三.死による一体化の継続性

ジェシー・ペン-ルイス

キリストの死における信者の彼との死による一体化の三番目の面を、いま熟考しなければなりません。この面には、今日、私たちの復活・昇天した主にとって、また、彼のからだである教会にとって、きわめて深い重要性があります。

この面を示す節を、私たちの大部分はよく知っています。それでも、それに向かうたびに、自分は十字架に関してその底知れぬ深さの縁に触れたにすぎない、と思わされます。二コリント四・十~十二のコニーベアの訳に向かうことにしましょう。「自分の体に私は絶えずイエスの死を帯びています。それはまた、私の体にイエスの命が現わされるためです」。文字どおりには「イエスの致死力」です――「死」と訳された言葉はネクロシス(nekrosis)であり、ローマ六章やローマ八・十三で使われている言葉とはかなり異なります。辞書によると、「それは未完成で進行中の活動を示す表現」です。

コニーベアの注釈によると、「ここで『死』と訳されている言葉は、死体の死んでいる様子をまさしく意味する。まるで聖パウロは、『自分の体は死体に優るものではないが、キリストの復活の命を与える力にあずかっている死体なのである』と述べようとしているかのようである」。欽定訳では、「絶えず体にイエスの死を帯びています(中略)なぜなら、私たち生きている者は絶えず死に渡されているからです」となっています。

死による一体化のこの面を理解する重要性は、どんなに強調しても強調しきれません。この箇所では「絶えず」と言う言葉が鍵となる言葉です。なぜなら、この言葉は、死による一体化を持続的に理解して深めていく必要性を示しているからです。これが必要なのは、存在の中心における初期の一体化による合一が十分な結果に達するためであり、そして、復活の命が「死すべき体」に十分に分与されて、「体の行い」を着実に「死に渡す」ためです。

キリストとの継続的な死による一体化をおいて他に、「復活の命」が実際に分与されることはありません。ここでもまた、メイビーの言葉は啓発的です、「死と復活を分けることはできない。それらは一つの事実の両面なのである」。「キリストの死は復活を帯びている」。ローマ六章の面を理解して、その言葉がアオリスト時制であって、キリストと共なる私たちの死は成就された事実であることを見、さらに続けて、「地上の肢体」を死に渡し続けることが、存在の中心における死による合一が無に帰したり空しくなったりしないために、絶えず必要であることを見た以上――同じように今、私たちは次のことにも気をつけなければなりません。すなわち私たちは、「復活の命」の中を歩く一方で、死によるこの交わりはたんに「姿勢」や「立場」として維持するだけでいい、と考えてはならないのです。さもないと、確実に「復活」の「」の不在という羽目になるでしょう。つまり、私たちは「霊的」であるように見せかけた天然の人の力によって生きるようになって、イエスの命そのもの、彼がいま栄光の中で持っておられるあの命の真実な実際的分与に欠けることになるでしょう。

ですから、現在、次のことはどんなに強調しても強調しきれません。すなわち、復活の命が私たちに分与されるのは、私たちが死による一体化による合一を維持する時だけなのです。それは毎瞬、復活された主から、彼の死を経て、私たちに臨みます。そして、私たちが彼の死という焦点から逸れるやいなや、復活の命のこの分与はやみます。この中心は不動のままかもしれませんが、周辺へのこの命の分与は直ちにやみ、他の人々への命の流出も直ちにやんでしまいます。言葉使いは変わらず、知性は真理に関する知識を保っており、意志や信仰に変化はないかもしれませんが――復活した主からの命の流れはやんでしまいました。なぜなら、絶えざる死による結合によって道から除かれ続けるべきものが再び邪魔して、「死体に優るものではない」「体」を「キリストの復活の命を与える力」によって生かしてもらえなくなったからです。

私たちの死による一体化のこの面とよく似ている神の法則、自然法則があります。ご存じのように、肉体の中で死の過程と命の過程が継続的に進行中であり、健康を正常に保つには一方が他方を上回ってはなりません。そこで、この同じ法則を認識して、メイビーは十字架の原則の「複合的な死・復活のエネルギー」と称しています。霊・魂・体に対して「新創造」が意味するところをすべて把握しようとしすぎるあまり、必要な死による交わりを維持・深化せずにいるなら、たとえ信者が「真理」を保持しようとしても、その中にはなんの力もありませんし、空中の欺く霊どもの影響を受けるようになります。それらの霊どもは、人が理解しようと熱心に身を伸ばしている真理の「新創造」の面の偽物を与えようとひたすら待ち構えているのです。

ですから、十字架の死による合一のこの面がどれほど決定的かは明らかではないでしょうか!それは現在のすべての必要に触れますし、現在の唯一の主要なメッセージは十字架のすべての面であることを示します。それこそが、現在、神の子供たちの間で働いているサタンの計略の各面に立ち向かう唯一のメッセージなのです。

さて、この「体にイエスの致死力を帯びる」ことが実現される方法と、信者自身におけるその他の結果について見ることにしましょう。私たちが引用したこの節は、使徒がこれを書いた当時の彼の状況・環境を垣間見せてくれる数節の頂点です。それによると、キリストとの死による一体化による合一を知っている信者は、自分に対するあらゆる外部の出来事を主との死による合一の光の中で読み解かなければなりません。「悩まされ」「困惑し」「迫害され」「打ち倒され」――すべてがキリストとの死による合一を深める方向に進みます。信者はキリストのように実際の「十字架」は受けないかもしれませんが、カルバリで「キリストを死に渡」したものをすべて受けます。そして信者は、自分を取り巻く環境をこの光の中で読み解かなければなりません。それらの環境は、信者をますます深くあの死に同形化するという目的のために、神によって直接許されたものなのです。

次に、いわゆるこの客観的な面の計画性に注目しましょう。聖霊は、この交わりを生み出す責任を負っており、「イエスの命」が「自分の死すべき体に現わされる」経験をすることを心から願っている信者を実際に何度も何度も死に渡されます。「新創造」が意味するところをすべて知りたければ、死を帯びることができるように「イエスのために死に渡され」る覚悟をする以外に道はありません。

きわめて深刻な重要性を持つ二つの結果が、神の教会に、そして、信者本人に生じます。第一の結果は十二節に見られます。「こうして、死は私たちの中に働き、命はあなたたちの中に働きます」。なんと底知れぬ深みを、ここで私たちは垣間見ることでしょう。「死」は私たちの中に、「命はあなたたちの中に」働くのです。これこそキリストご自身の死のまさに核心ではないでしょうか?「死」は彼に、命は私たちに与えられました。ジュークスはここで意義深い言葉を述べています。彼はこう書き記しています、「どうか私たちもまた、キリストの肢体として、彼の傷ついた両手と脇腹のように、水と血を流す秘跡となりますように」。

十一節の「イエスのために」は、これを暗示しているのではないでしょうか?ここで復活された主とのとても深い合一が登場します。それは信者がこう言えるほどのものです、「私は、キリストのからだのために、彼の苦しみの欠けたところを、私の肉体において満たしています……」(コロサイ一・二四、C.H.)「キリストの苦難が私に臨みました」(二コリント一・五)。これは明らかに、ローマ六章の罪に対する「死」でも、ローマ八・十三の「体の行い」を「死に渡すこと」でもありません。死によるこの合一は今や大いに深まっており、主ご自身のように、信者がこの世に生きているのは、ただ「ほふられるための羊」と見なされるためです。「一日中死に渡されて」(ローマ八・三六)他の人々に命を及ぼすために、注ぎの供え物として注ぎ出される秘跡となるのです(ピリピ一・十七、C.H.を見よ)。

キリストとのこの深い死による結合のもう一つの結果は信者本人に対するものであり、信者はますますキリストの型に深く同形化されて、メイビーがキリストの「小羊的性質」と称しているものにあずかるようになります。これを垣間見るためにローマ八・二九を見ることにしましょう。こう記されています、「神はあらかじめ知っておられた者たちを、御子の型に似た者にしようと、あらかじめ定められました」。「苦難の中で似た者に」とコニーベアの注釈にあります。さて、へブル二・十を見ましょう。「多くの子らを栄光にもたらすために、彼らの救いの君を苦難によって成就されました……」。文字どおりには、コニーベアの注解によると、「定められた完成へと至らせること、完全に理想的な性格を発達させること」です。御子の型という完全な理想を全く成就するには「苦難」が必要でした。信者は「この型に似た者とされ」なければなりません。御子に「苦難」が必要だった以上、「長子である彼に結合され」た者たち全員にも苦難が必要です。もし御子が「受けた苦難によって従順を学んだ」のだとすると――彼のかたちに同形化されるべき者たちはなおさらです。ですから、ここにピリピ三・十への鍵があります。「それは私がキリストと彼の復活の力と彼の苦難の交わりとを知り、彼の死に同形化されるためです」。彼の死への同形化は、私たちが彼の栄光の体の似姿に同形化されることの一つの面です。

さて最後に、キリストとのこの死の交わりに関する「御座の生活」について一言述べることにします。天の御座の中央には「ほふられたばかりのような小羊」(黙示録五・六)がおられることを忘れないようにしましょう。あなたは「キリストと共なる死」について、そのゴルゴタの面しか考えていないかもしれませんが、この死の力は天の御座の中心で絶えず生き生きと働いているのです。それは人の死であるだけでなく、「キリストにある神」の死でもあるので、その中には天の御座で絶えず働く新鮮で強力な力があります。「復活」はゴルゴタでの死によりました。そして、ほふられた小羊がこの天の御座の中央におられます。

キリストにあるこの真の「御座の生活」の権威を、彼に結合されている者はみな持っていますが、それを実際に行使できるのは、信者が死による一体化による合一に深く焦点づけられている時だけです。一コリント四章はこれを垣間見せてくれます。この節から偽物と本物の特徴の対比を見ることができます。八節は「御座の生活」を捉えようとしている「霊化された肉」を描写しています――「あなたたちはすでに霊の糧をたらふく食べています。すでに裕福になり、自分たちで王座に着いています」――九~十三節は、主との交わりの「複合的な死・復活のエネルギー」に真にあずかっている人の真の「御座の生活」を描写しています。私たちは「死に定められた犯罪者のようであり、世界中の人々や天使に対して見世物となっています。(中略)呪われては祝福し、迫害されては耐え忍び、中傷されては優しい言葉を返しています……」。これが、小羊として天の御座の中央におられる方の小羊のような性質です。