勝利者誌 一九一四年 六巻 八・九月号 掲載。一九一四年六月四日のエクルストン会議場でのメッセージ。
マトロック大会で与えたメッセージの短い要約をあなたたちに与える負担があります。大会の主題は、迫りつつある主の来臨を喜んで待ち望むことでした。そしてその主題により私たちは、主の来臨との関連で見た戦いについて、携挙の希望の基礎である十字架について、来臨に備えて霊にしたがって歩む生活について、また、真理の他の諸々の面について扱いました。主の来臨という主題を、預言的・知的観点からというよりは、むしろ実際的・経験的観点から取り扱いました。
1.来臨の時。「兄弟たちよ、あなたたちは暗闇の中にいるのではないのですから、その日が盗人のようにあなたたちを襲うことはありません」(一テサロニケ五・四)。主はマタイ二四・三六で、「その日と時についてはだれも知りません。天の御使いたちも知りません(中略)ただ父だけが知っておられます」と言われました。しかし、時に関して持つべき知識があります。それは、来臨に不意を突かれないためであり、また、盗人が私たちから何らかの宝を奪いに来る時、私たちの用意が整っていないことのないためです。
マタイ二四・三二で主ご自身が私たちに告げておられるように、たとえ主の来臨の時はわからなくても、その接近を知ることはできます。「さて、いちじくの木からたとえを学びなさい。その枝が今や柔らかくなり、葉を出すようになれば、夏の近いことがわかります。そのようにあなたたちも、これらすべての事を見たなら、彼が近いことを知りなさい……」。この「知る」という言葉は印象的です。というのは、それには「思う」ことや「望む」こと以上の意味があるからです。あなたたちの周囲の世界で、ある事を「あなたたちが見る時」、あなたたちは「知り」ます。
主のこれらの御言葉と、彼の僕パウロの言葉を把握することが重要です。なぜなら、「その日その時はだれも知りません」というこのテキストが引用されてばかりいるからです。この傾向のせいで、自分たちは何も知ることができないと考えて、それゆえ、用意もせず、不意を突かれるおそれがあるのです。
主が、「あなたたちが見たなら……」と述べておられることにも注意してください。しかし、視力がなかったとしましょう!見るには視力が必要です。これが前提としているのは、霊的な視力と洞察力です。また、あなたの霊の命が成長して成熟に至り、あなたが自分の周りの諸々のしるしを読み取って、確信をもってそれらの意義を理解・認知できることです。視力――すなわち見て理解する力は、知識をもたらします。ですから、「主の御言葉によると、私は彼の来臨の日や時を知ることはできません。ですから、全く気にしないことにします」と言わないでください。反対に、「私の霊の命を成熟させて、霊的視力と知識を得られるようにしてください。そして、賢い乙女たちのように、主の来臨の突然の出現のために用意の整っている人々の一人にしてください」と主に求めなさい。「だから目を覚ましていなさい」と主は言われました。「あなたたちの主が来られるのがいつの日か、あなたたちは知らないからです」(マタイ二四・四二)。「思いがけない時に、人の子は来ます」(四四節)。その時はわかりませんが、その時期はわかります。そして、その時は近づいています。
昇天と戦う龍
2.来臨の時の戦い。これは黙示録十二・四からはっきりとわかります。「龍は立って(中略)生まれたらすぐに彼女の子供を食い尽くそうとしていた(中略)そして彼女の子供は、神に、神の御座に携え上げられた」。よく知られているこの節の文脈について要約することはせずに、引用した御言葉に戻って、ただ次の事実を強調するだけにします。すなわち、この男の子である教会が携挙で携え上げられる時、龍はまっすぐ立って、この昇天する神の子供たちを食い尽くそうとするのです。自分たちの周囲の戦争状態から、私たちは取り去られるでしょう。龍は、最後の時が近づくにつれて、ますます激怒し、昇天する教会の動きに対して戦います。戦いの真理が示されて、多くの人が龍の策略や罠から逃れることが可能になった時、この「激怒」は増大しましたが、この激怒は今や、主の来臨の事実をめぐって、また、主の出現の時の携え上げに対する信仰をめぐって、激化します。
「私は暗闇の勢力に対して個人的勝利を得る方法を知りたいのです。携え上げの戦いにはあまり関心がありません」とあなたは言うかもしれません。しかし、理解してください。教会全体の昇天を邪魔しようとしていなかったなら、龍はあなた個人の邪魔をあまりしようとはしなかったでしょう。この時代の終わりのとき、龍の狙いは教会の昇天を妨げることであり、あなたの個人的戦いはその一部なのです。なぜなら、あなたは一まとまりとしての教会に属しているからです。おそらく、あなたが経過する戦いの多くは教会全体と関係しています。なぜなら、「一つの肢体が苦しむとき、すべての肢体が苦しむ」からです。キリストの普遍的教会――彼の奥義的からだ――は、神から見て単一体です。それは一つのからだであり、あなたが生けるキリストに結合されて命の合一の中に入るとき、あなたはそのからだの一部――その一肢体――となります。そして、この龍の激怒は、キリストに結合されたすべての生ける肢体に向けられています。龍はこのからだを解体するために、各肢体を食い尽くそうとします。しかし、神に感謝します、龍はからだの肢体たちの間のキリストにある永遠の絆を破ることはできません。彼らが肉体の中にある間、たとえ直接あなたと会って知っているわけではなくても、彼らとの合一による一つは、キリストにあって、破られることはありません。なぜなら、それは永遠であり神聖だからです。あなたのことを理解しない人々についても、これを覚えておいてください。「私は『キリストにあって』あの人と一つです。あの人はキリストと結合されており、私もそうです。ですから、この神聖な結合が破られることはありません」。もしかすると、あなたは、自分には従えない道に進み入ろうとしている他の人々から離れざるをえなかったことがあるかもしれませんが、依然として、キリストにある絆の一つを維持することは可能なのです。
この「食い尽くそう」としている龍は、その悪鬼どもを通して、この終わりの時代、このからだを解体しようとしています。それは教会の昇天を邪魔するため、あるいは遅らせるためです。これに関するビジョンを明確に保ってください。悪魔の側について働いてはなりません。様々な外的要因で他の人々から離れていたとしても、分裂的精神に屈して悪魔を助けてはなりません。神の民の一つのために神の側につき、悪魔の分裂させる働きに立ち向かいなさい。
昇天のとき、私たちの周りは戦争状態でしょう。それゆえ、あなたは目に見える勝利、世人の目の前での勝利を得ることはないかもしれません。龍は立って――その力のかぎり、激怒し、食い尽くし、迫害し、引き裂き、欺きます。男の子が空中に脱出して御座に携え上げられるまさにその瞬間まで、そうするのです。
阻止している者が取り除かれる
3.聖霊が取り除かれる。「不法の奥義がすでに働いています。ただしそれは、今、阻止している者が取り除かれる時までのことです」(二テサロニケ二・七、改定訳欄外)。この節とその文脈からわかるように、聖霊が阻止しておられ、この阻止により「不法の奥義」はその制限内に保たれていますが、それは聖霊が取り除かれる時までのことです。聖霊はキリストの奥義的教会の中におられて、それを形造り、それを小羊の花嫁である一つの有機体へと建て上げつつあります。ですから、教会が昇天する時、聖霊が取り除かれる可能性があります。これらの点について確信をもって話せる人はだれもいません。ですから、私たちにできるのは、神の御言葉を記されているとおりに受け取って、それについて熟考し、光を求めて祈ることだけです。阻止している者を神が取り除かれるという事実ははっきりしています。
神は事を突然行われるのでしょうか?彼の行動は「突然」のように思われることも時々ありますが、もしあなたに見る目があるなら、彼の突然の行動のように見えるものに先立つ前兆があることに気づくでしょう。教会が携挙される瞬間に聖霊が取り除かれるのだとすると、それは次のことを意味するでしょう。すなわち、昇天の前のある期間、聖霊はゆっくりと取り除かれていくでしょう――つまり、聖霊の御業が徐々にやんでいくでしょう――私たちの周囲の世界においてです。不法がますます熟して明らかになりつつあるのは、これで説明がつくかもしれません。また、この世の神がますます大胆に支配しつつあるのも、これで説明がつくかもしれません。サタンが明確に、また公然と、この世の人々によって、ますます目に見える形で礼拝され、認知され、述べられるようになりつつあります。全般的状況について述べると、聖霊は退かれつつあり、悪魔の力が伸びつつあるように見える、と言えるでしょう。一方は――携え上げられようとしている教会の中で――天に向かいつつあり、他方は神として礼拝されるために神の宮の中に場所を得ます。この「不法の者」――反キリスト――サタン――は悪の一大出現の様々な面を示すものであり、この世の神としてますます目に見える形でこの世を支配するようになり、ますます人々を超自然的に支配するようになります。
これらの事実を私たちは目の当たりにしています。それらは私たち自身の家庭の中にも見られます。救われていない人たちは、様々な形で悪鬼に取り憑かれつつあります。たとえば、二、三年前はただの「不機嫌」だったものが、今や悪魔的気性になります。もしあなたが昇天する教会に属しているなら、それがあなたに影響を与えたとしても驚く必要はありません。悪鬼が支配し、悪鬼憑きがますます明瞭になりつつある世の中にはいられません、たとえ自分に攻撃が及んでいなくてもです。これが家庭生活の中でますます顕著になりつつあります。家庭の中で、あらゆることでキリストに対して忠実であることが、信者にとってますます困難になりつつあるのです。
今、聖霊の漸進的退去を示す、私たちの周囲の状態を見てください。手を差し伸べられる救われていない人は、ますます減りつつあります。ますます聖書は大衆にとって権威ではなくなりつつあります――多くの人にとっては聖書は存在しないかのようです。商売で正直であることが、ますます無理になりつつあります。教会が目に見える一致を保つのが、ますます無理になりつつあります――人々は「平和だ」と言っていますが、悪鬼どもは悪鬼的分裂によって神の子供たちの間に割り込みつつあります。
新しい経綸
4.新しい経綸の到来。「古くなり、また衰えていくものは、すぐに消え去ります」(ヘブル八・十三、改定訳)。もしかすると、教会が携挙に向けて成熟しつつある時、私たちはペンテコステの時の教会と似た立場にあるのかもしれません。当時、神はラッパを吹き鳴らして、「ユダヤ教の経綸は今や終わり、クリスチャンの経綸が始まります」とは言われませんでした。そうではなく、新しいものが始まった後、古いものは徐々に消え去っていきました。ペンテコステの日、たった百二十人の男女しかいませんでしたが、彼らがキリストの「教会」*を形成しました。彼らが聖霊に満たされて、キリストのからだが形成され始めた時、ユダヤ教の経綸が視界から消え去る前に、彼らは「新しい経綸」の中に入ったのです。
* 深く教わっている神の僕たちの中には、クリスチャンの経綸はこれより後に始まった、と確信している人々もいることを私たちは承知しています。しかし、この類推はどちらの場合でも成り立ちます。私たちの心は質問に対して開かれています。――編者。
同様に、千年期の新しい経綸が、携挙に向けて成熟しつつある教会の中で静かに始まっている可能性もあります。「クリスチャンの経綸」が人々の中で始まったのは、今や終わろうとしている経綸の中でそれが現れる前でした。ペンテコステの時、男性も女性も新しい経綸の霊と力の中で生き、行動し、話し、働きました。彼らは、ゆっくりと消え去りつつあるユダヤ教の経綸の文字と死んだ状態から抜け出して、新しい経綸の中に入りつつありました。「来たるべき時代の力」――その時代は、主が現れる時に、私たちが前進して入ることになる経綸です――を今や私たちは「味わう」(ヘブル六・五)ことができます。ただしそれには、私たちはその力――キリストと共なる命と合一の力――の中で生きるようにする必要があります――また、私たちが入ろうとしているこの時代を見据えつつ信仰によって生き、前進する必要があります。
しかし、これは次のことを意味します。すなわち、心と思いの中に天の市民権を保持して、二十世紀――過ぎ去りつつある時代の最後の世紀――に属する人々として生きるのをやめなければならないのです。私たちはキリストに属しています。彼は来て、この地上を目に見える形で統治されます。そして、これを信じつつ、私たちは「来たるべき時代」の力を握って、その力を今行使します。ヘブル書の著者は「来たるべき時代の力」を「味わう」ことについて述べています。この力とは何でしょう?たとえば、天の市民権と「万物」に対する権威です。パウロはこれについて述べて、「この世も、命も、死も、現在の事柄も、来たるべき事柄も、すべてはあなたたちのものです」(一コリント三・二一、二二)と言いました。あなたがキリストと共に統治する時、「万物」に対するキリストの権威があなたのものになります。「あなたは十の町を支配しなさい(中略)五つの町を支配しなさい」と彼は一人一人に言われます。今、あなたの度量に応じて、地獄の勢力に対するキリストの権威を取りなさい。来たるべき時代の力の中を歩きなさい。そうすれば、あなたは自分がこの男の子の勝利者たちの一人であることを証明することになります。この男の子は、地獄の勢力がこの世を支配しているまさにその時、天に向かって昇ります。あなたはキリストの力を信じる信仰によって昇ります。そして、キリストの権威を握って、彼の御名を用いる時、荒れ狂う地獄の勢力は無力になることを証明します。
新しい時代の力
言わば、このように前に向かって生きて、来たるべき時代の力をとらえるために、私たちは喜んで古いものから離れて、新しいものを取らなければなりません。私たちは天上におけるキリストにある自分の地位について学んできましたし、勝利のキリストとの合一による統治する命をとらえてきました。しかし、統治してきたのは自分の現在の状況や自分自身でした!しかし今、主は、千年期にご自身と共に統治する民を用意されつつあります。しかも、彼はこれを、暗闇の勢力が世界に降りつつあるまさにこの時に行っておられます。そして、降下する敵の勢力によって引き起こされた苦難を用いて、ご自身の御座にあずかることになる人々を円熟・成熟させようとしておられます。このような時にキリストとその力と命とをとらえる人々は、霊の中で上にあげられて神と共に歩み、ついには「見つからなく」なります。エノクのように――彼らはいなくなります。彼らにはただ一つの道しかありません――上に昇る道です!
前に突き進んで、来たりつつあるキリストの力と命、また、来たるべき時代の力をとらえる人々は、墓に期待をかけることはできません。ご自身の子供たちをこのような信仰に導いておきながら、主がその御業を携挙によって成就されないなどということがあるでしょうか?確かに、主の来臨とその聖徒たちの携挙の最善の証拠は、今この時、神の子供たちが成熟して円熟に達し、この世とこの世の霊に勝利して生きられるようになることです。また、激怒する龍の面前で、彼らが自分たちを支配者キリストに結合する信仰を持つことです。
天の市民権
5.私たちの天の市民権。「私たちの市民権(国、改訂訳欄外)は天にあります。そこから救い主(中略)私たちは待ち望んでいます……」(ピリピ三・二〇)。「私たちの会話は天にあります」が欽定訳の訳であり、通常の「会話」という意味で述べています。できるだけ多く天の事柄について話して、できるだけ少なく地の事柄について話すこと、と言ってもいいでしょう。何某嬢が先週どこに行ったのかに、あまり大きな興味を抱かないでください!どうして知りたがるのでしょう?私たちの「市民権」は天にあります。天の市民たちは天の「政治」について話します。聖書の中に、栄光の王の諸々の計画が示されており、それらの計画に王の「市民たち」とその「政府」はあずかります。たとえば、「砂漠」に川々を拓き、山々を低くして谷々を高くする方法です。今、私たちは祈りの中で、主と次のようなことについて会話できるのではないでしょうか。たとえば、「もはや海はない」時代に主は海軍の人々全員をどうされるのか、また、諸国民が「もはや戦争」について学ばない時代に主は世界の軍隊の人々全員をどうされるのか、についてです。千年期の統治について私たちに告げる神の御言葉をすべて読んで、このような素晴らしい将来に向けて用意するべきではないでしょうか?
主が来てこの世の諸々の王国を支配される時、この世界にその統治の結果が生じるでしょう。これらのことは想像ではなく、神が予言して述べておられる事実です。私たちはすっかり「霊」になるわけではなく、実際的な支配する命にあずかって、この世界を対処します。私たちは実際に「キリストと共に支配する」でしょう。主は今、あなたの心の上に或る負担を置いておられるかもしれません。始まろうとしている新しい時代に、あなたが彼と共に統治することになる国に対する負担です。今、彼はあなたを将来に向けて整えようとしておられるかもしれません。それは、あなたを霊の中で特定の土地の信者たちと結び付けることによってです。たとえば、中国を大いに愛して、その地でキリストのために自分の命を注ぎ出した人々には、何の意味もなかったのでしょうか?
6.新しい時代に関する祈り。「聖徒たちの祈りが立ち上った(中略)その御使いは香炉を取り、それを火で満たして地に投げた。すると、雷鳴と稲妻と地震とがあった」(黙示録八・三~五、欽定訳)。これは天の観点から見た祈りの効力を垣間見せており、いかに祈りが神の経綸上の諸々の御旨と関係しているのかを示しています。神は、イスラエルのために行うと言われたことを実行するために、ダニエルに祈らせました。あの強情な国民のためにモーセに祈らせました。パウロにキリストのからだ――教会――のために祈らせました。今、神は、ある人々を欲しておられるのではないでしょうか?新しい経綸に神がなそうとしておられる御旨の中に入って、「千年期」の祈りを祈る人々です。祈る信者たちを欲しておられるのではないでしょうか。彼らは、自分たちがキリストと共に支配するようになる時の彼の観点から世界を見ること、そして、天から英国、フランス、ロシア、海外の地を見て、この地とかの地でなされるべきことについて王ご自身と会話することを、学びつつあります。
私たちの前になんという展望が開かれていることでしょう。それは実際的であり、いま彼と共に苦しむ価値があります。それは彼と共に栄光を受けるためです。ダビデは、目に見える形で王になる遥か前に、神の御旨においてはイスラエルの王でした。まさにそれと同じように、空より高い領域に実際に昇って、自分の相続財産にあずかる遥か前に、あなたも「王」になれるのです。
よそ者であり巡礼者である
こうしたすべてのことから、へブル十一章に描かれている信仰の英雄たちについて述べられていることが思い出されます。彼らは諸々の約束を受けて、「それらを遥かに仰ぎ見」て、それらの現実性について強く確信するようになったため、それらを「喜び迎え」、握り締めて、「自分たちは地上ではよそ者であり巡礼者であることを告白」しました。彼らは自分の希望と願いをすべて天のふるさとに堅く置いたので、地上では「よそ者」になりました。「なぜなら、このような事を言う者たちは、自分たちがふるさとを求めていることを、明らかに表しているからです」(へブル十一・十三~十六)。私たちはどのようなことを「言」っているでしょう?地に対する、そして、主の来臨に対する、私たちの話と私たちの姿勢は、私たちが天のふるさとを求めていることを「明らかに表して」いるでしょうか?
7.天のふるさとのための準備。天への携挙のための準備が整っていることの霊的しるしのいくつかを短く述べることにしましょう。第一に、「上昇する霊」であり、これは魂と体に対するあなたの霊の優位性によって表されます。第二に、あなたが無意識のうちに地的事柄から解放される(あるいは、それらがあなたから落ちていく)さなかにあることです。かつてのように「計画する」ことができません。将来の事柄に関する「もしも」が自分の思いの中に忍び込むことに、あなたは気づきます。
第三に、主の出現と、その聖徒たちの携挙についての主題に対する、あなたの霊の応答です。この応答はどこから来たのでしょう?悪魔でしょうか?確かに違います!主の来臨の時、龍は大敗北します。神からでしょうか?では神は、起きないことについて、あなたの霊の中に信仰、希望、反応を起こされるとでもいうのでしょうか?
第四に、来臨に関する祈りの生き生きとした流れです。その祈りは、来たるべき変化に向けた、教会のための備えと、あなた自身のための備えの両方のためです。神は祈る一団を欲しておられます。受け取ったばかりの手紙に、こう記されています、「神が信頼を置くことのできる一団の人々の重要性を私は新たに理解しつつあります。その人々は、昼も夜も、信仰と祈りの中で、天を通って上に突き進む人々であり、神のみこころ以外のものによって引き留められることを許さない人々です」。
上への召し
主イエスは「天を通って行」かれました。もし私たちが自分の霊的存在の力を、言わば上に向けて「傾け」尽くしていたなら、霊・信仰・祈りに力があったでしょうし、上への召しに向かって突き進むパウロの姿勢と同じ姿勢を取っていたでしょう。彼のようにあなたも、「キリスト・イエスの中で私を上に召してくださった神の召し(中略)目標に向かって突き進んでいます」と言っていたでしょう。
これに関する感傷は少しも役に立ちません。神は意志と生活における明確な姿勢とを欲しておられます。上昇する信仰のこの霊の中で、このような信者はみな、教会を自分たちと一緒に引っ張り上げます。なぜなら、そのからだのどの肢体も、霊の命において前進するときは必ず、キリストのからだ全体に影響を与えるからです。
私たちは警戒する必要があります。どんな類の罠にも引っかかってはなりません。自分を神のみこころの外に引き出しかねない、見たところ良さそうに見えるものによっても引っかかってはなりません。こう言う人もいるかもしれません、「私は何の選択肢もない状況にあります。神のみこころだとわかっていることを、私は果たせません」。それなら、解放されるよう祈りなさい。「あなたのみこころを果たせない所に私をとどまらせないでください」と神に求めなさい。神に自由を求めなさい。そうすれば、神ご自身があなたを解放してくださいます。あなたのためにすべての束縛を断ってくださいます。「あなたのみこころにしたがって生きられるようにしてください」と神に求める権利が、私たちにはあります。
「あなたのみこころを行うために私を自由にしてください」と神に祈りなさい。あなたの良心と、神のみこころであるとわかっていることとにしたがって生きるための自由です。「あなたたちは代価をもって買い取られたのです。人々の奴隷になってはなりません」。自由にされるよう祈りなさい。「ダニエルを獅子から解放したように、私も解放してください」と神に求めなさい。そうすれば、彼はあなたを解放してくださいます。しかし、彼があなたを自由にされるのは、あなたを苦難から救うためではありません。もしあなたに、神に、ただ神だけに仕える純粋な動機があるなら、彼は、あなたがみこころを行うために自由であるよう、取り計らってくださいます。
「さらにまさったふるさと、すなわち、天のふるさと」を切望した人々について、神は「彼らの神と呼ばれることを恥とされなかった」と述べられています。どうかこの最後の時代にある私たちにもこう言えるようになって、天の賞を得られますように。神はご自分の備えている人々のために「都を備えてくださった」のです。