「あなたたちの理にかなった奉仕」

ジェシー・ペン-ルイス

「兄弟たちよ、私は神の慈しみによって、あなたたちに勧めます。あなたたちの体を生きた供え物としてささげなさい(中略)それが、あなたたちの理にかなった奉仕です。この世にかたどられてはなりません。むしろ、思いを新しくされることによって造り変えられなさい……」――ローマ十二・一、二(J.N.ダービー訳)

勝利者誌 一九二八年 九巻 一月号 掲載。

注記――以下は、ペン-ルイス夫人がエクルストン・ホールで一九二七年一月七日に与えた最後のメッセージの報告です(講演者による校正はされていません)。その場に居合わせて、このメッセージから大いに実際的な助けを受けた人々からの、出版を望む多くの熱心な要求に応えて、ここに掲載します。

「あなたたちの体をささげなさい」――この「体」には思いも含まれます。ですから、あなたたちの体を神にささげた後、「造り変え」られることを望むなら、それは思いを新しくされることによってでなければなりません。なぜなら思いは、思惟的生活を送る人の行動を支配する器官だからです。エペソ一・十七~十八にこうあります、「私たちの主イエス・キリストの神が(中略)彼を知る知識を得させ、知恵と啓示の霊をあなたたちに与えて、あなたたちの理解力の目が照らされて、あなたたちが知りますように……」。ダービーの注記によると、いくつかの写本では「あなたたちの思いの目」となっています。つまり、照らし、啓示、神からの光は、神によって新しくされた思いに臨むのです。あなたはどこに照らしを期待しているでしょうか?あなたの体でしょうか?偽りの「光の御使い」は顔を明るくすることができます!しかし、神は思いを照らされます。使徒は言います、「私はあなたたちにお願いします(中略)あなたたちの体をささげなさい(中略)それが、あなたたちの理にかなった奉仕です」。あなたの体を生きた供え物として神にささげることは理にかなった行いです。そして、それが「ささげ」られる時、あなたの思い――そこで理解力が照らされます――を新しくされることによってあなたは造り変えられます。

ギリシャ語で「思い」という言葉に使われているのはとても単純な言葉で、「ヌース(nous)」です。辞書によると――それは多くの問題に対する鍵であり、特に今日にぴったりです――「このヌースという言葉は新約聖書の中でのみ使われており、例外的にパウロの手紙に三回現れる」。「それは熟考された思惟について用いられており、そのような思いとは別の霊の衝動とは異なる」。「その主たる物質的器官は頭脳だが、すべての感覚が能動的・受動的にそれに仕える。ヌースは人の中におられる神の霊の人間側の面である。その源に関しては、それは御霊である。知的用途のための、人におけるその活動については、それは思いである。つまり、御霊の産物である」(辞書)。これをあなたの内に浸透させてほしいと思います。そうすれば、これはあなたの個人的経験に大いに役立つことがわかるでしょう。思い、ヌースは、人の中におられる神の霊の人間側の面です。つまり、新しくされ、明るくされ、照らされた思いの中に、聖霊なる神が現わされるのです。それは霊と思いの架け橋です。聖霊があなたの霊の中に住んでおられる時、あなたの新しくされた思いという器官を通して彼は働かれます。多くの人が誤りの中に導かれてきたのは、聖霊は思い抜きで働かれると考えていたためです。御霊の素晴らしいバプテスマを受けなければならない、それを受けるには思いを「空っぽ」にしなければならない、と彼らはあなたに言います。しかし、それは聖書の反対です。「そんなことはしません」と言ってもかまいません。確かに、あなたが霊の中で感情によって行動する時はいつでも、実際にそうします。霊の中で感情に基づいて行動する時はまず、自分の知性でそれを吟味して、そうすることが正しいかどうかを自分の新しくされた思いで確認しなければなりません(ローマ十四・五)。あなたの霊の中におられる神の霊は、あなたを機械にして、あなたの指や、あなたの足を通して働かれることはありません。あなたの知性を通して働かれます。再生された思いの活動は、霊の衝動とは全く異なります。

これは導きに関するあなたの諸々の問題に終止符を打ちます。どうすれば神のみこころを知ることができるのでしょう?「私は自分の霊の中に導きを受けましたが、行動するのが怖かったのです」とあなたは言います。聖霊なる神があなたの霊の中におられて、あることをあなたに啓示したい時、彼はそれをあなたの思いを通して示して、それを知的に理解して知的に行えるものとされます。霊の導きは自分たちを動かして、自分たちの協力とは無関係に、話や行動をさせるものである、と思っている人々もいます。そして、それを受けないと、彼らはなにもしません。この理由により、多くの人は黙っているのであり、祈りの集会の時に祈らないのです。彼らは自分たちの意志とは別に自分たちを動かしてくれるものを待っています。主の子供たちがみな知的にこれを理解するとき、それは偉大な解放をもたらすでしょう。それは霊の命のあらゆる偽物に対する鍵です。敵はあなたの思いを排除して、あなたの霊を握ることを欲しています。霊媒になるには、あなたは自分の思いになんの活動もさせてはなりません。自動書記をするには、自分の思いを絶対的に空っぽにしなくてはなりません。しかし、聖霊は思いを新しくして、神の御言葉を明るい光で照らし、あなたに対する神のみこころが何かを示されます。聖霊の最も高度な御業は、旺盛な活動を与え、明確な思いと思考力を与えます。

エペソ四・十七は、天然の人の「ヌース」の絵図を示しています。「彼らの思いの空しさ」という句は、再生されていない思いの状態を描写しています。どんなに教育・啓蒙されていたとしても、どんなに無知だったとしても、そうなのです。再生されていない人は「肉の思いによって思い上がって」います。「この時代の神が信じない者たちの思いをくらましています」(二コリント四・四)とパウロはコリント人たちに述べています。このように、思いを新しくされる必要性がわかります。「あなたの思いの霊の中で新しくされなさい」(エペソ四・二三)。天然の人の思いは神の事柄を理解できません。

一コリント二・十六では、「私たちはキリストの思いを持っています」と単純に述べられています。一コリント二・五の注記でダービーはこう述べています、「思いを表明するものはなんであれ、ロゴスである。ヌースは知的器官であり、その中で形成された思いを表明するものはなんであれ、ロゴスである。(中略)しかし、御言葉が告げるところによると、私たちは聖霊を持っており、キリストのヌース<・i>、つまり諸々の思いを伴う知的器官をも持っているのである」。つまり、人の霊は聖霊を受ける器官であり、その中に聖霊は住み、それを通して働かれるのですが、ヌースは聖霊の表われの人間側の面なのです。こういうわけで、「私たちはキリストのヌース(知的器官)を持っているのである」(J.N.D.)。ですから、キリストは神のロゴス、神の思いの表現だったのです。

肉は「内なる人」のヌースに逆らいます。「私は、内なる人によれば神の律法を喜びますが、自分の肢体の中には別の法則があって、私の思いの法則に逆らって戦っており、私の肢体の中にある罪の法則のとりこにしているのを見ます」(ローマ七・ニニ~二三)。私たちが贖われた体を得るまで、この罪の法則が私たちの肢体の中に常に存在しています。たとえ聖霊が霊を満たしていて、思いが新しくされていても、罪の法則があなたの肢体の中に働いています。ですから、が新しくされた思い、内なる人に常に真っ向から逆らっていることに、あなたは気づきます。「肉にしたがっている者は、肉の事柄を思います(中略)肉の思いは死ですが、御霊の思いは命と平安です」(ローマ八・五~七、ギリシャ語)。肉の思いは神に敵対し、神の律法に服しません。神の霊が私たちの内におられるなら、私たちは「肉の中に」はありません。しかし、依然として「肉にしたがって歩く」おそれがあります。今、肉と新しくされたヌースつまり聖霊が内住している思いとの間の戦いがよくわかります。「私たちはキリストの思いを持っています」。「御霊の思いは命と平安です」。あなたの霊の中に住んでおられる聖霊は、ヌースを新しくして、世の中やあなたの周囲にあるすべてのものに対する「キリストの思い」をあなたに与えてくださいます。「肉にしたがって生きる者は肉的な事柄を思いますが、御霊にしたがって生きる者は霊の事柄を思います」(コニーベア)。肉にしたがって歩むならあなたは死ぬ、とパウロは述べています。しかし、御霊を通して「体の行いを死に渡すなら」あなたは生きます。

ヌースは実際のところ御霊の手段です。「それぞれ、自分のヌースの中で十分に確信していなさい」(ローマ十四・五)。パウロがこれを述べたのは、ある日を他の日よりも重んじている人や、どの日も同じであると思っている人に関してでした。それは外面的な区別と関係していました。「それぞれ、自分の思いの中で十分に確信していなさい」――「それぞれ、自分の霊の中で感じることにしたがって十分に確信していなさい」ではありません。あなたの霊のうちにおられる聖霊はあなたの思いを照らして、あなたが自分で神の思いを知るようにしてくださいます。あなたの霊の中にあることがあなたの思いに達して、それに関する神のみこころが何なのかを十分に確信しないかぎり、決してなにもしてはなりません。あなたをせきたてる悪魔の訴えの下で決して事を行ってはいけません。光を求めて神に叫び、道が少しもわからない時もあります。神に感謝すべきことに――それがあなたの思いに達しないかぎり、なにかに基づいて行動してはなりません。神の御言葉からの光がごく実際的な事柄を照らします。主の子供たちの間に束縛や不幸や疑いを招いているものを照らします。主の子供たちがこれを理解していたなら、彼らは他の人々が「これがあなたに対する神のみこころです」と言うものにこれほど頼るようなことはなかったでしょう。「これがあなたに対する神のみこころです」と言う権利はだれにもありません。聖書をあなたに適用する権利すら彼らにはありません。聖書の中に書かれていても、その御言葉はその時のあなたのために記されているわけではないかもしれません。聖霊が聖書の中から御言葉を取り出して、それをあなたに知的に理解させる必要があります。聖霊が聖書を司っておられます。あなたが自分の道にあるなんらかの疑わしいものについて心配しているかぎり、神はあなたを他の人々のために自由に用いることはできませんし、生活上の重荷を担うこともできません。悪魔の計略は、神の民に自分自身の道を疑い続けさせることにより、彼らを神の経路ではなくすことです。「私はこれこれのことをなすべきでしょうか?」。自分自身の思いの中で十分に確信するまで待ちなさい

「キリストの思い」を持つとはどういうことでしょう?聖霊があなたの中にキリストの知的・霊的器官、罪によって損なわれていない器官、彼の思いの器官を生じさせられることです。「キリスト・イエスの中にあったこの思いを、あなたたちの内側でも思いとしなさい」(ピリピ二・五)。この思いは機械的な方法で私たちに伝達されるのではなく、聖霊による刷新によって私たちに与えられます。つまり、聖霊はあなたの思いを新しくして、その思いの中に神のみこころに関して主イエスが持っておられたのと同じ知的理解を与えてくださるのです!聖霊の御業は私たちの内にキリストを形造ることです(ガラテヤ四・十九)。どのように私たちのうちにキリストが「形造られる」のでしょう?聖霊が私たちの各部分、特に思いを新しくされることによってです。それは、神の霊のための手段として、思いが知的に用いられるようになるためです。

「さて、私はあなたたち兄弟たちにお願いします。私たちの主イエス・キリストの来臨によって(中略)早まって思いの中で動揺しないでください……」(二テサロニケ二・二)。あるいはダービーはこれを、「落ち着いて厳格に判断する思いから」と訳しています。これは主の再臨に関して記されています。これは特に今日の私たちのために記されているのかもしれません。厳格に判断する思いから震われて離れてはなりません、思いを落ち着いた状態に保ちなさい。今日、信者に対する暗闇の勢力の攻撃は、そのほとんどすべてが彼らの思いに対するものです。なんらかの思いに突然不意に見舞われて、落ち着いた判断が全くできなくなるほど思いが動揺する経験をしたことがあるでしょうか?その時ほど、思いを守る神の力を信者が知ることが大いに必要な時はありません。「神の平安があなたたちの思いを守ってくださいます……」――これはあなたの思いの産物です(参照、二コリント三・十四、四・四、十一・三)。

同じ思いでありなさい」(一コリント一・十)。ヌースは一つ(unity)の中心です。ちょうど今、「私たちは霊の中で結ばれています」と言うことが流行っていますが、私たちは多くの異なる思いを持つことを許されています。天然の人が霊の事柄を握って、経験せずに御霊の言葉を話しています。私たちは「御霊の一つ」を造り出せません――それはすでに造られています。私たちは、自分の力の及ぶかぎり、それを「守」りさえすればいいのです。大事なのは、私たちが「同様の思い」(ローマ十五・五)を持つことです。辞書はこれをこう定義しています、「意見の相違がないだけでなく、同じ目的を追い求めること」。神の教会は、同じ目的――神の栄光――を追い求める、思いのこの一つをなんと必要としていることでしょう。

聖霊があなたの霊の中に住んでおられ、神の霊の人の側における現われがヌースにおいてである以上、聖霊はあなたの思いを十分に用いなければなりません。決してあなたの霊の衝動のみに基づいて行動してはなりません。自分の霊の中に衝動を感じたら、ひざまずいて、神に、「これを私の思いに、私の知性に伝達してください。それについて私自身の思いの中で十分に確信できるようにしてください」と求めなさい。霊は「感じ」、思いは「理解」します。「霊」に従おうとすることに気をつけなさい。「霊」はさわれません。どうやって霊に従うことができるのでしょう?これが、「霊に従う」と言っている人々がとても非実践的である理由です。その意味を私自身理解しようとしたことを思い出します――さわれないものにしたがって感じようとしたのです――しかし、聖霊の御業はキリストご自身を啓示することであることを理解した時、それはさわれるもの――肉体において現れた神――になりました。これが、神が肉体において現れなければならなかった理由です。聖霊は御父の霊、御子の霊であり、永遠に御父と御子から発して、その現われのための経路が開いているならあなたの霊を力づけてくださいます。聖霊があなたの霊の中に住んでおられる以上、彼はあなたの思いを通って、それを通して絶えず動く通行権を持っておられるのではないでしょうか?小説を読んで塞がれた思いや、御言葉に反する事柄で満たされた思いを通して、彼はご自身を現すことはできません。

真に「御霊にしたがって」生きることは、あなたの霊の中におられる聖霊が、思いに達して、あなたが神のみこころを知的に知るようにされることを意味します。その時、取るべき道が何かを教えてもらう必要はありません。思いを知的に照らされるため、何をなすべきかわかります。新しくされた思いは「人の中におられる神の霊の人間側の面」です。彼が現わされるのはあなたの思いにおいてであって、あなたの感覚においてではありません。これが重要です。これによりあなたの祈りの生活は知的なものになります。思いが照らされて明るくされる時、聖霊はあなたにどう祈ればいいのか、何を祈るべきかを教えてくださいます。

最後に「カルバリ」について述べます。新しくされた思いを持つことを願っているというなら、あなたはカルバリに行って、「古い人は彼と共に十字架につけられた」という事実に直面したことがあるでしょうか?――古い堕落したアダムの思いを含む、私たちの古い人は彼と共に十字架につけられたのです。「共に十字架につけられた」――両者に共通することであり、交わり、合一を暗示します――「私たちの古い人」はその「肉の思い」と共に、キリストのパースンにあって十字架に釘づけられました。それは、それが文字どおり活動を停止して、「機能不能にされる」ためです。その時、あなたは「キリストの思い」を得ます。ピリピ二章によると、「キリストの思い」の真の意味は――この世で彼の死に同形化されることですが、後に栄光の冠となります。「それゆえに、神もまた、彼を遥かに高く引き上げ、そして、あらゆる名にまさる名を彼に与えられました。それは、天に住む者、地上に住む者、地下に住む者が、イエスの御名の中で、すべてひざをかがめるためであり、そしてあらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と言い表すためです……」(ピリピ二・十~十一、コニーベア)。