二.神の霊と共に祈る

ジェシー・ペン-ルイス

祈りには途方もない力があります。ただしそれは、私たち全員がその使い方を知っていればの話です。ローマ八・二六、二七は、祈りにおける聖霊の役割について私たちに示しています。「御霊もまた私たちの弱さを助けてくださいます」――ギリシャ語ではこれは私たちの身体的・道徳的弱さのことです――「なぜなら、私たちはどのように祈ったらよいのかわからないからです」。つまり、彼の助けがなければ、私たちは自分のために、あるいは他の人々のために、何を祈るべきか知ることができないのです。他の人々はこれこれのことを必要としていることがわかるだけでは十分ではありません。「しかし御霊ご自身、言い難いうめきをもって、私たちのためにとりなしてくださるからです(中略)神のみこころにしたがって」。

この御言葉に至る、この章の前の箇所で述べられている諸々の条件を、私たちは考える必要があります。なぜならパウロは、彼が述べていたなにか別のことの結論として、これを書いたからです。ですから、私たちの中で「御霊ご自身がとりなしてくださる」方法と理由を理解できるようになるには、十二~十七節に戻って、彼がこのような御業をなすことができる霊的生活の個人的な諸条件を見なければなりません。私たちの祈りのあまりにも多くは知的祈りです。しかし、この節が示しているのは深い祈りの霊の命であり、それは信者の霊的成長の所産なのです。

祈りのための条件

二六と二七節に描写されている御霊による祈りの生活を十分に知るには、まず、十二~十七節の霊的条件を個人的に満たす必要があります。

二六節の祈りの生活へと導く最初の条件は、十三節に見いだされます。「もし肉にしたがって生きるなら、あなたたちは死ななければなりません。しかし、御霊によって体の行いを死に渡すなら、あなたたちは生きます。なぜなら、神の霊によって導かれている者はみな、神の子らであるからです」(改訂訳欄外)。

十字架の基礎がなければ、霊的生活の進歩は実現できません。聖霊によるとりなしの祈りの生活を真に知るには、キリストの死の立場に立つすべを彼に示してもらう必要があります。また、彼の御業により、キリストの死を経験的に適用してもらう必要があります。

「キリスト・イエスのものである人たちは、肉を十字架につけてしまったのです」(ガラテヤ五・二四)。ですから、これはローマ六章の立場を意味します。他方、実際に、私たちは神の霊に、キリストの死の力を肉のあらゆる活動に適用してくださるよう求めます。それは、聖霊が神の真の子供の生活の様々なすべての面に導き入れることができるようになるためです。

御霊による祈りの生活の二番目の条件は十五節に見いだされます。そこで使徒は子たる身分の霊、「子とする霊」について述べています。この霊により信者は神を「父」として知ります。そして、聖霊はその信者の霊と共に、その信者が神の子供であることを証ししてくださいます(十六節)。

ローマ八・十二~十七を読む時、「これらの条件を自分の生活は満たしているでしょうか?」と誠実に自問しましょう。キリストにある私たちの立場はカルバリの基礎に基づいているでしょうか?「キリストと共に十字架につけられた」と見なすとき、それは私たちにとって事実でしょうか?キリストの死の力の適用を私たちは聖霊に許しているでしょうか、それとも、十字架から逃げているでしょうか?低次の命の支配を少しでも許すなら、人の霊を通した御霊の明確な導きは経験できません。神の子供である私たちの中で――霊、魂、体――のどれが最も重要でしょう?「御霊に導かれている」人たち、すなわち、内住し、導き、教え、証しし、子とする霊を与えてくださる聖霊を持つ人たちは――二六節のあのとりなしにより御霊の命を経験する人たちです。しかし、御霊の中に住むこと、御霊の中を歩むこと、御霊によって導かれること、御霊を知ることは、私たちが毎瞬十字架の基礎の上に立つことにかかっています。それは、なんらかの「肉」の「行い」が現れる時はいつでも、私たちが直ちに聖霊に頼って、それらに対して十字架の死を適用してもらうためであり、また、肉のあらゆる様々な働きの中にある低次の命に対して、断固として「否」と言うためです。

祈りを妨げる隠れた漏損

多くのクリスチャンは、霊の命の力を漏出させる隠れた妨げを抱えています。聖霊は彼らの中で導き、行動し、教え、働いておられます。しかし、下からのなにかが彼らを下の方に引っ張り、弱らせて、時々彼らを低い領域に引きずり込みます。日々の生活の中で御霊の力を経験しないかぎり、彼らは霊の命による御霊のとりなしも、彼による祈りの励ましも経験できません。

一瞬一瞬、霊の命のすべての漏損を照らす聖霊からの光が必要です。生活を忠実にキリストの十字架の下に、十字架のナイフの下に置いて、与えられた光に適うようにするなら――そのとき聖霊は霊の中で導いてくださいます。下から来る物事や、個人的戦いを引き起こし、他の人々のための奉仕を妨げて、邪魔する物事の侵入を受けることなく、導いてくださいます。その時、子とする霊――子たる身分の霊――をもって、聖霊は子の地位、子の権利、神に対する子の心について霊の中で証ししてくださいます。このような人々に宛てて、この章の後半部分は書かれています。また、このような人々のために、罪に対する勝利の地位、キリストの死の力による勝利の地位について描写されています。

ローマ八章で述べられている三つの「うめき」があります。「全被造物はうめいています」(二二節)。これは外側の世界です。「私たち自身も、自らの内でうめきながら、子とされること――私たちの体の贖い――を待ち望んでいます」(二三節)。ここでは聖徒がうめいて、体の贖いを待ち望んでいます。「御霊自らうめきをもって、私たちのためにとりなしてくださいます」(二六節)。ここでは神の霊が教会の中でうめいておられます。被造物がうめいており、聖徒がうめいており、御霊が教会の中で「言い難いうめきをもって」うめいておられるのです。

予備的条件に関する基礎をすませたので、今、二六節に示されている祈りの生活について見ることができます。まず第一に、知識に欠けるがゆえに、私たちの祈りは無力です。どう祈るべきか「私たちにはわかりません」!次に、「御霊は言い難いうめきをもって、私たちのためにとりなしてくださいます」。御霊のうめく祈りは無言です!「私たちにはわかりません」――これは知的なことです――とは対比的に、「言い難い」御霊のうめきは無言です。多くの言葉を祈りの中で注ぎ出すことも可能です――時として素晴らしい祈りがなされます――が、御霊の純粋な無言の祈りが全く伴っていないかもしれません。あなたの霊の中で祈られる聖霊の祈りは、しばしば無言の「うめき」です。これは、そのうめきが意識野に届かず、表されない時にそうです。しかし、あなたの霊の中のこの無言の叫びは、きわめて麗しい言葉の吐露よりも強力です。聖霊の協力がなければどう「祈るべきか」わかりませんし、知ることもできません。このことを、時々だけでなく継続的に認め続けようではありませんか。私たちは聖霊に、神への霊の叫びを自分の霊の中に注入してもらう必要があります。

御霊のうめく叫び

自分の祈りの生活の中で、この違いを述べられるでしょうか?祈りは、私たちの存在の最も内奥から発する流れでしょうか――霊の中の御霊のうめき、叫びでしょうか?時としてそれは思いに届くかもしれませんが、常にそうとはかぎりません。それは「思い」から発した祈りでしょうか、それとも、「主よ、何を求めればいいのか私に教えてください」という叫びが霊の中にあるでしょうか?この御言葉によると、聖霊は何を求めるべきか知っておられますし、御父は御霊の無言の祈りを理解しておられます。「心を探る方は御霊の思いが何か知っておられます」。私たちは多くのことを求めるかもしれませんが、そのどれも神のみこころではないかもしれません。しかし、私たちが霊の中の叫びに従うなら、「彼は神のみこころにしたがって私たちのためにとりなしてくださいます!」。私たちは奉仕のための装備を望んでいるでしょうか?祈りのための装備の必要性を認識しているでしょうか?他の人々にメッセージを与えるための言葉を聖霊に与えてもらうことを望んでいるでしょうか?それなら、同じように、祈りの中で神に叫ぶための言葉を聖霊に与えてもらう必要性も、認識してはどうでしょうか?

第一に、私たちは祈るべき祈りを祈れないことに気づく必要があります。次に、奉仕の力のために聖霊に拠り頼むのと同じように、霊の中で祈る祈りのためにも聖霊に拠り頼むすべを学ぶ必要があります。ダビデは「私が主に向かって叫ぶと、主は聞いてくださった」と言いました。内側に御霊の無言の叫びが生じる時、自分は求めるものを得るであろうことがわかります。これがわかります。

言わば「死んだ」状態に突然なった時、おそらく私たちは霊の中で特別な叫びを抱えつつ、しばらくの間、主のもとに行ったことがあるでしょう。なんの光も得られず、最初、今や祈る力はなくなってしまったと悩むかもしれません。すると突然、霊の中に解放が臨み、圧迫や重荷は消え去ります。そして、「私は答えを得ました!」と私たちは言います。神がどのように働いておられるのかはわかりませんが、その瞬間、次のような確証が与えられたことを、私たちは知ります。すなわち、神は私たちの願い求めを把握してくださったのであり、私たちが御手に求めたことはなされつつある、という確証です。「御霊はとりなしてくださいます」。

何を求めるべきか、そして、どう祈ればいいのか、主は私たちに教えてくださる、と私たちは主に断固として信頼しなければなりません。あなたの霊の中で御霊が悲しんでおられないとき、御霊はこれらの無言の祈りを、それらを表現する力がある程度生じるようになるまで、絶えず叫んでくださるのです。

キリストのとりなし

二六節の御霊の「うめくとりなし」の後で、キリストのとりなしについて三四節に記されています。「キリスト・イエスは死んで、さらに死者の中から復活させられ、神の右で、私たちのためにとりなしておられます」。へブル四・十五にはこうあります、「私たちの大祭司は、私たちの弱さ(ギリシャ語では道徳的・肉体的弱さ)に同情することのできない方ではなく、あらゆる点で私たちと同じように試みられた方なのです」。ここに天のとりなし手の事前訓練について示されています。彼は天で無理解な方としてとりなしておられるのではありません。彼は「あらゆる点で私たちと同じように試みられた」がゆえに「同情する」ことができます。彼は地上におられた間、とりなし手としての訓練を受けられました。そして、天で彼はその訓練の結果を活用しておられます。「この方は、肉体にあった日、激しい叫びをもって、祈りと嘆願をささげ(中略)聞き入れられたのです」(へブル五・七欽定訳)。

彼は「激しい叫びと涙!」をもって、すべてをくぐり抜け、すべてを生き抜かれました。地上にいることがどういうことか、彼はご存じです。こういうわけで、彼は私たちの天のとりなし手として、すぐに「同情して」くださるのです。「彼はいつも生きていて、私たちのためにとりなしてくださいます」(へブル七・二五)。「あなたたちが来ているのは、仲保者イエスに、そして注ぎの血にです」(へブル十二・二四)。内側におられる聖霊は私たちの霊の中に叫びを息吹いてくださいます。御座に座しておられる天のとりなし手は、天でとりなしておられます。

御霊の叫びが心の中にある時、主はその叫びを聞いてくださることがわかります。なぜなら、「心を探られる方は御霊の思いが何か知っておられる」からです。彼は私たちの霊の中におられる御霊の思いを探って、これらの祈りが御座に届くよう、道を開き続けておられます。今や、キリストがなぜ教会のために祈っておられるのかわかります。もし彼がそのために祈っておられなかったら、教会は地獄の勢力に飲み込まれていたでしょう。

キリストの教会が聖霊によって息吹かれたこの叫びを知るようにされていたら、どれほど速やかにキリストのからだは、この世、肉、悪魔から解放されていたことでしょう。天におられるとりなし手は、地上にいるすべての神の子供たちを、ご自身との交わりの中に召しておられます。それは、ご自身の祈りの働きを、ご自身と共に分かち合わせるためです。彼は私たちのために道を開き続けてくださいます。そして、彼の祈りの中に加わる時、私たちはその道を他の人々のために開いたままに保ちます。彼は彼処で祈っておられ、次に御霊によってこの祈りが私たちの中に臨み、再び私たちを通して他の人々に至ります。これが素晴らしい祈りの生活です。