二.かなえられる祈りの個人的条件

ジェシー・ペン-ルイス

「もし私が心の中に不義を抱いているなら、主は聞いてくださらない。」(詩篇六六・十八)

「あなたの罪があなたから御顔を隠したので、主は聞いてくださらないのだ」とイザヤはイスラエルに言いました。ですから、祈りがかなえられない時、あなたは「神が私の祈りをかなえてくださるのを妨げるものが、私の生活の中になにかあるのでしょうか?私は心の中に不義を抱いているのでしょうか?」と尋ねる必要があります。なぜなら、神のみこころに反するとわかっているものがあなたの生活の中に一つでもあるなら、あるいは、なにか疑わしいものにしがみついているなら、その事柄は祈りがかなえられる妨げになるからです。あなたが祈り求めている特定の事柄があります。あなたがそれらを願っているのは、ただそれらが神のみこころだからでしょうか?変わってほしいと思っている事があなたの生活の中にあります――それらはあなたの慰めのためであり、あなたは「それは神の栄光のためである」と思うかもしれません。それらは自分に対する神のみこころではないとわかったとしても、あなたはそれらを願うでしょうか?あなたの願いの泉は清められていて、神のみこころの外側にあるなにものもあなたは慕わないでしょうか?神のみこころを知ることをまず求めずに愛着を募らせることによって臨む苦難のために、神を責めないでください。

人の効果的で熱心な祈りは、大いに効力があります」。キリストにある転嫁された義だけでなく、生活の中に実際的義がなければなりません。あなたの知るかぎり、あなたの生活のすべての部分が神のみこころと神の法則にしたがっていなければなりません。

また、日毎に罪に対して勝利しなければなりません。勝利の生活を送ることに失敗することほど、「願い求め」と願い求めの力を速やかに阻止するものはありません。個人的勝利の必要性は、かなえられる祈り条件として、どれほど強く明確に強調しても強調しきれません。あなたを支配しているなにかがあなたの中にあります――ほとんど常になにか一つのことに集中しています――ただまっすぐにあなたの救い主、御顔に傷のある人のもとに行きなさい。そして、尊い血を適用してもらって、罪の「欲求」から自分を清めてもらいなさい。彼は救い主です。「彼はご自分の民を彼らの罪から救います」。キリストとの曇りなき個人的関係が、まさにかなえられる祈りの基礎なのです。

自分につきまとう特定の事柄で個人的に勝利することに加えて、勝利の霊を持つ必要があります――これはあなたの環境やあなたの状況に対する勝利を意味します。あなたの生活のあらゆる点で個人的に勝利することが、祈りを絶えずかなえてもらうための主要な要素です。

ですから、魂を攻撃する敵の狙いは祈りの力を阻止することです。サタンは失敗について、その結果ほどは気にしません。もし彼が信者を束縛、抑圧、重圧や雲の下にとどめておけるなら、祈りを阻止するという大きな益を得ます。ですから、勝利が必要です。勝利のためだけでなく、祈りの力を保つためにもです。それ自体は些細なことに思われる小さな事柄でも、もしそれを通して敵が祈りの流れを止められるなら、その結果は重大です。言ってはならないことを言うよう促されたとしましょう。その後、あなたは主のもとに行って赦しを求めます――主は赦しを与えてくださいます――しかし、それによってあなたの霊は鈍らされてしまいます。他の人々の解放のために、直ちに祈りの力を行使することができません。なぜなら、あなたの霊を影が覆って、そのせいで山々を動かして敵に去るよう命じる勝利の信仰が阻止されてしまうからです。

この個人的勝利のために、まさに攻撃の瞬間、直ちに自分の祈りの特権を握る必要があります。そして、いかなる影も自分の霊を覆うことを許してはなりません。影に覆われる前に、直ちに祈りなさい。さもないと、二、三時間後には、全く祈れなくなるでしょう。個人的勝利の生活の偉大な秘訣は、「神との密な相談を保つ」こと、祈りの武器を直ちに掴むこと、そして、どう感じようとも祈ることです。状況がいかなるものでも、自分は「敗北」していると感じていたとしても、祈りなさい!

効果的祈りのための基本的立場

祈りのための信者の基本的立場がヨハネ十五・七に見つかります。「もしあなたたちがわたしの中に住んでいるなら……」。これは私たちを、効果的祈りの生活のために立つべき立場である十字架に導きます。「もしあなたたちがわたしの中に住んでいるなら」――「求める」ことができる立場は、キリストの中にある立場です。これには「彼の死の中へと植えられる」(ローマ六・五)ことによってのみ到達できます。そして、それによる彼とのあなたの合一は彼の復活の命によります。

キリストがマタイ十八章で描写された祈りの生活は、生けるキリストとの合一の中にある「天上」にいる信者の生活に属します(エペソ二・六)。しかし、生けるキリストとの実際的・実行的合一は、彼の死の中に毎瞬根ざすことによります。霊の命の力はみな、神の御言葉に述べられているどの面も、キリストとの合一を示すこの「わたしの中に」にかかっています。「もしあなたたちがわたしの中に住んでいるなら」――もしあなたたちがわたしの中にとどまっているなら!「わたしの中へと信じる者は、その人から川々が流れ出ます……」!「わたしの中へと信じる者は、わたしが行うわざを行います(中略)そして、あなたたちがわたしの名の中で求めるものはなんでも、それをわたしは行います」(ヨハネ十四・十二、十三)。かなえられる祈りについて話すのはとても簡単です。しかしそれでも、生けるキリストとの深い合一の生活をこのように絶えず毎瞬送ることについては理解していないかもしれません。この合一の生活の中で、あなたが祈る時、神は応え、働き、「行って」くださるのです。

「肉にしたがった」生活や、肉的生活の水準にある生活では、これは不可能です。それは――キリストとあなたの――合一の生活です。「主に結合されて、一つ霊」である生活です。それは「幕の内側の」交わりの生活であり、十字架の天に向かう側の生活です。そして、この合一は、キリストの十字架を絶えず、常に、継続的に認識することにかかっています。キリストの十字架は力であり、それにより私たちは、御霊によって、「体の行いを死に渡し」、肉の命を死に渡します(ローマ八・十三)。キリストとの死による合一という基礎が、常にかなえられるこの祈りの生活の根底にあります。「わたしが行うわざを、あなたたちも行います。なぜなら、わたしが父に行くからです(中略)その日には、あなたたちがわたしの中におり、わたしがあなたたちの中にいることを、あなたたちは知るでしょう」。これに関して、ローマ六章が鍵を与えてくれます。キリストの死の中に住む「わたしの中に」があって初めて、神の命の中に住む「わたしの中に」が可能なのです。

死の土台――十字架の基礎――を避けて通ることはできません。「キリストのものである者たちは肉を十字架につけてしまったのです」さもないと魂の命、肉の命、「古いアダム」の命がたちまち現れて、霊を曇らせ、祈りの力を邪魔します。ですから、効力のある祈りのために、あなたは十字架につけられているという、キリストにある自分の立場を理解する必要があります。その立場であなたはこう言うことができます、「主よ、あなたの死の力をこの天然の古い命の活動に適用してください。この天然の古い命が湧き起こって、私の知性と霊を鈍らせ、せわしない熱狂的な魂の命の活動を生じさせ、敵にそれに基づいて働くための材料を与えてしまうのです」。

十字架のこの経験的基礎に絶えず従う重要性を理解する必要があります。さもないと、「肉」の現れがたくさん生じて、あなたはそれを「サタンの攻撃」と呼ぶかもしれません。罪に勝利するためにキリストの死を自分の死と勘定するこの基礎を離れるなら、サタンに対する真の勝利はありません。「罪に対して死んだ者が、どうしてなおもその中に生きていられるでしょう?」。暗闇の勢力に対する果敢な戦いでなによりも必要なのは、次のことを理解することです。すなわち、聖霊がこの死の力を古い命のすべての働きに適用することが可能なのは、「霊の中」でのみであり、毎瞬キリストの死に頼るという基礎の上でのみなのです。この死の基礎に基づいて、主は「体の行い」、「古いアダムの命」を抑制し、「死に渡し」(ローマ八・十三)てくださる、とあなたは信頼することができます。聖霊によって内住されているあなたの霊こそが、敵のあらゆる力に立ち向かい、抵抗するものなのです――「もしあなたたちがわたしの中に住んでいるなら」――聖霊がキリストの死を天然の人に適用し続けてくださる時、肉的活動がまぎれ込んで争うことはありません。

自分の生活の中に「熱狂」やせわしなさがあることに気づくとき、あなたはそれを、自分の周囲の大気中にいる「敵」のせいである、と考えるかもしれません。しかし、それはあなたの中にある「古い命」の熱狂かもしれません。この古い命はキリストの死の適用を必要とします。それは、それが「死に渡され」て「死んだ」ままにしておかれるためです。

もしあなたたちがわたしの中に住んでいるなら」。キリストの死の中に住まないかぎり、復活のキリストの中に「住む」ことはできない、とあなたの霊的知性はあなたに教えます。「もし私たちが、彼の死の様によって彼と結合されるなら、彼の復活の様の中にもあるでしょう」(ローマ六・五、改訂訳)。つまり、「もし私たちが、接ぎ木された枝のように、密接に結合されるなら」(コニーベア)。木の幹に接ぎ木された枝は、その場所から出て行きません。そして、そこに「住む」時、新しい命がそれを通して強力に力強く流れます。祈りが不屈の力を持つには、キリストに接ぎ木されてその死の中に住み、その命の中で彼に結合されるという基礎がなければなりません。接ぎ木された枝は木と結びついており、根の命にあずかるには木から分離してはならないように、あなたも聖霊によってキリストという幹に「接ぎ木」されています。そして、もしあなたがこの木の中に住んでいないなら、あなたの中にキリストの命が勝利の力をもって湧き起こることはありません。パウロは私たちが「キリストの中に根ざす」ことについて記しました――あなたは、根であるキリスト・イエスの命が自分の中に湧き起こって「命の新しさ」へと至れるよう、カルバリの彼の死の中へと植えられて、この根の中に住んでいるでしょうか?「もしあなたたちがわたしの中に住んでいるなら」、つまり、もしあなたたちが、あなたたちの中にある古いアダムの命を毎瞬あの死の力の中に保つために、わたしの死の中に住んでいるなら――「あなたたちが望むものを求めなさい、そうすればそれはなされます」。

そして、わたしの言葉があなたたちの中に住んでいるなら」。キリストの言葉が内なる命の中に造り込まれないかぎり、祈りにはなんの力もありません。祈りの力を持つには、信者は彼の言葉を「食べ」「飲み」しなければなりません。もし祈れないなら、行って神の御言葉を読みなさい。それがあなたの心の中に燃え上がるまで読みなさい――それから祈りなさい。あなたには祈りのための燃料が必要です。その燃料とは、あなたの中に住んでいる「わたしの言葉」です。「あなたたちが望むものを求めなさい」という御言葉は、御言葉に記されている神のみこころに関する知識を持っていて、それが自分たちの最も深い部分に造り込まれている人々のためだけのものです。そのような人々はみこころに反するものをなにも求めません。なぜなら、彼の御言葉が彼らの存在そのものの中に吸収されて、神の御言葉の上に霊の命が建て上げられているからです。

「もしあなたたちがわたしの中に住んでいるなら」――もしわたしがあなたたちを置いた所に、わたしの死の中に、あなたたちが立つなら、もし接ぎ木された枝が木の中に住むのと同じように、あなたたちがわたしの中に住むなら――「そしてわたしの言葉があなたたちの中に住んでいるなら」――もしそれらがあなたたちの中に造り込まれて、「文章」として知性や記憶の中に宿っているだけでないなら。もしわたしの言葉が、あなたたちがそれらを霊的に常食することによって、まさにあなたたちの命の中に合併されるなら、その時、わたしのこころと全く調和した「意志」があなたたちの中に形造られます。わたしの言葉があなたたちの意志を強め、導き、あなたたちにわたしのこころを知らせます。その時!ああ!その時、あなたたたちが望むものを求めなさい、そうすればそれはなされます

祈りにおける意志の地位

あなたたちが望むものを求めなさい」――あなたたちが感じることを求めるのではありません!ここで、祈りにおける意志の地位がはっきりとわかります。あなたの意志は神の側に定まっているでしょうか?あなたは、何をなすべきかわからなくて、葛藤を経験したことがあるでしょうか。様々な方法で祈るのですが、ほとんど絶望的な状況になってしまいます。その時、ついに、聖霊の御業により、あなたの口は「確かなことが一つあります。私は神のみこころの側に自分の意志を定めます」と宣言します。その結果、葛藤は直ちにやみます。まさにこの明確な意志の姿勢によってです。時々、暗闇の勢力はこのような混乱の雲をあなたの上にもたらします。そのため、あなたは正しいか間違っているか判断できなくなります。あなたが言わば、外側の葛藤から中心へ、あなたの意志、船の舵、あなたの存在全体の中心にある泉へと退却して――静かにあなたの意志を神の側に定めて罪とサタンに対抗しないかぎり、その状態が続きます。こういうわけで、疑いや葛藤の時は常に、意志が言わば「決定投票者」なのです。そうです、あなたは自分自身に逆らってでも、「神の側につく」ことができるのです。

信仰の条件

「あなたたちが一粒のからし種のような信仰を持っているなら、この山に、『移れ!』と言えば、それはあなたたちに従います」(マタイ十七・二〇)。あなたたちが信仰を持っているなら、それは従うのです!「山」――障害物――を移すために、一粒のからし種は何をしなければならないのでしょう?地に落ちて死ぬことだけです。あなたたちが一粒のからし種ほどの信仰――純粋な信仰――さえ持っているなら、山に向かって「移れ!」と言う力には十分なのです。つまり、あなたたちが持っている信仰を用いなさい、そうすればそれは増し加わります。

祈りにおける利己的動機

かなえられる祈りのもう一つの条件は、「自己中心的」であるのをやめることです。「ヨブが自分の友人たちのために祈った時、主はヨブの捕囚状態を元に戻された」。つまり、自分自身や自分の苦難の周囲を巡るのをやめて、他の人々のために祈り始めた時です。個人的な事柄は神に任せて、あなた自身とあなたの必要について彼に信頼しなさい。往々にして、あなたが他の人々の必要のために祈っている間に、あなた自身のための答えが与えられます。

これは私たちを、「倒錯した」祈りとして描写されうるものへと導きます。ある事柄のために祈りに祈って、ついには他になにも考えられなくなり、自己に占有されて自己中心的になる「混乱」に陥るおそれがあります。そして、祈りは全く答えてもらえません。自分自身を中心とするのをやめて、だれか他の人のための祈りに打ち込みなさい。もしかすると、まさにその時、答えが与えられるかもしれません。なぜなら、「自分自身の外で」祈ることは、あなたの霊を高く上げて神にもたらすからです。

祈りにおける利己的動機を対処する必要があります。いつも自分自身や自分自身の身内のために祈ってばかりいる信者は、自問する必要があります。「私がそのために祈っている必要が、もしだれか他の人の必要だったなら、私は同じように熱心で真剣だったでしょうか?」。母親は自分の息子のために祈ります。彼は彼女の息子だからです。もし彼や、彼女の他の息子たちが回心するなら、それは彼女にとって大いなる解放でしょう。あるいは、もしかすると、彼は家族の面汚しで、彼女はその「不名誉」から逃れたいのかもしれません。次に、息子の救いを切望するあまり、昼も夜も嘆き悲しんで、しつこく息子にせがんで、ついには息子が聞くのを嫌がるようになる母親たちがいます。そのような母親は、まさに祈りをささげる時、無意識の内に自分の祈りを台無しにしているのです。

この利己的動機はとても強力です。祈りにおいても他の事柄においても、すべての思い、すべての動機は純粋である、と思い込まないでください。たとえ、純粋であるとあなたが思っていたとしてもです。神の純粋な目により、自分の動機、自分の願い、自分の祈りの目的の中にある、自分でもわかっていないものをさらけ出してください、と神に求めなさい。神のみこころだけを神の栄光のために願い求めて、その背後に自己の目的や他のなにかがなにもない地点に人を導くには、神の深い働きが必要です。しかし、そのような動機を持つそのような人は、神のすべての力を自由に使えます。祈りの人になることは深い清めを意味します。その清めは、私たちを清めるカルバリに血によるだけでなく、火としての神の御霊にもよります。この火は、最も気高くて最も純粋に見えるものの中にすらあるくずをあらわにします。この自己の木が成長すると有害です。もしかするとその中に、とても純粋で、この毒性を少しも帯びていないように見えるものが浸透しているかもしれません。それにより、あなたの祈りの生活を損なうための立場を敵に与えることになるのです。

内住するとりなし手

「御霊もまた私たちの弱さを助けてくださいます(中略)彼は神のみこころにしたがって聖徒たちのためにとりなしてくださいます」(ローマ八・二六、二七)。すべての真の祈りは信者の霊の中で、その中に住んでおられる聖霊から生じます。あなたの霊の中におられる聖霊は神のみこころを知っておられます。彼の御業は、天におられるあなたの父のみこころが何であるのかを地上で表す叫びを、あなたの霊の中に生じさせることです。この活動、聖霊の息吹き込みから、あなたの霊の中に生じるものはなんでも、それは神のみこころにしたがった祈りであり、天におられるとりなし手の祈りと混ざり合います。ですから、聖霊を認めて、真の祈りを自分に教えてくださるように、またそれを自分の霊の中に生じさせてくださるように、彼に求めなさい。聖霊は地上におられる助け手です(ヨハネ十四・十六、二六)。*

* ギリシャ語では Parakletos、「助けるために傍らに呼ばれた者」。同じ言葉が一ヨハネ二・一では、イエス・キリストに関して「弁護者」と訳されています。ダービーの新約聖書の注釈は、「キリストは私たちのすべての問題を私たちのために天で解決してくださる。聖霊は地上でそうしてくださる」と述べています。

天におられるとりなし手

「もしだれかが罪を犯すなら、私たちには御父と共にある弁護者、義なるイエス・キリストがあります」。キリストは栄光の中におられる弁護者です――「彼は常に生きていて、私たちのためにとりなしてくださいます」。信者が御霊によって生み出された祈りを地上で祈る時、天のとりなし手はそれらの願い求めをご自身の御名の中で御父の御前にささげてくださいます。これが祈りの循環です。

常にかなえられる祈りの生活のための基本的な個人的条件は、ですから、(1)清められた心――罪を愛さないこと、(2)自分の永遠の基盤としての「彼の死の中に植え付けられる」こと、(3)生けるキリストとの合一、(4)彼の御言葉が自分の最も内なる食物・命として自分の中に住むこと、(4)感情よりもみこころによって支配された願い求め、(6)信仰、(7)利己的動機がないこと、(8)聖霊の力によって霊の中で祈ることです。

神はとりなし手を欲しておられます。今日、ご自身の教会に神が与えることのできる最大の祝福は、エリヤが祈ったように祈ることのできる、少数の人々です。彼のみこころを知っていて、他のなにものも探し求めたり祈り求めたりしない少数のとりなし手です。どうか神がそのような人々を興してくださいますように。