新しいタイプのキリスト教

E. W. ケニオン

洞察力のある男女は新しいタイプのキリスト教を求めてきた。彼らが欲しているのは新しい哲学やキリストに関する新しい形而上学的観念ではなく、イエスの地上の歩みに見られる現実に関する解き明かしである。私たちはそれを求めて過去を振り返ってきたが、それは過去の中には存在しない。初期の教会は人々の心が渇望しているものを持っていなかったのである。

初期の教会はキリスト、その身代わり、キリストのからだ、御父の右で彼が私たちのために果たしておられる務めに関するパウロの啓示を持っていなかったことを、あなたは理解しているだろう。

彼らは地上におけるキリストの歩みに三年間接していた。

彼らは新創造だった。パウロを通して神が私たちに啓示しておられるものを、彼らはすべて経験していた。しかし、彼らは理解していなかった。彼らは十字架上のキリストの死を知っていた。それを見ていた。キリストの復活を現実のものとして知っていた。彼らはキリスト復活後、キリストと共に食事し、キリストと共に歩み、キリストと交わった。彼らはキリストが昇天するのを見た。聖霊が地上に来臨して教会が誕生したペンテコステの日に、彼らはその場に居合わせた。

しかし、彼らは自分が新創造であることを知らなかった。起きたすべての出来事に関して、感覚的知識による直接的証拠を持っていた。しかし、自分がキリストにあって神の義であることを彼らは知らなかった。彼らは素晴らしい経験をしていたが、それが何によって生じたのか知らなかった。

当時、彼らは信仰によって歩んでいなかった。視覚、聴覚、感覚によって歩んでいた。

ヨハネはこう述べている。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手で触ったもの、すなわち、命の言葉について」(一ヨハ一・一)。

初期の教会は感覚の領域の中を歩んでいた。神はそれを許されたが、それはさらに豊かな啓示が与えられていなかったからである。二世紀初頭になるまで、パウロの啓示を教会は手にしていなかったのである。

この新しいものとは何か?

それはキリスト・イエスにある新しい人である。二コリント五・十七「ですから、だれでもキリストにあるなら、その人は新創造です」。

この新しい人はキリストに似た者となる。エペソ二・十

新しい人は、その愛の生活により、人が抱える問題を解決する。新しい人は神を再び地上にもたらす。人々の間でイエスが生き、歩まれたように、新しい人も生き、歩む。この新創造の人には、印象的な事実がいくつかある。

ヨハネ八・三二「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にします」。三六節「だから、もし子があなたたちを自由にするなら、あなたたちは本当に自由な者になるのです」。あなたたちは現実を知り、その現実はあなたたちを自由にする。

この現実とは何か?それは人の心の飢え渇きに対する答えである。代々にわたって人々が探究してきたものである。この心の飢え渇きによって、人のすべての宗教が生じた。自分の諸々の権利を完全に自覚するとき、この新しい人は自由になる。

コロサイ一・九~十二には驚くべきいくつかの真理がある。「こういうわけで私たちも、それを耳にした日から、絶えずあなたたちのために祈り求めています」。

この祈りを聞け。それは御霊が私たち各自のために祈ってこられた祈りである。「それはあなたたちがあらゆる霊的な知恵と理解力をもって御旨を知る知識に満たされるためです」。「知識」と訳されているギリシャ語の"epiginosko"は、たんなる知識以上のものである。それは「正確な知識」「完全な知識」である。あらゆる霊的な知恵と理解力による知識である。霊的な知恵は感覚の産物ではない。なぜなら、感覚的知識はそれを理解できないからである。例えば、エペソ書の最初の三章は"epiginosko"を用いた一例である。この三つの章はとばりを取り除く。それは、父なる神が御心に抱いておられる御旨を私たちが見れるようになるためである。

この知識は御旨に関する知識である。私たちが敵の手によって弄ばれることは決して御旨ではない。教会が誕生する時、それが神の息子や娘から構成されること――彼らが悪魔の主人、世の支配者となることを神は計画された。

彼らは自然法則を支配するべきだった。イエスが地上の歩みでなさったように、自然法則を支配するべきだった。風や波を制御するべきだった。

彼らは被造物である動物の主人となるべきだった。エデンの園で失われた権威を、イエスの御名によって、自分たちに取り戻すべきだった。

しかし、教会はそれについてなにも知らない。自分は哀れな、弱々しい、塵で出来た虫けらである、サタンによって支配されなければならない、貧困と欠乏の生活を送らなければならない、自分はあまりにも無価値で祈りをかなえてもらえない、と私たちは教わってきた。

彼らは私たちの中に「自分は無価値な存在である」という感覚を培ってきた。この感覚のせいで私たちは霊的主導権を奪われてきた。そして、恐れと無知と罪によって束縛された状態に保たれてきた。罪の問題は解決済みであることを、私たちは知らなかった。

この知識の目的は「主にふさわしく歩んで、全く主を喜ばせ、あらゆる良いわざで実を結ぶ」ことである。

イエスは言われた、「わたしはぶどうの木であり、あなたたちはその枝々です」。

私たちはキリストの枝々である。キリストの一部である。キリストから出た芽であり、キリストの実を結ぶべきである。キリストは今は実を結べない。私たちはその枝々である。だから、私たちはあらゆる良いわざで実を結ばなければならない。

その一方で、「御父を知る私たちのこの正確な知識は増し加わりつつあります」。私たちは「彼のすべての能力をもって、その栄光の力にしたがって強められ、全き堅固さと喜びを伴う全き忍耐とに至ります」。

これが頂点である!これは私たちを引き上げて環境を超越させ、サタンの支配と力を超越させる。そして、奴隷として震えながら仕えてきた所で、私たちを絶対的主人とする。

これに対する解決は十二節にある。「御父に感謝します。この御方は、光の中にある聖徒たちの嗣業の分け前を享受する能力を、私たちに与えてくださいました」(逐語訳)。

私たちは贖われている

「神は、私たちを暗闇の権威から解放して、愛する御子の王国の中に移してくださいました。御子にあって、私たちは贖い、罪の赦しを受けています」コロサイ一・十三~十四。

私たちはサタンの権威から解放されている。サタンにはもはや私たちを支配する権利はない。

教会はこれを認識したことが一度もないし、これを知ったことも一度もない。此処彼処で自分の嗣業の中に入った個々人はいたが、一般の教会員は恐れと疑いとサタンの支配の束縛の下で生きてきた。

私たちはサタンの支配から解放されているだけでなく、「愛する御子の王国の中に移されて」いる。

これが新創造である。これが神の子たちが実際に「私たちの主であるイエス・キリストを通して、命の領域の中で、王として支配する」(ロマ五・十七、ウェイマス)場所である。

キリストにあって私たちは贖い、自分がかつて行ったすべての行いに対する赦しを受けている。

私たちは敵の手から贖われている。再創造されている。神の命と性質を受けている。神の家族の中に入り、息子や娘として私たちの御父との交わりを楽しんでいる。

教会は感覚的知識によって支配されてきた。この感覚的知識のせいで「自分は無価値である」という感覚を覚えてきたのである。

何度私たちはこう言ってきたことか、「聖なる生活、純粋な生活を送れたら、イエスの生活を送れたら、イエスが持っておられたのと同じ能力を自分も持てたのに」。どれほど人々は至る所で、自分たちのために祈ってくれる聖なる人々を探し回ってきたことか!病人は信仰の祈りを祈れる人を絶えず捜し求めている。しかしその間、自分は不信仰の領域の中に生きているのである。

彼らは知らないのである。自分が再生されたことが確かであるように、自分が新創造となって御父の性質を受けたことも確かであることを。この性質は彼らの霊を健やかにした。この性質が彼らを新創造としたのである。

彼らにとって罪の問題は解決済みである。今や、彼らはキリストにあって神の義である。彼らはイエスと同じように御父の臨在の中に立つことができる。しかし、彼らはそれを知らない。彼らはイエスと同じように祈りをかなえてもらうことができる。しかし、彼らはこれを理解しない。

彼らは霊的事柄に関する無知の中に生きてきた。彼らは感覚的知識をたくさん持っている。彼らは学校や単科大学や総合大学が授けられるすべての知識を持っているが、そのような感覚的知識は彼らがキリストにあって何者なのか彼らに明らかにしなかった。

彼らは知らない。自分が御父の御前でイエスと同じ権利を持っていることを。したがって、全き大胆さをもって、恥じることなく、罪の意識を覚えずに、恵みの御座の前に立てることを。

もし彼らがこれらのことを知っていたなら、もはや恐れは彼らを支配しなかっただろう。彼らは主人となっていただろう。もはや感覚の支配に服さなかっただろう。

御言葉の主権

彼らは喜んで御言葉の主権を認めていただろう。この知識を彼らに与えられさえしたなら、彼らは愛の領域の中に移っていただろう。彼らは愛の生活を送り始めただろう。今、彼らはそれを恐れている。

イエスは神の一部であり神ご自身であるところの新しい種類の愛をもたらされたことを、彼らは知らない。神は愛である。そして、この新しい種類の愛が私たちに与えられている。

これがキリスト教の特質である。この新しい種類の命、この新しい種類の愛は、新しい種類の義を生む――働き、犠牲、祈り、人がなしうる他のなにものによっても得られない義である。

それは新創造と共に臨む賜物である。神の子供はみな、それを持っている。

自分が神の義であることを知るようにならないかぎり、人は決して自分の特権を活用しようとしない。敵の束縛の中に絶えず生きようとする。

しかし、それを知る瞬間、人は大胆に御父の御前に進み出るようになる。御座の部屋でくつろぐようになる。

ヨハネ一・十六に注目してほしい。「私たちすべての者は、彼の豊満の中から受けて、恵みに恵みを加えられました」。この新創造は、エペソ一・二三が教えているように、神の豊満である。「この教会はキリストのからだであって、すべての中ですべてを満たしている方の豊満です」。「豊満」は完整さを意味する。

キリストの性質と命が私たちの霊の中に注がれている。かつては空っぽで、空しく命を求めていた所で、私たちは今や実際を見いだしたのである。

神による備え

この新創造、この新しいタイプのキリスト教は、超自然的生活を送るよう、神によって備えられている。神がその備えをしてくださっている。

エペソ六・十一でパウロは言う、「神のすべての武具を身につけなさい。敵の狡猾な策略に対抗して立つためです。私たちの戦いは肉や血に対するものではなく、主権者たち、権力者たち、この暗闇の世の支配者たち、天上にいる悪の霊の軍勢に対するものです」。

私たちの戦いは精神的戦いや、肉体的戦いではない。霊的戦いである。肉体的自己否定や精神的葛藤で霊の戦いを戦うことはできない。肉体的手段、精神的手段、人がなしうるいかなる種類の働きによっても、霊の戦いで勝利を得ることはできない。

この戦いをイエスはすでに戦って勝利された。私たちはこの戦いでは戦わない。

これは信仰の戦いである

私たちが自分たちの戦いで勝利を得るのは、イエスはすでにこの戦いを戦って勝利されたことを悟ることによってであり、イエスが私たちのためになしてくださったことを受け入れることによってである。

私たちはそのために祈らない。そのためにもがかない。ただ見上げて、「父よ、この戦いではすでに勝利が得られています」と言うのみである。

この信仰の戦いでは、神がすべてを行ってくださる。彼はサタンを征服して罪を取り除かれた。彼は私たちの病を担われた。それは、私たちがただ彼に感謝して、それを享受するためである。

誘惑が洪水のように押し寄せるこの邪悪な日に際して、私たちは自分の腰に真理・実際の帯を締めて立つ。

キリストが成就された御業の実際を私たちは知るようになった。私たちは義の胸当てを身につける。すなわち、私たちはこれを働かせ、用い、告白する。

キリストにあって自分が神の義であることを私たちは知っている。これは認知済みの事実である。自分がキリストにあることを、私たちは知っている。

この義により、咎の感覚や劣等感を覚えずに御父の御前に立てることを、私たちは知っている。

私たちの足は平和の福音の備えを履いている。今、私たちは平和のおとずれを携えて、この世に向かって走ることができる。人々に良い知らせをもたらすことができる。

私たちは信仰の盾を持っている。この盾は悪しき者の火矢をことごとく消すことができる。

霊の力は体の力よりも強い

神は霊である。神は人を創造された。したがって、病によって体が損なわれても、神は新しい肉体を創造することができる。

神は私たちのこの世界を創造して、岩やこれらすべての物体で満たされた。ただ信仰の言葉によってである。

この信仰の言葉は、私たちの体の中の損なわれた組織を再建することができる。私たちの戦いは肉体的事柄に対するものではなく、霊的事柄に対するものであることがわかるだろう。私たちの敵は霊どもである。人々を苦しめるこの諸々の病は霊的である。私たちの理性がこれらの現実を確信する時、病は敗北する。人々を苦しめるこの諸々の病気は霊的なものなのである。

私たちはこれらを支配する主人である。イエスの御名により私たちは王として統治する。

私たちは「救いの兜をかぶり、霊の剣すなわち神の言葉を取る」。この戦いは、私たちの口で戦う戦いである。私たちの口には神の言葉すなわち御霊の剣がある。

この御言葉によって私たちは病を征服する。私たちは言う、「病よ、イエス・キリストの御名によって、なくなれ。癌よ、イエスの御名によって、しぼんでなくなれ。結核よ、イエスの御名によって、この体から去れ」。

私たちは主人である。キリストは私たちを主人にしてくださった。地上の歩みでご自身がそうされたように、私たちもそれらを支配するようにしてくださったのである。

「あらゆる祈りと願い求めによって、どんな時でも御霊の中で祈り、そのために目を覚まして忍耐のかぎりを尽くし、すべての聖徒のために祈り続けなさい」。

二コリント三・五~六「なにかを自分から出たものと見なす資格が自分にあるわけではありません。私たちの資格は神からです。神はまた私たちを新しい契約の奉仕者として資格づけてくださいました」。

神は私たちにご自身の資格、ご自身の能力を与えてくださった。「力」と訳されている「デュナミス」という言葉は「能力」を意味する。例証として次の御言葉を挙げよう。「今、私たちの内に働くこの力にしたがって、私たちが求めまた思うところを遙かに超えて豊かに施すことのできる御方に」。神の能力にしたがって、私たちの内に御業が進行中なのである。

神の素晴らしい能力が私たちの内に働いている。私たちは神によって、神をもって装備されている。私たちはこの宇宙を創造した神の御言葉を持っている。殺すことも生かすこともできる神の御言葉を持っている。イエスの御名を持っている。天のあらゆる権威がこの御名の背後にあり、その中に込められている。この御名を用いる法定代理人としての力を私たちは持っている。偉大な力強い聖霊を持っている。聖霊はイエスを死者の中からよみがえらせて、いま私たちの内に宿っておられる。地上の歩みでキリストの内に働いていたのと同じ能力が、私たちの内にも働いている。

エペソ一・十九~二三を注意深く読んでほしい。「神の大能の力にしたがって、信じる私たちに対して働くこの神の能力の卓越した偉大さを、あなたたちが知りますように。神はこの力をキリストの内に働かせて、彼を死者の中からよみがえらせたのです」。

私たちの装備は霊的である。霊的なものは肉体的なものよりも強い。

自分が神の能力を持っていることを教会は知らない。神の御旨における自分の地位について、教会は全く無知である。

戦争は悪鬼どもによって造られ、悪鬼の啓示により遂行される。しかし、教会は悪鬼どもの主人である。一ヨハネ四・四「私の小さな子供たちよ、あなたたちは神に属しており、彼らに打ち勝ちました。なぜなら、あなたたちの中におられる方は、この世の中にいるものよりも偉大だからです」。私たちはこれをなんと僅かしか理解してこなかったことか!

力強い聖霊は地の表を刷新し、病人を癒し、死者をよみがえらせ、キリストを通して海を静められた。この同じ聖霊を、今日、私たちは持っている。聖霊はご自身の能力をなに一つ失っておられない。

私たちの中におられるこの御方は地上の悪魔の軍勢よりも偉大であることを、御父は私たちに告げようとしてこられた。御父は仰せられる、「あなたたちの中におられる方は、この世の中にいるものよりも偉大だからです」。あなたたちは主人である。支配者である。あなたの同意がなければ、悪鬼どもはこの世を支配できない。

「わたしはあなたたちに、敵のすべての力に対する『あらゆる権威』を与えました。さあ、行って、それを行使しなさい!」

一コリント一・三〇「しかし、あなたたちがキリスト・イエスにあるのは神によります。キリストは私たちに対する神の知恵とされました」。ここでは、イエスは私たちに対する知恵とされている。それは神の知恵であって、人の知恵ではない。それはサタンの知恵よりも偉大な知恵である。

二種類の知恵

御言葉が述べている知恵には二種類ある。上から下って来る知恵と、地に属する地的・感覚的・悪鬼的な知恵である。

いま述べているこの知恵は、イエスが地上の歩みで行使された知恵である。それは、イエスと御父と聖霊が創造のとき用いられた知恵である。私たちはそれを用いることができる。

私たちは敵を打ち負かせることがわからないだろうか?敵がどんな計画を立てたとしても、私たちは敵よりも優っていることがわからないだろうか?

私たちに必要なのは、ただこの知恵を用いる秘訣を学ぶことだけである。私たちは感覚的知識しか持たない法律家や医者を信頼してきた。この至高の知恵に対する自分の権利を無視してきた。

ヨハネ八・十二はこの主題にさらなる光を当てる。「わたしは世の光です。わたしに従う者は暗闇の中を歩くことがなく、命の光を持ちます」。これは神の知恵を意味する。もはや、疑い、恐れ、疑念の中を歩むべきではないことを意味する。私たちは確かな足取りで、イエスが歩まれたように歩む。

一ヨハネ二・十、十一「自分の兄弟を愛する者は光の中に住み、つまずくことはありません。しかし、自分の兄弟を憎む者は暗闇の中におり、暗闇の中を歩んで、自分がどこに行くのか知りません。暗闇が彼の目を見えなくしたからです」。これが永遠の命が私たちの内で行うことである。これをこの世に告げようではないか。