三.苦難を経て王座へ(三)

王座への道についての旧約聖書の絵図

ジェシー・ペン-ルイス

勝利者誌 一九〇九年 一巻 十月号 掲載。

(a)天のビジョンの成就

ヨセフが「苦悩の地」(創世記四一・五二)の牢獄にいた、彼の人生でまさに最暗黒の時に、彼の解放の瞬間がやって来ました。この苦難はあまりにも厳しい深刻なものになったため、詩篇作者は「彼の魂は鉄の中に入った」(詩篇一〇五・十八、欽定訳欄外)と述べています。彼の霊は、言わば、圧迫されて閉じ込められていました。彼の魂という鉄の檻の中で、自分の道の厳しい暗さによって、かたくなで、硬直した、無言のものになっていきました。一筋の光も彼の道を照らしませんでした。希望の一かけらも彼には残っていないように思われました。敵どものなぐさみものにされ、友人たちからは忘れられ、「主の言葉が彼を試し」ました。それは、「主の言葉が成就する時まで」(詩篇一〇五・十九、改訂訳)であり、彼の解放の時が間近に迫っていました。

神の御計画の成就のために、パロの執事とのつてを利用できるようになりましたが、それは彼が牢獄を去ってから丸二年後のことでした(創世記四一・一)。この時、パロは一つの夢を見ました。その夢は、神がなそうとしていることについての、パロに対する神の啓示でした。パロは心を悩ませました。魔術師たちはその幻を解き明かせませんでした。執事長は思い出して、ヨセフは牢獄の独房から突然呼び出されました(創世記四一・一~十四)。これはすべて神から出たことであり、神はみこころを行っておられたのです。

神のこの突然の干渉におけるヨセフの心境から、いかに彼が緊急時に主の御用にかなう器になったのかがわかります。落ち着いて直ちに、彼は称賛を受けることを拒み、また、パロの願いをかなえられたとしても、手柄を自分の能力に帰すことを拒みました。「それは私ではありません」と、空っぽにされた人は言いました。「がパロに答えてくださいます」(創世記四一・十六)。そして、神が確かにヨセフを通してパロの必要に答えられました。それは実に賢明な助言だったので、彼は急遽、牢獄から王座に移されるほどでした。パロの役人の家の監督だった彼は、今や王の家を治めなければならなくなりました。牢獄の道を通ってそれに至ったのです。

権威と権力が彼に与えられました(創世記四一・四一~四四)。そして、彼が失ったものはみな、神ご自身の御手によって戻されました。「秘密を啓示された者」を意味する新しい名が彼に与えられました。また、孤独と悲しみの年月の果てに、家と愛する者たちが与えられました。さらに気前よく神は彼に応じられたので、彼は自分の苦しみと、若い頃に引き離された家を忘れることができました(五一節)。すべてを失った彼は今や豊かな富を治めていたので、「ヨセフの所に行きなさい」という声が四方であがるほどであり、「全土」が欠乏の時に彼に向かいました。

彼の少年期の天のビジョンは、今や、文字どおり成就されました。ヨセフはエジプトを統治する支配者であり、「ヨセフの兄弟たちはやって来て、顔を地に付けてひれ伏し」ました(創世記四二・六)。

(b)兄弟たちに対するヨセフの取り扱い

彼は彼らに対して「荒々しく語り」(七節)ました。それは認罪を生じさせるためでした(創世記四二・二一)。しかし、彼の心に彼らに対する憤りは全くありませんでした。というのは、彼らが互いに「確かに私たちは弟のことで罪がある。彼がしきりに願った時、彼の魂の苦しみを見ながら、私たちは聞き入れなかった」と言うのを聞いて、彼は深く感動したからです。後に、彼はすぐに彼らを慰めました(創世記四五・五)。そして、彼らの自己批判を癒して、「私をここに遣わしたのは、あなたたちではなく、神です……」(創世記四五・八)と言い、喜んで愛のしるしと共に自分の年老いた父親と兄弟たちを呼び寄せました。

終えるにあたって、この物語の二つの主要な面に注目することにしましょう。

一.すべての上におられ、すべてを貫いておられる神が、ヨセフの人生のためにビジョンを成就されつつあります。次の点に注目してください。

(a)は彼の命を救われました(三七・一)。

(b)神はポティファルの家に導かれました(三九・一)。

(c)神はヨセフを栄えさせて訓練されました(三九・五)。

(d)神は牢獄への道を許されました(四〇・三)。

(e)神はパロに夢を見せました(四一章)

二.ヨセフの内なる命は、これらの出来事をすべて通ることにより、神がビジョンを実現できるものになりました。

(a)十七歳の時に見せた彼の忠実さ(三七・二)。

(b)彼の従順な霊(三七・十三)。

(c)彼の信実さ(三九・八)。

(d)彼が罪を拒否して恐れたこと(三九・八、九)。

(e)彼の無私の同情心(四〇・六~八)。

(f)彼の晴れ渡った良心(四〇・十五)。

(g)神に対する彼の信頼(四〇・八)。

(h)彼の私心のなさ(四一・十六)。

(i)彼がただ神の御手だけを見ていたこと(四一・五一、五二)。