一.祈りの働き

ジェシー・ペン-ルイス

「あなたたちのうちの一人であるエパフラスは(中略)いつも祈りの中で、あなたたちのために熱心に労しています。」(コロサイ四・一二)

クリスチャンの人々は、祈りを感情や願いがたまたま流れ出たもの、あるいはその炸裂と見なすことに、あまりにも慣れ切ってしまっています。しかし、コロサイ四・一二では、祈りは「働き」と称されています。エパフラスの挨拶を伝えた後、パウロは彼について「祈りの中で熱心に労しています」と述べます。使徒ヤコブも、明らかに経験から述べて、「義人の効果的で熱心な祈りは、大いに効力があります」と記しています。義人の嘆願には大いに効力があるからには、祈りは働きであり、それが成就された暁には神のみこころの表現となる働きなのです。

国家全体に対する祈りの働きを、エリヤの生涯の中にはっきりと見ることができます。彼についてこう記されています、「エリヤは私たちと同じ性情の人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月のあいだ地に雨が降りませんでした」(ヤコブ五・一七)。これはエリヤの祈りの縛る力でした。次にこう記されています、「彼が再び祈ると、天は雨を与えました」。これは解く祈りです。彼は祈りが縛ったものを祈りによって解いたのです!彼は降らないよう雨を「縛り」、今や、天が地を水で潤すよう、天を「解き」ます。彼はこの両者を神の直接的命令で行いました。彼は神の御心にしたがって、またそれと完全に調和して、行動しました。神はご自身の御言葉を尊んで、ご自身の預言者の天来の信仰に応じてくださる、と彼は完全に信頼しました。

このように天を開いたり閉じたりすることは、縛ったり解いたりする祈りの力の強力な例であり、マタイによる福音書に記録されている私たちの主の御言葉を見事に描写しています。「あなたたちが地上で縛るものは何であれ天でも縛られ、あなたたちが地上で解くものは何であれ天でも解かれます」。この預言者について、彼は国土をさらなる大災害から救う試みに協力するよう民に求めた、とは述べられていません。預言者に仕えていた若者だけがこの負担にあずかって、協力し、神が約束された雨を待ち望みました。山頂まで行って戻ってきた後、彼は「人の手のひらほどの大きさの」雲を見た、という言葉を伝えました。これは干上がって、乾いた、太陽で焼けついた土地を水で潤すほどのものではありませんでした。しかし、この預言者にはそれで十分でした!彼は祈り抜きました。そして今や、行って大雨の到来を宣言しなければなりません。

次に、勝利する祈りのもう一人の勇者であるモーセによる、縛ったり解いたりする働きについて分析しましょう。ここでもまた、エリヤの場合のように、彼が水を解いて渇いている民と彼らの牛の渇きをしずめた時、大いなる祝福が国民に臨みました(民数記二〇・一一)。また、イスラエルがアマレクに攻撃された時、彼は、上げた両手と祈りの霊で、敵を縛りました(出エジプト一七・一一)。彼が主に向かって叫ぶと、水が流れ出ました。彼は両手を上げて、神と共に立ち、勝利する祈りで敵を縛りました。そのため、その日、その国民は征服する民となりました。これは一人の人による祈りの効力の素晴らしい絵図です。その人は神と親密な生活・歩みをしており、祈りに関する神の法則の厳格な要求を理解していたのです。

使徒行伝の書から、祈りは初期の教会の慣行だったことがわかります。ペンテコステの日々のあらゆる祝福のただ中で、語られた言葉に対する油塗りの中、使徒たちは「私たちは祈りと御言葉の務めに専念しましょう」と言いました。祈りが第一であり、宣べ伝えは二の次でした。御言葉を語る道を備えるにあたっての祈りの働きの意味を、彼らはとても良く知っていました。それで彼らは、第一に「祈りに専念しましょう」と言ったのです。そして、祈りへのこの専念により、主の御言葉は速やかに広まってあがめられたのです。

「なすべきことがたくさんあります」と言う誘惑があります!しかし、祈りにおけるあなたの役割を果たしてくれる人を、あなたは他に見つけられるでしょうか?あなたの祈りが教会のために必要です。「私たちは祈りに専念しましょう」とある以上、悪を縛り善を解く働きはどれほど偉大なことでしょう!初期の教会がどのようにペテロを牢獄から解いたのかを見てください。彼らはヘロデのところに行って嘆願せずに、ただ祈りの中で神の御許に行きました。牢獄の扉を開くのは尋常ならざることでした。共に集まった人々はびっくり仰天して、信じることができませんでした。教会は祈りによって牢獄のかんぬきを解きましたが、それでも、その応答に驚いたのです!

私たちは自分の祈りを朝の一定の時間、おそらくは夜の十分間、そして時には祈りの集会と関連付けています。しかし、一日中労する祈りのこの強力な実践について、私たちは何を知っているでしょう?敵との戦いを理解する時、あなたはあらゆることのために祈るようになります。なぜなら、あなたが祈らずにいることは必ず、敵が忍び込むための開いた門戸となるからです。敵はあなたの家を混乱させ、あなたの仕事を遅らせ、あなたがする旅行の手配を誤らせます――事実、「敵が触れることはないだろう」とあなたが思う事柄こそ、まさに敵の攻撃の的になるのです。また、あなたが忘れている点こそ、敵が特に覚えている点なのです。

この「効果ある祈り」をどうすれば学べるのでしょう?「守りが必要なことをすべて覚えているのは、多分むりです」とあなたは思うかもしれません。この点こそまさに、聖霊の助けを求める必要がある点です。なぜなら、彼は私たちのためにとりなして、「神のみこころにしたがった」(ローマ八・二六、二七)祈りをあなたの霊の中に注ぎ込んでくださるからです。彼の助けによって、あなたは思い出して、包括的な祈りを祈ることができます。前もって祈り、敵の機先を制しなさい。サタンは六か月前に自分の計画を立てているというのに、あなたはその出来事の一か月前になってようやく祈り始めるのでしょうか?次の大会のために前もって祈りなさい――いかなる邪魔ものも神の霊的な御旨・御計画を妨げたり挫折させたりしませんように、と祈りなさい。なすべき働きがたくさんあることがわかるでしょう。

エリヤの祈り、モーセの祈り、初期の教会のための使徒たちの祈り!これらの神の巨人たちが祈っていなければ、何が起きていたでしょう?初期の教会ですら、その構成員たちは完全ではありませんでした。使徒たちは敵が忍び込むのを見ました。つぶやきがありました――お金はもちろんのこと、食物や他の必要についてです。その後、使徒たちは、「私たちは祈りと御言葉の務めに専念しましょう」と言いました。

書簡の中には、キリストの全教会のための祈りが見つかります。信者たちのためにどう祈ればいいか知りたければ、パウロの諸々の祈りを読んで、今日の神の民のためにそれらの祈りを祈りなさい。エパフラスは何を祈ったでしょう?コロサイ人たちが「神のすべてのみこころを完全に確信して立つ」(コロサイ四・一二)ようにと、彼は祈りの中で「熱心に労し」ました。これが彼が祈りの中で労した、到達すべき目的でした。そして、これがそれによって祈ることのできる最高の基準です。時々、祈りの依頼を受けて、それらの課題のために何を求めればいいかわからないことがあったとしても、少なくとも、「この魂のために神のみこころがなされますように」と祈ることはできます――この祈りは詳しくはありませんが、すべてを含んでいます。パウロの諸々の祈りの言葉を使って教会のために祈りなさい。神の使者たちのために祈りなさい。メッセージを伝えるとき、彼らの言葉が明確で、力強く、説得力があるものとなりますように、と祈りなさい。ローマ一五・三〇~三二のパウロの祈りを見てください。

「兄弟たちよ、私は主イエス・キリストと御霊の愛によって、あなたたちに懇願します。私のための神へのあなたたちの祈りの中で、私と共に奮闘してください。それは、私がユダヤにいる不従順な者たちから救われるためであり、またエルサレムのための私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるためです。こうして神のみこころを通して、喜びのうちにあなたたちの所へ行って、あなたたちと共に安息を見いだすのです。」

これが祈りの協力を求めるパウロの依頼でした。エルサレムに行く時、それは極めて困難な時になるだろうことを、彼はわかっていました。そこでは、一部の信者が自分たちのユダヤ宗教をある程度保ちたがっていて、それらの人々が彼に抵抗・反対するだろうことが予期されました。それで、彼は仲間の信者たちに、自分の前にある危険や困難に直面して征服することができるよう、祈りの協力を求めたのです。

二コリント一・八~一一に、圧迫からの解放のための祈りを求めるパウロの依頼があります。きっとこれは間違いにちがいない――きっとパウロはそれほど圧迫されていなかったにちがいない!――とあなたは言うでしょう。しかし、彼は「耐えられないほど」圧迫されていたのです。生来の彼が耐えられる限界を超えそうだったのです。それで、彼は生きる望みさえも失いました。そこで、彼は仲間の信者たちに祈りを求めます。そして、「あなたたちの祈りを通して神は自分を解放してくださる、と私は期待しています」と付け加えます。これは確かに、圧迫下にある信者たちのための祈る十分な根拠であり、祈りは働きであることがわかる十分な根拠です。

コロサイ書には「開いた扉」のための祈りがあります。きっと、皆がパウロの宣べ伝えのために扉を開くにちがいありません!そうではないでしょうか?今日、私たちが知っている偉大な使徒パウロは、当時、ナザレ人に従う蔑まれた従者にすぎませんでした。私たちは、聖書の他の人物たちにそうするように、パウロの周りに後光を付け加えてしまいます。そのため、彼らの生活がどれほど私たちの生活のようだったのか、私たちは分かっていないのです。おそらく、パウロは彼の一生の仕事の恐ろしい重圧の中を通ったとき、その輝かしい成果がどのようなものか、彼自身まったくわかっていなかったでしょう。生涯の終わりに、外面的な結果に関して、「すべての人が私を見捨てました」と彼は言わざるをえませんでした。数世代後になってはじめて、真の成果がわかりました。彼の人生の結果がどうなるのか、パウロは少しでも知っていたでしょうか?彼は苦闘し、苦しみ、状況によってあちこちに追われました、敵から逃れるために、かごの中で城壁を吊り降ろされました。彼の道のどの歩みも、彼を滅ぼすためのユダヤ人たちの反対や策略によって付け狙われました。彼の命と使信は常に危険の中にありました。小さな群れの中には、反対する兄弟たちがいました。そのため、彼の働きは、キリスト信者であると告白しているけれども、律法の文字――それは「過ぎ去る」ものでした――にしがみついている者たちによって、滅ぼされかけました。彼はこういったことやそれ以上のことをすべてくぐり抜けました。神に助けられて、祈りにより、彼を試みるあらゆる試練や環境をくぐり抜けたのです――神は彼にそれらの試練や環境を通らされました。それは彼が実を結んで、彼の種が豊かに増殖するためでした。

「型にしたがって」

これは私たち全員が学ぶべき奇妙な学課です。そして、最初から最後まで、カルバリがその型です。神の勝利は敗北のように見えるのです。それは目に見えない領域では勝利なのですが、目に見える領域では、まったくどん底のように見えます。カルバリではそうでした。パウロの生涯ではそうでした。ペテロの生涯ではそうでした。どこでも誰でもそうでした。彼らは「死は私たちの中に働き、命はあなたたちの中に働きます」と言うことができました。彼らはキリストの死の中に植えられます。それは実を結ぶ命のためです。もし私たちが絶えざる外面的成功の生活を期待し、世人に対して裕福で好ましく見えることを願っているなら、私たちは神の働きの方法を誤解しています。他方において、あなたに内なる視力があって、自分の中にある神の命は苦難を通してはじめて実を結ぶことを見るとき、あなたは目に見えない霊の命を信仰によって生きることを学ぶようになります。戦い、反対、友人たちの裏切りによって煩わされなくなります。むしろ、自分の魂を忍耐のうちに保って、神の愛によって満たされます。自分の人生の行程は地上における神・人の模範、そしてパウロの模範にしたがっていることをあなたは理解し、「そうです、私はこの列に連なっているのです」と言うようになります。

話すための扉が開かれて、「御言葉が速やかに広まる」(二テサロニケ三・一)ようパウロが祈ったことを知るのは、大きな助けです。あなたがそのために祈らなければ、どうやって御言葉は「速やかに広まる」ことができるでしょう?御言葉を「速やかに広」めるのは祈りです。あなたは神の使者たちと彼らのメッセージのために、このように祈っているでしょうか?神のメッセージを託されているこれらすべての人たちのために祈りなさい。彼らが「不従順な者から救われる」よう祈りなさい。彼らが彼らのメッセージと共に受け入れられるよう祈りなさい。彼らが神に遣わされた所にだけ行って、他の誰かによって遣わされることを許さないように祈りなさい。圧迫が彼らの上に臨んで、彼らが生きる望みすら失う時、彼らのために祈りなさい――彼らには自分たちのために祈り「抜く」人が必要です。神の十字架の使者たちのために「話すための扉が開かれて」、メッセージを与える自由が与えられますように、と祈りなさい。もしかすると、教会をこの祈りの働きに専念させるために、神はすべての霊的働きが停止するのを許されるかもしれません。多くの人は話す働きに喜んで専念しますが――祈る働きにそうする人は何と少ないことでしょう?真のメッセージを持っているとあなたが見なしている人の背後にあなたが立ち、「主よ彼に言葉を与えてください。あなたの御言葉を速やかに広めてください」と祈るなら――それこそ祈りの働きです。

あなたはこの働きの可能性を垣間見ているでしょうか?一日中、キリストとの合一の中で、あなたはこの絶えざる祈りの働きをすることができることを、垣間見ているでしょうか?祈る衝動を待っていてはなりません。むしろ、「冷静に」、あなたの意志で選択して祈り、熟考した上で、静かに神に求め、神は御言葉にしたがってこたえてくださると信頼しなさい。多くのクリスチャンが祈りの集会に出席するのは、神に対して正しくなるため、あるいは、神との交わりを持つためです――彼らは一日中そのように生きるべきだったのであり、集会に行くのは決定的な働きのためでなければなりません。「素晴らしい祈りの時だった!」とあなたは言うかもしれません。確かにそうかもしれませんが、あなたは何事かを成し遂げたでしょうか?祈りの中でなされるべき膨大な働きがあります。そして、これらの「効力ある祈りの集会」こそ、今日教会が最も必要としているものです。しかし、それらは得るのが極めて困難なものです。それは、祈る人たちの孤立した霊的生活のためであり、このような祈りの道にサタンが置いた妨げに関する誤解のためです。

祈りの集会にはある目的がなければなりません。講壇に立つ人のために祈りなさい――「主よ、彼に真の福音を与えてください、彼に言葉を与えてください」。これはその一つの面です。別の面もあって、それによりあなたはこう祈るようにされます、「主よ、サタンがそこでしていることを見てください。彼を縛ってください、主よ、そして、あの人による彼のたくらみをすべて無に帰してください」。

私たちは祈りの二つの面について考えてきました――供給が必要なもののための祈りと、敵に対して両手を上げる祈りです。この上げられた両手の祈りを、あなたは実証したでしょうか?モーセは戦場でヨシュアに加わって戦った、とあなたは思うかもしれません。モーセはおそらくこう言ったでしょう、「ヨシュアは肉や血を対処していますが、私はもっと強力な力を対処しています。そこでは、肉や血は何の役にも立ちません」。「私たちの戦いは肉や血に対するものではなく」、神の御座との霊の合一によってのみ対処できる敵に対するものです。私は神に求めます。奉仕者たちが逸れていって福音ではないものを宣べ伝えることがないように、教会が彼らを祈りによって守るすべを知っていれば!今日、純粋な福音の宣べ伝えには大きな代価が必要です。そのため、多くの人は、ああ、抵抗が最も少ない道を選んでいます。そして知らず知らずのうちに、あるいは意図せずに、より容易な道を取っています。ああ、祈りの集会に向かって高らかな声で、「あなたたちは何をしているのですか?あなたたちは働いていますか?あなたたちはここに何のためにいるのですか?」と言えたら。

あなたを祈りの働きに促しても構わないでしょうか?それは、祈りの働きは集会に行って話を聞いたり、自分自身のために祝福を得ようとすることよりも尊い、とあなたが見なすようになるためです。この祈りの務めに自分を就かせてください、とあなたは神に祈るでしょうか?あなたには他になすべき働きがあるかもしれませんが、思いが些細な事柄に向かってしまうのには驚かされます――どうしてそれと同じくらいの容易さで祈りに「向かって」、動き回っているあいだ「絶えず」祈ることができないのでしょう?神の右手でとりなしておられる主イエスを思いなさい。彼はふたりの「弁護者」のひとりです――もうひとりは聖霊であり、神の子供の中でとりなして、祈る方法を教えてくださいます。彼はあなたの祈りを神のみこころの中に向かわせてくださいます。それは、あなたが祈りの効力を実証するためです。