一.死による一体化のメッセージ

ジェシー・ペン-ルイス

キリストの死の中で私たちは彼と一体化されたという基本的事実を求めて、ローマ六章に向かうことにしましょう。「彼の死」という言葉に注目してください。「死んだ私たちが、どうして」(二節)。「彼の死の中へとバプテスマされた」(三節)。「死んだ者」(七節)。「私たちが死んだのなら」(八節)。辞書によると、ここの「死ぬ」という言葉は、ギリシャ語では、この動詞を明確にする強調的表現になっており、完成・成就された行いを表しています。同じ言葉が二コリント五・十四「ひとりの方がすべての人のために死なれたからには」で使われています。また、コロサイ二・二〇「もしあなたたちがキリストと共に死んで」と、コロサイ三・三「なぜなら、あなたたちは死んだのであり」でも使われています。

再び、これが意味するところに向き合うことにしましょう。次のことは、明白かつ明瞭です。すなわち、キリストが死なれた時、信者は彼の死の中でキリストと一体化されたので、体は永遠の死を被らなかったものの、キリストが死なれたように実際かつ現実に死んだのです。ギリシャ語原文の言葉は明確であり、どの節でも――「私たちが死んだのなら」「なぜなら、あなたたちは死んだのであり」――と繰り返されています。少なくとも六回以上繰り返されています。*

* ローマ六・二、七、八。二コリント五・十四。コロサイ二・二〇。コロサイ三・三。二テモテ二・十一。

これにより、私たちはキリストの死の中で彼と一体化されたという客観的事実が、大いに明らかになります。これらの節は「死の過程」についてなにも述べていません。「主観的」なものはなにもありません。それについては別の箇所で出てきます。私が今関心を持っているのは、この客観的事実を十字架の宥めの面と同じくらい明確に述べることです。十字架の宥めの面では、キリストは私たちのために罪とされたこと、木の上で彼ご自身の体において私たちの罪を担われたことを、私たちは理解します。

しかし、あなたたちは言います、「私は何年もの間これを知っていましたし、理解していましたが、これが私の生活になんらかの違いを生じさせているようには見えません」。ここで、啓示の霊である聖霊を認識する必要が生じます。この最後の時代の神の子供たちの多くは、キリストと共なる死の「真理」を受け入れてきましたが、それは聖霊の啓示によって彼らに臨んだものではありませんでした。彼らは、自分は「キリストと共に十字架につけられた」と言いますが、この真理を受け入れても、どういうわけか、実生活には期待したような違いがなにも生じなかったことを自覚しています。一つの理由は、いくつかの事例では、この真理を知性によって受け入れたにすぎなかったことです――知的過程や意志の決断によって受け入れたにすぎなかったのです。それが啓示によって臨む時、信者は言わばこの客観的事実を、神の霊による心の目に対する啓示として「見」ます。まさに、ガラテヤ三・一で、ガラテヤ人たちがそうしたと述べられているようにです。

多くの人がこの真理の力を理解してこなかったもう一つの理由は、キリストと共なる自分の死という客観的事実を、その主観的成就と混同していることです。御言葉は「あなたたち自身の救いを成し遂げなさい」とあなたたちに告げていますが、適切に教わってきたあなたたちは、私たちが自分の救いを「成し遂げる」のは、それをキリストの血を通して受けた後のことであることを知っています。まったくそれと同じように、私たちはまず、キリストが十字架にかかられた時、自分はキリストと共に死んだことを、聖霊の啓示によって理解し、そして、この事実の基礎に基づいて、続けて「それを成就」しなければならないのです。この主観的に「成就すること」について理解しないまま、多くの人は自分が実際に理解してきた客観的事実を「効き目がない」と言って手放しています。

一体化の瞬間

しかし今、ここで、フィリップ・マウロが彼の本の中の一つで明らかにしている重要な点が明らかになります。彼の死における信者のキリストとの「一体化」は実際にいつ始まったのか、という疑問が生じるのです。マウロが言うには、それは「キリストの死の瞬間に始まった」のであって、「その前ではない」とのことです。信者は、世の罪を取り除く神の小羊であるキリストの宥めの御業の苦難に、決してあずかることはありません。彼が大声で「成就した」と叫んだ後、この神・人は「ご自身の霊を渡して」(ルカ二三・四六、マタイ二七・五〇)、死なれました。この彼の死の瞬間に、信者はこの死の中で彼と一体化されて、彼と共に死んだのです。マウロの指摘によると、ローマ六・十「彼が死なれたのは……」の動詞は肉体からの退去を意味します。

死における私たちのキリストとの一体化に関して使われている言葉はどれも明確です。私たちは「彼の死の中へとバプテスマ」されています――十字架上における彼の苦難の中にではなく、彼のの中にバプテスマされています。この一体化の死で、私たちは彼の十字架の苦悩、恐怖、暗闇や、彼の死に先立つ事柄にあずかることは一切ありません。彼はひとりで贖いの御業を成就されました。彼は死の瞬間に達する前に、「成就した」と言うことができました。そして、死の瞬間に、彼の死の受益者たちはみな、彼と共に死んで、肉体から退去される彼にあって、彼と共に別の領域に移りました――「キリスト・イエスにあって」神に対して生きる領域に移ったのです。

この一体化の生命力

「あなたたちも、キリスト・イエスを通して、自分は罪に対して死んでいるが、神に対して生きていると認めなさい」(ローマ六・十一)。キリストの死における彼との一体化による合一は――姿勢ではあるのですが――「姿勢」以上のものであり、――立場ではあるのですが――「立場」以上のものです。これは、罪の重荷からの解放と同じくらい、信者の経験上、実際的事実とならなければなりません。これを理解しそこなったせいで、「キリストと共なる死」の「立場」と「姿勢」を維持していても、真の生命力に欠けているのです。キリストの死における彼との真の一体化による合一は、それが聖霊によって、この真理に関する信者の理解と連携した彼の御業によって実現されるとき、「死」であるだけでなくでもあることを、私たちは見る必要があります。

私たちは「死」というこの言葉を人間的価値観で考えてしまいますが、メイビー博士が書き記しているところによると、「キリストの死は通常の死ではなく」、むしろ、「全く新しい独特な死」でした。「たんなる死すべき存在の死とはかけはなれたものであり」「むしろ不死の存在の死と称されるべきである」。「その中に含まれているのは」と彼は述べています。「復活したキリストご自身との新しい有機的合一のエネルギーである」。「この死は、その事実と全エネルギーとをもって威力を発揮するようになるとき、信者の中に入って力づけて、新しい命――それはキリストの死によって信者に委ねられたのである――を生きさせるようにする死だったのである」。*

* これらの文を抜粋したメイビー博士の本の名は
「十字架の意義とメッセージ」
「十字架の神聖な理由」
であり、Fleming H. Bevell, New York によって出版されました。
 Hodder & Stoughton, London によって出版された三冊目の本の名は、「キリストの死はどのように私たちを救うのか?」です。残念なことに、すべて絶版になっていますが、きわめて価値があります。

他の箇所で、メイビー博士は再び、キリストの死は「放射性」である、と書き記しています。先日、私はある医者に、ラジウムについて少し教えてください、とお願いしました。すると、彼は言いました、「ラジウムは世界で最も強力な凝縮された力を持っており、その近くにあるものすべてに自らのエネルギーや力を賦与する能力があります」。「確かに」とある宣教士は言いました。「その光線を直接浴びると死んでしまいます。燃やされてしまうからです」。

愛する人よ、私たちはキリストの死を、その中になんの「命」もない人の「死」の見地から考えてきたせいで、誤ってきたのではないでしょうか。そして、そのせいで、その「放射性の」力の恩恵を受けてこなかったのではないでしょうか。私たちは復活の「命」について述べてきましたが、正直に言って、それを豊かに得ることに失敗してきました。それは、この命は神・人なる方の死の中にあること、そして、この命の強力な力が私たちに伝達されるのは、私たちが神聖な死の放射性の効力の下に実際的・継続的に服する時だけであることを、私たちが見ていなかったためです。

先に進む前にあなたたちに示すべき、メイビー博士からの引用がさらにいくつかあります。十字架の客観的教えだけでなく、主観的教えの必要性について記して、彼はこう述べています、「身代わりという客観的な面を省くなら、主観的経験を得るための主要な力を失うことになる。主観的な面――身代わりの御業が個人的な造り変えの力になる経験――を省くなら、キリストの行程の複合的な死・復活のエネルギーを無効化することになる……」。これから次のことは明らかです――もし「身代わりという客観的な面」を省くなら、「主観的」経験は得られません。主観的経験を省くなら(たいていの人はそうしています)、私たちを救うキリストの「複合的な死・復活のエネルギーを無効化する」ことになります。あなたはこの二つの面を持つ必要があります。すなわち、あなたの信仰の対象としてのキリストの客観的御業と、経験して現実化すべきその主観的適用です。

「客観的な面と主観的な面は、実体と影のように、互いに関連しあっている」と再びメイビー博士は書き記しています。「それらは相互に暗示しあっている」「新たな生き生きとしたエネルギーがその人の内に働くので、この過程全体は実に倫理的なものになる」。

一体化による合一の現実

キリストの死における彼との一体化による合一を理解できるのは、聖霊の啓示と協働の御業によってのみであることを、私たちははっきりと見ました。さて、聖霊がどのように協働の力をもって働かれるのかを見ることにしましょう。ローマ六・五は、これを二、三の短い言葉で述べています。「もし私たちが彼の死の様の中に共に植えられてきたなら」(欽定訳)。これは、数瞬で水の下に沈んで出て来る「様」以上のことを意味します。「彼の死の様」の中に「植えられる」という言葉は、神の霊によって生じる実際的合一を伝えます。この節に対するJ.N.ダービーの注釈によると、「植えられる」という言葉は原文の意味を伝える最も明確な表現ではありません。彼が言うには、「それは文字どおりには『共に成長させられる』こと、したがって『徹底的に一つであること』を意味する……」とのことです。信者は、御霊の働きによって、キリストの死と「徹底的に一つ」とならなければなりません。それは言わば、その中に「植えられ」て、その型もしくは様の中で「成長する」ためです。

ですから、二節の「私たち死んだ者は」が示す一体化の事実は、五節で経験上の一体化の事実となります。この「植え付け」の時から、信者の内にあるこの命は、キリストの小羊のような性質という型の中へと成長していきます。

この意味で、信者は「死の中にとどまり続け」ます――無力な自分自身の死の中にとどまり続けるのではなく、放射性の強力な力に満ちた、キリストにある神の死(メイビー)の中にとどまり続けます――信者が「死の中にとどまり続け」るのは、根にとどまり続けている木が、地に打ち倒されても、そこから命の力が現れて、成長し、実を結ぶのと同じです。

コニーベアの五節の訳はさらに印象的です。それは、「もし私たちが彼の死の様の中へと接ぎ木されているなら」となっています。注釈はこう付け加えています、「枝が接ぎ先の木と一つであるように、文字どおり、命の合一にあずかる者となったのである」。

このような「接ぎ木」は聖霊によってのみ可能です。「共に成長」して「徹底的に一つ」になるにせよ、彼の死の中へと「接ぎ木」されるにせよ、どちらも目的は同じです。キリストの死における彼との一体化による合一は、神の御言葉を信じる信仰によって理解すべき事実であるだけでなく、経験上の事実にもならなければなりません。

これが、現段階における全体像です。キリストの死における彼との私たちの一体化に関して、聖霊は私たちの中になにかをなさなければなりません。神の霊の働きによって、それは経験上の事実になります。キリストの死の中に「植えられ」て、その様の中でキリストの中へと成長し込む瞬間から、その後の人生の間ずっと、「彼の死」はあなたのクリスチャン生活全体の根幹となります。「もし私たちが接ぎ木されているなら……」。枝を接いで木と一つにするとき、その意図は、両者を通して一つの命を流れさせることです。ですから、自分の「立場」を見るだけでは十分ではありません――神によってなにかがなされなければなりません。あなたは聖霊によって、キリストが死なれた時に彼と一体化されたという事実の中に、深く植え付けられているでしょうか?あの瞬間から、接ぎ木された枝のように、あなたたちは命の合一にあずかる者となったのです。