さて、キリストの死の二番目の面、すなわち、主観的な面に向かうことにしましょう。この面は、贖われた信者の性質の中にある「肉」すなわちアダムの命にキリストの死を実際に適用することについてです。ローマ七・四を読んでください。
「あなたたちもキリストの体によって(中略)死んだのです。というのは、私たちが肉の中にあった時、罪の情動が(中略)私たちの肢体の中に働いていたからです……」。
この節の「死んだ」というギリシャ語は、ローマ六・二、七、八、コロサイ三・三等で引用した他のどの言葉とも異なります。それは「サナトー(thanatoo)」であって、「アポセネスコ(apothenesko)」ではありません。辞書によると、「サナトー」は「生命原理を取り去って」「死に渡す」ことを意味します。これがローマ八・十三「御霊を通して体の行いを『抑制』しなさい、すなわち、死に渡しなさい(欄外)」で使われている言葉です。ここに、一体化の事実――これを信者はすでに理解しており、自分の存在の中心で現実のものになっていました――の主観的な効力、すなわち、肉の命に対するその詳細な適用が、とても明確に示されています。信者は「彼の死の様の中へと植えられ」、キリストとの一体化による合一により、自分の場所に「接ぎ木され」たので、彼の死の強力な力が全き力で活動するようになりました。信者は今や、これを「体の行い」――自分の「肢体」の中に生じかねない「罪の情動」――に適用します。体の行いをよくよく警戒して「死に渡す」べきものと常に見なさなければなりません。中心における一体化による合一が発達して、キリストに全く同形化された命に至るには、そう見なさなければならないのです。
このように絶えずキリストの死を適用して、体の行いを「死に渡す」必要性を理解するには、聖書が「肉」と「霊」について教えていることについて、そして、御霊が支配できるようになるために「肉」を対処する方法について、明確な展望を持つ必要があります。というのは、肉が侵入しようとしている時に、「肉」を識別して、それを直ちに対処する方法を知っていなければ、この中心的な一体化の力は失われてしまうからです。次のことを強調しなければなりません。すなわち、私たちの存在の奥底でどれほど深くキリストの死の中に「植えられて」いたとしても、私たちの肢体の中にある「罪の情動」が少しでも活動し始めることのないよう、絶えず警戒している必要があるのです。
しかしまず、パウロが「肉」について述べていることについて。この言葉で彼が言わんとしているのは、アダムの命全般のことです。私たちはその中に生まれました(ヨハネ三・六、エペソ二・二、コロサイ二・十三)。「肉」が神に対して何なのか、ローマ八・七~八からわかります。それは本質的に「神に対する敵意」であり、「神を喜ばせることができません」。「肉」が人に対して何なのか、ガラテヤ五・十九にその要約が見つかります。「肉の働きは明らかです……」。この数節の中に、その働きの様々な面に関する鮮明な絵図が分類されています。(1)おぞましい肉体的罪、(2)憎しみ、不和、張り合い、怒り、争いといった、邪悪な気質、(3)宗教的な形の陰謀、分裂、党派、(4)偶像礼拝や魔術によるサタンとの邪悪な超自然的交わり、(5)自己耽溺、泥酔、宴楽です。これらの「働き」はみな容易にわかります。そして、たいていの信者は、「肉」のことをここに挙げた特徴の様々な面を意味するものにすぎないと思っているせいで、自分は「肉にしたがった歩み」から全く自由であると夢想しています。肉がより洗練された形で働いている時でも、「肉」は「肉」であることを彼らは理解していません。さらに肉的な罪の中に含まれている、「不和」、「張り合い」、「争い」、分裂や党派についてはどうでしょうか?御霊にしたがって歩いていない時はいつでも、「肉にしたがって歩く」おそれがあることを、彼らは理解していません。神の子らとして御霊に真に導いてもらうには、「体の行い」を死に渡して、御霊にしたがって歩く必要があるのです。
これをはっきりと見るためにローマ七・五に戻らなければなりません。「私たちが肉の中にあった時」とパウロは述べています、「罪の情動が私たちの肢体の中に働いていました」。そして、信者がキリストの死という放射性の力の下にアダムの性質を置いて、「御霊にしたがって歩く」のをやめるとき直ちに、信者の命がどの段階にあったとしても、罪の情動が常に働くことになります。
ローマ七章の五節以降はすべて、自分自身の中にある信者の実際の状態に関する霊感された絵図です。信者が御霊にあって歩くのをやめるとき直ちに、常に自分自身の中に陥ります。「ローマ七章が六章と八章の間にあるのは、両者の間のある種の行路としてであり、信者がローマ八章に入る時、ローマ七章は過去の歴史になるのである」と考える人々もいます。しかし、アンドリュー・マーレー博士は、ローマ七章とローマ八章は併存する、と述べています。つまり、信者がローマ八章にしたがって御霊にあって歩くのをやめるとき、遅かれ早かれ、ローマ七章の経験に陥ったことに気づくのです。二五節のパウロの結論の言葉、「このように私自身、思いでは神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」から、これは正しいように見えます。これは、「肉」はずっと肉のままである、ということです。そして、私たちは「肉にしたがって」「歩き」「生きる」ことはないかもしれませんし、その必要もないのですが、常に「御霊に導」いてもらって、罪と死の法則の力の下に陥らないように守ってもらうには、「体の行い」を常に「死に渡」さなければならないのです。
今日、この厳粛な事実を理解することが、きわめて決定的に重要です。なぜなら、天上にある命を知る知識の中に進み入ろうとしている多くの人々の間に、次のような危険性があるからです。すなわち、自分たちに「肉」が侵入するおそれはない、自分の死すべき体におけるイエスの命の現われを経験しようと求めているならなおさらである、と思い込む危険性です。彼らは「キリストにある新創造」であると言います――確かにそうなのですが、私たちはまだ「新創造の」体を受けていません。私たちの現在の卑しい体は、天からの主の来臨を待ち望んでおり、その時はじめて、彼の栄光の体に同形化されるのです。現在の深刻な危険は、真理の早まった適用です――「書き記されていることを踏み越える」(一コリント四・六)ことです。というのは、悪魔は信者をあからさまな「肉」の中に陥らせることができないと、十字架という中心的基礎に焦点付けられていない霊の領域の中に、そして、霊化された「肉」を事実上意味する超霊性の中に、信者を押しやるからです。「誤謬」とは「真理」をほんの少しだけ踏み越えて、そうして均衡・均整の取れた全体を構成する他の真理の視点を捨て去ったものである、と述べられてきました。次のこともまた確かです。すなわち、このような覆いの下で、「肉」は気づかれることも認識されることもない何らかの狡猾な形で働き始めるのです。
さて、キリストの死の実際的適用とそれがなされる方法について。再び、ローマ七・四と併せてローマ八・十三に向かうことにしましょう。というのは、この二つの節では同じギリシャ語が使われているからです。すでにはっきりと見ましたが、この一体化の事実が私たちの存在の中心で経験される時、「体」とその「肢体」の対処が常にそれに続きます。
ローマ八・十三は私たちに、「体の行い」を「死に渡し」なさい、しかしそれは「御霊により」ます、と告げます。これは何を意味するのでしょう?次のことにほかなりません。すなわち、信者が「体の行い」を「死に渡す」のは、聖霊がキリストと共なる死を自分に対して事実としてくださる、と信頼することによるのです。「あなたたちは死んだのであり……」とパウロは書き記しています。すでに一体化による合一によって「死んで」いるのですから、信者は今や、「自分の肢体の中に罪の情動」が生じるのに気づいたら、それらに対して「死ななければなり」ません。「キリストの十字架は」と故C.A.フォックスは書き記しました、「肉が焼灼されて死に渡される実習室である(中略)地上にあるあなたの肢体を、しかるべく抑制せよ。それは、誘惑的な欲望が生じかねない前に、そのすべてに対して、十字架という燃える焼灼剤を直ちに適用することによってである……」。
この言葉は、キリストの死は「放射性」である、というメイビー博士の言葉と驚くほど似ています。そうです、これこそ私たちが握るべきものです。キリストの「死」の中には強力な力があります。「罪の情動」を私たちの肢体の中に生じさせようと常に待ち構えている肉の「生命原理」から、その力を奪わなければなりません、人の死を超えたあの死の「焼灼剤」すなわち放射能を適用することによってです。すると、神はほむべきかな、この「焼灼剤」が聖霊によって適用される時、あの死に特有の神の命が、復活の力によって、信者が勝利のうちに歩むことを可能にします。というのは、キリストにある神の非受造の命だけが、死の中に下って行き、その中から抜け出して、彼と共に人々を連れ出せたからです。その人々はみな、神の潜在的御旨によると、彼の中で死んだ人々であり、今や一体化による合一の中であの死の中に下って行き、彼の中で絶えず命の新しさの中によみがえって彼の栄光へと至ります。
「ですから、あなたたちの地上の肢体を死に渡しなさい」。おお、神の子供よ、あなたの心を上にあるものに置きなさい、「なぜなら、あなたたちは死んだのであり、あなたたちの命はキリストと共に神の中に隠されているからです」(コロサイ三・三、五)。