勝利者誌 一九〇九年 一巻 七月号 掲載。
神は御言葉の中に、祝福への道に関する多くの視覚教材を私たちに与えてくださっています。そして、ヨセフの人生以上に明確なものはありません。その物語は、神のキリストが地上に来臨される時の彼の生活をみごとに予告しているだけでなく、一人の人の霊的歴史と、その人が「わたしと共にわたしの王座に着くであろう」(黙示録三・二一)という御言葉の意味を知るようになる前の霊的行程を描写しています。ヨセフの人生の諸々の段階に注目することにしましょう。
(A)ヨセフの誕生(創世記三〇・二二~二四)。
これは祈りに対する答えでした。彼の母親は何年も待っていましたが、神の好機に――おそらく、人の希望がすっかり絶えた時に――「神はラケルを思い起こされ」ました。神は決して忘れたわけではなく、時が満ちるのを待っておられたのです。そして、ヨセフ――神からの賜物――が生まれました。彼の家庭は、彼が十七歳になるまで、彼を保護しましたが、その後、転機が訪れて、突然彼の人生を一変させました。
(B)神は夢によって御旨を彼に啓示し始められる(創世記三七・五~十)。
その前に、彼の兄弟たちとの問題が緊迫化しました。彼は自分の父親に忠実に真実を話しました。というのは、彼の兄弟たちは、彼は若いけれども、悪と妥協しようとしないことに気づいたからです(創世記三七・二)。そして、これに、愛と、彼の父親の多くの好意のしるしとが相まって、彼らの憎しみを引き起こしました。その憎しみはとても大きかったので、彼らは穏やかに彼と話せないほどでした。
神に選ばれた者たちも、しばしばこのような目に遭います。静かな家庭生活が数年続きます。その間、家の仕事をこなし、「最も小さなこと」を忠実に果たします。その後、私たちの「兄弟たち」の敵意が呼び覚まされるかもしれません。それは、罪と妥協するのを拒んだためです。それに加えて、神の祝福の特別なしるしによって、嫉妬と苦々しさが生じます。次に「天のビジョン」の転機が臨みます。
(C)「天のビジョン」の転機(創世記三七・五~八)。
神の御旨に関する啓示をヨセフが話したことで、突然、彼の兄弟たちはこの潜在的敵意を実行に移すよう駆り立てられます。ヨセフが見た夢の意味は、彼の周囲の人々にはまぎれもなく明らかでした。ヤコブはそれらを「見守って」、神がなさることを見ようと待ちました。しかし、ヤコブの息子たちは弟を「妬み」ました。この「小さき者」は――あまりにも若く、あまりにも純真だったので、自分の見た夢をすべて話しました。聴衆の中にあった潜在的敵意に全く気づいていなかったのです。それが示すこと――神に選ばれた者が「統治」して「主権」を持つようになること――は彼らにとって全く我慢できないものでした(創世記三七・十一)。
今日も、このようなことがしばしばあるのではないでしょうか?神はご自身をある若者に啓示して、その人に対するキリストによるご自身の輝かしい御旨を語られます。すると、「長老たち」――依然として肉の生活の中にあるクリスチャンの「兄弟たち」――は妬み始めて、この若者の「思い上がり」について話すとき穏やかではいられません。なんと無邪気に、その若者は、潜在的敵意に気づかずに、「天のビジョン」の物語を話したことでしょう。今や、その潜在的敵意がその若者に向けられます。しかしこれが、啓示した御旨を成就する神の方法なのです。
これは、この物語全体で最も悲しい箇所です。一人の人に対する神のあの啓示は、「兄弟たち」の敵意を意味したのです。キリストについてもそうではなかったでしょうか?「彼の身内の者たちは(中略)『彼は気が狂っている』と言った」(マルコ三・二一欄外)。「彼の兄弟たちも彼を信じなかった」(ヨハネ七・五)。
天のビジョンに、今や、その成就への道が続きます。これは常にそうです。わずかなことに忠実であることを学ぶ静かな生活を送っていると、罪から断固として遠ざかろうとしない他の人々から嫌われるという代価にもかかわらず、突然、「神のビジョン」が臨み、天が開かれ、自分たちに対する御旨がキリスト・イエスにあって啓示されます。次に、心が溢れ出て、他のクリスチャンたちにその素晴らしさについて話します。無邪気なことに、妬みや敵意のおそれには気づきません。その後、時として、手先である熱心なクリスチャンたちによって、その人は、苦々しさ、誤解、分離という奇妙な道に陥ります。その道はますます暗くなっていき、ついには、「天のビジョン」はますます色あせて、それが成就される望みはすっかりなくなってしまいます。
なんという困惑と苦難を私たちは経験することでしょう、なんという大失敗をこの時、私たちはしばしばしでかすことでしょう!神の約束には日付がないことを、私たちは忘れているのです!
私たちは御霊の素晴らしい満ち溢れを受けて、それにより、「開かれた天」と「神の幻」の中に導かれます。神の霊は、ご自身が私たちにしようとしているあらゆることの輝かしい可能性を、私たちに啓示してくださいます。すると私たちは、それはみな直ちになされる、と思い込みます。絶えざる力と実り豊かさの生活が即座に始まると期待してしまいます。
しかし、私たちは、ヨルダン川で主キリストに対して天が開かれた後、荒野、さらにその後にゲッセマネ、そして現実のカルバリ――ヨルダン川はその予表・予型にすぎませんでした――が続いたことを忘れています。いわゆる御霊の「バプテスマ」は、第一にもっぱら、死の中へのバプテスマです。なぜなら、永遠の御霊の力によってのみ、私たちも自分自身を神にささげて、「ゲッセマネ」とカルバリ――ヨルダン川での私たちの「信仰による死」はその微かな予表・予型にすぎません――における私たちの主イエスとの交わりにあずかれるようになるからです。
なんと多くの人が、ここで神の御旨を邪魔していることでしょう!彼の諸々の道を知らないせいで、私たちは彼に抵抗しています。そして、この開かれた天の日々に彼が私たちに約束してくださったことの成就を、すべて遅らせています。それどころか、苦難と空しさによって自分自身の心が悲しみを覚えているとき、私たちは時として、神が自分よりも若い他の人々を導いておられるのを見て、穏やかに話せないこの「兄弟たち」のようになってしまいます。しかし、神は信実です!表面上、私たちは葛藤しているかもしれませんが、彼に真に明け渡しているなら、彼は必ず内なる御業を進めてくださいます。そして、遅かれ早かれ、彼は私たちを十分に砕かれるので、私たちは「確かに私たちは弟のことで罪がある」(創世記四二・二一)と言うようになります。そして、神は私たちに、疑ったその若者の所に行って、砕かれた心で、「どうか赦してください」(創世記五〇・十七)と言うよう命じられます。
ですから、私たちに対する神の取り扱いを誤解しないようにしましょう。また、これまでに私たちが得た神の命を知る知識こそ、神が私たちに示してくださったすべてのことの頂点である、と思わないようにしましょう。それどころか、彼が私たちをキリストの死の中へとバプテスマされる時に私たちが意識的に永遠の御霊に明け渡しさえするなら、彼の御旨は「キリストと共に神の中にある」命を私たちが知ることであり、これは天が地よりも高いようにヨルダン川における開かれた天よりも遥かに高いものなのです。
「もし子供であるなら、相続人でもあります――神の相続人であり、キリストと共同の相続人です。ただしそれは、彼の栄光にあずかる者となるために、私たちがキリストの苦難にあずかっているならばの話です。」――ローマ八・十七、ウェイマス訳