カルバリは、キリストがあの木の上であなたの罪を担われたことを意味するだけでなく、彼が罪人をその木へ連れて行かれたこと、すなわちあなたをそこへ連れて行かれたことを意味します。神は古いいのちにつぎ当てをするのではなく、それを十字架につけられたものとみなすこと、そしてご自身から新しいいのちを受け取ることを、あなたに要求しておられます。これを認識する時、新しいいのちの中には固有の性質があることをあなたは見いだすでしょう。古いアダムのいのちにはそれ特有の性質があり、新しいアダムのいのちにもそれ特有の性質があります。
この十字架のメッセージは、何度も繰り返す必要があります。なぜなら、真理は「少しずつ」私たちを捕らえるのであり、ついには私たちをしっかりと捕らえ、信じる私たちのうちに効果的に働くようになるからです。
さらに、キリストは人の代表として、罪人をあのカルバリの十字架へ連れて行かれただけでなく、十字架上で、また十字架での死を通して、サタンを完全に征服されました(コロサイ二・十五)。ですから、クリスチャンは少しもサタンを恐れる必要はありません。サタンは、カルバリの勝利を知っている人にとって、完全に征服された敵なのです。
カルバリの勝利
「恐れには刑罰が伴います」[1]。カルバリの成就された働きは、死の恐怖(ヘブル二・十四、十五)と死の君に対する恐怖を終わらせます。
キリストは十字架上であなたの罪を取り去られました。ですから、あなたの罪は彼の血を通してすべて消し去られました。サタンのあらゆる悪霊どもも、あなたに罪を課したり、投げつけたりすることはできません。神ご自身が罪を消し去って、「わたしはもはや、彼らの罪を思い出さない」(ヘブル八・十二)と仰せられました。これは罪の意識や罪の刑罰からの救いです。しかし、神が罪を消し去られる時、神は、あなたが罪を放棄するという条件でそうされます。これを理解することは決定的に重要です。あなたが放棄しようとしないものを、神は消し去れません。
自分の罪は消し去られたこと、そして新しいいのちの分与によって神から真に生まれたことを知る時、あなたが理解しなければならないことがあります。それは、十字架を通して得られる勝利の生活の三つの面についてです。
1. 罪に対する勝利
キリストの死を通して救われた罪人には、罪と関係を断つ権利があります。彼は、勝利者であるイエスの御名の中で、「いかなる罪も、私を支配する権利はありません」と言うことができます。例えば、あなたはローマ人への手紙六・六に立って、「いかなるいかがわしい習慣も、私を支配する権利はありません。私は、私のために死んでくださった主の御名の中で、それに束縛されることを絶対的に拒否します」と言えるでしょう。贖われた人であるあなたは、このように言う権利があります。なぜなら、十字架の働きはあなたのためであり、あなたは、キリストがあなたのために獲得されたものをすべて捉えて自分のものとするべきだからです(ローマ六・十三)。このような方法で罪に勝利することは、あなたの栄光ではありません。なぜなら、それはあなたの人間的な意志や、人間的な力を通して獲得されるものではなく、十字架上でキリストが成就された働きを通して獲得されるものだからです。キリストはあなたのために罪の赦しを獲得してくださいました。キリストはあなたのために罪と死に対する勝利を獲得してくださったのです。
孤独な十字架、それを思いなさい!そこで小羊[2]を見なさい!ムーディーは言いました、「神はほふられた小羊[3]によって、地獄のライオンを征服された」と。そして、そこで御業がなされました。ああ、教会が贖い主であるイエス・キリストの御名の中で立ち上がり、罪やサタンの束縛を拒否しますように。教会はキリストの御名の中で立ち上がるべきです。そして、教会に対する悪魔の働きをことごとく滅ぼすことができる、と宣言するべきです。なぜなら、キリストが現れたのは、それらを滅ぼすためだからです。
カルバリの勝利という事実、サタンは征服された敵であるという事実を、しっかりと握りましょう。キリストはカルバリでサタンを征服されました。ローマ人への手紙第六章の立場に立って、古いいのちは十字架につけられたことを認める時、あなたの霊はキリストに結合されます。「主に結合される者は、主と一つ霊です!」[4]。あなたは、一人で出て行って、強力な恐ろしい霊の敵に立ち向かうのではありません。あなたの霊は「主に結合されて、主と一つ霊」です。キリストは勝利者であり、あなたは一つ霊の中で勝利者であるキリストに結合されているのです。
神は、あなたによってあなたに勝利を賜るのではありません。神は、あなたが霊の中で勝利者に結合されることによって、あなたに勝利を賜るのです。「あなたたちのうちにおられる方は、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです」(一ヨハネ四・四)。私たちは、一つ霊の中で勝利者であり征服者である御方と結合されているというのに、敵の前で怖じ気づいて震えるのでしょうか?しかしあなたは、カルバリに来て、古いアダムのいのちはキリストと共に十字架につけられたという事実に堅く立つまでは、その「結合」を知ることはできません。なぜなら、「古いいのち」は邪魔をして、何らかの「戦い」をしてしまいがちですが、それは敵に対して何の役にも立たないばかりか、あなたを支配する立場と力を敵に与えてしまうからです。それゆえ、古いアダムのいのちは十字架につけられたことを認めなければなりません。なぜなら、それはサタンの道具であり、古いいのちが絶えず死の立場にとどめておかれないかぎり、それはサタンが「火矢」[5]を放つ道具となるからです。サタンは全旧創造に対して完全な権利を持っています。彼は、あなたの中にある「十字架につけられていない」古いいのちのその部分を知っており、火矢をすべてその部分に向けて放ちます。これらの矢の先端にはゲヘナの火(ヤコブ三・六)が燃えています。矢があなたに突き刺さると、それは燃え上がり、炎を上げて燃え、あなたを「炎」にしてしまいます。
あなたがクリスチャンの中に「炎」を見る時はいつでも、それがどこから来たかわかるでしょう。それは、
「地獄の炎で燃やされた」
古いいのちから来るのです。
神の子供よ、あなたは「かっとなって」、言うべきではないことを言うことがあるでしょうか?あなたは不親切な事柄にかっとなって、サタンによって「火で焼かれる」のでしょうか?これは勝利する「戦い」ではなく、常に敗北する戦いです。あなたはローマ人への手紙第六章の重要性を理解しているでしょうか?ローマ人への手紙第六章の立場に立たずに、あなたがサタンを攻撃したとしましょう。彼はどんなに嘲笑うことでしょう!彼は言うでしょう、「なぜ私に属する『持ち物』がそこにあるのか。彼らは私の『物』をたくさん持っている」。あなたは「強い人」を縛る[6]ことができません。なぜなら、彼の物があなたの中にあり、あなたの周りにもあるからです。それゆえ、あなたはカルバリの立場に立って、古いいのちは十字架につけられたことを常に認めなければなりません。そうするなら、ゲヘナの火があなたを縛ることはないでしょうし、「人生の車輪」を焼く[7]こともないでしょう。古いいのちはすでに、エデンの園で蛇が人を打ち負かしたことにより、蛇の毒で毒されています。
地獄のライオンとのこの戦いのためには、小羊の霊、小羊-ライオンの霊[8]、イエスの霊[9]そのものがなければなりません。火矢があなたに向かって放たれる時、あなたの中には小羊の霊がなければなりません。人々がどんなにあなたを踏みつけ、虐待し、しかめつらをしても、あなたの中に炎――それをあなたは「義憤」と呼ぶかもしれません――があってはなりません。カルバリの解放が必要であり、カルバリの小羊の霊が必要なのです。
2. 苦難における勝利
勝利の生活のこの面は、ローマ人への手紙八・三五~三九に見いだされます。使徒は言います、「私たちはほふられる羊とみなされている。………しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」。あなたが虐待される時、あなたがキリストのために、キリストと同じようにただほふられるしかない羊と見なされる時、あなたは「圧倒的な勝利者」になります。「あなたのために………死に定められている!」。ほふられる羊と思われることは、素晴らしいことではありません。それは「威厳」あることではありません!ここには誇る余地は全くありません。主キリストのカルバリの死には、「威厳」があまりありませんでした。彼が茨の冠をかぶって、御顔に血を流しつつ、道を引いていかれた時、そしてその夜、七マイル歩いて、所々移動させられた時、彼にはあまり「威厳」はありませんでした。そこには、「私たちが慕うべき美しさはありません」[10]でした。それは「威厳ある」死ではありませんでした!彼はさらしものにされたのです!
神の子供たちに関して、彼らを最も深く傷つけることは、彼らの威厳に触れることです。彼らは神の前でさらしものにされても気にしませんが、人々の前でさらしものにされるのを大いに気にします。なんと彼らは、自尊心を傷つける事柄を恥じることでしょう。しかし、信者が本当に、
キリストと共に苦しんでいること
を実感する時、それらはみな消え去ってしまいます。それは「あなた自身のために死に渡される」ことではなく、「キリストのために死に渡される」ことです。それは、あなたが悪かったから、叩かれ、むち打たれることではなく、あなたが義しかったから、叩かれ、むち打たれることです。もしあなたが善を行って、そのために苦難を受け、耐え忍ぶなら、それは恵みです。しかし、あなたが悪を行ってそのために苦しみ、耐え忍んだとしても、あなたにどんな感謝があるでしょう(参照、一ペテロ二章)。これが勝利であり、キリストのための苦しみの中で勝利者となることです。あなたが悪を行って、「そのために苦しむ」とき、それを「キリストと共に苦しむ」ことと言ってはなりません。「あなたのために………死に定められている………これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」。これが、「イエスのための」苦難における、小羊の霊の勝利です。そして、これがこの世に対する勝利です。
3. サタンに対する勝利
サタンに対して勝利を得ることでは、あなたは全く別の方法で征服します。忍耐と愛する霊をもって、悲しみと不当な迫害を耐え忍ぶことは、キリストに結合されている人が持つ真の霊のいのちです。それは、苦難の目に見える直接的な原因である人間に対する姿勢においてです。しかし、これが悪魔に対する姿勢であってはなりません。あなたは悪魔に対して「小羊」であってはなりません。人々に対しては「小羊」であり、忍耐強く、愛の心を持ち、小羊の霊を示すことによって、「圧倒的な勝利者」でありなさい。しかし同時にあなたは、ペテロ第一の手紙五・八~九とヤコブの手紙四・七にしたがって、悪魔に抵抗しなさい。
ですから、勝利の生活には三つの面があります。(1)罪に対する面、ローマ人への手紙第六章が言う、「罪に対して全く死ぬ」こと。(2)人々に対する面、彼らがあなたを「殺す」時に「圧倒的な勝利者」となること。(3)悪魔に対する面、私たちの主であるイエス・キリストの御名の中で「悪魔に抵抗する」こと。エペソ人への手紙第六章は、敵に抵抗することによる、勝利の生活のこの最後の面を描写しています。主イエスは、人に対しては「小羊」でしたが、悪魔に対しては「ライオン」でした。彼はもろもろの支配や力を払い落とし、彼らをさらしものにされました[11]。人々の目には敗北だったことが、神の目には勝利でした。人々の目には「恥」だったことが、神の目には栄光でした。サタンとそのすべての邪悪な軍勢に対して、キリストはライオン、ユダ族から出たライオンでした[8]。
エペソ人への手紙第六章において、私たちは、暗闇の力に対する霊的な戦い、ライオンのいのちを見ます。私たちはここに、戦士の霊を持つ戦士を見ます。「ですから、強くありなさい」。人間の立場においては、キリストは「弱さを通して十字架につけられ」ました[12]。しかし、彼は「強い」方であり、「強い人」[6]よりもさらに強い者でした。彼の名前は「強い者」です。「もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つ」[6]。ですから、「キリストにあって」立ち、サタンに立ち向かう信者に対する使信の言葉は、「強くあれ」です。あなたは今、「弱さ」について話してはなりません。あなたの人間性やあなた自身は弱いかもしれません。しかしあなたは、
「主にあって強く」
あらねばなりません。
悪魔の策略の一つは、「十字架の弱さ」(二コリント十三・三~四)のゆえに、神の子供たちに弱さを受け入れさせることです。しかし「十字架の弱さ」は、人に対する人間的な側面のことです。霊の領域における奮い立たせる言葉は、「強くあれ!」です。地的な側面では、「私は自分の弱さを誇る」とパウロは言いました[13]。しかし、敵に立ち向かうことでは「強くあれ!」。「今からは強くあれ!」。「強くあるよう努めよ」と言っているのではありません。「強くあれ」と言っているのです。神が「………あれ」と語られる時、神はそのための力を与えてくださいます。神が「光あれ」と語られると、そこに光がありました[14]!ですから、神があなたに「………あれ」と語られる時はいつも、「アーメン、私は………です」と言いなさい。すなわち、それはそうなるのです!神は御言葉を語られ、あなたはそれを自分のものにします。そして、あなたがそれを実行する時、それは事実になります。神がそれをなさいます。神は「強くあれ!」と言われます。「弱い者に、私は強い!と言わせなさい」[15]。なぜあなたはそう言わなければならないのでしょう?それは、霊の領域では、言葉が創造するからです。キリストは言われました、「その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう」[16]。霊の領域では、空しい言葉は一つもありません。あなたの言うことが、そのとおりに成るのです。ですから、あなたは自分の言葉に注意する必要があります。「天然の人」[17]として地の領域を歩む時、あなたは効力の乏しい言葉を語るかもしれません。しかし、霊の領域を歩むとき、自分の言葉によって自分の信仰を否定しないよう警戒する必要があります。
もしあなたが、「神は私に『強くあれ』と言われます。ですから、神の力によって、
私は強い
のです」と言うなら、力があなたの中にやって来ます。悪魔は霊の領域の法則を知っています。彼はあなたに「ああ、あなたは今日具合が悪いですね」とささやきます。するとあなたは、「私は具合が悪い!」と言ってしまいます。しかし、神は「強くあれ」と語られます。するとあなたは、「信仰により、神にあって私は強い!」と言います。サタンは「あなたは失敗するでしょう」とささやきます。するとあなたは、「私は失敗すると思う」と言ってしまい、自分が本当に「失敗する」のを見ることになります。これが霊の領域における法則です。しかし、その領域における言葉の力を理解している人は少ないのです。「弱い者に、私は強い!と言わせなさい」。
強くあれ!あなた自身にあってでしょうか?いいえ。「主にあって」です。これが立場です。それは主の外でではなく、「主の中で」です。「主にあって」立ちなさい。決して他の立場に立たないように注意しなさい。あなたの信仰を
「私はキリストの中にある」
という事実と、「キリストが私の中におられる」という事実の上に置き続けなさい。私は一人で物事を対処するのではありません。私は個人的には弱いですが、キリストは強いのです。私は無力ですが、キリストは全能です。私はキリストにあって強いのです。私には彼の力、彼の活力があります。「私は主にあって立ちます!」。神の子供たちの多くがこんなにも「弱い」のは、キリストにある自分たちの立場を忘れ、自分たちが「キリストと共に神の中にある」ことを忘れているからです。あなたが彼らを戦いで無防備な場所に置くなら、彼らは逃げ去ってしまいます。あなたは彼らに、祈りによって征服すべき事柄について告げることができません。なぜなら彼らはおびえきってしまっているからです。神が持っておられるのが、こんなにも弱い教会――罪やサタンとの戦いにおいて弱く、この世に対する姿勢において弱い教会――であるとは、とんでもないことです。それはすべて、教会が十字架の内なるメッセージを学んでこなかったためです。
「その大能の力」。この御言葉を用いて地獄のライオンを対処しましょう。神は言われます、「強くありなさい。その大能の力にあって立ちなさい」。そうするなら、恐れは全く取り除かれるでしょう。それは「大能の力」です。パウロはエペソ人への手紙第一章で、全く同じ言葉を用いています。「キリストは、神の『力』、『彼の大能の力』によって、死者の中からよみがえらされました」。ですから、主が来臨して、私たちが共に主のもとに集められるまで、私たちは絶えず勝利の中を神と共に前進しようではありませんか。
[1] 一ヨハネ四・十八 [2] ヨハネ一・二九 [3] 黙示録五・六、九、十二 [4] 一コリント六・十七 [5] エペソ六・十六 [6] ルカ十一・二一~二二 [7] ヤコブ三・六 [8] 黙示録五・五~六 [9] 使徒十六・七 [10] イザヤ五三・二 [11] コロサイ二・十五 [12] 二コリント十三・四 [13] 二コリント十二・九 [14] 創世記一・三 [15] ヨエル三・十 [16] マルコ十一・二三 [17] 一コリント二・十四