、私たちの存在の源、隠された最も深い部分でなされる御業です。私たちが信仰によってキリストの中に住む時、キリストの命は周辺――「私たちの住まいである地上の幕屋」(二コリント五・一)――を速やかに彼の完全な支配下に置いて下さいます。

3.恵みの御座の上に注がれた血潮の保護の下で、感謝しつつ安息します。そして、神との絶え間ない交わりの必要性を深く感じます。

「神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩むなら(中略)イエスの血はすべての罪から清めます」(一ヨハネ一・七)
「御霊の聖めによって、従順と血の注ぎへと」(一ペテロ一・二)

日に日に強くなる神の光の中を歩む時だけ、私たちは清める血のの下に真にとどまることができます。魂はとがめのない良心と共に歩んで、自分には何も問題がないと思うかもしれませんが、それで義しいとされるわけではありません。魂は決して、注がれた血を御父に思い起こさせることなく、御座に近づくことはありません。罪を感じる時、魂は罪を正直に告白し、御父の足台の前で深くへりくだって、罪のために開かれた泉を本能的にただちに適用します。

4.新しい命の霊的糧である御言葉に激しく飢え乾きます。

「私があなたたちに話した言葉は、霊であり命です」(ヨハネ六・六三、欽定訳)
「キリストの言葉を、あなたたちの内に豊かに住まわせなさい」(コロサイ三・一六、参照ヨハネ一五・七)

神の御言葉は、今や魂にとって霊であり命です。なぜなら、その著者である方によって、御言葉は新鮮な美しさをもって日毎に啓示されるからです。御言葉は御霊の光で照らされます。御言葉は神を知ることを求める心にとって、真に神の御声です。魂は絶対的従順の必要性と、神のすべての御旨の中を慎重に歩む必要性を深く覚えます。

5.主を知るために前進し続けること、また神の最も深いすべての御旨の中に入ることを切望します。

「キリストを知る知識のゆえに(中略)すべてのことを損失と勘定します」(改訂訳)
「私は捕らえようとして追い求めています。そのためにキリストは私を捕らえて下さったのです」(ピリピ三・八、一二)
「自分の行程を走り尽くすことができるなら、私の命は少しも惜しいとは思いません」(使徒二〇・二四)

キリストとの合一の生活は、絶えず進展する目標の連続として、よく描写されてきました。魂が前進するにつれて、幻はますます大きくなり、「それは私がキリストを知るためです」という叫びはますます深くなります。

栄光を受けた主と顔と顔を合わせてまみえ、完全に主のようになるその時まで、終点はありませんし、定住できる経験の状態もありません。

現わされた命

「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それはイエスの命が私の身において明らかに示されるためです。なぜなら私は、命のただ中で、日毎に死に渡されているからです。(中略)それは私の死ぬべき身において、それによってイエスが死を征服された命が、その力を明らかに示すためです」(二コリント四・一〇~一一、コニーベア訳)

深く、さらに深く、死から出た命の原則が働きます。これはキリストが現われて、「死ぬべきもの」が「命に飲み尽くされる」(二コリント五・四)時まで続きます。パウロはこう付け加えています。「まさにこの目的のために私を整えて下さった方は神です。神は私の希望の保証として私に御霊を与えて下さいました」(二コリント五・五、コニーベア訳)

私たちが神に和解させられた時、私たち罪人は神の御子の死から出た永遠の命を得ました。次に、自分はキリストと共に死んだこと、そしてそれゆえ罪の要求から解放されたことを見た時、私たち信者は「死から出た命」を経験しました。また、地上の命がキリストの墓に渡された時、天の命がいっそう豊かに死から湧き出ました。そして今、信者が「キリストの復活の力」により、「キリストの死に同形化されて」、いっそう深くキリストの苦難の交わりの中に入れられる時、「死から出た命」が他の人々に及びます。(ピリピ三・一〇)

「私のうちに働いている死は、あなたたちのうちに命を働かせます」(二コリント四・一二、コニーベア訳)。これこそ、脆い土の器を通して、絶えず深まる命を継続的に他の人々に流す秘訣です。

初期の段階における苦難の多くは、その大部分が、自我の多くの面に対する打撃から生じた苦難でした。しかし今は、キリストとの交わりによる苦難です。

「人をだます者のように見なされていても、真実であり、(人に)知られていないようでも、(神に)認められており、いつも死にかけているようでも、見よ、生きており、苦難によって罰せられているようでも、滅ぼされず、悲しんでいるようでも、いつも喜びに満たされており、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています」(二コリント六・九~一〇、コニーベア訳)

体は神に献げられて生きた供え物となり、神の愛の紐で祭壇の角に縛られて、他の人々の信仰の供え物と奉仕の上に注がれます。「これらすべてのことの中にあって、私たちは圧倒的勝利者となるのです」。それによってイエスが死を征服された命は、脆くて弱い土の器を彼の凱旋行進の中にもたらして、その力を明らかに示します。

今や魂はこう言います、

「イエスの霊の供給を通して(中略)私の切なる期待と希望は(中略)生きるにしても死ぬにしても、キリストが私の体において大きく表現されることです」(ピリピ一・一九~二〇)
「ですから、私たちは勇気を失いません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされていきます。(中略)私たちの軽い艱難は、私たちのために働いて(中略)永遠の重い栄光をもたらします」(二コリント四・一六)
「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、命も(中略)今あるものも、後に来るものも、上にあるものも、下にあるものも(中略)私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ八・三七、コニーベア訳)

Ⅶ.キリストと共に神の中に隠されている(コロサイ三・三)

「私が私の父の中におり、あなたたちが私の中におり、私があなたたちの中にいることを、あなたたちは知るでしょう」(ヨハネ一四・二〇)
「あなたたちは死んだのであり、あなたたちの命はキリストと共に神の中に隠されているからです」(コロサイ三・三)

魂は、「キリストの死の中にバプテスマされることによりキリストと共に葬られ」、キリストの復活の中でキリストに結合され、「神のすべての武具」であるキリストを着せられて、昇天におけるキリストとの合一を知るようさらに導かれます。魂は、キリストが勝利されたように勝利することを御霊から教わって、自分がキリストと共にまさに神の懐に隠されていることを見いだします。御子は御父を啓示して、御言葉を成就されます――

「私が父についてはっきりとあなたたちに告げる時がきます」(ヨハネ一六・二五)
「私たちは来て、その人と共に私たちの住まいをつくります」(ヨハネ一四・二三)

今や御父の命は、御子を通して、聖霊によって、器たる人の内にある神の聖所を満たします。逆に言うと、信者は聖霊を通して御子に結合され、キリストと共に神の中に隠されます。「私がいるところに、私の僕もいるべきです」

御父の臨在の中には静けさと安心、深い平静さと落ち着きがあります。なぜなら、魂の中心に住んでおられる方が感情を治めて、全存在を彼の上にとどまらせて下さるからです。ですから、「ショックを受けること」も「驚愕すること」もありません。涙、苦難、悲しみはありますが、地上の苦しみはそのをすべて失います。

Ⅷ.御父の小さな子供たち

「愛の中に住んでいる者は神の中に住んでおり、神もその人の中に住んでおられます」(一ヨハネ四・一六)

今や私たちは、新創造の命のしるしがますます明らかになっていくのを見ます。信者は以下のものを持ちます。

1.子たる霊

「小さな子供たちよ(中略)あなたたちは御父を知っています」(一ヨハネ二・一三)
「父よ。ですから(そのように祈れる)あなたたちはもはや奴隷ではなく子です」(ガラテヤ四・七、コニーベア訳)

2.御父の御言葉に対する子たる従順

「誰でも彼の言葉を守っているなら、その人の内で、たしかに神の愛が全うされて(成熟して)いるのです」(一ヨハネ二・五)
「神の命令を守る者は神の中に住み、また神はその人の中に住まわれます」(一ヨハネ三・二四)

キリストが私たちの内に形造られ、私たちに至る聖別となられます。それと共に、従順の霊が来臨されます。キリストは「死に至るまで」御父の御旨に従順でした。魂の中に確立された神の命は、御言葉と神の御旨に対する従順を、日々、確立された習慣また絶対的姿勢とならせます。

3.御父を信じる子たる信仰

「もし私たちの心が私たちをとがめないなら、私たちは神に対して大胆であることができます。そして、私たちが求めるものはなんでも、私たちは受けます」(一ヨハネ三・二一~二二)
「これこそ神に対する大胆さです(中略)どんなことでも!」(一ヨハネ五・一四)

不信仰が地的な命の特徴であるように、信仰の霊(二コリント四・一三)は魂に供給される神の命の特徴です。私たちは地的な命を十字架に渡します。

4.御父の他の子供たちに対する子たる愛

「生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方から生まれた者を愛します」(一ヨハネ五・一)

この愛の命はとても真実です。そのため、御父の他の子供との間に暗雲がある間は、魂は安息することができません。魂が御父の足台に近づいて、他の子供を苦しめていたかもしれない事柄や、誤解を生じさせていたかもしれない事柄を思い出す時、魂は御父の足下で心からの嘆願を注ぎ出す前に、その暗雲を取り払うために急いで出て行きます。(マタイ五・二三~二四)

Ⅸ.子供たちの中にある御父の命

1.御父をますます知る命

「新しい人は絶えず成長してゆき(中略)いっそう完全な知識と造り主の似姿に至ります」(コロサイ三・一〇、コニーベア訳)

ここで魂は急速に成長します。前の段階では、神は存在全体を獲得するために、魂を深く取り扱っておられました。今や魂は、神で満たされ、神で覆われて、神の中に住みます。そして、神を知る「完全な知識」(エペソ一・一七、原文)において「絶えず成長」します。「あらゆる霊的知恵により、御旨を知る知識に満たされ(中略)神を知る知識において成長し」(コロサイ一・九~一〇)

2.ますます御子のかたちに同形化する命

「御子の型に似せようと(中略)それは多くの兄弟たちが、長子である彼に結合されることができるようになるためです」(ローマ八・二九、コニーベア訳)
「顔おおいを取り除かれて(中略)絶えず造り変えられる」(二コリント三・一八、コニーベア訳)

イエスの霊の供給を通して、魂は日々、柔和で謙遜な彼に同形化されていきます。魂は彼のように仕える者となることを喜びます。他の人々への愛情のこもった奉仕の中で、「すべての聖徒たちの中でもっとも小さな」者となることは、努力を要することではなく、喜びです。

3.御子の命によって勝利する命

「小さな子供たちよ。あなたたちは神から出た者であり、勝利しています(中略)なぜなら、あなたたちの中におられる方は、世にいる者よりも偉大だからです」(一ヨハネ四・四)
「だれでも神から生まれた者は勝利します」(一ヨハネ五・四)

誘惑はますます巧妙になり、闘いはますます激しくなり、悪の策略はますますひどくなります。しかし「内に宿る神の御言葉」により、魂は御父の懐の中に赤子のように隠れて、小羊の血によって勝利します。

魂は、外側の生活手段を守って下さる神の霊に信頼し、自分を隠れ場の中に保って下さる神に信頼します。「神から生まれた方が彼を保って下さるので、悪い者は触れることができません」(一ヨハネ五・一八)

4.御父の霊によってますます導かれる命

「神の霊に導かれている人はみな、神の子たちです。(中略)なぜなら、あなたたちは子としてくださる御霊を受けたからです。私たちは御霊によって『アバ、父』と叫びます」(ローマ八・一四~一五)

魂は赤ん坊のように「アバ、父」と叫びます。今や魂は、環境の中で御旨を見分けること、また地的制約を御父によって設けられた制限としてわきまえることを、神から教わります。魂は、「押しのけて」自分のために道を切り開こうとすることをやめます。そして、御旨を成就するために他の人々を導かれる神に信頼します。魂は、御父の保護する御手に子供のように信頼して、穏やかに歩みます。そして、悪しき者が神からではない「印象」「声」「顕現」を生み出そうとする時、魂は悪しき者の狡猾さを見抜く鋭い視力を与えて下さる方に信頼します。

魂は子供のような確信をもって神の御言葉を受け入れます。また、魂は次のことを知ります。すなわち、内住している御父の霊は御言葉と矛盾することはありませんし、信頼に満ちた魂を、その普遍的原則にしたがって――歪められた御言葉や切り分けられた御言葉にしたがってではなく――絶えず導いて下さるのです。

Ⅹ.「油塗りを受けている」(一ヨハネ二・二〇)

「御子についてはこう言われます。(中略)あなたの神は、あなたの仲間たちにまして、喜びの油をあなたに注がれました」(ヘブル一・八~九)
「小さな子どもたちよ。(中略)あなたたちは聖なる方から油塗りを受けています(中略)もし初めから聞いていることが、あなたたちの中に住んでいるなら、あなたたちは御子と御父の中に住んでいるのです」(一ヨハネ二・一八、二〇、二四)

魂が御子――その仲間たちにまして喜びの油を注がれた大祭司――の中に住む時、今や油塗りの霊の完全な力が現されます。

慰め主の到来を魂が知った時以来、ある程度は塗り油を受けて経験していましたが、ここで塗り油は増し加わって永続的な絶え間ない流れになります――「油の川々」にさえなります(エゼキエル三二・一四)。

ⅩⅠ.油塗りの特徴

1.「油塗り」はとどまる

「彼から受けた油塗りがとどまっています」(一ヨハネ二・二七)

前の段階では、御霊の対処により、油塗りの現われは断続的もしくは一時的でした。御霊が表層意識から中心部へ深く退かれたのは、神の中におられるキリストと一つである命の中に魂をもたらすためでした。

2.「油塗り」は教える

「彼の油塗りがすべての事をあなたたちに教えます。(中略)それがあなたたちに教えたとおりに、あなたたちは彼の中にとどまるのです」(一ヨハネ二・二七)

小さな子供たちは、御父の臨在の中にとどまるよう、「すべての事」を教わります。彼は朝ごとに彼らを呼び覚まして彼らを教えます(イザヤ五〇・四)。なぜなら、彼は彼らの耳を開いて、神の子供たちに対する御霊の語りかけを聞かせ、霊の事柄を霊の人たちに解き明かされるからです。「御霊はすべての事柄、神の深い事柄さえも探られるからです」(一コリント二・一〇)

3.「油塗り」は奉仕のために装備する

「私の上に主の霊がおられます。(中略)主は宣べ伝えるように、私に油を注がれました(中略)解放を告げ知らせ(中略)しいたげられている人々を自由にするために」(ルカ四・一八)

「油塗られた方」(ヨハネ一・四一)であるキリストは、務めの開始にあたってこう話されました。彼の子供たちも、彼の足跡にしたがって歩むには、油塗られた者たちでなければなりません。アロンの息子たちは、罪のための献げ物、全焼の献げ物、任職の小羊と同一視された、油を塗られました(参照、出エジプト記二九・七)。

カルバリの十字架で私たちの身代わりとなられた方のかしらの上に信仰の手を置くこと――これは私たちを身代わりである彼の中に移します――は、明け渡された意志の働きにより、すぐに完了します。しかし、彼との生き生きとした合一の中に入るには、ヨルダン川の水の中で彼と十分な交わりを持つ必要があります。彼との生き生きとした合一により、私たちは御父の小さな子供たちとなり、油塗られた御子の油塗りの下にとどまります。

「小さな子供が彼らを導くでしょう」(イザヤ一一・六)

「赤子たちの口から(中略)賛美」(マタイ二一・一六)

主イエスの無限の恵みはなんと素晴らしいのでしょう!私たちが「違反の中で、また肉の無割礼の中で死んで」いた時(コロサイ二・一三)、彼は私たちのところに降りて来て下さいました。彼は、私たちの無知や地的な心に耐えながら、私たちのレベルに合わせて、一歩一歩、優しく、恵み深く、御霊によって私たちを導き続けて下さいます。最終的に、彼は私たちを神に立ち返らせ、ご自分の魂の苦しみを見て満足されます(一ペテロ三・一八)。

彼の恵みのさらに素晴らしい点は、このように立ち返らされた人々を通して、彼がふたたび他の魂に会いに行かれることです。彼は忍耐強い優しさで彼らを勝ち取り、彼らを信仰から信仰へと導き続けます。そしてついには、彼らも神の懐で安息するようになります。

「私の父が私を遣わされたように、私もあなたたちを遣わします」(ヨハネ二〇・二一、欽定訳)
「私たちは真実な方の中に、すなわち御子イエス・キリストの中にあります。この方こそまことの神であり、永遠の命です」
「小さな子どもたちよ、偶像から自分自身を守りなさい」(一ヨハネ五・二〇~二一)

付録

導きについての手引き

「神の霊に導かれている者はみな、神の子たちです。あなたたちは、再び奴隷的恐れを抱かせる奴隷の霊を受けたのではなく、子として下さる霊を受けたからです。この霊の中で、私たちは『父よ』と叫びます」(ローマ八・一四~一五、コニーベア訳)
「あなたたちは子たちなのですから、神は私たちの心の中に、『父よ』と叫ぶ御子の霊を遣わして下さいました」(ガラテヤ四・六)

聖霊が心の中に入って来られたことにより、すべての信者に子の霊が伝達されました。子の霊は、古い命がその奴隷的恐れと共に十字架に渡されて、キリストの死の中に植えられるにつれて、次第に深まって行きます。復活した主との合一により、イエスの霊の継続的供給を受け続ける限り、私たちは真実な御霊――この御霊はその小さな子供たちを導き、御旨の中に保って下さいます――に頼りつつ、子供たちとして御父と共に歩むことをますます学ぶようになります。

聖霊は御言葉に反する行動路線に導くことはありません。御言葉の中の御霊と、神の子供の中の御霊は、常に調和します。

行動の細部にわたる導きに関して無誤謬の立場を取ることは、正しくありません。神と共に静かに歩んで、私たちの上にある御手の絶妙さを、神ご自身の方法で他の人々に示してもらう方がいいのです。

神が私たちに御計画を示される時、それに日付を付けないように注意しましょう。また、すぐに成就されると思い込まないように注意しましょう。その御計画の真の意味に関して誤った観念を抱くおそれや、霊的なものを物質的なものにしてしまうおそれもありうることを、私たちは覚えておかなければなりません。

神と取り引きをして、それを「契約」と呼ぶことには用心しましょう。「もしあなたが……をして下さるなら、私はそれをします!」。なぜなら、しばらくすると魂はその「契約」に縛られてしまい、神の新たな示しを見分ける自由がなくなってしまうかもしれないからです。神が約束しておられるのは、私たちを一度に一歩ずつ導くことだけです。

自分の間違いを認めることを決して恐れないようにしましょう。神の霊は正直な透明さがある所に住まわれます。私たちは「土の器」にすぎず、御霊の導きを容易に誤解してしまいます。神を誤解して取ってしまった行動路線をのせいにして、神に不名誉を着せるよりは、自分の間違いを認めた方が遙かにいいのです。

神の御言葉を知ることだけが必要な場合、「特別な」導きを期待することはできません。使徒の働きの中に、御霊の力の下にある全く明け渡された生活の一般的原則が示されていることがわかります。また使徒パウロの手紙には、日常生活の実際的な細々とした点にまで及ぶ御霊の御思いが示されています。御言葉を勤勉に調べて、私たちの光に応じてそれに従いましょう。

「何が神の御旨でしょう?」という疑問でいっぱいになるあまり、御旨を行うことに失敗してしまうおそれもあります。全く明け渡された生活では、神が私たちの内に絶えず働いて、私たちに御旨をわせて下さいます。これを私たちは期待することができます。その一方で、私たちは心を尽くして、当面の自分の義務を果たすことに専念します。

神の促しだけでなく、神の制止にも頼りましょう。「御霊がそれをお許しにならなかった」(使徒一六・七)。「声」が約束されているのは、「あなたが向きを変える」だけです(イザヤ三〇・二一)。私たちが御旨の道をまっすぐ進み続けるなら、御父は微笑みを向けて下さり、心は安息します。

御言葉には御霊の照らしが必要です。自分の思いで満たされて御言葉に行くなら、自分自身の考えを読み込んでしまうでしょう。神がご自分の書を解き明かして下さることを求めて、へりくだって神を待ちのぞみましょう。

何事も急いで行ってはなりません。神の御旨の事柄には、常に時があります。一日待つことで光が与えられ、自分が深刻な間違いを犯す寸前だったことがわかるかもしれません。神と共なる歩みは、とてものろのろとしているように見えますが、その効果は確かです。なぜなら、その中には無駄な力が一切ないからです。

聖霊は、神に全く満たされている魂に、御心にかなっている場合は必ず、深い安息を与えて下さいます。思いと心が完全な落ち着きの中にない限り、決していかなる決断も下さないようにするのが安全です。

途方に暮れている時の手引き

1.特別な困難を断固として神に委ねなさい。「あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ」(詩篇三七・五)

2.神は御父として、ご自分の子供を導くことに失敗することはありません。これを覚えつつ、神の真実さを信じる確かな信仰を行使しなさい。「神に来る者は(中略)神を求める者たちに報いて下さる方であることを信じなければなりません」(ヘブル一一・六、改訂訳)

3.個人的な好みを正直にすべて放棄して、喜んで神の方法で導かれるよう、気をつけなさい。「まっすぐな人の誠実さは、その人を導きます」(箴言一一・三)

4.自分の今の光に応じて、神の御旨のすべての指示に従いなさい。

5.健全な心を与えて下さる神の霊に信頼しなさい。また、自分の困難をあらゆる観点から注意深く眺めなさい。第一に神の王国の観点から、第二に他者に対するあなたの義務の観点から、第三にあなたに及ぼす影響の観点から眺めなさい(詩篇二五・九)。

6.自分の次の義務を行う一方で、神が引き受けて下さることを静かに確信しつつ、すべての問題を神に任せなさい。

「私は、あなたたちを指導して、行くべき道を教えよう。私はあなたたちに目を留めて、助言を与えよう」(詩篇三二・八)
「『あなたたちは、私にそれができると信じますか?』(中略)『はい、主よ』(中略)『あなたたちの信仰のとおり、あなたたちになるように』」(マタイ九・二八~二九)