一.神との交わり

ジェシー・ペン-ルイス

神との絶えざる交わりを維持するにはどうすればいいのか。これは多くの人が心の中で思っている大きな問いです。なぜなら、私たちが主イエスを受け入れる時に与えられる新しい霊の命は、その源である神との絶えざる交わりによってのみ維持されうるからです。これはまさに、肉体の領域で、生き続けるために何度も、何度も、何度も呼吸する必要があるのと同じです。

赤ん坊は成長するにつれて多くのことを学ばなければなりません。しかし特にしなければならないのは――呼吸することです!主の小さな子供たちも同じです。彼らは多くのことを学ばなければなりません。主は彼らを大いに訓練しなければなりません。しかし――特に、彼らも呼吸しなければなりません。日に日に彼との交わりの中で新しい命を吸い込まなければなりません。彼らは、ですから、彼とのこの生き生きとした合一・やりとりの中にとどまるすべを学ばなければなりません。彼は他の事柄についても、彼らが耐えられるように、彼らを優しく導いてくださいます。

「交わり」という言葉

辞書によると交わり(communion)と言う言葉は「談話、思想のやりとり」を意味し、「相談、やりとり、会話」する行為としての「交わり」を表します。神との交わりの真の意味は――彼との絶えざる「相談」です。この現在の悪しき世を通過する私たちの巡礼の旅で、私たちに必ず臨むすべての問題や困難に関する幸いな会話です。

預言者アモスは「合意していなければ、二人の者は一緒に歩くだろうか」(欄外――約束していなければ)と記しています――アモス三・三。

神は、罪人とカルバリの十字架で会う、と約束しておられます。会話はそこで始まらなければなりません。生来、私たちは神と敵対しています。しかし、神はキリストにあってこの世をご自身と和解させ、イエスの十字架の血によって平和をつくられました(コロサイ一・二〇)。こうして神の側ではすっかり片付いています。そして彼はご自身の敵たちに懇願して、彼らとカルバリ――和解の場所――で会うと約束されます。

「カルバリ」と呼ばれている地

その場所で――神の御子の驚くべきいけにえ――(へブル九・二六)――が完全に見える場所で――彼は私たちをご自身との合意の中にもたらされます。最初に、私たちは自分の罪が御子と共にその木に釘づけられているのを示されます(一ペテロ二・二四)。しかし、救いには遥かにこれ以上の内容があります。私たちはキリストが死なれた時に死に渡されたことを――使徒パウロの時代の回心者たちのように――直ちに学んでいたなら、葛藤と失敗の年月を過ごす必要はなかったでしょう。赦された罪人の過去は拭い去られました。そして、自分は十字架につけられた主と共に十字架につけられたと見なします。今から後、彼に結合されて、彼の命にあずかります。これこそまさに救いです!「彼の命にあずかることによって救われました」(ローマ五・十、コニーベア)。

明け渡された意志

この輝かしい救いの深い意義がことごとく実現されるには、私たちは全く神に委ねる必要があります(ローマ六・十三)。もし私たちが自分のためになにかを差し控えているなら、どうして自己と罪の束縛から自由にしてもらえるでしょう?もし王座を彼に全く与える気が私たちにないなら、どうして主イエスは私たちの中に住んで、ご自身の命を私たちを通して現わせるでしょう?

私たちの意志こそ、私たちの愛する主に真に与えるべきすべてです。私たちが望むなら、彼はすべての働きをしてくださいます。しかし、ご自身の道を歩む絶対的権利を彼に得てもらいましょう。私たちは自分を自分の罪から救うことも解放することもできません。また、どんな形の自己からもできません。彼はカルバリの十字架に基づいて私たちを贖ってくださいました。彼に完全に支配していただくなら、彼は私たちの中でその御業をなしてくださいます。私たちの中に、また私たちの生活の中にあるすべてのものに立ち向かって、きっぱりとご自身の側につくことだけを、彼は私たちに求めておられます。そうしたものから彼は私たちを解放しなければなりません(二コリント六・十四~十八を見よ)。

要するに、私たちは自分自身を決定的に御手に渡さなければなりません。それは、彼が私たちをご自身の喜ぶ者とされるためです。彼の恵みにより、御旨が示すあらゆることに「はい、主よ」と言う覚悟でなければなりません。

内住するキリストの霊

私たちが自分の全存在を彼に委ねるにつれて、聖霊は心を占有し、昔の願望から心を清めてくださいます(使徒十五・九)。そして生けるキリストを、明け渡された者の内に住んでおられる方として啓示してくださいます。キリストは御霊によって、贖われた神の子供の霊の中に住んでおられます。それは神の子供が今後、自分のあらゆる必要のために、「イエスの霊の供給」(ピリピ一・十九)を頼りにできるようになるためです。

幸いな会話の歩みが始まりました。御父ご自身が私たちを愛してくださいます。私たちは御子を愛してきたからです(ヨハネ十六・二七)。彼はご自身の子供に語ってささやかれます、「わたしは彼らの間に住み、彼らの間を歩こう」(二コリント六・十六)。

イエスとのこの幸いな歩みで最も重要な点は、「交わりに隔て」が決してあってはならないことです。

神との最初の「合意」の後、学ぶべきことがたくさんあります。彼と共に信実に歩む方法が直ちにすべてわからなくても、落胆したり気落ちしたりしてはなりません。

交わりの条件

交わりを維持する条件のいくつかを見ることにしましょう。

1.自分の生活について相談するために、一日のまさに最初の時間を主に与えるよう配慮しなければなりません。

主はご自身の命を私たちの中に息吹き込んで、御言葉の中に啓示されている私たちに対する御旨について私たちに語るための時間を必要としておられます。

彼の臨在の中に入って、小さな子供として私たちの御父の足台のもとに座し、信仰の確信に満たされた真実な心で彼に近づこうではありませんか。なぜなら、私たちはイエスの尊い血を通して直ちに近づいて(へブル十・十九~二〇)、彼を通して「大胆に至聖所の中に入」れるからです。

信仰によって御父の臨在の中に入り、書き記された御言葉を開き、それを通して自分に語ってくださいとあなたの御父に求めなさい。その日のためのあなたの日課に向かってそれを読みなさい。それを学ぶためというよりは、むしろ、主なる神がそれを通してあなたに語ってくださることを聞くためです。

あなたの御父にそれについて話しなさい、その意味は何かを、それには自分に対するどんな警告がこめられているのかを、啓示してくださるよう彼に求めなさい。どんな叱責がこめられているのでしょう?どんな命令がこめられているのでしょう?どんな慰めがこめられているのでしょう?彼の手紙を読むとき、こう彼に告げることによって、彼に応答しなさい。「私はその方法がわかるかぎり従います。あなたが私を見守っていてくださると、これから始まる一日のあいだ私を守ってくださると、あなたに信頼します」。次に、彼をもっとよく知って、彼の従順な子供になりたいというあなたの心の願いを、彼の御前で注ぎ出しなさい。

2.私たちのために神の御言葉の中に備えられている天の食物を食べなければなりません(マタイ四・四)。

神の御言葉を霊的に食べること(エレミヤ十五・十六)と、自分の知性でそれを学ぶこととの間には、大きな違いがあります。多くの人は「理解するのが難しいこと」(二ペテロ三・十六)を理解し尽くそうとして、自分の時間をすべて費やします。あるいは、見いだしうるすべての問題で知的好奇心を満たそうとして、時間をすべて費やします。そのため、食物は豊かにあるのに、実際上、彼らの魂は飢えています。朝の時間、私たちは霊的朝食を取ることを学ばなければなりません(ヨブ二三・十二)。

聖霊が聖書の著者であることを思い出してください。ですから、読む前に、著者の臨在を認め、彼に話しかけ、「私の目を開いてあなたの律法の中にある素晴らしい事柄を見せてください」と彼に求めてください。

地上での巡礼の間ずっと、聖書は神の子供のために食物が蓄えられている倉庫である、と考えてかまわないでしょう。自分の朝食のために神が備えてくださった分け前は、自分にとって明確かつ単純な節からわかります。なぜなら、聖霊は各自の必要と能力に応じて分け与えてくださるからです。幼子のようになって、「取りやすい食物」を取りましょう。「難しい言葉」に出くわしたら、放っておきなさい。なぜなら、それらは「堅い食物」(へブル五・十四)に属するものであって、私たちが神の「成熟した」子供になった後年の必要のためかもしれないからです。

神に関する知識よりも、神を御言葉の中に探しましょう。そうするなら、彼はご自身をますます私たちに啓示してくださいます。彼は、御言葉を学んでそれに関する正確な知識を得る方法を、私たちに教えてくださいます。しかし、一般的に、私たちが消化できて、それに基づいて日々の生活を送れるものだけが、実際上私たちのものなのです。

3.一瞬一瞬生きることを学ばなければなりません。

すでに見たように、神との交わりは呼吸によく似ています。それは一度にひと時しか維持できません。たとえ敵がそうするよう私たちを大いに誘惑したとしても、過去を振り返ったり将来を眺めたりすることを拒絶しなければなりません。過去に対する空しい後悔や、未来に対する漠然とした恐れは、私たちの心を悩ませて、神との私たちの交わりを破るのに十分です。

心は一度に二つの問題に従事できません。ですから、自分の義務に全く注意を払って「次のことを行う」(コロサイ三・二三)間、無意識であっても、主は私たちを保ってくださると、私たちの主に信頼する必要があります。

しかし、自分が間違いを犯したことがわかったとしましょう。私たちはそれを正すべきでしょうか?

「交わること」は主と相談することを意味します。直ちにそうしなさい!実際の「間違い」や、「間違い」のように見えるものも、直ちに彼のもとに持って行きなさい。彼の御前で原因を述べる時、「あなたが私にしてほしいこと、私に戻らせたい歩みを、なんでも示してください」と彼に求めなさい。

もし自分が犯した別の間違いについて彼があなたに示されたら、御言葉は明らかです、「互いにあなたたちの過ちを告白しあいなさい」(ヤコブ五・十六欽定訳。マタイ五・二三、マタイ十八・十五も見よ)。

絶えざる交わりには、次のものが常に必要です!すなわち、神と人に対してとがめのない良心です(使徒二四・十六)。特別な光を受けていないなら、問題全体をあなたの主に任せなさい。主は「彼の栄光(臨在)はあなたのしんがりとなる」(イザヤ五八・八)と約束してくださっています。彼は、あなたの後ろにあるものや、あなたの前にある曲った事柄を、すべてまとめてまっすぐにしてくださいます。過去も未来も主の支配下にあります。

4.交わりが途絶えないように気をつけなければなりません。

真剣に神と共に歩むとき、祝された御霊はこの聖なる交わりの中断に対して、私たちをますます敏感にされることがわかります。実際に犯した失敗に気づいたら、直ちに恵みの御座に飛んで行き、イエスの尊い血のゆえに近づけることを確信しつつ、信仰によって私たちの父なる神の臨在の中に飛び込まなければなりません(へブル十・十九、二〇を見よ)。ああ、仲保者であるイエスの御許に、天で私たちのために永久に語る注ぎの血に行くべきことを、ますます理解する必要があります(へブル十二・二二、二四)。ただ彼の血によってのみ、私たちは御父の臨在の中に入れます。私たちの経験、私たちの従順ではだめです。この尊い血以外のなにものでもだめです。

5.直ちに「失敗」を対処しなければなりません。

失敗を意識する時、直ちに神のもとに行くのは容易ではありません。事実、戦いはこの点に最もかかっています。直ちに行くなら、行くことによって私たちは救われます!悪魔、私たちの良心、私たちの羞恥心、私たちの後悔、これらがみな一緒になって私たちを遠ざけようとします。まず二、三時間「惨め」に過ごさなければならない、という一種の感覚を抱いてしまうのです!思い切って直ちに神の御許に駆けつけることは、あまりにも厚かましく、「罪を軽んじること」のように見えますが、それでも――もしそうするのを遅らせるなら、一つの失敗は多くの失敗の前兆にほかならなかったことを私たちは知る羽目になります。罪は三時間後でも同じく酷いものであり――さらに悪くなるのです。

敗北の時に勝利する道は、直ちに立ち上がって御父のもとに行き、「お父さん、私は罪を犯しました」と言うことです。その際、こう記されていることに心を留めなさい、「彼女がこのすべての事を行った後、わたしは言った、『わたしに戻れ(中略)ただ(中略)認めよ……』」(エレミヤ三・七、十三、欽定訳)。

直ちに率直に神に告白することから、悪魔は私たちを遠ざけようとします。そして、初期の頃、私たちは私たちの御父をよく知らないため、非常に多くのとき悪魔は成功を収めます。そして、私たちは神から離れて、ついには苦い悲しみの中で戻されることになります。

あの幼子を見なさい!泥の中に転んで、そのエプロンは泥まみれになってしまいました。その子が泥の中に座り込んで、「もうだめです。歩いて自分の着物を白く保つことはもうできません!」と言ったとしたらどうでしょう。

ちがいます、御父の幼子よ。落胆と不平はただあなたの罪を増すだけです。立って、あなたの御父のもとに戻り、尊い血に訴えなさい:

「彼はまだ遠く離れていたのに、父は彼を見て深く同情し、駆け寄って彼の首を抱き、口づけをした」(ルカ十五・二〇)。

しかし、ここで強調しなければなりません。違反と回復をいつまでも繰り返すことは、贖った者たちに対する神の御旨ではありません。

6.「失敗」を予期してはなりません。

同じ罪に何度も何度も陥ることを予期してはなりません。なぜなら、生ける主(へブル七・二五)は私たちをつまずきから守ることができるからです(ユダ二四)。交わりの途絶は、その人が神の「守る」力の外にあることを示します。主に回復を求める時は、御前で待ってその違反――おそらくは神の御旨ではないなんらかの歩み――の理由を理解しなければなりません。なぜなら、御旨の道にあるときだけ、神は守ってくださるからです。

こう記されています、「神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩くなら(中略)御子イエス・キリストの血が、すべての罪から私たちを清めます」(一ヨハネ一・七)。明らかな過ちに気づいた時に、はっきりと告白することとは別に、私たちは尊い血を絶えず適用して、神との交わりを純粋に保つ必要があります(一ペテロ一・二を見よ)。光の中を歩くなら、私たちはこれに頼ることができます。これはヨハネ三・二一で説明されています、「真理を行う者は光に来ます。それは、彼の行いが、神の中で行われたことが明らかにされるためです」(エペソ五・十三も見よ)。

イエスの血は清めます(ギリシャ語の字義的には「清め続ける」)。ただしそれには、私たちは神の探る光の下に絶えず生き、すべては彼によって、彼の中で、彼の栄光のためになされているかどうかについて、自分の生活を彼に検査してもらうことを熱心に願う(一テサロニケ二・四)必要があります。

しかし、雲に覆われているように思われて、原因がわからない場合はどうでしょう

ここでも、解決法は主に「相談する」ことです。直ちに恵みの御座に行き、「自分に真実を告げて、なにかが間違っているなら示してください」と忠信な証人(黙示録三・十四)に求めなさい。祝された御霊は注ぎの血を適用してくださる、と信じなさい。そして待っている間、なにも特別に思い浮かばなければ、それをすっかり神に任せて、清めの血の下で静かな信頼と安息の中で進み続けなさい。病的に自分自身のことにかかりっきりならないよう注意しなさい。なぜなら、それは内省であって、あなたが自分に向かうとき、あなたは主との交わりを失うからです。

こう言う人もいるかもしれません、「はい、自分の過ちに気づいたら、私は直ちに神に立ち返って告白します。しかし、平安と交わりの感覚はすぐには回復されません」。

これには一、二の理由があるかもしれません。

(a)私たちに確かな平安を与える尊い血の効力をわかっていないため。無意識のうちに、聖霊による神の働きよりも自分の告白に信頼するおそれもありえます。

告白ではなく、聖霊による清めの血の適用こそが、破れた神との交わりを直ちに回復します。罪の告白は人の側のことであり、神が赦しと清めというご自分の分を果たすための必要条件です。

(b)私たちが主に対して罪を犯して、赦しを彼に求める時、私たちはへりくだって自分自身を御手の中に委ねて、彼の目に適うように対処してもらわなければなりません。

彼は私たちの性格をご存じです。私たちの中の数人にとって、彼が私たちの救いの喜びを速やかに回復してくださるとき、罪は極度に罪深くは見えないかもしれません(詩篇五一・十二を見よ)。彼に痛みを与えた悲しみよりも、喜びを失った悲しみにより、自分の失敗を告白するおそれすらあります。

罪がどれほど罪深いのか、彼はご自身の子供たちに教えなければなりません。そして、たとえ尊い血によって清められて、私たちが再び彼との交わりに立ち返ったとしても、彼がどんなに悲しんでおられるのか(エペソ四・三〇)、彼らに理解させなければなりません(ミカ七・七、八、九を見よ)。

7.全く光に従順に歩まなければなりません。

主との交わりの中を歩むつもりなら、当然、彼は私たちに次のことを期待されます。すなわち、彼が私たちに与える光にことごとく従うこと、そして、従うことを可能ならしめる従順の霊を私たちが彼から得ることです(エゼキエル三六・二七)。「わたしがあなたたちに命じることをあなたたちが行うなら、あなたたちはわたしの友です」と彼は弟子たちに言われました。イエスとの友情は、彼のすべての願いを成就することを私たちが喜びとすることを意味するものでなければなりません。

自分の知識に従順に歩むとき、私たちはこう確信することができます。すなわち、信実な主は、私たちが誤った一歩を踏み出そうとするのをご覧になる時、私たちを制止してくださる、と(イザヤ三〇・二一)。一般的に、神のみこころの道を歩んでいるしるしは心の深い安息である、と言えるでしょう。

心が落ち着いていない状態や、せわしない状態にある時、決して行動しない方がいいでしょう。ですから、霊の静けさと、私たちの目に見えない友の霊の臨在の意識を涵養する必要があります。

8.誘惑は罪ではないことを覚えておかなければなりません。

敵は、人と主との間のやりとりを断ち切ることを、なりわいとしています。敵は自分の戦術を、攻撃中の相手に適したものにします。そして、敏感な人々を、想像上の「不従順」や「明け渡し不足」に関する絶えざる罪定め(敵の根拠については一ヨハネ三・二一、二二を見よ)の中にとどめようとすることによって、苦しめます。なんらかの従順な歩みが示されたにもかかわらず、その人がしりごみするなら、悪魔は「お前は明け渡していない」と直ちに言います。

これに対する解決策も同じ――主との相談――です。

「明け渡しに欠けている」というすべての訴えを、懸案の特別な点に関する主への明確な明け渡しによって対処しなさい。「あなたのみこころを確信するとき、私はあなたに従うことを、あなたはご存じです」と彼に告げなさい。そうすれば、あなたはあなたの父なる神の信実さの中に安息することができます。あなたの父なる神はあなたの道を明らかにしてくださいます。御父のみこころに関する明確な知識もないのに、ご自分の子供が従うとは、彼は期待しておられません。疑いがある時はいつでも、彼が引き受けてくださると確信しつつ、常にその問題を神に委ねて待つ方がいいのです。

誘惑は罪ではありません。ある人は実際の違反を、誘惑に対する意志の「肯定」と定義しましたが、この定義は助けになります。誘惑者が攻撃の中にまぎれこませたなんらかの悪しき示唆を、意志によって直ちに拒絶した時でも、最も安全な道は、キリストの血の適用を求めて聖霊を仰ぎ見ることです――それほど神との交わりは繊細なのです。

自分の「感覚」の領域ではなく意志の中に生きることを学ぶことが、きわめて重要です。「意志」は「エゴ(ego)」――真の人格――であり、意志という中心的力を通して神は私たちを支配されます。

誘惑の攻撃に遭う時はいつも、それがたとえ突然であっても、あるいは痛烈であっても、静かにしていなさい。たとえ恐ろしい考えの群雲があなたの思いを通して注ぎ込まれたとしても、直ちにあなたの主に向かって、静かに御前でこうした一切のことに対するあなたの姿勢を定めなさい。「選ぶべきか、拒否すべきか?」。「私は拒否します」――それなら、神を賛美しなさい、これは勝利です。敵は逃げ去ります。

最後に、「不愉快なことはみな、みこころにちがいない」と考えて主を侮辱しないようにしましょう。もし私たちが真に彼に明け渡していて、みこころを行うことを求め、自分の知るかぎり交わりと従順のうちに彼と共に歩んでいるなら、彼はこう述べておられないでしょうか、「あなたたちの内に働いて願わせるのは神です……」(ピリピ二・十三)。「わたしはわたしの律法を彼らの心の中に置き、彼らの思いの中にそれらを書き記す」(へブル十・十六)。

私たちの意志が彼に従うことを堅く志していて、彼は毎瞬毎瞬あらゆる形の自己追求や自己耽溺から自分を守ってくださると信頼しているかぎり、彼は「ご自身の律法を守るよう私に心がけさせてくださる」と信頼することができます。

こうして、私たちは彼の命令は耐え難いものではないことを実証し、彼のくびきは容易であって、彼の荷は軽いことを見いだします。

「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたたち一同と共にありますように」(二コリント十三・十四)。