御座に着いたキリスト

ジェシー・ペン-ルイス

勝利者誌 一九一三年 五巻 四月号 掲載。メッセージの覚え書き。

「私たちにはそのような大祭司がおられ、彼は天で威光ある方の座の右に着き……」へブル七・一。
「あわれみ深い、忠信な大祭司(中略)試みられている者たちを助けることができます……」へブル二・十八。
「私たちの弱さに同情してくださる(文字どおりには、同情することのできる)大祭司……」へブル四・十五。
「無知な誤っている者を思いやることのできる大祭司……」へブル五・一、二。
変わることのない祭司職(中略)彼を通して神に近づく者たちを、彼は極みまで救うことができます」へブル七・二四、二五。

へブル人への手紙で、著者はキリストの人性について述べる前に、まず彼を神の御子として示します。「御子について、彼は、『あなたの御座は、おお、神よ、永遠です』と言われます」。キリストは神であり、御使いたちよりも高いです。御父のひとり子です。

次に二章九節は私たちに、救い主である神の御子を示します。彼が冠を受けたのは、彼の神格による権利によってではなく、贖い主としてです。「私たちはイエスを見ています。彼は御使いたちより少し劣ったものとされ、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れを冠として与えられました。それは、神の恵みによって、彼がすべての人のために死を味わわれるためです」。主が私たちの大祭司となるためにどれほどの代価を払われたのか、また、彼が私たちの大祭司である理由について、あなたはこれまで考えたことがあるでしょうか?この大祭司を見てください。彼は冠を与えられて、御父の右手に座しておられます。それは私たちの極度の必要をも満たすためです。キリストはです。彼が冠を受けたのは、苦難と死のゆえです。彼は死なれました――死を味わわれました――死は彼にとって理論ではなく、恐るべき現実でした――「彼はすべての人のために死を味わわれました」。彼は十字架に行かれました。そして、これが御座に至る彼の道だったのです!十節はその理由を与えています、「彼らの救いの創始者(将、指導者、欄外)を苦難によって成就するためです」。

「成就する」という言葉は、究極的完成を物語っています。つまり、コニーベアが述べているように、多くの子らを栄光にもたらす模範として、「理想的な性格を発達させること」です。苦難によって成熟に達した性格です!ただこれだけが王座への道でした。彼はその素晴らしい生涯のあいだ、カルバリに至るまで、ずっと苦しまれました。そして、十字架で、恥と苦悩と呪いを受けられたのです!

子供たちが肉と血にあずかっているので、同様に彼ご自身も同じものにあずかられたのです」。主イエスの人性を見てください!何のためでしょう?「彼はすべての事で、彼の兄弟たちのようにならなければなりませんでした。それは彼があわれみ深い、忠信な大祭司となるためです」(十七節、改訂訳)。「すべての事で!」です。贖った者たちを栄光に導く者となるには、苦難の道以外になかったのです。彼は模範を示されました。彼は私たちの人性にまで降りて来られました。私たちの状態に服されました。それは、私たちが彼の御座にあずかれるようになるためです。

これまで、地上におけるキリストの人性――彼の穏やかさ、忍耐、神聖な優しさや辛抱強さ――が私たちの思いを満たしてきたかもしれません。しかし、天の栄光の中にある彼の人性については理解していませんでした。そこに彼は今や私たちの偉大な大祭司としておられます。「彼は試みられて苦しまれました」。改訂訳はさらに意義深いです。「彼自ら試みられて、その中で苦しまれました」。彼は苦難の中で試みられたのです。

主イエスは、私たちと同じくらい、苦難に怯まれました。いえ、はるかに怯まれました。なぜなら、彼の純粋な人性は罪によって鈍らされていなかったからです。彼は、暗闇の勢力との戦いの中で、そして、罪との戦いの中で、苦しまれました。そして、この生涯に及ぶ苦難を通して、彼は「試みられている者たちを助けることができる」あわれみ深い、忠信な大祭司となられたのです。

また、へブル四・十四~十五にはこうあります、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情することのできない方ではなく、罪がないことは別にして、すべての面で私たちと同じように試みられたのです」。ギリシャ語の「弱さ」という言葉は、肉体的弱さを物語っており、痛みや苦しみに怯むことを意味します。ああ!代価を払って主イエスは私たちのために人となられました。代価を払って彼はシモンを叱責されました。彼は孤独に怯まれました!このように孤独から怯んだせいで、多くの人は大きな誤りに陥ったのではないでしょうか?

イエス――神の御子ですが、完全な人でもあられます――はあなたに、「わたしの子よ、わたしはあなたの状態を完全に理解しています。わたしもそのような状態の中にすっかり陥ったことがあるからです」と言われるでしょう。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情することのできない方ではない」ことは、なんと幸いなことでしょう。というのは、すべての面で彼は私たちと同じように苦しまれたので、私たちの弱さに同情してくださるからです。ですから私たちは、どんな必要を抱えている時でも、彼はきっと応じて優しくしてくださると確信しつつ、恵みを求めて大胆に彼の御許に行くことができます。

もう一度、五・一を見てください、「大祭司はすべて、人々の間から選ばれます。(中略)彼は、自分も弱さを身にまとっている」ので、「無知な者や迷っている者を、思いやることができます」。私たちの大祭司は人の成り立ち――それは詩篇作者が述べているように「ちり」です――の弱さや制限を理解することができます。ですから、誤っている者に優しくされるのです。

七節では、キリストの苦難が再び記されています。彼は「激しい叫びと涙をもって、祈りと嘆願をささげ」られました。泣かずに感情を示さないことを勝利だと思っている人々もいます。主イエスとなんと対照的でしょう。彼は「肉体にあった日、激しい叫びと涙をささげられ」たのです!この「肉体にあった日」は、彼にとって大いに現実的なものでした。彼は神のかたちの中におられましたが、「神と等しくあるのを尊いこととは見なさず、かえってご自身をむなしくし、人のすがたになって、死に至るまでも従順になられました……」。

ゲッセマネでの彼を見てください!彼の祈り、激しい叫びと涙を!あえて幕を取り去る勇気が私たちにあるでしょうか?ご自身を死から救うことのできる神に叫んでいる彼を見てください。その敬虔な畏れのゆえに聞き入れられたのです。苦悩の中にあるこの神・人を見てください。彼はその杯から後ずさりして、「父よ、できることなら、この杯を過ぎ去らせてください!」と祈られました。「わたしの意志ではなく、あなたのみこころがなされますように」と叫ぶ彼を見てください。こうして彼は苦しみの中で「従順を学」ばれたのです。

人なるイエス・キリストの啓示を私たちはどれほど必要としていることでしょう。少しの間、マタイ二六・三六~四五に記録されているゲッセマネに向かうことにしましょう。彼はご自身と一緒にペテロとゼベダイの二人の子を連れて行かれました。この二人が、ある日、どのように主のもとにやって来て、彼の御座にあずかることを求めたのかは、覚えておられるでしょう。彼は、「あなたたちはわたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか?」(マタイ二〇・二二)とお答えになりました。彼らは天の王国で偉大な者になる野心を抱いていたので、直ちに「できます!」と答えました。

その後、主はペテロと、ご自身と共に御座にあずかることを望んだこの二人を、ゲッセマネに連れて行かれました。完全な人である彼が、「悲しみに満ちて、ひどく悩み」始め、彼らにご自身と共に目を覚ましているように命じ、少し進んで、ひれ伏されたのです。交わりの必要性をお感じになったのでしょうか?その後、彼が彼らの所に戻って見ると、彼らは眠っていました。なんと優しく彼は「無知な誤っている」者を忍ばれたことでしょう!彼らはわかっていませんでした。「目を覚まして祈っていなさい」と彼は言われました。「霊は強く願っていても、肉は弱いのです」。彼は彼らの心をご存じでした。彼らが願っていることをご存じでした。しかし、「肉」に同情することができたのです。彼は自らも知っていることを語られました。当時は「彼が肉体の中におられた日」でした。その時ですら、彼は彼らの「あわれみ深い忠信な大祭司」だったのです。

彼は苦しみましたが、罪を犯されませんでした!こうして、彼は私たちの大祭司になられました。私たちが試みの中にあるときに私たちを助けるのにふさわしく、私たちのために御座に座すのにふさわしい大祭司になられたのです。「彼は苦しんだことによって従順を学」ばれました。彼は戦いの中で勝利されました。彼は勝利を勝ち取り、ゲッセマネでのあの恐るべき時から、全き平穏さの中で、私たちのためにまっすぐカルバリまで進み通されたのです!

他の人々があなたを誤解する時、あなたはたじろぎます。あなたには悪い動機がある、とする他の人の言葉から、あなたは尻込みし、自己防衛しなければと感じます!イエスはそうしたことをすべて感じられました。「彼は咎ある者たちと共に数えられました!」。私たちは、真実ではないことで訴えられると、自己防衛するよう試みられます。彼も同じように感じましたが、完全な勝利を収められました。彼はすべてをくぐり抜けましたが、罪を犯さず、今や永遠に生きていて、私たちのためにとりなしてくださっています。そして、「成就されて」――神の理想的性格の究極的完成に至って――あらゆる苦難の中で神に従ったことによって成熟に達し、彼に従うすべての者にとって「永遠の命の源」(シリヤ訳)となられました。彼はご自身の従順の霊、ご自身の命を、彼が神に従ったように彼に従うすべての者に与えてくださいます。

ああ!キリストの祭司職の栄光!「だれもこの誉れを自分自身で得るのではなく、神に召されて受けるのです」。神は彼に、「あなたはわたしの子(中略)あなたは永遠に祭司である」と語られました。

しかし、「誉れ」という言葉に注意してください。キリストは試みられている者を助ける誉れを与えられたのです!あわれみ深い忠信な大祭司となる「誉れ」、権力の御座に座して、無知な者や、誤っている者を忍び、彼らに命の力と勝利を与える「誉れ」です。彼はこの卓越した務め――ご自分の前に置かれたこの喜び――を「獲得」されました。大胆に恵みの御座に進み出ることによって、彼に喜んでいただこうではありませんか。

へブル六・二〇のもう一つの節、「幕の内側に(中略)先駆者としてイエスは私たちのために入られました」。彼が入られた所に私たちは行かなければなりません!かしこに今日、神の子供であるあなたのためにおられる彼を見なさい。彼は「無限の命の力」の中で御座に座しておられます。彼は変わることのない祭司職に永遠にとどまられます。自ら苦しまれたので同情することができます。極みまでも救うことができます――ご自身によって神のもとに来る人々を完全に救うことができます。なぜなら、幕の内側での彼の務めは、新契約の仲保者たることだからです。「わたしはわたしの律法を彼らの思いの中に入れ彼らの心に書きつけよう」(へブル八・十)。

これはみなつまり、「キリストは神である」ということにほかなりません。彼は「ご自身を空しく」して人になられました。彼は死に至るまで、実に十字架の死に至るまで従順になられました。彼は肉体の中にあった日に苦しみ、試みられて苦しみ、私たちが苦しめる以上に激しく苦しまれました。というのは、罪は私たちの感覚を鈍らせるからです。彼は十字架に直面して苦しまれました。にもかかわらず彼は神に従って、「わたしの意志ではなく、あなたのみこころがなされますように!」と言われました。私たちを救うための道のどの歩みにおいても、彼は死に至るまで従順でした。次に、ゲッセマネで、彼がその杯を受け取られた時、最後の勝利が臨みました。彼はそれを飲み、勝利されました。彼は弱い私たちを、御座からのご自身の助けによって勝利するよう召しておられます。彼がこう言われるのを聞いてください、「わたしの子よ、わたしはあなたのことをなんでも知っています。あなたの個人的な困難、あなたの独特な気質を知っています。わたしはあなたと同じ気持ちです。今、わたしはあなたの弱さの感覚に『同情』しています。わたしが御座に着いているのは、あなたを完全に救うためであり、同情するためであり、毎時あなたを助けるためです。ですから、大胆に恵みの御座に進み出なさい」。自分の問題を徹底的に御手に委ねて、彼は理解して引き受けてくださると確信しようではありませんか。

彼は祭司として御座に座しておられます。それは、あなたに命を与えるためであり、勝利を与えるためであり、御父のみこころをあなたの心と思いに書きつけるためです。ですから、私たちの主イエスは救うことができ、同情することができます。助けることができます。ご自身を通して神のもとに来る者たちをみな完全に救うことができるのです。