ご自身を私たちの内に複製される神

E. W. ケニオン

真の父親なら皆、自分自身を息子の内に複製することを願う。御父の夢はご自身を私たちの内に複製することである。新創造は御父の性質と命を受けたことを、あなたは理解している。

私たちは、私たちに御父からの性質を分与してくださった聖霊に、私たちの体の中に来てご自身のホームを私たちの中に造ってくださるよう懇願する。次に、私たちが御言葉を食べ、御言葉を実行し、御言葉を生き始める時、彼はこの御言葉を私たちの中に建て上げてくださる。

キリスト教のまさに特質は、神は私たちの中に御言葉を通してご自身を造り込む能力を持っておられることである。それは、私たちの日々の歩みで、私たちが主のように生きるためである。

エペソ五・一「こういうわけで、愛されている子供たちとして、神に倣う者になりなさい。また、愛の中を歩みなさい。キリストもあなたたちを愛して、ご自身を私たちのためにささげられたのです」。私たちは愛されている子供たちとして、キリストが世への愛の中を歩まれたように、愛の中を歩むべきである。御父は御子を世に賜るほどに世を愛された。イエスはご自身を賜るほどに世を愛された。今、私は自分自身をささげるほど世を愛している。自分の心がそれに対して苦々しいものになることを私は許さない。たとえどんな批判や迫害があったとしても。

「私は自分の時間を空しく彼らのために費やした」と言いそうになる時はいつも、私はピリピでのパウロとシラスを思い出す。彼らは逮捕された。鞭打たれて、ついに彼らの背中は血まみれの肉塊となった。それから、両手両足を拘束されて牢獄の中に入れられた。この苦悩、この肉体的苦痛のただ中で、彼らは祈り、賛美を歌った。

彼らは天を大いに感動させたので、御父は牢獄を開かないわけにはいかなかった。そして、看守が地震に驚いて、恐怖の苦しみの中で叫んだ時、パウロはその背中に血を流しつつ彼に宣べ伝えた。それで、彼はイエスを見いだしたのである。その後、彼はパウロとシラス両名の背中を洗って、こうして、看守の家の中に教会が形成されたのである。もしパウロがなにか別の霊を持っていたなら、彼は決してそうできなかっただろう。しかし、彼は自分の主のようだったのである。彼は自分自身を愛の支配・主権にささげていたのである。

御父はご自身を私たちの中に複製することを願っておられる。ガラテヤ四・十九「私の小さな子供たちよ、キリストがあなたたちの内に形造られるまで、私はあなたたちのために、再び産みの苦しみをしています」。キリストを人の中に建て上げる過程はとても遅々としたものかもしれない。しかし、これにより私たちはイエス的男女とされるのである。

私たちはキリスト・イエスにあって創造された。私たちは彼の被造物である。そして、キリストが私たちの内に形造られるまで、世は私たちの中に宗教以外のなにものも見ることはできない。ピリピ二・十三「なぜなら、ご自身の大いなる喜びのために、願わせ働かせるのは、あなたたちの内で活動される神だからです」。御父は実際に私たちの霊の中に彼の愛の命、彼の義、彼の力、そして彼の知恵を建て上げておられるのである。

何年も前、私が東部の学校の校長だった時、福音活動の後に、私は教師たちの何人かにいつも次のような質問をしたものだった、「あなたが前回私と会った時と比べて、私は少しは成長したでしょうか?あなたは私の霊的生活の中に少しは成長の跡を見ることができますか?」。キリストの中で成長しないまま、また、御言葉を知る知識において成長しないまま、一、二か月経ってしまうのではないかと、私はとても恐れていたのである。

二ペテロ三・十八「しかし、私たちの主また救い主イエス・キリストの恵みと知識の中で成長しなさい」。恵みは活動中の愛を意味する。ギリシャ語は「愛の賜物」を意味する。御霊は私たちがこの愛の命の中で成長するよう願っておられる。私たちがイエスの愛の性質を私たちの日々の歩みの中で現すよう願っておられる。私は微塵も疑わずに確信している。私たちが自分自身を愛の主権に委ねる時はじめて、彼はご自身を私たちの中に建て上げられるようになるのである。

これは聖書知識とは異なる。私は御言葉に関する膨大な知識を持っているかもしれない。それはこれとは違う。大事なのは、御言葉が私の中に建て上げられて、私の一部となることである。パウロの啓示を学ぶ時、あなたはこう確信するようになる。それらすべての手紙の究極的点は、イエスの命が個人の中に建て上げられることなのである。ご自身を私たちの中に建て上げる彼の御計画は印象的である。私たちはイエスの立場を取らなければならない。彼の代理として行動することを学ばなければならない。意識的に私たちの霊を訓練して、彼の実際的代表とならなければならない。

コロサイ一・九~十二は御父の情熱を私たちに示している。御父の情熱は、ご自身を大いに実際的な形で私たちに知らせて、私たちのものである彼の命のあらゆる富と豊満の中に私たちが入れるようになることである。御霊はパウロの口を通してこう祈られた、「こういうわけで、私たちもこのことを聞いた日から、あなたたちのために絶えず祈り、そして願い求めています。どうかあなたたちが、あらゆる霊的知恵と理解力において、彼のみこころを知る知識で満たされますように」。知識のギリシャ語は「エピグノーシス(epignosis)」である。それは完全な知識、完整な知識、厳密な知識を意味する。私たちはこの類の知識を持つべきである。なぜなら、この啓示の中にそれがあるからである。

私たちの教師として私たちにこれを示す霊感を与えてくださった聖霊を私たちは持っている。彼は指導者としてのご自身の立場を離れたことは決してない。彼はこの私の心の中に、またあなたの心の中におられる。彼は、あらゆる霊的な知識と理解力において、私たちを御父のみこころに関する正確な知識で満たすことを願っておられる。知恵とは、私たちの日ごとの歩みでこの啓示に関する知識を用いることである。知恵とは、福音書の中の諸々の約束だけでなく、諸々の事実の叙述の利用方法を知ることである。知恵とは、このメッセージを興味をそそる形で知らせる方法を知ることである。私たちは「あらゆる霊的な知恵において彼のみこころを知る知識」を持つべきだし、御父のまさに御心を洞察するいっそう深い洞察力を持つべきである。

一コリント二・九はこれに幾ばくかの光を投じる。「目が見たこともなく、耳が聞いたこともなく、人の心に思い浮かんだことのないものを、神はご自身を愛する者たちのために備えてくださいました」。これらは今日、御霊によるこの啓示によって私たちに啓示される。なぜなら、御霊はすべての事柄、実に神の深い事柄さえも探られるからである。私たちの再創造された霊は、聖霊にしたがって、彼の恵みの富をこのように探るのである。

これらの富の大部分はパウロの啓示の中にある。エペソ三・八で、私たちはそれを垣間見る。そこでパウロは述べている、「すべての聖徒のうちで最も小さい者よりも小さい私にこの恵みが与えられたのは、キリストの計り知れない富を異邦人に宣べ伝えるためです」。これらの計り知れない富は私たちのものである。しかし、真珠のように、私たちはそれらを探さなければならない。

一コリント二・十一、十二、「いったい人の事柄は、人の中にある人の霊の他に、人の間で誰が知っているでしょう?同じように、神の事柄も、神の霊の他にはだれも知りません」。さて、次の節に注意深く注目せよ、「しかし、私たちはこの世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それは、神によって私たちに無代価で与えられた事柄を、私たちが知るためです。また、それらの事柄を私たちが語るのは、人の知恵が教える言葉によってではなく、御霊が教える言葉によってです」。私たちは御霊の助けにより、この正確な真理を把握することを学んでいるところである。

コロサイ一・九から次のことがわかる。すなわち、あらゆる霊的な知恵と理解力において、彼のみこころを知るこの知識を得ることにより、私たちは神にふさわしく歩んで、神を全く喜ばせられるようになるのである。私たちの歩みは、世人の前の歩みである。それは二重の歩みである、と言えよう。その一つの面は御父の前の歩みであり、もう一つの面は世人の前の歩みである。私は人々の前で主にふさわしく歩まなければならない。それは、彼らが私の中にあるこの新しい命を認識するようになるためである。私は大いにイエス化(このような言葉を造ってもかまわないなら)されているので、彼らは私を前にするときイエスを意識するようになるのである。

放送による私の務めを通してキリストを見いだした一人の婦人を私は知っている。彼女の夫は不敬虔な人で、彼女は俗っぽい彼にうってつけの連れ合いだった。しかし今や、彼女はキリストを見いだした。数週間たって、ついにある朝のこと、仕事に出かける前に、彼は言った、「ご婦人、知っていますか。この二週間、私はイエス・キリストと生活し、眠り、食事をしてきたことを」。彼女は鋭敏な心を持つ女性だったので、「楽しかったですか?」と言った。涙が彼の目に溢れた、「私もそうなれたらよかったのに。あなたの生活の中に臨んだものを私も持っていればよかったのに」。イエスが彼女の中に大いに生きておられたので、この人は彼女の中に主の臨在を感じることができたのである。

二人の若い男性がある店で働いていた。彼らのうちの一人は私たちの授業で御言葉を学んでいた。彼の横で旋盤で働いていた仲間が、ある朝、彼に言った、「ハリー、個人的なことで君に聞きたいことがあるんだ。君の生活はこの部屋にいる他の人々とかなり異なっているけれども、それはどうしてなんだい?」。青年は答えた、「イエスのためだよ」。「ああ」と彼は言った。「宗教のためか。僕は宗教は信じないよ」。すると若い青年は答えた、「大事なのは宗教ではなく、生けるキリストなんだよ」。

私の体においてキリストがあがめられる、とパウロは言った(ピリピ一・二〇)。キリストは私の日々の歩みの中で大きく表現される(ピリピ一・二〇、二一)。彼は「私にとって生きることはキリストです」と言った。

かつて、これらの御言葉が私の心の中に数か月燃え盛った。主は私に語っておられた、「わたしはあなたにおいてあがめられることを望んでいます。あなたの個性を吸収することを望んでいます。あなたの夢や志を私のものにすることを望んでいます。あなたの生活の中で第一位を望んでいます」。私は彼を恐れた。私は言った、「主よ、あなたに私を支配していただく勇気は私にはありません。というのは、もしそうしてもらうなら、私が大いに志しているものに私は決して到達できないだろうからです」。ある声が私の心の中でこう言ったのを私は決して忘れないだろう、「わたしはあなたが自分自身を愛するよりもあなたを愛しています。わたしはあなた以上にあなたの成功を熱望しています。わたしにはあなたを成功させる能力があります」。

私は言った、「主よ、私に路上で宣べ伝えさせないでください。あなたは私をスラムに送られるでしょう。私はそこに行きたくないのです、主よ」。私は再びもがいた。しかし、主は私に優しくしてくださった。彼の知恵が大いに明確になった。私が窮地にある時、しばしば彼は私を助けてくださった。私が困難に陥りそうな時、彼は私を引き上げてくださった。

ある日、私は言った、「主よ、私はあなたと共に行きます。ここに私がおります。私の能力をすべて用いてください。あなたご自身の志で私の志を飲み尽くしてください。しかし、あなたの愛のような愛を私に与えてください。人々が私の中にあなたを見、あなたを感じることができるように、私が語る時それがあなたの御声となるように、私が生きるのを助けてください。私が病人の上に両手を置く時、それがあなたの両手でありますように」。すると私はガラテヤ二・二〇の御言葉を聞いた、「私はキリストと共に十字架につけられました。生きているのはもはや私ではなく、キリストが私の中に生きておられます。そして私がいま肉体の中で生きている命を私は信仰の中で生きます。それはあなたの主を信じる信仰です。この御方は私を愛して、私のためにご自身をささげてくださいました」。

そこで私は言った、「今、主よ、私はあなたに信頼して、自分自身をあなたにささげます」。私たちが精神生活の中で、彼に「はい」という地点に静かに到る時、彼はご自身を私たちの中に啓示してくださることがわかる。それは無理強いではない。彼は決して私たちを駆り立てたりはされない。病気や財産の喪失によって私たちに強制したりはされない。病が臨むのは、彼は私たちを守れることに私たちが気づいていないからである。

私たちは自分の好む道を進んできた。自分自身の願望の道を進み、自分の計画を遂行し、感覚知識で論じてきた。私たちがこれほど浅はかで、これほど多くの愚かしいことをする時、彼の心はどれほど痛むにちがいないことか。彼の知恵を私たちは自由に使えるし、彼の能力が私たちを待っているのだから、私たちにはほとんど限界はないのである。彼がそうであるところのものを、私たちは自由に使うことができる。しかし時として、私たちは心痛と落胆に通じる道を選んでしまう。

大事なのはこのようにキリストが私たちの内側に形造られることであることがわかる。これこそ新創造の特質たる秘訣である。「ですから、だれでもキリストの中にあるなら、その人は新創造です」。それはこれまで完全だったが、彼はもっと豊かにご自身をこの新創造の中に建て上げることを望んでおられる。それゆえ、彼は御言葉の中で私たちに啓示されているキリストに関する事柄を取り上げて、御霊はそれらを私たちの中に建て上げてくださるのである。

私たちは、地上での歩みにおけるイエスの力と勇気をあがめてきた。困難な状況に出くわすたびにキリストが示された能力に興奮してきた。彼の知恵、優しさ、自制をあがめてきた。そしていま御霊は、私たちがイエスについてあがめてきたこれらのものをすべて取り上げて、私たちの中に建て上げることを願っておられる。それが何を意味するか、わからないだろうか?私たちを成功させること、そして、私たちのものである富を私たちが享受できるようにさせることが、御父の志なのである。

あなたが気づいているかどうか、私にはわからない。しかし、祈りの御言葉の一つであるヨハネ十六・二三、二四で、イエスはこう言われた。「その日には、あなたたちはわたしに向かって祈らないでしょう。(これが文字どおりの意味です。)しかし、まことに、まことに、わたしはあなたたちに言います。あなたたちが父に求めるものはなんであれ、彼はわたしの名の中であなたたちに与えてくださいます。今までは、あなたたちはわたしの名の中でなにも求めませんでした。求めなさい、そうすれば、受けます。それは、あなたたちの喜びが満ちあふれるためです」。喜びは再創造された人の霊の中に到来するものである。天然の人はこれを持っていない。

イエスがヨハネ十五・十一で再び語られるのを聞け、「これらの事をわたしがあなたたちに語ったのは、わたしの喜びがあなたたちの中にあり、あなたたちの喜びが満ちあふれるためです」。イエスの喜びを私の中に満たしてもらえるとは、奇跡である。これは私が彼を喜ばせるためだけでなく、彼が私にご自身の喜びを満たすためでもある。福音をたまらなく魅力的なものにするこのなにかが、今や私の心を満たす。私が語る時、私の顔は輝き、私の声は天の旋律で満たされる。

彼が私たちの中にご自身を建て上げて、私たちが彼と共に働き始める時、私たちは彼の命を持っていること、彼の愛を持っていること、実に彼ご自身を持っていることがわかる。そして、キリストが私たちの中に形造られることになる。今や、私ではなくキリストである。

霊的に深く成長した人々は、その人の中で御言葉が完全に支配している人々である。ヨハネ十五・七、八がこれに少し光を投じてくれるかもしれない。「あなたたちがわたしの中に住んでおり、わたしの言葉があなたたちの中に住んでいるなら」。信者はみなキリストの中にあるが、彼の御言葉はすべての信者の中にあるわけではない。御言葉が私の中に住み、絶対的優位性を得、私の思考や私の生活のすべての面を支配するとは、どういう意味だろう。エレミヤが述べたように、神の御言葉を食べることである。今、私は食べているのである。この御言葉の中に生きているのである。それを実践しているのである。私はヤコブが言うところの「御言葉を行う者」なのである。

御言葉を行う者は深く掘って岩の上に家を建てる、とイエスは言われた。これにより、その人の家はそれを打つどんな嵐にも立ち向かえる。彼はこう言われただけでなく、「あなたたちがわたしの中に住んでおり、わたしの言葉があなたたちの中に居場所を見いだしているなら、あなたたちはなんでも望むものを求めることができます。そうすれば、それはあなたたちのために父によって創造されます」とも言われた。存在するようにされるのである。ああ、今、私にはわかる。私は彼と協力しているのである。

この五節で彼は、「わたしはぶどうの木であり、あなたたちはその枝々です」と言われた。今、私はこれを理解できる。一つの枝として、私は彼の実を結ぶのである。私は彼と共に働いているのである。彼と私は共に働いており、互いに一体化されているのである。彼はご自身の能力がこの地上で再び活動・行動するための場所を探しておられるのである。

まるで、自分の商売に従事させられる賢い若者を探している裕福な人のようである。その若者はこの裕福な人の金を用いる能力を持っていなければならない。今、彼と私は共に働いている。そして、御父は栄光をお受けになる。なぜなら、私は多くの実を結んでおり、私の生活の中で弟子たる身分を実証しているからである。自分が恵みの中で成長していることを私は実証する。「主にふさわしく歩んで、すべてのことで主を喜ばせるために、神を知る正確な知識と、あらゆる霊的な知恵と理解力において」成長していることを実証する。私は今、あらゆる良い働きで実を結んでいる。御父を知る正確な知識、完全な知識において私は増し加わりつつある。

イエスは生活の中で常に確信しておられたことに、あなたは気づいているだろう。決して動揺されなかったのである。彼は決して立ち止まって、「今、わたしが知恵を受けられるように祈ってください」とは言われなかった。彼は知恵を持っておられた。私たちも生活の中で、この同じ静かな確信、自分は御父のみこころを知っているという確信を受ける。それは彼の栄光の力にしたがってであり、それは私たちに喜びと共に堅固さと忍耐を与えてくれるのである。

コロサイ一・十二「御父に感謝をささげなさい。この御方は、光の中にある聖徒たちの嗣業の分け前を享受する能力を、私たちに与えてくださったのです」。これは御父の心の願いの絶頂である。それは、彼にご自身の命を私たちの中で生きてもらうことであり、私たちがキリストの中にある嗣業の分け前を享受し始めることである。

私たちは、彼が私たちのために、また私たちの中でしてくださったことの分け前にあずかりつつある。彼の恵みの富を享受しつつあるのである。