「彼はおしの悪鬼を追い出しておられた。悪鬼が出て行くと、そのおしの人が語り出したので、群衆は驚いた。」(ルカ十一・十四、改訂訳欄外)
この時、主イエスはパリサイ人たちの訴えに答えて言われました、「まず強い人を縛るのでなければ(中略)どうして強い人の家の中に入ることができよう?そうしてから彼の家を略奪するのである」。人を悪しき者の「家」もしくは住まいと主が明らかに描写されたのは、この箇所だけではありません。この同じ章で主は、追い出されて他の住まいが見つからず「自分の家の中に戻ろう」と言っている汚れた霊について述べておられます。その汚れた霊は、自分の場所を他のだれも取っていないので、自分よりも悪い他の七つの霊と共に「そこに入って住みつき」ます。
この「強い人」はサタンです。サタンは彼の悪霊どもによって人間に憑りついたり、働いたりします。サタンは、主イエス・キリストがひとりのパースンであるように、明らかにひとりのパースンなのです!主イエス・キリストは、ご自身が贖われる人々の中に、御霊によって住まわれます。御霊は彼らに神の御子の命そのものを分け与えて、こうして彼らを神の子供とします。同様に、暗闇の君はアダムの堕落した種族に憑りついたり支配したりします(一ヨハネ五・十九、改訂訳)。彼は「今や不従順な子らの中に働いている霊」(エペソ二・二)であると使徒は述べています。また使徒ヨハネは、「罪を犯す者は悪魔から出ています」(一ヨハネ三・八)と強調して述べています――罪を犯す者は悪魔の性質にあずかっている者なのです。他方ヤコブは、「妬みや党派(中略)は地的であり、天然的であり、悪魔的です」(ヤコブ三・十四、十五、改訂訳欄外)と記しています。
サタンはひとりの君です――悪の階級組織の頭です――国々を自分の高官たちによって治めており(ダニエル十章)、悪霊どもの群衆によってアダムの堕落した種族の中に入り込んだり、支配したりしています。改訂訳の欄外は正しい語を示しています――すなわち悪鬼どもです。
「今や不従順な子らの中に働いている霊」であるサタンと、人々の中に実際に住み着いている悪霊どもとを、私たちは明確に区別しなければなりません。一方は、肉や思いの欲を通して人々に影響を及ぼして働く空中の権威の君であり、他方は、中に入って人々に対する直接的な悪魔的支配を明らかにするひとりの悪霊――多数の場合もあります(マタイ十二・四五)――です。
主は、強い人が人を所有している時のその姿勢をこう描写しておられます。すなわち、「完全に武装して」いるのです。彼は自分の家を守って、自分の財産を安泰に保っているのです(ルカ十一・二一)!暗闇の王国の中にいるすべての者たちに関して、これはいかに真実であることでしょう!使徒パウロは、強い人が自分の家を守る一つの方法を描写して、こう記しています。「この世の神は、信じない者たちの思いをくらまして、福音の光が彼らの上を照らさないようにしています」(二コリント四・四、改訂訳欄外)。
「完全に武装した」強い人が背後にいて、思いをことごとくくらまし、福音に対して盲目にしていることを認識しないかぎり、人々を暗闇の権威から神の愛する御子の王国の中にもたらすことはたいしてできないでしょう。また、主の警告に心を留めて「まず強い人を縛る」すべを学ばないかぎり、「彼の財産を略奪」しようとする私たちの試みは、ただ彼を激怒させるだけでしょう。そして、彼が自分の武具を強化して、自分の家を安泰に守れるようにするだけでしょう。
しかし、「彼よりも強い者!」がいるのです。主は言われます、「『彼よりも強い者が彼を襲』うなら、彼の頼りにしていた武具をすべて取り上げて、戦利品を分けるのです」(ルカ十一・二二)。
「彼よりも強い者!」を同定するのは難しくありません。預言者イザヤは彼のことをだれよりも傷ついた顔を持つ御方――悲しみの人で、痛みを知っていた――として描写しました。彼のことを「ほふり場に引かれて行く小羊」として描写して、「毛を刈る者の前で黙っている羊のように(中略)彼は口を開かなかった」と述べます。この御方――小羊――は「『強い』者と共に分捕り物を分け」ます(イザヤ五三)。強い人よりも「強い」者は、カルバリの小羊として現わされた神人です。主キリストは、カルバリに行く前から、「彼よりも強い」者でした!彼はご自身の言葉で霊どもを追い出されました。汚れた霊どもは彼の御前に倒れて、「あなたはまだその時ではないのに、私たちを苦しめに来られたのですか?」と叫びました(マタイ八・二九)。しかし、カルバリの十字架に行ってはじめて、彼は、強い人が自分の財産を安泰に保つための「武具」を彼から取り上げることを可能にされたのです。「強い人」が人間の中に保持していたこれらの「財産」とは、特に、罪に対する人の愛好心です(ヨハネ三・十九)。人を愛しておられる神に対する人の敵意(ローマ八・七)、肉と思いの欲(エペソ二・三)、目の欲と生活の驕り(一ヨハネ二・十六)です。
カルバリで小羊はご自分の命を放棄して「強い人」の捕虜たちを贖い、死を通して悪魔の働きを無に帰されました(へブル二・十四)。彼は罪人の諸々の罪――「財産」――と罪人自身とを十字架に運んで行き、強い人が頼りにしていた「武具」を取り上げられました。十字架上に彼は一つの方法を備えておられます。その方法により、罪に対する人の愛好心、人が反逆した神に対する人の敵意は、人の贖い主の身代わりの死を通して除き去ってもらえます。その所で、人が毎瞬キリストの死を自分の古い人に対する致命的打撃として適用する時(ローマ六・六)、肉と思いの欲が十字架につけられるのを経験し、この世を愛する愛は地の驕りと共に一掃されます。そうです、ご自身のパースンにおいて、救い主は罪人をご自身と共に十字架に連れて行き(ローマ六・六)、捕らわれ人を「強い人」から贖い、その「財産」を強い人の力から奪取されたのです!
十字架による勝利の道をこのように知っている人はみな、他の捕らわれ人たちを束縛から解放するために、征服者である主によって遣わされます。それは「強い人を縛り」「次にその財産を略奪する!」ためです。このまさに同じ小羊の御霊を彼らの中に息吹き込んで、彼は言われます、「見よ、わたしはあなたたちを小羊として遣わします(中略)わたしはあなたたちに、蛇やさそりや敵のすべての力を踏みつける権威を与えました。何ものも決してあなたたちを害することはありません」(ルカ十・三、十九)。
王の僕よ、あなたは解放者なる御方によって彼の働きをするために遣わされるのです!(ヨハネ十四・十二)。彼はご自身が行ったことを行うようあなたに命じておられます!「まず強い人を縛」ってから、捕らわれ人たちにカルバリを示すのです。カルバリで、強い人が頼みにしていた武具は彼から取り去られるのです。
しかし、どうやってでしょう?まず、「強い人」が頼みにできる「武具」を私たちに着せることがないよう、私たちは注意しなければなりません。そしてこのために、主がカルバリで私たちのために成し遂げてくださった罪とサタンからの徹底的解放を、私たちは握る必要があります。キリストと共に十字架につけられて、私たちは罪に対して死にました――罪は強い人が頼みとしている最強の武具です。なぜなら、罪はすべて悪魔に属するからです。「どうやってサタンがサタンを追い出せよう?」(マルコ三・二三)と主は言われました。もしサタンがキリストの僕であるあなたを少しでも握っているなら、あなたは他の人々を彼の力から解放することはできません。キリストと共に十字架につけられて、私たちは罪に対して死に、悪しき者の中に横たわっているこの世(一ヨハネ五・十九)に対して死にました。しかし、この幸いな信仰の事実を、徹底的実行によって遂行する必要があります。常に意志を活用して、私たちの「死すべき体」を「罪に支配させる」ことを拒むのです(これに関する完全な光についてはローマ六・一~十三を見よ)。罪をもてあそぶことは、それがどんな種類の罪でも、私たちの内におられる聖霊の力を消します。聖霊の力によってのみ、私たちは自分の周りにいる「強い人」の働きを「縛る」ことができるのです。信者は、ですから、カルバリの立場に基づいて、罪と全く手を切って(ローマ六・六~十一)、どんな代価を払っても神に仕えることを選ばなければなりません。
私たちが自分はキリストと共に十字架につけられたと勘定し、罪に支配させることを絶えず拒む時、強い人が頼みとしている武具はすべて彼から断たれます。復活した主の完全に征服する命は、その時、私たちが敵に対して勝利できるようにします。霊の中で彼に結合されて、私たちは「さらに強い」者との生命結合の中にもたらされます。
「さらに強い」者
「さらに強い」者――主キリスト――は次に、彼の御霊により、勝利者です。私たちの中におられる方は、世にいるあの者より大きいのです(一ヨハネ四・四)。
ここで次のことを強調する必要があります。強い人よりも強い方が私たちを通して御力を表せるのは、確かな信仰によって私たちがキリストと共に十字架につけられたという自分の立場を維持し、こうして彼にあって全く罪に対して死ぬときだけなのです。霊的生活の中に、十字架の分離する力をきわめて切実に必要としなくなる段階はありません。もし暗闇の勢力に対して完全な勝利を得たければ、あらゆる点で罪とサタンに対する個人的勝利の中を歩む方法を学ばなければなりません。十字架につけられていない点や弱点はみな敵の標的です。そして、サタンはあらゆる策略を働かせて、私たちを自分の真の状態に関して無知なままにさせます。ですから、私たちは常に、神、自分自身、暗闇の勢力に関するあらゆる真理に対して開いていなければなりませんし、次に、神の霊によって知らされた真理に正直に直面しなければなりません。
私たち自身、強い人の力から解放されました。私たちは解放されて――「神に対して生きる」(ローマ六・十一)――現実の復活の命の中に入りました――サタンと、その軍勢と、その所有物に対する、確固たる、勇猛果敢な、理にかなった戦争の中に入りました。これをなすために、私たちはいくつかの根本原理を理解しなければなりません。
第一に、これは純粋かつ単純に、霊の戦いです。暗闇の勢力を、彼ら自身の立場に基づいて対処しなければなりません。自分自身のことを「罪に対して全く死んだ」と勘定していても、それでも、天然の命、すなわち、私たち自身の思い、私たち自身の解釈、私たち自身の計画、私たち自身のエネルギーにしたがって歩むことにより、強い人をかなり有利にしているおそれがあります。天然の人は超自然の人にはかないません(二コリント十・四を見よ)。天然の人は多くのことを行うように見えます。また、敵は見せかけの「実」を生じさせることまでします。そのような手段によって、霊の命を失ったたんなる外面的な結果しか得られない水準で、私たちが奮闘し続けるようにさせるのです。
罪からの分離に加えて、霊からの魂の絶えざる分離にも同意する必要があります(へブル四・十二)。それは、聖霊と協力して霊の領域の中で生活・行動する代わりに――「霊にしたがった歩み」と描写されている生活を送る代わりに――、魂の領域の中で生活・行動することがないためです。こうするには、私たちは自分自身の霊に関して神と交渉しなければなりません。それは私たちが(1)自分の霊を知り、(2)霊の諸法則――その特徴と活動――を理解し、(3)その繊細な感覚を理解し、(4)それを支配・使用して神の聖霊と協力させる方法を学ぶためです。
第二に、聖霊の力により、霊の敵に対して、霊の中で絶えず戦いを遂行するために、私たちの敵について知り、その働きを見抜くよう努めなければなりません。見抜く力は次のことによります。すなわち、(1)知識――この知識をサタンは妨げることができます――、(2)妨げの狙いに注意すること、(3)この線に沿った彼の諸々の方法(諸々の策略、エペソ六・十一を見よ)によく注意することです。悪魔は実際的ですから、私たちも実際的でなければなりません。必要とあらば、私たちは喜んで学んだことを忘れて、制限する柵や自分の生活体系の中に入り込んだ役に立たない理論を引き抜かなければなりません。そして、火を通って、サタンの実際のたくらみや働きと、それらに対抗するすべとを、喜んで学ばなければなりません。これは霊の中で学ぶことであり、他のすべての学課と同じように忍耐して会得しなければなりません。私たちは一度に一歩進むことで満足しなければなりません。自分の心をあらゆる真理に対して開き、あらゆる誤りに対して閉ざさなければなりません。そして、祈り、証し、暗闇の君たちに対する他のあらゆる侵攻的奉仕の中で、自分が持っている光を用いなければなりません。さもないと、私たちを縛っている無知は決して晴れないでしょう(ヨハネ八・三二)。
信者はこう祈るべきです、「私は彼の恵みにより、すべての真理に対して開いて、正直にそれに向き合うことを選びます。私はあらゆる誤りに対して閉ざすことを選び、決意します。どうか神がサタンの策略と欺きを暴露してくださいますように。また、どんな代価を払っても、暗闇の勢力に対して効果的に戦うために知る必要があることを、私に教えてくださいますように」。こうすることで、私たちは自分の選択と意志を、サタンに対抗して神の側に置きます。聖霊はそれを実際の経験とすることに決して失敗されません。
「主よ、悪鬼どもですら、あなたの御名を通して私たちに服従します」(ルカ十・十七)と、あの七十人は、彼ご自身が行こうとしておられた地に遣わされて、その後、彼のもとに戻って来た時に言いました。御霊から教わっている働き人は、ある人を束縛の中に保っている敵の力を見抜くことを、速やかに学びます(二テモテ二・二六)。その人の周囲を、まるで目に見えない覆いのように、名状しがたい何かが包み込んでおり、それを貫かないかぎり、良心・愛情・選択・意志にじかに触れることはできません。「強い人」は、このような諸々の手段によって、人の解放に反対します。この厳粛な事実を認識することによってのみ、解放への手がかりが与えられます。
強い人の使者どもは、その人の何らかの特徴的弱さに注意を集中します。それは、自分たちが察知されないためです。「おしの霊」は生来無口な人を縛ることができます。無力の霊(ルカ十三・十一~十六)は意志や性格の弱い人を、抑圧の霊は生来悲観的な人を、束縛の霊は几帳面で実直な性格の人を縛ることができます。つぶやきの霊は生来気難しい人を、性急な霊や頑固な霊は情熱的で強い性格の人を縛ることができます。
人々が福音を聞くために集まっている場所や、神の子供たちが祈るために集まっている場所の大気を満たしている、「空中の権威の君」である「強い人を縛る」すべも、私たちは知る必要があります。「あなたたちが地上で縛るものは何でも、天でも縛られます(中略)あなたたちのうちの二人が求めるどんなことでも、地上で合意するなら」(マタイ十八・十八、十九)と主は弟子たちに向かって言われました。一つの願いの中へと融合された二人の人の祈りは「強い人を縛」ります。「一人は」悪の軍勢の「千人を追い」ますが、二人は一万人を逃げ去らせるのです(申命記三二・三〇)!ですから、強い人は神の子供たちを分けようと試みたり、あるいは、団結した祈りから遠ざけようとします。分裂の霊は、必ずしも公に現れるとはかぎりませんが、攻撃的な祈りを抑え込んで、勝利の邪魔をします。救われていない人に福音を告げ知らせて――こうして「強い人」の「家」を攻撃する――ときは、まず、団結した信仰の祈りによって、強い人を縛らなければなりません。命の言葉の種が蒔かれる時はいつでも、その種を「直ちに取り去る」ために、悪しき者がそこにいるのです(マタイ十三・十九)!彼に対する祈りは、そのメッセージを保護します。
祈りにより強い人が「縛られ」るのは、小羊の血に訴えて祈る人々によります。「彼らは、小羊の血のゆえに、また彼らの証しの言葉のゆえに、彼に打ち勝った――龍を投げ落とした――彼らは死に至るまでも、自分の命を愛さなかった」(黙示録十二・九、十、十一)。だれでも、「強い人」の働きを「縛り」、捕らわれ人たちをその力から解放して、敵のあらゆる力に対するこの尊い血の力を証明したければ、命を捨てることが一つの必要不可欠な条件なのです。