勝利者誌 一九〇九年 一巻 八月号 掲載。
(a)選ばれた器の分離
すでに述べたように、「天のビジョン」の後には、必ずその成就への道が続きます。ヨセフの事例では、誰がその道具として用いられたのでしょう?彼自身の兄弟たちです。この若者に対する神のビジョンにより、彼らの苦々しい敵意が引き起こされました。彼らは彼を排除することを決意しました。「彼らは彼を殺す陰謀を企てた」(創世記三七・二〇)。彼らには彼を害する力がありました。肉の嘲りを聞いてください、「彼の夢がどうなるかを見よう」(創世記三七・二〇)。彼らはヨセフを計算に入れていましたが、神を計算に入れていませんでした。環境が整って、彼らは好機を得ました。彼を父親は遣わして、郊外にいる兄たちに会いに行かせました。この若者が直ちに従ったことから(創世記三七・十三)、自分に対する兄たちの敵意に彼がどれほど鈍感だったのかがわかります。弟の苦悩、苦痛、嘆願にもかかわらず(創世記四二・二一)兄たちは自分たちの目論見を実行して、彼を穴の中に投げ込みました。神は彼らがこれほどのことをするのを許されましたが、それ以上は許されませんでした――ヨセフに対する御旨を遂行するのに十分なほどまでしか許されなかったのです。彼らが彼の命を取るのを、神は引き留められました(創世記三七・二一~三八)。なんと奇妙な対比でしょう!ある日、神のビジョンが臨み、次に、父親、家、祖国から引き離されて――「エジプトに売られ」たのです(創世記三七・三六)。
(b)惨めな奴隷状態
ヨセフはポティファル――パロの役人――に売られましたが、神は依然としてヨセフに対する御旨を遂行しておられました。このようにエジプト人の家庭に入ったことで、彼は宮廷とのつながりを持つようになりました。彼はその宮廷の長官になる運命にありましたが、彼はそれを知りませんでした。それは彼にとってどれほど陰鬱に思われたことでしょう、彼の霊はどれほど悲しかったことでしょう!神は忘れてしまったのだ、と彼は思ったでしょうか?家と愛する者たちに対する地的なつては断ち切られて血を流していました。そして今や、カナンでの自由な伸び伸びとした牧者生活の後、エジプトで奴隷状態に陥ったのです。まさに苦難の道です。
しかし、ヨセフは自分の神を知っており、長い年月の後、彼は自分の兄弟たちに、「私をここに遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」(創世記四五・八)と言いました。「主の言葉が彼を試みた」(詩篇一〇五・十九)。神はご自分の若い僕を試しておられました。そして、彼はこの試みに耐えました。神は、彼を召した地位のために、彼を訓練しておられたのです。
十三年間、彼はポティファルの家で過ごしました。彼は偶像崇拝と贅沢の真っただ中で神と共に歩いたので、神は公然と彼を祝福することができました。そして、「彼の主人は主が彼と共におられるのを見」ました(創世記三九・三)。この苦難の道で、私たちは自分の愛するものをすべて失い、「平凡な」生活を送るようにされます。行いたいと望んできた神のための偉業とはかけ離れています。これは私たちにあてはまるでしょうか?ヨセフは多く話した、とは述べられていません。しかし、神が彼と共におられるのを彼の主人が見たことを、私たちは知っています。「主は、彼のすることすべてを栄えさせられた」(創世記三九・三)。彼の主人が彼を自分の家の監督にするほどだったのです(創世記三九・四)。これもまた神の訓練であり、将来のための備えでした。しかし、ヨセフはそれを知りませんでした。若者たちは、いわゆる「世俗」の働きをいやがる傾向がなんと強いことか。というのは、彼らは「ぶどう園で働く」ことを望んでいるからです。自分の義務の領域で成功を目指すことは「世的」ではないかと、彼らは恐れています。しかし彼らは、神に明け渡し切っている人には「世俗」も「聖職」もないことを忘れています。また、地上の領域で能力を示すことは、神の時が到来する時に、天の事柄のための執事職への適性を示すまさにしるしであることを忘れています。もし神が彼らを直ちにクリスチャンの働きに就かせていたなら、訓練に欠けるがゆえに、働きにおける彼らの有用性は減じていただろうことを、彼らは忘れています。その訓練を受けることができるのは、神が自分を置かれた場所で、召しにしたがって、ただ静かに忠実に奉仕することによります。
ポティファルの家での十三年間により、ヨセフは、「自分は、エジプト人の役人に忠実に仕える僕になる以上のことは、決して何もしないだろう」と思うようになったかもしれません。しかしこれは、神はご自身の民を彼らの地位のために訓練することを時間の浪費とは思われないことを示しています。とは言うものの、私たちにとって最も辛い学課の一つは、待つ方法を学ぶことです。この苦難の道は今や、ヨセフが静かな働きで彼の周囲のすべてを栄えさせたので、終わったのでしょうか?いいえ、彼はなおも下降しなければなりませんでした。ヨセフはポティファルの家で自分の神を静かに待ち望むことを学びました。その時、突然、さらに深い苦難の中に投げ込まれたのです。
(c)牢獄生活と苦難
偽りの訴え、名声の喪失、続いて不当な投獄が、この道の次の段階でした(創世記三八・七~二〇)。ここで、「彼の魂は鉄の中に入った」(詩篇一〇五・十八、改訂訳欄外)と述べられています。こんな事になったのです!多くの、多くの、多くのことによって、私たちは打ちのめされますが、この点には及びません。しかし、そこで私たちはゲッセマネとカルバリの意味を知ります。晴れ渡った良心(創世記四〇・十五)。罪に対する恐れ(創世記三九・九)、にもかかわらず罪を責められます。主人に仕えた忠実な奉仕が、彼に対して不利に転じます(創世記三九・十九)。話すことも、釈明することも許されません。犯罪者のように、鉄の枷を足にはめられます(詩篇一〇五・十八)。ヨセフの魂が「鉄の中に入った!」のも不思議ではありません。
我慢の限界となる出来事がさらに臨まなければなりませんでした。それは、彼が牢獄内で助けと慰めを与えた人の忘恩によってでした(創世記四〇・二三)。それはなんと暗い出来事だったことでしょう!それでも、彼は自分自身の苦しみに飲み込まれて自己中心的にならなかったことがわかります。彼には、他の人々が悲しげに見えるのを見て(創世記四〇・六)、助けを差し伸べる(八節)目がありました。二年間ヨセフは牢獄で過ごしました。なんと神は彼を剥ぎ取られたことでしょう!今や、解放される望みはすっかり消え失せざるをえません。しかし、それに関する神の面を見てください。神は「神秘的な方法で働いて、驚くべきことを行われる」。神はご自身の計画を完成させつつあります。そして、ご自身の選びの器が十分な訓練を受けると、神は牢獄の道を用いて、ヨセフを国の二人の役人との接触に導かれました。彼らはパロへのつてであり、神の御旨により、ヨセフの解放の時のために備えられたのです。偽りの訴えで投獄されることは、あらゆる苦しみの中で最も深い苦しみのように思われますが、それが王座へと至る神の道だったのです。
この物語を読むと、神が各段階を支配しておられることがわかりますし、神がご自身の御旨を成就される素晴らしい方法もわかります。ヨセフには再暗黒に見える時でも、それは神には光だったのです。ですから、彼の取り扱いを通る時は常に、彼に信頼することを学ぼうではありませんか。神は初めから結末をご覧になっておられ、私たちのために永遠の重い栄光を成し遂げつつあることを、自覚しようではありませんか。