三.神と共に働く

ジェシー・ペン-ルイス

個々の信者と教会が恐れるべき最も大きな危険は、「思いや意志の力による、魂の過度の活動」です。アンドリュー・マーレー博士のこの発言は、クリスチャン生活や奉仕における多くの「失敗」の根底に横たわる深い理由の一つに触れます。神が人を「生ける魂」に創造された時、人の人格と意識の座である魂は「一方において、体を通して外側の世界とつながり、他方において、霊を通して目に見えない神聖な世界とつながった。魂は自分をどちらに委ねるのか決定しなければならない。霊に委ねて、それによって神とそのみこころにつながるのか、あるいは、体に委ねて、目に見えるものの誘いにつながるのか、決定しなければならないのである。堕落により、魂は霊の支配を拒否して、体とその嗜好の奴隷になった。人は肉となり(創世記六・三、改訂訳欄外)、霊は定められていた支配の地位を失った(中略)霊は今や『肉』に逆らう。この名称は共に罪に服している魂と体の命を表す」。*

* アンドリュー・マーレー「キリストの霊」。

さて、聖霊が来臨して人の中に住まわれる時、彼は堕落した状態を逆転させようとされます。それは、人の霊を再興して、支配の地位にもたらすことによってです。彼は私たちの存在全体にわたって、中心から周辺に至るまで、通行する権利を望まれます。私たちは外側の生活を変えること――あなたはこれをしなければならない、あれをしてはならない――を大いに切望しますが、神の道は私たちを内側から外側に向かって新しくすることです。それに付随して、ここで体のための命が流れ込みます。あなたの霊の中におられる神が、あなたの魂の命を通して行動し、肉体さえも貫いて、ご自身の奉仕のために力と能力を与えてくださいます。神の御旨は、あなたのまさに気質が御霊によって変えられ、生かされることです。そして、彼の命があなたのすべての器官に浸透して力づけることです。

「御霊から生まれた」後、その人がすっかり刷新されるこの完全な刷新の道に立ちはだかるものは何でしょう?それは、まだ完全には神の霊の支配に服していない「天然の命」の活動です。昔のクエーカーらは、よくこれを「被造物的活動」と称していました。魂は、言わば、霊と体を結ぶ絆です。そして、魂の天然の力はどれも、あなたの霊の中にある神の命があなたの全存在に満ち溢れて新しくするのを妨げます。

天然の知性の活動は、神の命があなたの知性を生かすのを妨げます。あなた自身の能力の活動は、聖霊があなたの能力を力づけて用いるのを妨げます。あなたは神に向かって「私を生かして、あなたの奉仕のために私に力を与えてください」と叫んでいるかもしれませんが、その間ずっと、あなた自身の天然の命があなたの祈りに対する答えを妨げているかもしれないのです。

ですから、私はあなたを神の御言葉に連れて行きたいと思います。そして、彼が私を力づけてくださるなら、天然の人と霊の人の違いについて、また、なぜ「天然の人」(文字どおりには魂の人)が、神の教会における、またそれによる聖霊の御業の最大の妨げなのか、あなたに示したいと思います。

「天然の人」

信者は肉的か霊的かのいずれかであり、それはその信者の命の中で支配的な要素によります。もし肉的な又は肉の命――これには魂の力(たとえば、知性、愛情、感情など)が含まれます――が支配的なら、たとえ再生されていて、その人の霊の中に聖霊が住んでおられたとしても、神の御言葉はその人のことを「依然として肉的」(一コリント三・三、改訂訳)と呼んでいます。「天然の人」は、パウロが言うには、神の霊の事柄を理解できません。一コリント二・十四で使われている言葉は psuchikos であり、ギリシャ語の Psuche に由来します。用語集によると、それは「動物の命」と定義されています。霊的原理とは異なるアニマ(anima、生命原理)を賦与された人のことです。この言葉は新約聖書中四十回「命(単数形)」や「命(複数形)」と訳されており、四十八回「魂」と訳されています。その命を存在のこの魂の領域によって支配されている人は、パウロが言うには、聖霊に属する事柄を「受け入れることができません」し、理解することもできません。一コリント十五・四五にはこうあります、「最初の人、アダムは、生きた魂(psuche)となりましたが、最後のアダム――キリスト――は命を与える霊(pneuma)となりました」。ですから、天然の人は最初のアダムに由来する人です。最初のアダムにあって「すべての人が死にます」。なぜなら、彼を通して人類は堕落の中に巻き込まれたからです。

人が再生されて「肉にしたがって」歩むのをやめたとしても、それは必ずしも、「魂的」でなくなったこと、すなわち、天然の命、天然の知性、知恵、感情などにしたがって歩くのをやめたことを意味しません。その人は「御霊にしたがって歩」かなければなりません。なぜなら、その人はキリストにあって「新創造」だからです。その霊は再生されて新しくされました。しかし、依然として「体の贖い」を待ち望んでいます。そして、肉体の中にある間は、命を与える霊によってまだ完全には生かされていない古い天然の命や魂のいのちに「したがって歩く」おそれが常にあります。その人は、自分の中心に住んでおられる御霊の力により、「体の行いを死に渡す」(ローマ八・十三)ことの意味を知ることができますが、他方、その人の知性や感情は依然として psuche、魂の命によって支配されているかもしれません。その人の礼拝や、クリスチャン経験ですら、「霊と真理」ではなく「感情」の領域の中にあるかもしれません。

肉的なクリスチャン、つまり、魂のものと霊のものとを識別することを学ばなかった信者は、暗闇の勢力の働きを特に受けやすいです。サタンは魂の領域の中に、神に属する事柄の偽物を生み出します。それは、人の天然の命、自分が持っていることを知らない眠れる力を発達させることによってです。これが「終わりの時」の最大の危険の一つです。「天然の」人の知恵に関するヤコブの描写は、「堕落したアダム」の命の各部に対しても同じように言えます。

「もしあなたたちの心の中に苦いねたみや敵対心があるなら、真理に逆らって誇らしげに偽って話してはなりません。そのようなものは上から下ってくる知恵ではありません。それは地に属するもの、非霊的な性質(ギリシャ語、魂)に属するもの、悪霊どもに属するものです。」(ヤコブ三・十四~十五、ウェイマス訳)

「霊の人」

この絵図から、遥かに心地よい主題である霊の人に移ることにします。何が人を「霊の人」にするのでしょう?すべての人が霊を持っています。すなわち、神のための能力を持っています。しかし、再生されていない人においては、それは暗くされています。ですから、人には新生が必要です。(1)「御霊から生まれる」こと、(2)聖霊を受けることが必要です。エゼキエル三六・二六の二つの約束を覚えておられるでしょう。「新しい霊をわたしはあなたたちの内に置き、わたしの霊をあなたたちの内に置く」。第一に、人自身の霊が、その人に対する神の霊の御業により、新しくされて生き返らされます。次に、神の霊が来臨して、整えられた聖所の中に住まわれます。そのときはじめてローマ八・十六が成就されます。「御霊ご自身、私たちの霊と共に、私たちが神の子供たちであることを証ししてくださいます」。聖霊が信者の霊の奥深くに住んでおられるので、信者の「内なる人」(すなわち、再生された人の霊、モール司教)は聖霊により「あらゆる力をもって強め」られます。そのような信者に関して、「主に結合される者は主と一つ霊となります」(一コリント六・十七、C.H.)と記されています。

あなたの霊とキリストの霊が一つになるとき、どれくらい緊密にあなたは結合されるのでしょう?「一つ霊」となるまでです――これは驚くべき観念です!「一つ魂」になるとは全く書かれていません。私たちが「結合され」た主との交わりの中に毎瞬とどまって、彼に向かって、「主よ、私に言葉を与えてください」「主よ、これはなすべきことでしょうか?」と話しかけるなら、どれほど多くの空しい言葉が断ち切られることでしょう。私を抑制し、力づけ、保持してください!神に属する事柄に関する知識をあなたがどんなに多く持っていたとしても、あの個人的で、親密な、瞬間瞬間の、生けるキリストとの絶えざる平穏な交わりの埋め合わせとなるものは、決してなにもありません。これが「御霊にある」生活の鍵です。それはキリストがあなたの知恵、あなたの力となられることです――キリストとあなたは結合されて一つ霊となるのです!

さて、人が「肉」の支配から逃れるのを見いだす時、敵の大きな狙いは、天然の魂の力を完全に活動させ続けることです。なぜなら、敵は次のことを知っているからです。すなわち、肉の罪の中に導くことによるのと同じくらい効率的に、人自身のエネルギーや力を通して、敵は神の御業を妨げることができるのです。

この魂の命をどうすればいいのでしょう?第一に、あなた自身の命、天然の古いアダムの命は、堕落によって汚染されていること、そして、それゆえ、神のために働くには、自分自身の知恵、自分自身の力、自分自身の能力を終わらされる必要があることを認識してください。「自分の」命を下ろすときはじめて、神は御旨を果たせるようになります。神の御旨は、彼が魂に付与したすべての能力を御霊の支配下に置いて、内住の御霊の御業の経路として完全に用いることです。

彼はこれをどのようになさるのでしょう?(1)御言葉のもろ刃の剣を通してです。「魂と霊を切り離すまでに刺し通して」(へブル四・十二)――天然の命のまさに根幹を探り、貫き、打ちます。しばしば良く麗しく見える賜物や能力を伴う「魂の」命と手を切るのを信者が嫌がるとき、この御業は妨げられます。そのせいで、聖霊は彼を真に受け入れた人々の中で「消されて」しまいます。(2)キリストと共に「私たちの古い人は十字架につけられた」という事実――神の事実――を信じてそう見なすことによってです。「こういうわけで、彼の死にあずかるバプテスマによって私たちは葬られました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも命の新しさの中を歩くためです」(ローマ六・四、コニーベア)。

十字架につけられたキリストをあなたから離れているものと思ってはなりません。そうではなく、そこにおられる彼を思って、「私は彼と共に死にました。聖霊は私を彼の死の中へとバプテスマされました」と言いなさい。この積極的なものを得るには、この消極的なものが必要です。そして、キリストの死が聖霊によって私たちに豊かに深く適用されればされるほど、ますます豊かに深く強く彼の命が流れ込むようになります。「死」の面を恐れてはなりません。それは無力さを意味するのではなく、キリストの死を私たちのこの古い天然の命の活動に適用してもらうことを意味します。それは彼の神聖な命の分与が可能になるためです。知性の中に受け入れた知識ではなく、命を与える神の接触が、あなたを命の伝達者とすることができます――神の命があなたの中に働いて、他の人々に命が溢れ流れるのです。「ですから死は私たちの中に働き、命はあなたたちの中に働きます」とパウロが述べているとおりです。

神に仕えようとする「天然の人」

神の民が経過しなければならない苦難の多くは、これらの天然の力のためです。というのは、もし私たちが神の命の純粋な流れを真に願っているなら、これらの力は十字架で対処されなければならないからです。私たちのクリスチャン経験の初期の頃の問題は「罪に対する勝利」と「肉」でした。罪を憎むべきことについては、私たち全員が同意します。しかし、神と共に進んで、彼の御用のための道具となること――それは彼の命があなたを通して他の人々に注がれるようになるためです――を切望するようになるにつれて、天然の人の活動はあらゆる点で憎むべきものであることにあなたは気づきます。なぜなら、それは堕落したアダムに属するからです。その時、聖霊の純粋な流れがある時と、あなた自身の魂の命がそれに混ざっている時、あるいは、それに取って代わっている時とを、識別することをあなたは学びます。

同類は同類に触れます。聖霊があなたを通して働いている時、彼は聴衆たちの霊に触れられます――彼らの深みにあるなにかが感動させられて、彼らは神との接触の中にもたらされます。しかし、あなた自身の魂の力が働いている時、あなたは他の人々の中にある魂の命または感情の命しか呼び覚ましません。ですから、天然の命からのこの流れを十字架によって断ち切ってください、と私たちは熱心に祈る必要があります。「彼の中で――割礼を受けました」(コロサイ二・九~十一)。彼の中に住んでいるなら、彼の死の断ち切る力は、その間ずっと、神の命の流出を妨げるすべてのものの上に及びます。

神の臨在が水晶のように明らかな祈りの集会に出席したある時のことを、私は決して忘れません。突然、ある人が祈り始めました。彼は感情の洪水のような魂の勢いで祈りました――それはまさに汚れた流れが集会の中に注がれたかのようであり、私たちは厚く重たい空気に包まれました。

個人的解放のためだけでなく証しのためにも、神の命が解放されて私たち――霊、魂、体――を生かせるようになるために、どうすればこれらの「魂の力」は死に渡されるのでしょう?主イエス自らこれに対する鍵を私たちに与えてくださいました。「自分の命(ギリシャ語 psuche、魂)を愛する者はそれを失い、自分の魂の命を憎む者はそれを保って永遠の命(zoe)に至ります」(ヨハネ十二・二五)。「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます」。神が私たちの中で対処しなければならない最も困難なものは、私たち自身の命を愛するこの愛です。しかし、自分自身の命を憎む者はそれを保って永遠の命に至ります――その命を永遠の命、神の命と交換してもらえます。「だれでもわたしに仕えたいなら、その人はわたしについて来なさい」。主は続けて言われました、「そうすれば、わたしがいるところに、わたしに仕える者もいるのです」。そして、「その人をわたしの父は尊ばれます」。これは主の奉仕の中にある人々――増殖して彼のための収穫となることを願う麦粒――に向かって語られました。だれでも主の奉仕の中にある人が自分自身の天然の命とその力を十字架で捨てるなら、御父はその人を用い、尊び、豊かに実を結ばせてくださいます。人の子なる方について、彼は「死に至るまでご自身の魂(ご自身の罪なき魂)を注ぎ出されました」と述べられています。彼の足跡にしたがって、私たちはカルバリに行き、自分の堕落した魂の命を注ぎ出して死に渡さなければなりません。それは、私たちが霊の中でよみがえって神の命の中に入るためです。

魂の力を自ら用いることを恐れ、それは神の奉仕の役に立たないことを悟って、魂の命をこのように死に渡すことについて、主はなにごとかを私たちに学ばせてくださいます。その時、神と共に歩くなら、私たちはこう期待できます。すなわち、この世の中に、彼からの神聖な命の純粋な流れが、私たちの新たにされて生き返らされた霊を通して、流れ込むようになると。こう記されているとおりです、「その人の最も内なる部分から、生ける水の川々が流れ出ます」「これを彼は御霊について語られたのです」。