この集会のための私の特別な主題は、「キリストの死のいっそう深い面の今日的意義」です。これには今日、大きな意義があります。なぜなら、十字架の根本的意義に取り組んで、実際に生き生きと経験しないかぎり、私たちは、現在の世界情勢におけるこの世と肉と悪魔の圧力に抵抗して立つことはできないからです。
最初に言わせてください。私のメッセージの最初の部分は、あなたたちがよく知っている基礎をおさらいしているように見えるかもしれませんが、私たちの集会に前に参加したことのない多くの人々のためにはこれが必要なのです。
キリストの死には三つの主な面があります。それぞれ別のものとして明確に認識することが重要です。(1)第一の面は、私たちはキリストの死の中でキリストと一体化されたという客観的事実です。それゆえ、彼にあって私たちは天然のアダムの命に対して徹底的に完全に死んだ、と述べられています。これがローマ六・一~六に示されていることがわかります。(2)第二は、第一の面の結果である、主観的・経験的面です――すなわち、「体の行い」を「死に渡す」ことです。これは、ローマ八・十三にしたがって、「肉」の命そのものにキリストの死を適用することを意味します。(3)次に第三の面があります。死によるキリストとの合一という基礎に基づいて分与されるキリストの命が円熟に達する時、この面が続きます。これはピリピ三・十で述べられています。それによると、「キリストの復活の力の中で」私たちは教会のために「彼の苦難の交わり」にあずかり、「彼の死に同形化」されます。ここで信者は、メイビー博士がキリストの「小羊的性質」と称しているものを、キリストの苦難にあずかることによって、自分の中に造り込んでもらわなければならないことを学びます――この苦難を、神の宥めの小羊である彼が十字架上で受けた苦難と混同してはいけません。