十字架と「携挙」

ジェシー・ペン-ルイス

勝利者誌 一九一四年 六巻 七月号 掲載。マトロック大会でのメッセージ。

霊の事柄を理解・経験するには「霊にしたがって」生きなければならない、というのは真実です。しかし、神の子供たちはそれでも、姿勢の途方もない力を学ばなければなりません……。彼らは理解していないのです、一日中毎瞬、自分の周囲の事柄に対して自分の「姿勢」を実際に決めていることを。そして、霊的生活でもし「経験」のみに頼るなら、自分の感情の変化や動揺に常にさらされることになることを。「霊の中」で歩むとき、そうでなければ自分を打ち砕いていたであろう事柄を超越して生きられることに気づきます。しかし、霊にしたがって歩むことは、地上の物事と、私たちを霊の中から引き出そうとするすべての事柄とに対する意志の姿勢によります。自分に立ち向かう物事に対して諸々の姿勢を取る方法を理解するとき、私たちは様々な経験にも動じなくなります。あなたはなんらかの大きな戦いの中で次のことに気づきます。すなわち、あなたの取るべき姿勢を巡って、あるいは、なんらかの特定の事柄に対して取るべき姿勢の発見を巡って、戦いが荒れ狂っているのです。その姿勢を取らなければ、正しいとわかっている姿勢を取れないままですが、その姿勢を取るなら、直ちに解放という結果になります。

姿勢の力

姿勢の力の例としてローマ六章を見ましょう。なぜなら、おそらく、この集会の大多数は、携挙の基礎――つまり、十字架上でキリストが成就された御業という基礎――についてはっきりしていないかもしれないからです。ローマ六章は、あなたのために主イエス・キリストによってなされた御業に基づいて、に対して取るべき姿勢について描写しています。あなたが罪に対して取るのと同じ姿勢――ローマ六章に示されているように――を、地の事柄や、新創造の生活とは反対の事柄に対しても取らなければなりません。これは開始時の新生の時から、「新しい人」が天に入るまでずっとそうです。この新しい人が天に入るのは、墓を通ってか、あるいは、エノクのように、また、救い主である主イエス・キリストのように、「携挙」によってです。

しかし、罪に対する姿勢が、この世の事柄に対しても常に取られているわけではありません。そのため、主に贖われた者たちは、たとえ罪に対する勝利の中を歩んでいても、この「世」によって動揺したり妨げられたりしています。

さて、馴染み深い「ローマ六章」を見ることにしましょう。六節と、続く数節の御言葉を読むことにしましょう。「私たちは次のことを知っています。私たちの古い人が彼と共に十字架につけられ(た・ている)のは、罪の体が滅ぼされて、私たちがもはや罪に仕えることがなくなるためです。なぜなら、死んだ者は罪から解放されているからです。さて、私たちがキリストと共に死んだのなら、私たちはまた、彼と共に生きることを信じます(中略)同じように、私たちの主であるイエス・キリストを通して、あなたたちも、自分は罪に対して死んでいるが、神に対しては生きていると認めなさい」。この「認めること」は、「罪に対して死の姿勢を取る」ことをまさに意味します。罪を征服しようと戦ってはなりません。むしろ、自分はキリストの死の中でそれに対して死んだという姿勢を取りなさい。簡単に言うと、これがあなたの取るべき姿勢であり、神が御霊によって証ししてくださる姿勢です。「私たちの『古い人』は十字架につけられ」という事実が、十字架上のキリストにあって、彼が私たちの代わりに死なれた時に起きたこととして述べられています。使徒が述べているこの声明は、カルバリで起きたことに関する神の声明でもあります。

キリストが十字架上で成就された御業という立場に立たないかぎり、携挙は不可能です。また、これがあなたに求めているのはたんになにかを「信じる」こと――結局は失望に終わることを信じ込むこと――ではありません。携挙は、キリストがあなたのためにカルバリで行われたことに基づいて、あなたの中に注入される新しい命の最終的な極点・結果なのです。

福音の知らせ

福音の大いなる豊かな知らせは次のようなものです。一、カルバリの十字架で、主イエスは私たちの身代わりとなって、木の上で私たちの罪をご自身の身に負われただけでなく、堕落した人類の代表人――彼はご自分の無罪性を完全に維持しつつ、堕落した人類と一つになられました――として死なれたこと。一、神の御子はご自身のパースンの中で私たちを十字架に連れて行き、私たちの代わりに死なれたこと。一、「古い人」――古いアダムの種族――にはなんの希望もなく、治る見込みもないこと。一、堕落した人類のための神の救いの道は、堕落した旧創造を代表人であるイエス・キリストのパースンの中で十字架に連れて行き、それによって、最初のアダムの種族の創造者である方が新しい種族、すなわち彼らのために死なれた方に似ている神の子らの種族を創造することだったこと、です。

どうやって彼は私のために「代表者」になれたのでしょう?とあなたは言うかもしれません。神の素晴らしい贖いの計画において、彼は、最初の人がエデンの園で堕落した時、新しい種族を計画されました。「最初のアダム」は人類の盟主でした。私たちはみな、最初のアダムのかたちに生まれました。人類の頭であるアダムが堕落したので、彼の子孫である人の種族もみな、彼が堕落したとき堕落しました。そのため、この世界に生まれた時、あなたは堕落した人類の一人――神から堕落して、自分の内に神の命を持たない人――に生まれたのです。

その後、神は御子を遣わして、新しい種族のかしらとされました。彼は「第二のアダム、天からの主」(一コリント十五・四七)と呼ばれています。彼は天から下って来て、罪深い人に似たすがたを取り、堕落した人類の代表人として十字架上で死なれました。彼にあって、堕落したアダムに対する神の死の裁きがなされました。彼は、罪を犯した人々の代わりに、罪の刑罰を受けられました。そして十字架上で、堕落した人類はその代表者である方にあって終わらされたのです。

さて、あなたが主イエスを自分の救い主として受け入れ、彼があなたの罪と――堕落した一被造物である――あなたを十字架に連れて行かれたと信じる時、神はまさに第二のアダムの命をあなたの中に与えてくださいます――それは天からの命であり、あなたの中にあるその命は成長して彼のかたちに至らなければなりません。次に、あなたは新しい種族の一員になります。新しい種族――神の御子のかたちの中に神から生まれた者たち――だけが天に入ることになります。「古いアダム」を啓蒙して、きわめて敬虔で聖人ぶった者にすることもできます。見たところ「聖」なる者にすることすらできます。というのは、彼は祈ることができるからです。「聖潔」について話すことができるからです。宣べ伝えることができ、外面的に良い生活を送ることができるからです――しかし、あいかわらず「旧創造」なのです。敬虔ぶった「旧創造」を特定の環境の中に置きさえすれば、その本来の腐敗が明らかになります。人々が時として外面的に「良く」見えるのは、彼らの環境のおかげであり、それゆえ、「環境を改善せよ、そうすれば人々は良くなる」と言う人々もいます。しかし、良い市民を育てる唯一の真の道は、彼らを新しくして、新しいアダム――天からの主キリスト――のかたちを帯びさせることです。

古いアダムの携挙はない

さて、「古いアダム」は携挙されえないことを明確に理解しましょう。私はかつて会った一人のとてもとても巨大な福音の奉仕者を思い出します。彼はとても巨大だったので、ボクサーのように見えました。ある日、彼は私に言いました、「僕は時々思うんだけど、かりに自分が『すっかりバラバラにされ』たなら、どれくらい天使的なものがあるだろう!」。彼が言わんとしたのは、彼の大きな巨体が彼の道の邪魔をしているせいで、自分は決して「霊的」になれないのではないか、ということでした。その後、ある日、私たちがローマ六章について話していると、彼は、「僕は信仰によって聖霊を受けたけど、それによって自分の中になんの変化も生じていません」と言いました。私は言いました、「なぜ自分自身の教義を信じていないのですか?あなたがバプテスマのために水の中に降りて行った時、それは何を意味していたのですか?」。彼は、「僕らがキリストと共に葬られたことです」と答えました。「あなたが水の中から出てきた時、それは何を意味していたのですか?」。「もちろん」と彼は答えました。「僕らがキリストと共によみがえらされたことを意味します」。「それがまさに真理です――『古いアダム』は水の中に入りました――彼はそこにいることを信仰によって認めて、出て来て新しい命の中に入りなさい」。彼は真理を見ました。聖霊は「旧創造」を変えようとはされません。「古いアダム」はキリストと共に十字架につけられて、死んで、葬られた、と認めなければなりません。そして、神の霊によって植え付けられた新創造を育み、養い、円熟へともたらさなければなりません。それは、神の御言葉が示している、その成長のための諸々の法則を遵守することによってです。

その奉仕者は真に霊的な人になりました。その地区における神のための有力者になりました。彼の大きな巨体は彼の道の邪魔ではなかったのです。

神は私たちの中に新しい命を与えることを願っておられます。今は天にいる、この聖徒を思い出したのは、「どれくらい自分の内に『天使』的なものがあるだろう」という彼の言葉を思い出したからです。神の御旨は私たちを「天使」にすることではなく、「神の子」にすることです。しかし、私はこの問いを変更して、「携挙に備えてどれくらい自分の内に『新創造』が成長しているでしょうか?どれくらい新しい命――新しいアダム――があなたの内で成熟に達しているでしょうか?」と尋ねてもいいでしょう。これが大事な点です。神は古い人を携え挙げようとはされません。ですから、携挙のための備えの基礎は、ローマ六章のメッセージです。「古いアダム」は十字架に釘づけられました。あなたは新しい種族に属していること、新しい命、新しい希望、新しい言葉、新しい愛、この今の悪しき世を歩む新しい歩みを持っていることを、日毎に認めなさい。旧創造は、そのあらゆる嗜好・願い・願望と共に、キリストの死によって十字架につけられて葬られたと、あなたがますますよく認めれば認めるほど、あなたの中で新創造が急速に成長して成熟に至る可能性がますます大きくなるのです。

愛されざる天

これは決定的に重要です。なぜなら携挙は、神がある瞬間、奇跡的に御業をなして、「土くれ」を「霊」に変え、この今の世を愛している人々を彼らが愛していない天にもぎ取られる、というものではないからです!教会は全般的に用意が整っていません。というのは、十字架をほとんど知らないからです。しかし、神は、用意が整えられるよう祈る多くの人を、明らかに備えつつあります。あなたが次のことを認めることが大事です。すなわち、「古いアダム」はキリストの十字架上にあり、彼のあらゆる嗜好・道・願望は彼と共にそこにある、ということです。「姿勢」を取ることについて述べたきたのはみな、あなたを地への執着から解放する目的のためです。地はまさに旧創造の性質に属しています。これはすべて、あなたの存在の奥底の中心における、抜本的かつ劇的な変化を意味します。神は、あなたの中で成し遂げるべき刷新のどの過程でも、あなたの意志の協力を要求されます。あなたの意志に反してあなたを変えて、「神の子」にしようとはされません。ですから、旧創造に属する事柄に対して明確な姿勢を取るとき、あなたは神があなたをそれらの事柄から解放できる立場に導かれるのです。

新創造の命は成長して成熟に達しなければなりません。携挙は言わばつぼみの開花です。新生の時に分与された新しい命が最高度に成長・成熟して、新しいアダムのための道を設けるために古いアダムをほふる十字架の働きを理解するほどにまでなることです。

十字架の働きについて再び見ることにしましょう。十字架上でアダムの種族全体がその代表者――その身代わり――である御方にあって消し去られるのを見てください――それは、神が「わたしは人を消し去る」と言われた時に起きた、型としての洪水と同じです。

今、主イエスがなさったことを見てください!彼は、計り知れない底知れぬ多くの罪を伴う堕落した人類の立場を取られました。そして彼が十字架上に架かられた時、父なる神は裁きの水を彼の上に注がれました。堕落した人は裁かれて、「消し去られ」ました。古い堕落した人類は、純粋な聖なる神の御子のパースンの中で死にました。この御方は自発的にその代表・身代わりとなられたのです。この人なる方が十字架上に架かっておられる時、御父は彼から顔を隠されました。なぜなら、あらゆる罪の中にある堕落したアダムの種族をそこにご覧になったからです。実に、罪人のための身代わりである神の御子の周囲で、地獄がこぞって荒れ狂いました。暗闇の軍勢が、不可視の領域の最果てから彼の周囲に集まって、とうとう空は彼らの存在によって暗くなり、その全地を暗闇が覆いました。カルバリは十字架につけられた命の君と共に、濃い暗闇で包まれました。地上のすべての諸国民の代表者たちが、その時、エルサレムにいたように思われます。彼は堕落した人類の代表人として十字架上で死なれ、神の聖なる御目の前で「」として裁かれました。彼の周囲の全人類の代表者らと共に裁かれました。主権者たちや地獄の権力者たちの前で裁かれました。

カルバリでの新創造

さて、カルバリを見つめる時、「最初のアダムの堕落した種族はそこで終わったのです」と自分に言い聞かせてください。カルバリで神は、新創造を、新しいアダム――天からの主――のかたちを持つ新しい種族を、造ることを再び開始されました。天にいる人はみな、第二のアダムであるイエス・キリストのかたちを帯びているでしょう。

あなたは今、個人的に、カルバリについてこう言わなければなりません、「無力な罪人である私はそこにいます。神の御子のパースンの中で、私はそこに釘づけられています。私の古い人はあの十字架上に彼と共につけられました。それは罪の体――全被造物――が滅ぼされるため、無に帰されるためです」。いかなる罪も天に入れませんし、古いアダムの古い堕落した命のいかなる部分も入れません。ですから、「罪の体」は無に帰されなければなりません。これは実際には、一瞬でなされることは不可能です。この節の時制に注目してください。「私たちは次のことを知っています。私たちの古い人は彼と共に十字架につけられました」。これはキリストのカルバリの御業を示しています――成就された御業を示しています。私たちの最初の盟主であるエデンのアダムから私たちが得るものをすべて含んでいる「古い人」は全く十字架につけられています――「それは罪の体が(中略)ためです」。これは主観的結果を示しています。救いのために十字架に来る一人一人の人の内に徐々になされるべき経験的働きを示しています。

「それは罪の体が滅ぼされるためです」は、古いアダムの命を無に帰す働き全体を網羅します。これは新生の最初の瞬間から始まり、肉体が変えられてキリストの栄光の体に同形化される最後の瞬間まで続きます。「古い人」が十字架につけられたのは「罪の体」が滅ぼされるためです。第一の事実に基づいて第二が遂行されます。第一は完了しており、第二は進行中です。信者が天に入れるようになるには、まず、あらゆる形の「罪」が除き去られなければなりません。

そうです、神の御旨は最終的に全宇宙から罪を取り除くことです。空中の暗闇の軍勢はみな、穴の中に追放されます。そして、天は新しい清いものになります。創造の物語では、天空に関してだけ神は「はなはだ良い」と言われませんでした。なぜなら、暗闇の軍勢がそこにいたからです。

この壮大な、彼方にまで及ぶ、十字架の無限の働きについて考えてください。遥か過去の諸時代にまで遡り、上は天にまで、下はアビスの底にまで、そして、無限の将来にまで及ぶのです。新しい天――サタンのおびただしい暗闇の軍勢はそこから全く一掃されています――が到来しなければなりません。人々が罪に誘惑されることは不可能になります。実に、暗闇の勢力がきれいに一掃された新しい地であり、古い堕落したアダムの種族の痕跡が一つも残っていない新しい人類でしょう。

頂点である携挙

携挙は成熟に達した新創造の頂点です。その時、新創造は自らが出てきた所、また、属している所に昇ることになります。

エノクは昇るために苦闘した、とあなたは思うでしょうか?彼は大いに神の中に住んでいたので、地上にとどまっていられなくなり、それで昇って行ったのです。あなたの中に植え付けられている神の性質を通して、あなたの中に力が働いています。神の時が来たら、それは昇って行くことになります。重力の法則に逆らってペテロを水上歩行させ続けた、キリストの御言葉の力を見てください。

しかし、神は突然「土くれ」を「霊」に変えることをなさるでしょうか?まず私たちの中に、なんらかの偉大な予備的御業をなす必要があるのではないでしょうか?彼の方法は次のようなものではないでしょうか?すなわち、私たちが十字架の死の意味を完全に把握して、古いアダムの命に対してだけでなく、この世に対しても死んだという姿勢を取ることにより、自分の中で神の命が成熟するための機会を設け、地には言わば爪先だけ触れるようにする、というものではないでしょうか?あなたは地上にいて、「地」があなたを取り巻いているかもしれませんが、「地」が自分の中に入ることはない、と言う権利があなたには確かにあります。地の事柄に対してある姿勢を取る権利が私たちには確かにあります!そうしようではありませんか。

私は神に祈ります、どうかあなたがカルバリの新鮮な啓示を受けますように。十字架上であなたのためにすべてがなされました。携挙のための準備も含めてです。キリストの体は死にました。あなたは信仰によって、彼は古い「体」もそこに運ばれたと見なすことができます。なぜなら、十字架の基礎に基づいて、私たちの体は変えられて、彼の体に似たものにされることになるからです。十字架のこの基礎に基づいて、今、自分の体を生かしてもらうために、私たちは神の命を得ることができます。また、力を得るために、キリストの復活の体の実体を得て、「感謝をもって彼の肉」を食することもできます。主イエス・キリストが死者の中からよみがえられた時、彼には体がありましたが、その中に血はありませんでした。彼は弟子たちに言われました、「わたしに触れて見なさい。霊には肉や骨はありません……」。彼には霊的実体から成る体がありました。パウロが言うには、「天然の」体――つまり、の体――があり、「霊の体があり」ます。霊の体の中でキリストは、「わたしに触れなさい」、つまり、わたしに触って、わたしを感じて見なさい、というのは、「霊には肉や骨はないが、見てわかるように、わたしにはあるからです」と言われました。彼は次のような神秘的な言葉を話されました、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの中に命はありません」。そして、弟子たちはこの言葉につまずきました。私たちは彼の血、つまり、彼の命を飲むことができますが、依然として、「そのを食べ」て彼の体の霊的実体を得ることを学んでいないかもしれません。これを学ぶことにより、彼の復活の体に相当する霊的実体が私たちの中にも建て上げられて、復活や携挙の用意が整うのです。

なぜ弱い人がいるのか

こういうわけで、ある人々は弱く、ある人々は「眠」った、つまり、死んだのです、とパウロは述べています。それは、彼らが「みからだをわきまえ」(一コリント十一・二九)なかったからです。自分たちが吸収すべきキリストのからだは霊的実体であることを彼らは見ていませんでした。どんな方法で私たちは「食べる」のでしょうか?信仰によってです――信仰によって「取って、食べなさい、これはあなたたちのために与えられるわたしの体です」。弱い人々は彼の命――彼の血が意味するところ――を取って、霊の命を受けたかもしれませんが、脆弱でなんの力もありません――彼らにはなんらかの霊的実体が必要です。神がこの御言葉で何を意味しておられるにせよ、とにかくキリストの「肉」を「食べ」なさい。この真の意味を自分に示してくださいと、ひたすら神に求めなさい。また、カルバリの死により――注ぎ出された血により――あなたが回心した最初の瞬間から、携挙の御業により彼の栄光の体に同形化される最後の変化に至るまで、あなたのために完全な御業がなされたことを見なさい。あなたがなすべきことはただ、カルバリの死の面が意味するところすべてと、命の面で復活が意味するところすべてと、そして、昇天の栄光と御座のさらなる成果とを、一歩一歩、要求することだけなのです。

永遠の命を「握り」なさい。次のように述べつつ、自分が持っているものをしっかりと保持しなさい。「私はすでに得たわけでも、すでに完成されているわけでもありません。私は、それを捕らえようと突き進んでいるのですが、それは私がキリスト・イエスによって捕らえられているからです」。