知識は人を思い上がらせる

ジェシー・ペン-ルイス

「偶像に備えられた物については、私たちは知っています、なぜなら、私たちはみな知識を持っているからです。(中略)知識は人を思い上がらせますが、愛は建造します。もしだれでもなにかを知っていると思うなら、その人は知るべきほどのことをも知っていません……」一コリント八・一~二(ダービー訳)

勝利者誌 一九二八年 九巻 十月号 掲載。一九二六年二月四日にペン-ルイス夫人によってエクルストン・ホールで与えられたメッセージです。

思いにおける知識と霊における知識との間には、ある違いがあります。そして、この節の「知る」と「知識」という言葉のギリシャ語からその区別がわかります。J.N.ダービーが訳した新約聖書の注記にはこうあります:

「ここの『知る』という言葉は、ギリシャ語ではその違いはとても小さいものの、異なっている。『私たちはみな知識を持っている』は客観的知識のことである。『知識(グノーシス、gnosis、同語)は人を思い上がらせる』。もしだれでもなにかを知っている(内的な意識的知識を持っている)と思うなら、その人は知るべきほどのことをも(客観的に)知っていないのである(同語)……」。

辞書によると、グノーシスという言葉はギリシャ語では間接的知識に対して用いられています。人が聞き知ったことによる知識、視覚・知覚の領域に入った対象、客観的知識のことです。題目、主題、対象に関する知識です。パウロが言うには、この「知識」をクリスチャンである私たちはみな持っています。

今日、霊的事柄に関するこの種の知識が多くあります。「客観的」知識――知性による考えです。主題について徹底的に理解することによる知識、あなたとは別の知識――あなたが「見て」、知覚し、理解した知識です。それが、「私たちはみな知識を持っている」というこの御言葉で使われている言葉です――しかし、この知識は人を「思い上がらせ」ます。したがって、大量の知識を持っていても、生活や性格がその影響を受けていない人々がいるのです。

「偶像は無であることを私たちは知っています」とパウロは述べています。一たびあなたが神を知るなら、偶像は無であることをあなたは知ります。それは後天的な外面的知識ではなく、内的意識です。二節でパウロはこれらの言葉を両方使っています。「もしだれでもなにかを(内的に)知っていると思うなら、その人は(客観的に)知るべきほどのことをも知っていません」。また、パウロは、「私にやましいことはありません」と述べています。彼には内的な意識的知識がありました――彼の良心にはやましい点がありませんでした。「私はなんの間違いも感じていません」。「客観的知識」が内的な意識的知識に伝搬することはありえるが、決してその逆はありえない、とダービーは述べています。なんとこれは真実でしょう!一たび神に関するあの深い内的な意識的知識を得る時、客観的証拠にかかりっきりになることはありません。なぜなら、知っているからです。霊感された聖書が細部に至るまで正確に事実に即しているのを見いだすことは、なんと素晴らしいことでしょう。これほどよく似た言葉が交互に用いられている場合でも、そうなのです!

さて、客観的知識の特徴のいくつかと、それが内的知識になっていない時のその諸々の結果等について見ることにしましょう。あなたは勝利の生活に関してなんでも「知っている」かもしれません。しかし問題は、その知識が内的な意識的知識になっているのか?ということです。あなたはエペソ書六章の聖書講解を与えることができるかもしれませんが、それは客観的知識から内的な意識的知識になったでしょうか?多くの人が今やカルバリの勝利についてすべて知っています。しかし、それが存在の中心に至って、中心的な内的知識となり、変えられた生活の中で行動や言葉を通して効果を発揮する力を持つようになるかどうかは、全く別の問題なのです。

(1)「知識は人を思い上がらせる」

パウロが言うには、「グノーシスつまり客観的知識は、「人を思い上がらせ」ます。なんとこれは真実でしょう。霊的事柄を客観的に知れば知るほど、ますます人は思い上がります。万人の教師になること、彼らを正すこと、自分が知っているところによって彼らを測ることを欲します。これは大間違いです!この「思い上がらせる」という句でパウロは何を言わんとしているのでしょう?パウロは賢い一級の建築家であり、その手紙の初めの方でこう記しました、「さて兄弟たちよ(中略)私はこれらの事柄を、あなたたちのために、私自身とアポロに当てはめました。それはあなたたちが、書き記されていることを踏み越えて思わないように、私たちから学ぶためであり、思い上がることがないためです」(一コリント四・六、ダービー訳)。これは純粋に客観的な知識の特徴です。人は不用意に教えの流派に従って、書き記されていることを踏み越えて思い上がるおそれがあります。あなたの思いを聖霊に制限してもらうことが大事です。聖霊が内住しておられるとき、彼が自分の思いを支配しておられることに気づきます。あなたは真理の一つの断片を得て、それでそこそこ進めるかもしれません――その後、それ以上進めず、道が塞がっていることを見いだします!それは聖霊による制限です。これが、今日、神の霊的な子供たちが直面している危険です。魂が慢心する危険性があります――知識に由来する考え、学んで獲得したけれども経験していないものに由来する考えで、慢心する危険性があるのです。

(2)「グノーシス」は他の人々を傷つけかねない

一コリント八章で、偶像に供えられた物について、パウロはこう述べています、「私たちは、唯一の神のほか、別の神はないことを知っています(中略)私たちにはひとりの神、父がおられるだけです(中略)しかし、すべての人にこの知識があるわけではありません」。このコリント人たちの間には、あまり知識に進んでいない人々もいました。彼らは「偶像にやましさを感じつつ」、偶像への供え物としてその食事を食べ、「そして彼らの良心が弱いので、汚されるのです」。「ただし、あなたたちのこの(食べる)権利が、弱い人たちにとって、少しでもつまずきの石とならないように気をつけなさい。知識(グノーシス)を持っているあなたが、偶像の宮で食卓に着いているのを、だれかが見た場合、もしその人が弱ければ、その良心は大胆になって、偶像に供えられたものを食べはしないでしょうか?そして、その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。その兄弟のためにも、キリストは死なれたのです」(一コリント八・四~十一、ダービー訳)。

したがって、知的に理解・獲得された、純粋に客観的なこの知識は、他の人々を傷つけるおそれがあります。あなたの知識によって別の人――その人のためにもキリストは死なれたのです――が滅びることになる、とパウロは明確に述べています。そして、その人が滅びるのは、あなたの罪や、あなたの身勝手さや、あなたの罪定めによってではなく、あなたが「知識」を持っているためです。その知識によりあなたはあのことを行う権利を得ましたが、その人はあなたに従って、そして傷つくのです。

これを適用したければ、あらゆる方面に適用できます――例えば理論的知識の誤りです。この知識にしたがって人は、他の弱い人が自分に従って破滅するおそれを顧みずに行動してしまいます。カルバリの訴えに注意しなさい!その「兄弟」のために、世人ではなくその兄弟のために、キリストは死なれたのです!この信者はなんの問題もなく、食卓に着いて食事を食べることができました――次に、かろうじて偶像崇拝から逃れたばかりの弱い信者がやって来ます。その信者にとって、食卓の食事は偶像の食事であり、良心的にそれを食べることはできません。しかし、その信者は言います、「自分よりも遥かによく知っている私の兄弟がそれを食べたのだから、私も食べてもかまわないでしょう」。そして、良心に逆らってそれを食べて、自分の限界を越えてしまいます。なぜなら、「それはその人にとっては罪」だからです。これはその兄弟に対して罪を犯すことである、とパウロは述べています。これが、外側から獲得されたにすぎない知識の特徴です。理論的知識は人を頑なに、盲目にします。霊的な事柄に関して獲得された客観的知識は人を「思い上がらせ」て、他の人々を傷つけます。「あなたたちがこのように弱い兄弟たちに対して罪を犯し、また彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯すことになります」(十二節)。ですから、あなたに自由を与えるあなたの知識は、あなたが自分の兄弟に及ぼす結果を忘れて、それにしたがって行動するとき、「キリストに対して罪を犯す」ものになりかねません。パウロは一つの例を挙げています。「もし食物が私の兄弟に対して落とし穴となるなら、私は永久に、決して肉を食べません。それは、私が私の兄弟に対して落とし穴とならないためです」(十三節、ダービー訳)。これは多くのことに影響を及ぼします。あなたの時間の過ごし方に影響を及ぼします。あなたの行く場所に影響を及ぼします。あなたの良心には問題がないかもしれませんが、弱い人がそれを見て、同じことを行い、そして滅びてしまいます。今日、教会生活の中に忍び込んでいるあらゆる異質なものについて、これが見られます。原則はこうです。すなわち、それは自分を傷つけないことをあなたは知っているかもしれませんが、もしあなたがそれに基づいて行動して他の人をつまずかせるなら、その知識は兄弟に対する罪であり、キリストに対する罪なのです。

しかし、私はこうした問題よりももっと巧妙な問題について心配しています。キリストの教会の一つ(unity)を傷つけ、弱い人々をつまずかせている、多くの事柄があります。それは、知っているつもりの人々の「知識」のせいです。これが「進んだ真理」の危険性です――書き記されていることを踏み越えて思い上がってしまうのです。書き記されていることを踏み越えて、決して思い上がってはなりません。唯一安全な道は神の単純な御言葉を固守することです。こういうわけで、パウロはまたコリント人たちにこう述べました、「私が恐れるのは、あなたたちの思いが腐敗させられて、キリスト・イエスに対する単純さを失いはしないかということです」。私は長年見てきたのですが、神が垣間見させてくださる「深い事柄」がある一方で、決してそれらに従ってはならないのです。このことやあのことを私は垣間見ます――そして、「確かに、主よ、それは素晴らしく見えます!」と私は言います。その後、私はそれを落とします、今はそれに従う時間がないからです。それに関する十分な知識を得る栄光に達するまで、私は待ちます!今、魂を救うためになすべきことがたくさんあります。これが私がこの三十年間取ってきた道であり、これが今日、単純なキリストの福音のために立つよう私を支えています。神の多くの深い事柄が自分に対して開かれないかぎり、だれも聖霊を真に知ることはできません。しかし、神がそうした深い事柄を私に垣間見させてくださった時、「それらは神と自分との間のことであり、自分は十字架の単純な宣べ伝えを続けなければならない」と、私は常に感じてきたのです。自分は「述べることを許されていないことを聞いた」とパウロは述べました――そして、天で聞いたことを彼は決して話さなかったのです!あなたは、決して話すことのできないことを、神から知るかもしれませんが、あなたがそれらについて話す瞬間、あるいは、それらを伝え始める瞬間、それらは伝聞による危険なものになります。にご自身の子供たちを教えてもらいなさい。私は、こうしたあらゆることに立ち入ろうとするよりは、むしろ、十字架のメッセージを携えて群衆のもとに行きたいと思います。なぜなら、分裂という大きな危険性があるからであり、また、「これらの真理は少数の人のためであって――多くの人のためではない」とあなたが言いだす深刻な危険性もあるからです。

(3)このような知識の個人生活に対する結果

「たとえ私が人や天使の異言で語ったとしても、愛がなければ、私は鳴り響く鐘や騒がしいシンバルになってしまいます。たとえ私がすべての奥義とすべての知識グノーシス)を理解しているとしても、たとえ山々を移すほどの十分な信仰を持っているとしても、愛がなければ、私は無です」(一コリント十三・二)。これが自己に対する結果です!内的意識である真の知識がなければ、私たちは無なのです!

神は愛されますが、神は愛です。それが彼の性質です。そして、あなたの内にある神の性質は、それが聖霊によってあなたに分与されるとき、「行動する愛」の性質を帯びなければなりません。罪深い人に対する愛ある同情のしるしが一つも見当たらない霊的知識がなんとたくさんあるのかを見ると驚きます。神は罪を憎む一方で、罪人を愛されます。たとえある人が間違っていたとしても、その人に対して罪定めの感覚を個人的に抱いてはなりません。あなたは罪人を愛せるでしょうか?あなたは間違っている人々を愛せるでしょうか――あるいは、間違っていると思う人々を愛せるでしょうか?「霊的である人は、自らも誘惑されないように、柔和の霊の中でそのような人を回復しなさい」。

十人の処女のたとえを考えてみてください(マタイ二五章)。愚かな処女たちの問題は何だったのでしょう?彼らには客観的な、聞きかじりの知識がありました。彼らは叫びを聞き、花婿が途上にあることを知って、彼に会いに出かけました。しかし、彼らはどんな結果になったでしょう?五人には内的知識があり、五人にはありませんでした!どうしてそれがわかるのでしょう?「主よ、主よ、開けてください」と彼らは叫びましたが、彼は「まことに私はあなたたちに言う、私はあなたたちを知らない」と言われました。文字どおりには、「あなたたちは私となんの関係もない」(辞書)です。彼らには聞きかじりの知識しかありませんでした。そして、「聞きかじり」の知識はすべて、この結果になります。あなたはあらゆる知識、山々を移せるほどの信仰を持っているかもしれません。あなたは花婿の声を聞いて、彼に会う用意で大忙しかもしれませんが、それでも、その知識はあなたの最も内奥の知識ではないかもしれません。それはあなたが再臨集会で聞いたこと、あなたのなすべきことかもしれませんが、もしあなたの主に対する内的関係がそこにないなら、彼は「わたしはあなたたちを知らない」と言われるでしょう。

「かの日には、多くの者がわたしに言うでしょう、『私はあなたの御名によって予言し、あなたの御名によって悪鬼どもを追い出しではありませんか?また、あなたの御名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか?』」。そこで主は再び、「わたしはあなたたちを全く知らない」と言われます(マタイ七・二二~二三)。あなたたちは不法の働き人です!こうしたことがみな、今日、魂の力によってなされるおそれがあります。心霊主義者たちは向こう見ずなことにキリストの御名さえも用いており、聖書からの言葉の下に身を避けています。「あなたの御名の中で多くの力あるわざを行ったではありませんか」――「わたしはあなたたちを全く知らない」!このギリシャ語は、「知覚している人と知覚対象との間の、個人的で真実な関係を示して」(辞書)います。キリストとの内的関係が全くないのです!「あらゆる奥義」を人が知ることを可能にする知識、悪鬼どもをも追い出すことや――ユダヤ人も悪鬼どもを追い出せました、当時は悪霊払いがいたのです――「多くの力あるわざ」を行うことを可能にする知識があったとしても、「それはわたしとの内的関係の成果ではありません」とキリストが言わざるをえないとしたら、何になるのでしょう!

主よ、今日の厳粛な時代、私たちをあわれんでください。今日、こうした頭の中の客観的知識、諸々の大会で得た、生活に触れない、もしくは表面的にしか触れない知識が、ことごとく受け入れられています。そのため、次のことがわかります。すなわち、今、あるいは主の来臨の時に、少しでも役に立つ可能性のあるものは、内的な神との合一と神知識なのです。勝利について話す人が大勢いますが、それはある程度までの「勝利」にすぎません。天上にある地位について話す人は大勢いますが、天上の霊の痕跡はほとんど一つもないのです!徹底的な震いと徹底的な粉砕が神の教会に必要です。なぜなら、私たちが主にお会いする時、さんざん知識を獲得して所有しているにもかかわらず、その背後には深い内的なキリストとの合一が全くなかったことに気づくのは、だれにとってもぞっとするようなことだからです。

知識の賜物

グノーシスの賜物」があります。御霊の賜物の一つです。「ある人には知識の言葉が与えられています」――それは聖霊によって臨む真の知識です。聖霊によるカルバリに関する客観的な啓示もある、と言えるでしょう。しかし、それには常に内的な意識的知識が伴います。御言葉からそのしるしを示したいと思います。

(1)「グノーシス」の真の賜物は、自身の知識不足を意識させます。「もしだれでもなにかを(内的に)知っていると思うなら、その人は(客観的に)知るべきほどのことをも知っていません」(一コリント八・二、ダービー訳)。

(2)真の「グノーシス」は、愛が知識よりも偉大であることを認識させます。「そしてキリストの愛を知るために……」――これは内的な意識的知識です――「知識を超越した」――これは客観的知識です(エペソ三・十七~十九)。では「キリストの愛」はわかりません。それは感傷的な愛ではありません。聖霊によってあなたの心の中に注がれる神の愛です。そして、どんな知識も、神の愛がなければ、他の人々を傷つけます。しかし、もしキリストの愛があなたの内にあるなら、何をなすべきか、何が他の人をつまずかせかねないのか、律法に教えてもらう必要はありません。アウグスチヌスは、「愛しなさい、あとは好きにしなさい」と言いました。なぜなら、「愛は隣人に悪を行わない」からです。愛は、あなたの言動が他者に及ぼす影響について、あなたをとても注意深くならせます。愛はつまずきの機会を全く排除しようとします。自らを欺いて、「真理はみな反対に遭うものである」と言ってはなりません。むしろ、自分の知識に従うとき、自分自身の気質や性格に屈して、自分自身を喜ばせないよう、大いに気をつけましょう!知識――頭の知識――は人を「思い上がらせ」ます。そして、だれでも「思い上がる」なら必ず、それが他の人々にどう影響を及ぼすのか全くわからなくなります。しかし愛は、自分の言動の結果に関する本能的理解力をあなたに与えます。ああ、「知識を超越したキリストの愛を知る」ことができますように――客観的知識を超越しているのです。

(3)「グノーシス」の賜物は、「キリストを知る知識」(ピリピ三・八)のゆえに、すべてのことを損失であると勘定します――これはまず第一に、ひとりの御方を知る知識です――「それは私がを知るためです」。

(4)「グノーシス」の賜物の効力は、キリストに対する輝き渡る愛です。「イエス・キリストの御顔にある神の栄光の知識の輝き」(二コリント四・六)です。あの客観的知識はみな、それが内的知識になるなら、良いものです。次に、それは愛に根差しており、その中心はひとりの御方です。「」――「それは私がを知るためです」。次に、それは他人を打ちひしいだり、罪に定めたり、落胆させたりしません。それはイエス・キリストの御顔の輝きで輝きます。

(5)「グノーシス」の真の賜物はかぐわしいです。彼は「彼を知る知識の香りを、私たちを通して現わされます……」(二コリント二・十四)。もし生活の中にかぐわしさが全くないなら、霊的真理に関する知識はなんの役に立つでしょう?次に、天然的知識はすべて過ぎ去るけれども(一コリント十三・八)、愛は残ることを思い出してください。「さて、いつまでも残るものは信仰、希望、愛です(中略)しかし、その中で最も大いなるものは愛です」。愛だけが残るのです!

最後に、知識よりも偉大なものについての特別な約束があります。パウロはそれを「全き知識」と呼んでいます。ギリシャ語では「エピグノーシスepignosis)」です。知識になにかが加わったものであり、辞書によると、この言葉は、「知覚対象への知覚者のいっそう深い関与」を意味します。「私はあなたたちのために絶えず祈っています(中略)あなたたちがみこころを知る全き知識(エピ・グノーシス、epi-gnosis)で満たされますように」(コロサイ一・九、十)。さて、これがパウロのためのそして私たちのための祈りの目的です。そして、この全き知識は、知覚対象への知覚者のいっそう深い関与を意味します!つまり、神のみこころを私たちの中に大いに造り込んでもらって、私たちがそれと、そして彼と、一つになることです。これが「神を知ることについての科学」(ガイオン)です。

「その新しい人は、それを創造した方のかたちにしたがって全き知識へと至るように、新しくされつつあります」(コロサイ三・十)。この「キリストにある新しい人」は新しくされて、その創造者を知る全き知識へと至らなければなりません。神を知るいっそう深い知識、いっそう豊かな知識にあずかれるのは新創造だけです。エペソ書でパウロは、「彼を知る全き知識を得させる知恵と啓示の御霊……」(エペソ一・十七)について述べています。また、キリストのからだが「その信仰の一に、また神の御子を知る全き知識の一に到達する」(エペソ四・十一~十三、ダービー訳)将来の日について述べています。「彼のみこころを知る全き知識」「神の御子を知る全き知識」――この三重に祝福された一(unity)は、神についての、御言葉についての、将来の御旨についての、あなたの知識に基づくのではなく、「いっそう深い関与」、いっそう深い彼を知る知識と彼との合一に基づきます。「それは私がと、彼の復活の力と、彼の苦難の交わりとを知って、彼の死に同形化されるためです」――「彼の死への同形化」は、彼の栄光のからだの中で彼の似姿に同形化される道です。