四.祈りと宣べ伝えのための勝利の立場

ジェシー・ペン-ルイス

福音を人々に届けるには、彼らの状態を知ることが必要です。なぜなら、ばんそうこうを間違った場所につけたら、何の役に立つでしょう!人々の状況を理解するには、暗闇の勢力の働きについていくらか理解しなければなりません。ですから、私はあなたをエペソ六章に連れて行きたいと思います。しかしそうする前に、エペソ一章に向かうことにしましょう。なぜなら、まずあなたの目を昇天した主、御座についておられる征服者のパースンに向けさせることなく、「この世で神なき」男女の状況や、敵の働きの状況について述べるのを、私は恐れるからです。主のパースンという光の中でのみ、私たちはこの世の物事の状態を見ることに耐えることができます。

エペソ一・十七に、エペソのクリスチャンたちのためのパウロの祈りがあります。「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の御父が、知恵と啓示の霊をあなたたちに与えて、彼を知らせてくださいますように」。これはひとりのパースン、生けるキリストを知る知識です。彼を知るために、私たちには知恵の霊、啓示の霊が必要です。ここの「知識」という言葉はエピ・グノーシス(epi-gnosis)、すなわち、完全な知識であり、強調点は「完全な」という言葉にあります。彼を部分的に知ることも可能ですが――彼を完全に知るには霊的啓示が必要なのです。

使徒の次の言葉は、この啓示が私たちに臨む方法を示しています。「あなたたちの心の目が照らされて」もしくは「あなたたちが知ることができるよう、あなたたちの理解力の目が光で満たされて……」。あなたは自分の体の一つの肢体を失うかもしれませんが、あなたが知的に知っていることは永遠にあなたのものです。神は私たちにこの内なる照らしをすべて与えてくださいます。それは、たとえ外側が全く暗闇でも、私たちの存在の中心で私たちが「光の中」を歩むためです。

あなたは彼を知っているでしょうか彼について知っているでしょうか、と聞いているのではありません。世人は彼について知っているかもしれませんが、私たちは彼を知っています。哀れな世!神の素晴らしい真理を粉々に引き裂いているとは!ある日、彼らは彼を知るでしょうが、手遅れでしょう。あなたが生み出せる最善の「クリスチャンの証拠」は、ひとりのパースンとしてのキリスト、生けるキリストを知る、あなた自身の知識です。そのように彼を知らないかぎり、あなたはこの世の物事の状態によって、ともすればとまどいかねないでしょう。しかし、もしあなたが真に彼を知っているなら、懐疑論者が千人がかりでも、あなたの心に一つも影を投じられないでしょう。外側の何ものもあなたを妨げないでしょう。あなたは人々を探して、サタンの最暗黒のたまり場の中にも入って行けます。しかしそれでもキリストと共に、「彼が光の中におられるように、光の中に」いるでしょう。神の奉仕のための私たちの装備はみな、ひとりのパースンを中心としています――それは主キリストを知る個人的知識です。

「それはあなたたちが、彼の召しの望みがどんなものであるか、聖徒たちの中にある彼の嗣業の栄光の富がどんなものであるか、そして、信じる私たちに対する彼の力の卓越した偉大さがどんなものであるかを知るためです」――疑う私たちに対する、ではありません!そしてこれはみな、それに向かって私たちが奮闘しなければならない漠然とした理想ではなく、むしろ「彼の強力な力の働きにしたがっ」たものであり、神の活発な御業の力にしたがったものなのです。聖書は働き(エネルゲイア、energeia)に関して多くのことを述べています。例えば、神の御言葉は「働く」、神の霊は「働く」というように。働きは何事かを成し遂げることを意味します。ここでは、それは「神の強い力のエネルギー」であり、それを神はキリストの内に働かせて、彼を死者の中からよみがえらせました。よみがえるのに何の奮闘もありませんでした。奮闘しても、復活の命の中には入れません。人々は彼の頭と彼の体を死体用の装束で覆いました。そして、彼らが彼を探しに行った時、彼はそこにはおられず、彼の体の形をした死体用の装束と、巻いてある頭用の布が残っていました。彼はよみがえって、それらの装束を通り抜け、岩の墓を通り抜けられたのです。これは、神がキリストを死者の中からよみがえらせた時の、神の力強い御業の模範です。

「すべてを遥かに超えて」

次に神は彼を高く上げて、「天上でご自身の右に座らせ、すべての支配、権威、力、主権、そして唱えられるあらゆる名をはるかに超えて高くされました」。なんと輝かしい啓示でしょう!彼の御言葉を通して、今、啓示の霊があなたに与えられつつあるでしょうか?あなたの心の目は開かれて、すべてを遥かに超えた征服者として座しておられる彼を見ているでしょうか?次に神は「万物を彼の足の下に服従させ、そして彼を万物の上にかしらとして教会に与えられました」。「万物の上に」――そうです、彼は私たちの主人、支配者、征服者、勝利のキリストであり、彼の民にとって万物の上におられるかしらなのです。

パウロは、復活して支配しておられる主のこの素晴らしいビジョンを私たちに与え、次に、低く、低く、低く、地上に降りてきて、「そしてあなたたちを彼は生かしてくださいました」と言います。「自分たちの違反と罪を通して死んでいた」あなたたちを、彼は生かしてくださったのです。生かすとはどういうことでしょう?命です!あなたはそれを得るために奮闘しませんでした――彼があなたを生かし、「あなたたちが死んでいた時」、あなたの中に新しい命を置いてくださったのです。死人は自分のために何もできません。そして、罪人がよみがえらされる時の状態の絵図は次のとおりです:無力であり、違反と罪を通して死んでおり、「その中を以前あなたたちは歩んで」いたのです。ああ、これはいっそう悪いことです!この人は死んでいるのに、「歩く」のです!どう歩くのでしょう?「空中の権威の君」にしたがってです。この人は神に対して死んでいますが、サタンに対して生きています。そして、それに対して自分が「生きて」いる力と影響力にしたがって、一歩ずつ歩みます。これで、キリストの福音を人々に届けるにはどこから始めなければならないのか、わかったのではないでしょうか?

「この世の行程にしたがって、空中の権威の君にしたがって」。罪人たちだけでなく、この世の行程全体も、暗闇の君の力の下にあります――それはサタンにしたがったものであり、神にしたがったものではありません。エデン以降、人は神との交わりの代わりに自分自身の道を選んできました。しかしそれでも、この世の方法や手段を用いることにより、罪とサタンに乗っ取られているこの哀れな世を勝ち取って神に復帰させられる、と思っている人々がいます。これは愚かではないでしょうか?

パウロはなおもさらに続けます。再び聞いてください。「空中の権威の君、不従順な子らの中に働いているその霊」。サタンの霊が救われていない人の中で働いているのです!恐ろしいことですが、御言葉は明確です。もし働き人として、これらの事実を明確に理解しないなら、あなたは今日、群衆に手を差し伸べることはできません。神の御言葉はサタンを「この世の神」「空中の権威の君」と呼んでいます。これは次のことを明らかに意味します。すなわち、一つの組織的な悪の君主制がキリストに対抗して設立されており、それは主権者たち、権威者たち、世の支配者たち、「天上にいる」悪の霊の勢力を伴っているのです(エペソ六・十二、十三)。サタンは自分の君たちを、どうやら様々な国の上に立てているらしいことが、ダニエル書十章からわかります。そこでは、天の使者に立ち向かった「ペルシャの君」や「ギリシャの君」について述べられています。「この暗闇の世の支配者」が不従順な子らを支配しています。「彼らの間で私たちもみな、かつては自分の肉の欲の中で生活し、肉と思いの欲望を満たしていました」(三節)。人々の子らに対するこの支配の結果はいかなるものでしょう?「肉と思いの欲望を満たすこと」です。区別に注意してください。あなたは肉の欲望を満たすのをやめたかもしれませんが、それでも思い――知性、愛情、感情――の欲の中に居続けているかもしれません。

これが神の御言葉が与えている、すべての人――暗闇から光へ、サタンの権威から神へ立ち返っておらず、主イエス・キリストの贖いの御業を通して赦しを受けていない人――に関する描写です。この状況に、伝道者は自分の働きの中で立ち向かわなければならないのです。

「しかし神は……」

「しかし、あわれみに富んでおられる神は、私たちを愛してくださった彼の大きな愛のゆえに、私たちが自分の違反を通して死んでいた時、私たちをキリストと共に生かし(あなたたちが救われたのは恵みによるのです)、私たちを彼と共に復活させ、彼と共に座らせてくださいました……」――きっとこれは間違いです!いいえ、ここに記されています!それなら、これはたんなる比喩的表現にちがいありません!ああ、最初の復活節の日の復活は比喩ではありませんでした。そして、私たちは「キリストの中に」あります――これは現実です。しかし、彼は「あらゆる支配と権威、権力と主権、となえられるあらゆる名を遥かに超えて」おられる、と述べられていないでしょうか?神は「万物を彼の足の下に置かれた」と記されていないでしょうか?確かにそうですが、神は私たちを彼と共に復活させて、彼と共に座らせてくださった、とも記されています。もしあなたがキリストの中にあるなら、これがあなたの地位なのです。

どうしてそんなことがありえるのか、とあなたは尋ねるかもしれません。それは霊においてであり、体においてではないのです。「主に結合される者は一つ霊です」。これは昇天された主との霊の合一です。これは、私たちの生活の古い体制の反転を意味します。その頃は、外側の生活が私たちを支配していました。つまり、私たちは自分の感覚、感情、魂的な天然の命によって支配されていました。私たちが主に結合されて一つ霊になる時、体は僕となり、魂の命は霊が統治する器となります。この器の中にキリストの霊は内住して、それを力づけてくださいます。体は、この世で彼がそれを通して働くことのできる経路となります。神の優先順位は霊、魂、体です。「私は自分の体を打ちたたいて服従させます」とパウロは言いました。なぜなら、彼の霊は昇天した主に結合されていたからです。また、「キリストにあって天上にある」自分の地位について、この勝利の地位から働くすべを、彼は学んでいたからです。キリストは「この暗闇の支配者たち」の水準を超越しておられ、私たちが地の塵の中を歩むのを望んでおられません。神の子供たちの多くは抑圧されて落胆しています。彼らはキリストにある自分の地位を理解し、それを信仰によって保持し、降りることを拒否する必要があります。

伝道者の働き

これはみな、伝道者の働きと、祈りや宣べ伝えと、何の関係があるのでしょう?エペソ二章からエペソ六章に向かうことにしましょう。そうすればわかります。エペソ一章は、死者の中から復活し、天で神の右手に座しておられる、キリストの輝かしい啓示を私たちに示します。エペソ二章は信者について啓示します。信者は、罪の中で死んでいた時、命により生かされ、復活した主と結合され、彼にあって「すべてを遥かに超えて」高くされました。エペソ六章では、敵対勢力との戦いが啓示されています。この戦いの中に信者は、キリストとの自分の合一を真に理解して、敵対勢力に対して霊の中で自分の立場に立つ時、移ることになります。信者は今や次のことを見いだします。神のために勝ち取られた人はみな、敵の手からもぎ取った人であり、人の力や努力はこれには全く不十分なのです。

「これからは、私の兄弟たちよ、主の中で、また彼の力強い大能の中で力づけられなさい」。バプテスマのヨハネについて、彼は霊の中で強くなったと述べられています。あなたは自分の知性や、あるいは肉体の力によって、霊の敵に対峙することはできません。ただ霊の力によってのみ、霊の敵に対峙することができます。そしてこの戦いのために、あなたは「主の中で、また彼の力強い大能の中で力づけられる」必要があります。聖霊は「あなたを主に結合し」続けておられます(これは継続時制です)。そして、あなたはカルバリで暗闇の勢力を征服された方に結合されています。今、彼とのこの生命結合の中にとどまりなさい。それは、あなたが敵を超えた勝利の立場にあって生きるためです。

次にパウロは勝利への第二段階を私たちに示します。「神のすべての武具を身に着けなさい。あなたたちが立つことができるためです」。これもまた、あなたの体の行動のことではありません。霊の中で立ちなさい――何に立ち向かうのでしょう?二、三の不親切な言葉でしょうか?いいえ!「あなたたちが対抗して立つことができるためです!」。あなたは「この世の神」の領域の中を歩き回っているのです。そして、この暗闇の支配者たちは自分たちにできることなら何でもします。それは、あなたを天にあるあなたの立場から引きずり下ろすためです。あなたの信仰を弱めるためです。あなたを圧迫して倒すためです。神のためのあなたの奉仕を妨げるためです。しかし、信仰によって自分の立場に立ち、主の中で力づけられなさい。それは、「あなたたちが悪魔の策略に対抗して立つ」ことができるためです。また、「光の中を歩み」なさい。それは、あなたが悪魔の策略・欺きを、それらが自分に臨む時、見抜くことができるためです。

「なぜなら私たちの格闘は」――これは奇妙です。私たちは「座らされた」のに、格闘しなければならないのです!これは次のことを意味します。この「策略」の目的は、あなたを引きずり下ろすことなのです。何が問題なのかほとんどわかりませんが、意気消沈し、霊は「沈み」、状況は自分の「手に負えなく」なります。その時、あなたは悪魔の策略に気づき、あなたの霊はイエスの御名の中で抵抗し始めます。これは、神があなたを置いてくださった所にとどまるための信仰の戦いです。神はあなたをキリストにあって世の支配者たちを「遥かに超えた」所に置いてくださったのです。あなたを引きずり下ろせれば、彼らはあなたの働きをすべて無効化できます。それを彼らは知っているのです。

「私たちの格闘は肉や血に対してではありません」――この戦いでは肉や血を見てはなりません。私はサタンの途方もない働き――諸教会の中の困難、クリスチャンたちの間の困難――のいくつかが粉砕されて無に帰されるのを見てきました。それは、肉や血に立ち向かわず、肉や血との議論に捕らえられるのを拒んで、征服者イエスの御名の中で、彼の勝利の死と復活という根拠に基づいて、敵に抵抗してきたからです。

エペソ一章と二章に与えられている素晴らしい啓示の頂点は、この霊的格闘にほかなりません。栄光の中におられるキリストの御業に関する最も豊かな啓示と、彼のからだである教会に関する最も深遠な教えを与えているこの手紙は、空中の敵対する君主国と、昇天した主との合一の中で信者があずかるべき霊的格闘に関する、最も豊かな啓示をも与えています。キリストのからだは、それを通して彼が地上で彼の王国を拡張するための道具です。ですから、戦いと武器に関するこの教えの目的は祈りと宣べ伝えであることがわかります。真理、義、平和の福音、信仰の盾、救いのかぶとで武装されて、兵士は神の御言葉である御霊の剣を取り、絶えず祈るよう教わります。

御霊の剣

この剣は何のためでしょう?誰を突き刺すべきでしょう?「肉や血」ではありません。この節でパウロが常に述べているのは悪魔のことであって、人々についてではありません。ここの御霊の剣は敵に対する武器であり、敵の力の下で奴隷にされている群衆を神のために捕らえる働きにおいて、「あらゆる祈り」と共に用いられるべきものです。悪の軍勢が「逃げる」まで、彼らに対するキリストの勝利の力を信仰によって保持しなければなりません。敵は神の御言葉を恐れています。なぜなら、御言葉は自由にするからです。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にします」。神の御言葉は神の命を伝達します。そして、サタンが恐れているのは、神の僕たちの中にある神の命です。あなたの中にある神に属するものだけが、敵に立ち向かうことのできる力です。ですからこの戦いでは、次のことにすべてがかかっています。すなわち、命・力・光・能力のために自分自身を全く神に委ねて、奉仕のための自分のすべての装備を神ご自身の中に見いだす方法を、あなたが知ることです。

「どんな時も御霊の中で祈りなさい(中略)すべての聖徒と、また私のために」とパウロは記しています。「言葉が私に与えられるためです」。なんと!大胆に福音を宣べ伝えるために「言葉」が与えられるよう、パウロは他の人々に祈ってもらう必要があったのでしょうか?それなら、今日キリストの福音を宣言するために出て行く人々のために、どれほど深い祈りが必要でしょう。なぜなら、当時と同じく今も、この福音が宣べ伝えられる所はどこでも、サタンの「空中の鳥ども」はその種を奪い去って、批判や無関心を生じさせようと待ち構えているからです。空中のこれらの勢力こそ、福音の効果的宣べ伝えをこれほどまでに難しくしているものなのです。ですから、エペソ六章のこの戦いは、すべて伝道者の働きと関係しています。もしあなたがキリストと共に天で占めている自分の立場を理解し、自分を引きずり降ろそうとするあらゆるものから聖霊によって喜んで解放してもらうなら、もしあなたが御霊の中で生きて歩むなら、あなたはイエスの御名の中で「強い人を縛る」ことができます。神の力をもって力づけられて、「悪魔の策略に立ち向かう」ことができます。「邪悪な日にあって抵抗し、また彼らをすべて打ち倒して、ゆるぎなく立つ」(十三節、コニーベア)ことができます。

この世と信仰を告白する教会との言語を絶する必要を考慮して、聖霊に求めようではありませんか。どうか、「キリストにあって天にある」という力と勝利の信仰の立場から、祈り、働くことを、私たちに教えてくださいますように。