勝利者誌 一九一一年 三巻 四月号 掲載。働き人たちとの大会の注記。
信者の霊の命、そして、クリスチャンの働き人の霊の命には――大まかに言って――四つの段階があります。第一の段階を「福音」の段階と呼べるでしょう。つまり、人が新生を経験し、キリストにある永遠の命を経験する段階です。この段階で人は魂を勝ち取る者となり、罪の刑罰からの救いを説き、他の人々をキリストに導くために用いられます。そこでの目的は全く、キリストのために魂を勝ち取ることです。そこでは、人はキリストによる救いの福音を忠実に宣べ伝えます。
次に、第二の段階があります。それを「復興」の段階と言えるでしょう。つまり、人が「聖霊のバプテスマ」を受ける個人的経験をして、彼を知ることとパースンである彼に従うことを学ぶ段階と言えるでしょう。彼に信頼することを学び、彼を見上げて集会で彼に働いてもらうことを学び、彼と共に働いて、他の人々を御霊のバプテスマの経験に導くために用いられます。これは御霊の段階です。
次に、第三の段階があります。それを「十字架の道」の段階と言えるでしょう。ここで人は、キリストの死との交わりの中で、ローマ六章の立場を経験します。彼の死に「同形化」され、彼の苦難の「交わり」を学び、実生活の細部に至るまで十字架の道を歩むよう導かれます。ここで人は、他の人々に十字架の道を解き明かすために用いられ、ローマ六章、二コリント四・十~十二を経験的に知るよう他の人々を導きます。
第四の段階は霊的戦いの段階です。内側の霊的立場では、これは「昇天の段階」です。ここで人はキリストとの合一を知り、「すべての主権や権力の遥か上に」座します。また、そこでの奉仕は暗闇の勢力との勇猛果敢な戦いです。そこで人は、霊的識別力を用いて悪魔の働きを察知することを学びます。また、敵のすべての力に対するキリストの権威を学びます。これは「権威」の段階です。
あるいは、これを簡潔に述べると――第一は救い、もしくは新しい生活の段階、第二は力の段階、第三は罪に対する勝利の段階、第四は暗闇の勢力に対する権威の段階です。
個々の信者は、クリスチャン生活で神と共に前進するとき、まさにこの順序で導かれます。第一に、救いを受けます。第二に、聖霊を受けます。第三に、十字架の道に沿って導かれます。第四に、戦いと勝利の道を歩んで、その結果は、敵のすべての力に対する「権威」や「力」です。個々の働き人も、この奉仕の四段階で用いられることがわかります。第一に、他の人々をキリストに導くために用いられます。第二に、彼らを御霊の豊かさに導くために用いられます。第三に、彼らに十字架の道を解き明かすために用いられます。第四に、悪魔の策略と働きを見分けるために、また、御座についておられるキリストとの合一を通して「敵のすべての力」に対する権威を行使するために用いられます。
ガイオン夫人がまさに述べているとおり、霊の命のどの段階にも、その程度に応じた、命の始まり、成長、完成があり、それに次の段階の道が続きますが、そこにも始まり、成長、完成があります。各段階で、まさに同じ学課を学びなおしているように見えますが、それをみないっそう深く学んでいるのです。たとえば、第一段階で救い主であるキリストを信じる信仰の道を学びますが、次の段階でまた信仰を行使することを学ばなければならず、その次の段階でも同じです。第四段階で「信仰のみ」の学課を学ぶのは、第一段階と同じくらい困難です。それでも、振り返って見ると、第一段階で困難だった学課が今やとても単純で容易であることがわかります。
さらに、各段階を通過するのにたいてい数年かかる、というのは真実です!霊の命の新しい段階に入る時、しばしば何らかの大きな「祝福」を感じます。神が与えてくださるキリストの豊かさについての経験です。それを、その段階の完成に至る時のために神が備えてくださったものの「前味わい」と言ってもいいでしょう。たとえば、キリストと共に天上に座している、昇天の生活の啓示を受けるとき、その喜びと光はあまりにも現実的なので、今や後にした低い段階に降りて行くことは二度とあるまいとあなたは考えます。しかし、わずか数週間、数か月の間に、祝福の「感覚」――それはその啓示の大きさと力に応じて続きます――消えてしまったかのように見えます。おそらくあなたは、自分が失ったと思っているものを取り戻すためにもがきます。今、あなたは「信仰のみ」によって戦い、自分が取った立場を維持しなければなりません。次に、いわゆる「トンネル」の経験が続きます。その時、あなたは試練に次ぐ試練をくぐり抜けます。その中で、おそらくあなたは、自分は失敗する、と思うかもしれませんが、すべてをくぐり抜けるとき、自分が前進したことに気づきます。そして、最終的に抜け出して、霊の命のその特別な段階が完全に完了します。そこで、あなたはとどまり続ける方法を理解します。というのは、その命を「トンネル」の経験によってあなたの中に造り込むことにより、神は、神を知るその知識の段階に永久にとどまり続ける道に立ちはだかるものを取り除いてくださったからです。(ローマ五・二~五、欽定訳と改訂訳。)
しかし、覚えておいてください、神があなたに理解させるためにあるメッセージを与えるとき、たとえあなたがそれを失ったかのように見えても、彼はあなたを保持してくださるのです。あなたに与えられた彼の御言葉が、あなたを保持します。その御言葉の中には神聖な命とエネルギーがあります。それはあなたを保持して、あなたをそれに保つことができます。もちろん、神にはあなたの協力が必要であり、あなたは積極的に信仰によって御言葉を取らなければなりません。しかし、神が御言葉をあなたに語られる時、力はその御言葉自体の中にあります。主があなたに、敵の力に対する「権威」という言葉を与えてくださったなら、あなたはそれに応答し、「主よ、私はそれを選び取ります。しかし、私にはそれを保持する力がありません。御言葉に保持してもらわなければなりません」と言うことによって協力しなければなりません。
事実、あなたはしばしばそれを失って、それは自分から去ったかのように見えますが、どういうわけか、「信仰のみ」によって進み続けるとき、最終的に神のトンネルの働きをくぐり抜けて、完成点に至ります。そしてその時、神があなたに光を賜った時には文字どおり不可能に見えたものが、まさに自分の命そのものの一部として造り込まれていることに気づきます。それがあなたの霊の存在中に吸収し込まれ、組み込まれていることに気づきます。
信者が神と共に段階から段階へと進み続けて、戦いと権威の領域に達する時、信者は他の人々を彼らが必要としている祝福に導けなければなりません。しかし、通常、人がある特定の水準の段階にいて、その全き完成に到達していない場合、その人が現在の光と経験から語ることによって助けられるのは、その同じ段階にある人々だけです。完成点に到達するときはじめて、その信者は、自分自身が後にした段階にいる他の人々に対応する自由と能力を持つようになります。各段階の移行期間のあいだ、あなたにできるのは自分が持つビジョンを示すことだけです。そのため、あなたの務めは同じ段階にある人々に限られているように思われます。あなたは、自分や彼らが経験していることを、彼らに解き明かします。しかし、あなたがその段階を通り抜ける時、まるで、どの段階にある人々にも、彼らに必要なものを供給できるかのように思われます。
ですから、あなたの「メッセージ」は全く助けにならなかった、あるいはことによると、あなたのメッセージは「自分たちの理解力を超えていた」、とだれかが言っても、決して動揺してはなりません。実は、あなたはそのメッセージを与えるしかなかったのです。というのは、他のメッセージを与える余裕があなたにはなかったからです。あなたは、そのメッセージによって助けを受けることができた、限られた数の人々に対して話したのです。
他の人々はどうなるのか、とお尋ねでしょうか?覚えておいてください、すべての段階を通らないかぎり、すべての人の必要には応じられません。パウロや他の使徒たちのように「すべての聖徒」のための光と真理を持つには、働き人の霊の命はよく成熟していなければなりません。
信者がこれらの「段階」をくぐり抜けて――多かれ少なかれ数年の問題です――暗闇の勢力に対する「権威」の段階に完全に達する時、信者は「使徒的」段階に入り、十分な能力、備え、知識を得ます。そして、義の言葉(へブル五・十三)についての自分自身の経験から、執事として神の御言葉を自在に取り扱って、それを様々な段階にある他の人々に供給できるようになります。成熟・円熟に達する時、あなたは自分自身がその時に経験していることから話すのではなく、武器庫である真理の御言葉を使えるようになります。そして、あらゆる良い働きのために「完全に装備されて」、各々の人に神の御言葉を使用・適用できるようになります。これが、聖霊の力による奉仕のための、真の装備、錬達、適性です。
また、クリスチャンたちが次のことを知るのも必要です。すなわち、暗闇の勢力に対するカルバリの勝利を、霊の命のどの段階、どの経験の水準にいるクリスチャンも、理解しなければならないのです。(1)福音伝道者はそれを知る必要があります。なぜなら、人々を勝ち取ってキリストにもたらすには、その人々を縛っている悪魔を縛る方法を学ばなければならないからです。ですから、神の御言葉が宣言している暗闇の勢力に対する勝利という真理は、福音伝道者の武具・装備の一部なのです。(2)聖霊のバプテスマを受ける人々は、暗闇の勢力に対する勝利を知る必要があります。それは、偽りを察知して拒めるようになるためです。(3)十字架の道を進む人々も同じように、欺く霊どもの策略を知る必要があります。なぜなら欺く霊どもは、十字架を知る知識に進む歩みをことごとく邪魔して、何とかして自分たちの働きを神の働きと混合させようとするからです。事実、暗闇の勢力についての真理を、霊の命の各水準・各段階で、その程度・必要に応じて知る必要があります。
しかし、今なすべき緊急の働きは、キリストの教会の中の成長した人々の必要に応じることです。彼らは自分の霊的感覚を「用いて」行使することができ、成人のための「堅い食物」を吸収することができます。また、赤子らのために、彼らが成長できるよう、この同じ食物を「乳」の形で与えることができます。
他の人々を助けるとき、もし信者たちが祈りの戦いの意味を理解していないことに気づいたら、「あなたたちはそもそも、十字架について、キリストと共なる死について、ローマ六章から知っていますか」と彼らに尋ねなければなりません。なぜなら、罪に対する、この世に対する死を知る時はじめて、彼らは霊的戦いと暗闇の勢力に対する権威を知ることができるようになるからです。もし彼らが十字架の力を知らないようなら、あなたはさらに前に戻って、「あなたたちは聖霊のバプテスマを知っていますか」と彼らに尋ねなければなりません。なぜなら、キリストの死の交わりを経験的に知る力は聖霊によって与えられるからです。もし彼らが聖霊のバプテスマを知らないようなら、あなたはなおもさらに前に戻って、「あなたたちはそもそもキリストにある新し命を持っていますか」と彼らに尋ねなければなりません。キリストを救い主として知らず、上から生まれてキリストの王国の中に入っていなければ、どうして聖霊のバプテスマを受けられるでしょう?私たちは働き人として、人々を各地点から連れ戻して、必要な所に導けなければなりません。また、彼らを取り扱うにあたっては、成長の四段階・水準を認識しなければなりません。
御霊のバプテスマと十字架の道をすでに知っている人々に対する喫緊の必要は、サタンとの戦いについての光です。しかし、もう一つのさらに大きな必要は、聖霊のバプテスマについての経験的知識です。なぜなら、とても多くの信者はこれを知らず、十字架の二つの面を知らないからです。そのため彼らは、私たちが「戦い」という言葉で言わんとしていることや、霊を見分ける必要性を理解できません。暗闇の勢力に対する勝利を宣言するだけでは十分ではありません。あなたは神の子供たちを導いて、信者に関する十字架を知るようにさせなければなりません。エペソ六章の戦いは霊的戦いであり、十字架の死によってのみ信者は霊の領域の中に、そこでの戦いの中に導かれます。
ですから、「あなたたちは信じてから聖霊を受けましたか?」(使徒十九・二)という問いはとても重要な問いです。
多くのクリスチャンは聖霊を受けることについて困惑しています。なぜなら、聖霊の臨在の顕現がなければ、聖霊を受けた証拠にはならない、と思っているからです。ですから、この主題について多くの疑問が生じます。聖書が明らかにしているように、彼を受けるのは信仰によりますが(ガラテヤ三・二~三)、続いてなされるべき働きがあります。彼に実際に明け渡して従い、彼に従う道から妨げをすべて取り除かなければなりません。彼が信者を通して働くために、妨げは取り除かれなければなりません。彼が徐々に示される生活の中の問題を取り除かなければなりません。
暗闇の勢力と現在のその働きについての光は、特にどこに必要なのでしょう?世界中に、今、キリストにある救いの全き保証をはっきりと明確に宣べ伝えている信者が大勢います。次に、聖霊のバプテスマを真に知っており、「復興」の段階、聖霊を知る「段階」にあって、彼と共に働いている信者の数が増えつつあります。また、他の人々は――数は少ないですが――聖霊を知り、御霊の力の中で、カルバリの小羊に従って、十字架の道を実際に進み続けています。
さて、一般的に言って、最後に挙げた信者たちは阻まれています。なぜなら、それ以上のものが少しも見えていないからです。自分はひたすら最後まで十字架の道を小羊の霊の中で進み続けるだけである、と思っています。他方、暗闇の勢力はキリストの教会に洪水のように押し寄せて、四方で神の働きを阻止・邪魔しています。十字架の交わり――十字架につけられた命――を知っているこの人々に必要なメッセージは、暗闇の勢力に対する勇猛果敢な戦いを知らせるメッセージです。この人々に対する召しは、「立ち上がれ、キリストの新しい命の中で、聖霊で装備されて――この方はあなたたちを死の中に導かれたことを、あなたたちはすでに知っています――そしてキリストの権威を握って、勇猛果敢に敵に立ち向かいなさい」です。
勝利者誌の特別なメッセージは主に、十字架を知っているすべての人、聖霊のバプテスマを知っているすべての人、小羊に従うすべての人に対するものです。古い肉の命の活動――魂の命のエネルギー――に対して死に、この世に対して死んで、キリストへと分離されました。この人々こそ、昇天の命によってキリストと一つであることを見る必要がある人々であり、彼の権威を敵のすべての力の上に振るう必要がある人々です。
ここで、十字架の道を知っている多くの人々の生活の中に生じかねない危険の原因について指摘しなければなりません。彼らは聖霊の力と十字架の道を学びました。「小羊に従う」べきこと、神のみこころに服すべきことを学びました。彼らはその道で忠実に従い続けました。そして今や、とうとう知らず知らずのうちに行き過ぎているかもしれません。「服従」は「受動性」――つまり、心や、ことによると能力全体が受動的な状態――になっているかもしれませんが、それは神にしたがったものではありません。「肉体」で「抵抗する」ことをやめて、自分の周囲のすべてのものに対する受動的服従の中に陥ってしまったのです。「神のみこころ」に対してだけでなく、サタンの意志に対しても受動的に服従してしまい、霊の敵に対して「霊の中で」抵抗する姿勢を取りそこなっています。「神のみこころ」に対する明け渡しが、サタンに対する受動的な服従になったか、無意識のうちにそうなっています。疑いなく、教会の上に暗闇の勢力の強い圧力が臨んでおり、十字架を知っている多くの人々は「神のみこころ」と「サタンの意志」を察知しそこなっています。彼らは何の抵抗もしませんし、この敵とその軍勢に対してしっかりと前線を維持しません。神への明け渡しが「受動性」に、つまり、すべてを受動的に忍ぶことに堕しています。彼らは小羊しか見ておらず、獅子・小羊を見ていません――小羊は死に服されますが、獅子・小羊は悪魔に勝利されます。
この人々は受動的な状態の中から立ち上がって、御霊の力の中で、キリストの御名の権威を取り、勇猛果敢に祈りの戦いをして、暗闇の勢力に立ち向かわなければなりません。神と積極的に協力して、自分の新しくされた意志を用いなければなりません。勇猛果敢に、悪魔が自分たちの道に置くすべての邪魔物に対して勝利の祈りをしなければなりません。敵のあらゆる力に対する十字架の勝利を要求しつつ、前に向かって行進しなければなりません。この人々は、死の中へとバプテスマされて、その結果、肉的・魂的エネルギーが停止したがゆえに、「御霊の諸々の賜物」を受けることができますし、あるいは、それらを取って行使することができます。この戦いの中で奉仕するために必要な賜物は何であれ、御霊がこの困難な時のために備えてくださった装備の一部として得ることができます。
また、次のことにも気をつけてください。どの段階にある人々も、それ以前の段階にある人々を助け導くことはできますが、だれかを自分の段階より先の段階に押し込むことはできませんし、自分より先の段階にある人々を十分に理解することもできません。先の道には、その段階にある人々にしかわからない状態や、知識の領域や、危険な箇所があります。そして、それより低い段階にある人々は、それを見ることも理解することもできません。敵はこれを知っており、時として「赤子」を第二段階に押し込んで、先に進まなければわからない真理に抵抗させます。それでも、第三段階や第四段階に適した真理を、それらを必要としている人々のために語らなければなりません。
最後に、はっきりと述べなければなりませんが、信者の霊の命のこれらの段階についての描写は、経験面から、あるいは「主観的な」面から述べたものであり、真理の法理的な面もしくは地位的な面から述べたものではありません。真理の法理的・地位的な面に関しては、「キリストにある赤子」でも、回心した瞬間から、その一生の最後の日と同じく、「キリストにあって完全」であると言えます。子供は赤子の段階から成長して、次々と段階を経て、成人に達します。「私たちも前進しようではありませんか……」。