パウロは彼の諸々の祈りによって私たちに祈りについて教える。実に、エペソ六・十八で彼は言う、「すべての祈りと願い求めによって、どんな時にも御霊の中で祈り、すべての聖徒のために根気と願い求めのかぎりを尽くし、このために目を覚ましていなさい」。「すべての祈り(あるいは、あらゆる種類の祈り)と願い求めによって、御霊の中で」という表現を彼が使っていることがわかる。それが聖霊の中であれ、あるいは、彼の再創造された霊の中であれ、実際には同じことを意味するものであることは間違いない。
一テサロニケ五・十七は「絶えず祈りなさい」と述べている。あなたの生活は絶えざるとりなしとなる。これは言葉によるのではなく、あなたの中の霊がパウロがローマ八・二六で述べていることを行っているのである。「同じように、御霊も私たちの弱さを助けてくださいます。なぜなら、私たちはどのように祈ったらよいのかわからないのですが、御霊自ら言い難いうめきをもって、私たちのためにとりなしてくださるからです」。
しかし、私は教会のためのパウロの祈りにあなたの注意を特に喚起したい。最初の祈りはエペソ一・十五、十六である。「こういうわけで、私も、あなたたちの間の主イエスにある信仰と、すべての聖徒に対するあなたたちの愛を聞いたので、あなたたちのために絶えず感謝して、私の祈りの中であなたたちのことを覚えています」。
そして、ここに、あなたや私のための素晴らしいとりなしが示されている。私はコニーベアが提案している二人称単数形を使うことにする。「私の主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示の霊をあなたに与えて、あなたに彼を知らせ、あなたの心の目を照らしてくださいますように。それは、彼の召しの望みがどんなものであるか、また、聖徒たちの中にある神の嗣業の栄光の富がどんなものであるかを、あなたが知るためです」。今、よくよく注意せよ。私たちが知恵の霊を持つよう、彼は祈っているのである。
あなたが気づいていたかどうか私にはわからないが、知恵と知識は異なるのである。
知恵は知識を用いる能力である。
知恵は論理的思考力ではなく、人の霊に由来する。それはキリストの外にある人の天然的知恵であるか、新創造に与えられる神の知恵であるかの、いずれかである。
私たちの霊が知恵を得て、神が私たちのためにキリスト・イエスにあってなしてくださった御業の富を把握しますように、と今、彼は祈っている。今、私たちは知恵を得て、この知識を啓示する贖いの啓示に関する自分の分け前を理解しなければならない。
彼は言う、「私たちの心の目が照らされて、彼の召しの望みと、聖徒たちの中にある御父の嗣業の栄光の富を、私たちが知ることができますように」。聖徒たちの中にあるとは、つまり、あなたや私の中にある、ということである。
もし私たちの心がこれを把握できたなら、それは私たちを変容させるだろう。私たちの中に御父がどんな嗣業を持っておられるのかを私たちが理解できさえすれば、私たちが彼にとってどれほどかけがえのない者なのかがわかるだろう。
私たちは火事や盗難に備えて自分の資産に保険をかける。事故に備えて自分の体に保険をかける。御父は私たちの中にあるご自身の嗣業を守っておられるのだろうか?私たちが自分の宝石類や自分の尊い財産を妬むほど慕うように、彼は私たちを妬むほど慕っておられるのだろうか?その答えは然りであるにちがいない。いつの日か、私たちは彼がどれほど私たちを守ってこられたのかを見いだすだろう。
この祈りにさらに注目せよ。彼は私たちが「信じる私たちに対する彼の能力の卓越した偉大さ」を知るよう願っている。「それは彼の大能の力の働きにしたがってであり、彼はその力をキリストの内に働かせて、彼を死者の中から復活させられました」と彼は述べた。
私の心はなかなかこれを理解できなかった。キリストの死んだ体の中に働いたこの同じ能力が、私の内側に、私の霊、私の魂、私の体の中に働いていることを、私が実際に知った時、自分は守られていることを私は知ったのである。私は弱いはずがなかった。なぜなら、私はこの大能者がそれを通して働かれる道具となっていたからである。
次にローマ八・十一が疑問を解決してくれた。「しかし、イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊があなたたちの中に住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたたちの中に住んでおられる彼の御霊を通して、あなたたちの死すべき体にも命を与えてくださいます」。
キリストの内に働いたこの同じ力が、あなたと私の中に働いている。この復活の能力が私たちの体の中にある。これは癒しと、力と、私たちの日々の歩みにおける私たちの現在の必要に対する活力を意味する。
しかし、彼が述べた別の点に注意せよ。「神は彼を天上でご自身の右に座らせ、すべての支配、権威、力、主権、そしてこの時代だけでなく、来るべき時代においても唱えられるあらゆる名を超えて、遥かに高くされました」。
エペソ二・六で彼は言う、「そして私たちを彼と共に復活させ、彼と共にご自身の右に座らせてくださいました」。そして私たちは今、すべての支配と権威を遥かに超えて座しているのである。これが私たちのためのパウロの祈りだったのであり、あるいはむしろ、これがパウロを通してなされた御霊の祈りだったのである。
そして今、御霊はさらに進んで行って、「神は万物を私たちの足の下に服従させられました」と言われる。私たちはキリストのからだの地上部分である。その長官なる御方は天におられる。その事務官たちはこの地上にいる。私たちはその一部である。私たちは知らなければならない。神がキリストを死者の中から復活させた時に彼の中に働かせた能力は、私たちのものなのである。
ここに、私たちがほとんどすっかり忘れてしまった、もう一つの途方もない事実が示されている。「神は万物をキリストの足の下に服従させ、そして彼を万物の上にかしらとして教会の益のために与えられました」。
私たちは忘れてはならない。サタンは打ち破られているのである。私たちはキリストと共にこの偉大な交代にあずかって、その一部となったのである。私たちは彼と共にこの敵を征服したのである。彼が死者の中から復活した時、私たちは彼と共に復活させられたのである。そして、彼が御父の右で王位に就かれた時、私たちも彼と共に王位に就いたのである。」
私たちがこれを知ることができるようにと、私たちがこの豊かさの中に入れるようにと、彼は祈る。この祈りはかなえてもらわなければならない。私は今、求めている。この祈りがあなたたち一人一人に対してかなえられますように、と。
「神はイエスを万物の上にかしらとして教会の益のために与えられました」。次に、この「万物」は、あなたの生活や私の生活に触れる可能性のあるすべてのものを含んでいる。それらはみなかしら――キリスト――に服従する。そして、私たち――キリストのからだ――に服従する。
というのは、次の節で彼は「教会は彼のからだであって、万物を満たしている方の豊満だからです」と述べているからである。このからだは彼の豊満である。このからだは彼の完全性であり、このからだの能力がその周囲の万物を支配するべきである。
私たちの貧弱な知性はこれを把握できないが、私たちの霊はその中で大いに楽しむことができる。なぜなら、私たちの霊は彼の豊満、彼の愛の豊満、彼の恵みの豊満、彼の知恵の豊満、人々を祝福・援助する彼の能力の豊満で満たされているからである。
彼の次の祈りはエペソ三・十四~二一である。「こういうわけで、私は御父に向ってひざをかがめます。この方から、天と地にあるすべての家族は名づけられています」。さて、この祈りに注目せよ、「どうか御父が、彼の栄光の富にしたがい、能力をもって、彼の霊を通して、あなたたちの内なる人を強めてくださいますように」。
神の能力をもって強められるのである。私たちは弱くなったり、再び失敗しうるとは、私には思われない。
その完全な意味を私は知らないし、その限界も私は知らない。しかし、私は知っている。これにより、あらゆる困惑する状況の中で、私たちは圧倒的勝利者となるのである。これにより、私たちは自分のかかとを私たちの敵の首の上に置く。敵が霊の敵でも、あるいは、物質的な敵でもそうする。これにより、私たちは主人となる。それにより、私たちの弱さや無能さは剥ぎ取られ、私たちは高きところからの能力を着せられるのである。
彼は言う、「キリストが信仰に基づいてあなたたちの心の中に住んでくださいますように」――私の心やあなたの心の中にである――「それは私たちが愛の中に根ざし土台づけられるためです」。これはイエス的愛――アガペー――である。私たちはその影響を受けるべきであるだけでなく、その中に根ざし土台づけられるべきである。愛の中に確立されるべきである。
一ヨハネ四・十六「そして私たちは、神が私たちに対して持っておられる愛を知っており、また信じています。神は愛です。愛の中に住んでいる者は神の中に住んでおり、神も彼の中に住んでおられます」。私はもっと良い訳はこうだと思う、「神が私たちに対して持っておられる愛を、私たちは信じるようになりました」。
この愛、このイエス的愛は、理性よりも優っており、力よりも優っており、人の哲学よりも優っており、人に考案可能なあらゆるものよりも優っていることを、私は知るようになった。
主の道が最善の道であること、愛の道が歩む道であることを、私は信じるようになった。神は愛であることを知る時、神の道は最善であることがわかる。愛を信じているからには、私は愛の創始者を信じる。私は愛を信じる。彼の愛の道が私にとって最善であると私は信じる。それは私たちにとって戦いの終わりであり、苦々しさや憎しみや妬みの終わりである。それは、キリストが私たちの地上の歩みで私たちの生活を支配されることの始まりである。愛の中に根ざし土台づけられることは、人の心に臨みうる最高級の経験である。
「そして、すべての聖徒と共に、彼の恵みと彼の愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解する力を持つようになりますように」。私たちはキリストの愛を個人的に知るようになる。それで私たちはパウロのように、「彼は私を愛して、私のためにご自身を与えてくださいました」と言うようになる。彼の贖いは個人的なものになる。彼は私のために贖いを成し遂げてくださった。あたかも他にはだれも生きておらず、私一人のために彼が死なれたかのようになる。
しかし、次の節がこう述べているのをあなたは知っているだろう、「そして、知識を超越したキリストの愛を知ることができますように。それは、私が神の全豊満で満たされるためです」。これが私のための彼の祈りだった。これがあなたのための彼の祈りである。この祈りがかなえられないはずがない。
彼がコロサイ一・二八でこううめいているのをあなたは思い出すだろう、「それは私が、キリストにあって完全なすべての人を、ささげるためです」。これがパウロの内にあった御霊の情熱だった。この同じ情熱を持つよう神は私を助けてくださる。これは利己心をすっかり消し去るのではないだろうか?それは新しい自己、神から生まれた自己、神の夢以外の夢を持たない自己であり、彼の大志以外の大志はないのである。
しかし、この祈りの結びを聞け、「今、私たちが求め、また思うすべてを、はるかに超えて豊かに行うことのできる方に」。私たちは感覚的知識の軌道の外に、感覚的理性の限界の外に出て、超自然の領域の中に入ったことがわかる。私たちは今や恵みの領域の中に、神の領域の中に生きているのである。
彼は言う、「私たちが求め、また思うすべてを、遥かに超えて、私たちの中に働いている能力にしたがって」。私たちはなかなかこれを理解してこなかったが、これは彼の恵みの絵図である。これは私たちに対する御父の夢の描像である。これはパウロの祈りの生活を解き明かす。これは、祈りの生活に関して人が作り出せるいかなる規則や規定よりも優れている。
この祈りは自分たちのためだったことを、あなたや私が理解する時、それが自分たちにかなえられるよう、私たちは切望するようになる。これにより、彼は私たちの中で自由に、私たちにおいて、また私たちを通して、ご自身の栄光のために、ご自身のみこころとご自身の喜びとすることを行えるようになるのである。