三.祈りの力

ジェシー・ペン-ルイス

「その日には、あなたたちはわたしになにも尋ねないでしょう(『わたしになんの質問もしないでしょう』、欄外)。まことに、まことに、わたしはあなたたちに言います、あなたたちが父に求めるものはなんであれ、彼はわたしの名の中であなたたちに与えてくださいます。今までは、あなたたちはわたしの名の中でなにも求めませんでした。求めなさい、そうすれば、あなたたちは受けます。それは、あなたたちの喜びが満ち溢れるためです(中略)わたしがあなたたちに父についてはっきりと告げる時が来ます。その日には、あなたたちはわたしの名の中で求めるでしょう。」(ヨハネ十六・二三~二六)

働くことよりも祈ることの方が、より深い霊的生活を必要とします。なぜなら、肉は神のために大いに活動して、見たところ偉大な結果を得ることができるからです。祈りの力の不足は、私たちを人間的能力に向かわせます。「ひたすら祈る」ことは愚かに思われます!これは、私たちには祈りの力がないからにほかなりません。祈ることが最大の知恵であることがわかるのは、「祈りは世界を動かす方の御手を動かす」ことが私たちを通して証明される時です。私たちの祈りがこれを行うことに失敗するとき、「祈って」なしうる最善を行う以外に私たちに何ができるでしょう(そう思われます)!

(1)神の観点から見て効果的な祈りとは何か?

「なんでも求めなさい(中略)彼は与えてくださいます」。「求めなさい(中略)あなたたちは受けます」(ヨハネ十六・二三、二四)。

これまで指摘されてきたように、この最初の「求め」はギリシャ語ではアオリスト時制であり、一度求めれば得るのに十分であるという、神の力に関する思想を示しています。

二番目の「求め」は現在進行形であり、絶えず求めて、自分たちのあらゆる必要のための供給を受けることを示しています。

効果的な祈りは、ですから、求める力であるだけでなく(というのは私たちはいつもなんらかの形で「求めて」いるからです)受けるもしくは「得る」力でもあります。

何事でも、私たちが彼のみこころにしたがって求めるなら、彼は聞いてくださいます。これこそ、私たちが彼に対して持っている大胆さです。彼が聞いてくださることを知っているなら(中略)私たちが彼に求めた願いは、かなえられていることを知るのです」(一ヨハネ五・十四、十五)。ヨハネ十六・二四、マタイ七・八等も見よ。

(2)効果ある祈りは弟子たちにいつ約束されたのか?

「その日には」(ヨハネ十六・二三)。

日付のついた約束なのです!ペンテコステの日の日付です。約束された慰め主が彼らを占有されるその日、彼らは「求め」、「受け」て、彼らの「喜びは満ち溢れ」(二四節)ます。

祈りの力は、ですから、御霊の豊かさを知る知識と結び付いています。

今までは、あなたたちはわたしの名の中でなにも(ギリシャ語は強調否定、『なにも、一つたりとも』)求めませんでした」(二四節)。

ペンテコステ前の弟子たちは祈りの力についてなにも知りませんでした。復活した主が彼らの上に息を吹きかけて、御座の前で御父の約束を待つよう彼らに命じられるまで、なにも知りませんでした。目に見えない御父への祈りによる、彼らの主との交わりについて、全く記されていません。交わりのこの欠如に関する示唆がルカ九・十八に垣間見られます。「イエスは一人で祈っておられた。弟子たちは彼と共にいた」。

彼が知っておられた神との交わりを自分たちはなにも知らないことに、彼らが気づいたこともありました。そこで彼らは彼のもとに来て、「主よ、私たちに祈ることを教えてください」と言いました。それで、彼は彼らにごく単純な祈りの諸々の要素を教えなければなりませんでした。彼は彼らに次のことをお教えになりました。すなわち、祈りは目に見えない神との隠れた交流であって、見世物ではないこと(私たちはこれを忘れることがしばしばあるのではないでしょうか?)、また、祈りの本質は言葉数を多くすることにあるのではなく、御父の前に必要を単純に示すことにあることです。御父は彼らが求める前から彼らの必要を知っておられますが、それでも、「彼らのためにこれを行うよう(中略)さらに、このためにわたしは求められる」(エゼキエル三六・三七)と仰せられました。

弟子たちはイエスのもとに人々をもたらしましたが、人々を切望しておられる彼との交わりをなにも知りませんでした。私たちは今日、なんと彼らに似ていることでしょう!とりなしにおけるキリストとの交わりが、非常に曖昧に理解されているのです。

(3)「その日には」彼らはどのように祈るのか?

彼らは「父に求め」ます(ヨハネ十六・二三、欽定訳)。

彼らの願い求めはそれまで、キリストに対してなされる願い事にすぎませんでした――それらは祈りとは呼べません――しかし彼は、彼らに御父をはっきりと示すこと、その後、彼らは彼の御名の中で御父に求めるようになることを、約束されました。彼らは御父に向って、御子との生き生きとした合一の中で祈ります。その祈りが「その日には」、聖霊の力の中で、啓示され、彼らの中に生み出されるのです。

御霊でバプテスマされている人は、キリストの死、葬り、復活の中へとバプテスマされている人です(ローマ六・四)。「主に結合される」人は「一つ霊です」(一コリント六・十七)。そして、復活し、昇天し、栄光を受けたキリストとの合一の中で、「キリストと共に神の中に隠されています」(コロサイ三・三)。

「父のふところ」(ヨハネ一・十八)は力ある祈りの場です。そこで私たちは「求め、受け」、私たちの「喜びは満ち溢れ」ます。

慰め主は、キリストとの合一を経験的現実とするために与えられました。ただ聖霊によってのみ、キリストとの合一の中で御父に求めることの意味を、私たちは理解できます。

(4)効果的な祈りを彼らはどのように教わるのか?

「わたしは(中略)あなたたちにはっきりと父について知らせます」(ヨハネ十六・二五)。

「その日には」約束された慰め主が復活した主を彼らの内側に啓示され、内住の御子が御父を啓示されます。それまで大いに曖昧だったことを、彼らにはっきりと示されます。「私たちに父を示してください」とピリポは言いました。ああ!ピリポよ、「わたしは」父への「道です」。「その日には、わたしがわたしの父の中におり、あなたたちがわたしの中におり、わたしがあなたたちの中にいることを、あなたたちは知るでしょう」(ヨハネ十四・二〇)。「子と、子が父を啓示しようとする者のほか、父を知る者はいません」(マタイ十一・二七)。聖霊は御子を啓示し、内住の御子は御父を啓示されます。

祈りは、ですから、私たちが世の中や自分自身の中に生きて、定期的に近寄るものではなく、キリストに結合されることなのです。

絶えず御前に生きる

要約すると、効果的な祈りとは、
1.求めたものを常に受けることです。
2.聖霊でバプテスマされた人だけが行えます。
3.地的生活では実行不可能です。
4.御子との合一の中で、聖霊を通して、御父に祈ることです。
5.御子が父を啓示する時に教えてくださるものです。

これがみな経験的に実現されないかぎり、祈りに対する答えは与えられない、ということではありません。しかし、それらの答えは例外であって、一般的ではありません。受け手にとって、それらは「求めなさい、そうすればあなたたちは受けます」という約束が必然的に成就した結果というよりは、むしろ驚きであるように思われることがしばしばあります。

神が信仰を見いだされるときはどこでもどうであれ、信仰に応えることが神の法則です。しかしこれは、私たちが考えている、絶えざる効果的な祈りの生活ではありません。

(5)効果的な祈りはどのように維持されるのか?

「あなたたちがわたしの中に住んで(隠れて!)おり、わたしの言葉があなたたちの中に住んで(隠れて)いるなら」。
「なんでも望むものを求めなさい」:「それはあなたたちにかなえられます」(ヨハネ十五・七)。

実際には、神の中にキリストと共に隠されている命は、私たちの中に豊かに住んでいる、霊であり命である御言葉によって維持されます。御言葉により、みこころにしたがって祈ることを私たちは教わります。御言葉により、私たちの中にある彼の命と、彼の中にある私たちの命は養われ、聖霊を通して深められます。

このように神の中に住んでいる人の願いは祈りです。「あなたたちが願うものはなんでも(中略)あなたたちが祈る時(中略)受けたと信じなさい(中略)そうすればます」(マルコ十一・二四、欽定訳)。「御霊自ら言い難いうめきをもって、私たちのためにとりなしてくださいます(中略)彼は神のみこころにしたがって聖徒たちのためにとりなしてくださいます」(ローマ八・二六、二七)。

祈りの生活が深まるにつれて、それはますます単純になっていきます。そしてついには、「あなたのみこころが天でなされているように地にもなされますように」が、その人の「声に出すにせよ出さないにせよ、心からの願い」となります。そして、「わたしの食物はわたしを遣わされた方のみこころを行うことです」が唯一の目的となります。

締めくくるにあたって、効果的な祈りに対する五つの明確な妨げに注意しましょう。

(6)効果的な祈りに対する五つの明確な妨げ

1.心の中の(詩篇六六・十八)。
2.心の中の偶像(エゼキエル十四・十三)。
3.心の中の「憎しみ」や「恨み」(マタイ五・二三、二四)。
4.心の中の不信仰(マルコ十一・二三)。
5.心の中の利己的動機(ヤコブ四・三)。

私たちが祈りの力を知りたければ、聖霊はこれをすべて対処しなければなりません。すべては次のことのために彼に明け渡されなければなりません:

1.イエスの血の清め(一ヨハネ一・七、九)
2.肉の磔殺(ガラテヤ五・二四)
3.聖霊の内住(ローマ八・九)

* * * *

これまで、私たちは個人生活を取り扱ってきました。神との個人的交流が第一でなければなりません。なぜなら、各々の人がキリストとの経験的合一の中にもたらされ、彼の中で御父を知り、神の力を持つことにより、キリストのからだ全体が天に向かって上げられなければならないからです。

しかし、どうすれば効果的な祈りの集会を持てるのでしょう?

効果的な祈りの集会

聖霊は、同じ原則に基づいて、また、同じ条件に基づいて、私たちが責任を負うように任された「働き」を、しっかりと引き受けてくださいます。彼はすべての妨げを対処して取り除くことを許されなければなりません。彼はすべての「働き」を絶対的に御手の中に得なければなりません。そのとき彼は、祈りの集会全体がその中で開かれる、ある雰囲気を生じさせられます。自由の御霊がそれらの集会の上にとどまり、無口な唇を開き、すべての障害を取り壊し、すべての心を溶かして一つ心にされます。その時、「聖霊行伝」の中で私たちに与えられている実物教材が実演されることになります。その時、

1.弟子たちの中におられる聖霊が神を動かしました(使徒四・二四~三〇)。
2.御座についておられる神が力強く弟子たちを動かされました(使徒四・三一)。
3.弟子たちは、神に動かされて、人々の心を動かしました(使徒四・三三)。

「そして、信者たちはますます多くなり、男と女の群れが主に加えられていった」(使徒五・十四)。

「主よ、私たちに祈ることを教えてください」。アーメン