イエスの証し

F. G. マントル

勝利者誌 一九一一年 三巻 七月号 掲載

神がご自身の僕であるヨハネにお与えになった黙示録は奥義に満ちており、きわめて深く、きわめて尊い霊的教えで満ちています。この書に記されている命令や教えを読み、聞き、守る、すべての人の上に、主は特別な祝福を宣言しておられます。

昨今、私たちはみな、敵による抑圧をひしひしと感じていますが、このような時にあって、まず、敵の性格、悪意、働きについて知ることがきわめて重要です。そしてこの情報を、サタンの征服者でありカルバリの勝利者である主イエス・キリストは、私たちに直接与えてくださっています。彼の僕であるヨハネと私たちに与えてくださっています。彼が「地はわざわいだ……悪魔が大いに怒って、おまえたちの所に下って来たからである」と仰せられるのももっともです。先ほどあなたたちにテモテへの手紙から御言葉を読みましたが、「悪人ども」はますます悪くなっていく、ということは悪魔にも当てはまります。というのは、自分の時が短くなるにつれて、悪魔の怒りは募っていくからです。彼は贖われませんし、贖われることは不可能です。彼は自分の時が短いことを知っています。そして、自分の時が減りつつあるがゆえに、彼の怒りと残忍さと悪意はますます大きくなっていきます。

私はあなたたちにこう告げないわけにはいきません。私のこれまでのクリスチャン経験の中で、これほど多くの人々が悪魔の抑圧にさらされているのを、今日ほど見たことはない、と。あなたたちに人々の一覧表を与えることもできます。彼らは選り抜きの人々であり、その名をあなたたち全員がよく知っています。彼らは主の戦いの真っただ中にいます。主の軍勢の将です。彼らは抑圧されています。自分自身のためではなく、彼らの子供たちのために、あるいは環境によってです。

つい先日、私はイエスにある私の真の友の一人と話しました。彼は恐ろしい抑圧の時を過ごしており、自分が陥っている状況について恨みがましく自分の魂をぶちまけそうになりました。そこで私は、悪魔は決して表に出てこないことを彼に思い出させることによって、彼に状況の背後にあるものを見てもらいました。悪魔が表に出て来る箇所は、聖書の中に一箇所も見つかりません。彼は常にだれか――最初に蛇だったように、被造物の場合もあります――の背後に隠れています

悪魔の「手先」――家族の中だろうと、状況の中だろうと――の背後にあるものを見抜いて、悪意ある、残酷で、狡猾な敵を見破ることができれば、私たちは大いに有利になります。敵の働きについて黙示録十二章は私たちに告げていますが、敵は、イエス・キリストの教会は決して打ち倒されえないことを知って、「この女に対して怒り、彼女の子孫の残りの者たち、すなわち、神の戒めを守り、イエスの証しを持っている者たちと戦うために出て行った」。

あなたが神の戒めを守るなら、サタンはあなたを残忍な悪意ある憎しみをもって憎みます。なぜならサタンは、人類が始まった時にそう欲したように、あなたが神の戒めを破ることを欲しているからです。神の戒めを破るなら、あなたは彼を喜ばせます。なぜなら、彼の手の中に陥ることになるからです。しかし、あなたが神の戒めを守るたびに、彼の憎しみは強まっていきます。これが今日の彼の働きです――すなわち、イエスの証しを持っているものを攻撃することです。イエスの証しはあなたにとって心地よいでしょうか?

ジョン・バニヤンは彼の書である聖戦の中で、「イエスの証し」を御子インマヌエルに述べさせています。人魂の都を御子インマヌエルに明け渡さざるをえないことを、悪魔ディアボロスが悟った時のことです。彼は自分の大使である嫌屈翁を遣わして、御子インマヌエルとの間に可能なかぎり有利な協定を結ぼうとしました。嫌屈翁は言いました、「御子インマヌエル様が、人魂の都の中にひっそりと住む場所を悪魔ディアボロスに与えてくださいますなら、私の主人は喜んで降伏いたします。それ以外はあなたに主となっていただいてかまいません」。私の友人の一人である偉大な学者は、「この箇所から、バニヤンが素晴らしい注解者であることがわかる」と述べています。バニヤンはヨハネによる福音書の一節を引用して、それを御子インマヌエルの悪魔ディアボロスへの返答として用いたのです。「わたしを遣わされた方のみこころは、彼がわたしに与えてくださったすべてのものを、わたしがなにも失うことなく、終わりの日に復活させることである」(ヨハネ六・三九)。これがバニヤンが御子インマヌエルに述べさせた返答です。彼は御子インマヌエルに、「父がわたしに与えてくださったすべてのもの」と述べさせました――この「すべて」は数を意味するだけでなく、あなたの存在全体をも意味します――「父がわたしに与えてくださったすべてのもの」とは、霊、魂、体、私自身の身の丈すべて、贖われた頭から足まで、屋根裏部屋から地下室までを意味するのです。

「彼がわたしに与えてくださったすべてのものを、わたしがなにも失うことなく」。「そうです」とバニヤンは言います。「ひづめ一つ、髪の毛一本たりとも、わたしは彼に与えません。人魂の都に住む場所を彼に片隅も与えません。わたしはそれをすべて自ら所有します」。悪魔ディアボロスはあなたの存在の中に場所を得ているでしょうか?もし得ているなら、そこから彼はあなたを悩ませ、他の人々を悩ませ、神のためのあなたの働きを妨げるでしょう。

さて、黙示録十二章を見ると、この大敵のとても顕著な一連の名が挙げられていることがわかります。彼は「大きな赤い龍」と呼ばれています。どんなにあなたが悪魔の力を過小評価したとしても、イエス・キリストはそうされません。キリストは悪魔のことを、七つの頭と十の角を持つ大きな赤い龍である、と述べておられます――この十本の角は、もちろん、悪魔の多面的な力を示唆します。次に、これに続く節では、彼の傲慢さが示唆されています。九節では、彼は再び、大きな龍、悪魔ともサタンとも呼ばれているあの古の蛇、全世界を欺く者、と称されています。さらに、私たちの兄弟たちを訴える者、彼らを私たちの神の御前で昼も夜も訴える者として描写されています。

「赤い」という言葉は、サタンの残忍さ、血に飢え渇いている様子を示唆します。これはとても興味深い事実であり、教会史を学ぶなら、次の点が大いに実証・例証されていることがわかります。すなわち、特定の諸々の時期にサタンは龍として表れてきたのに対して、他の時期には「龍」は見当たらず、蛇しか見られないのです。特定の特別な事例を除いて、龍はほとんど見あたらない時代に私たちは生きている、と私は確信しています。今の時代、私たちが目にしているのは蛇としての悪魔です。悪魔は、創世記三章に記されているとおり、最初の時のように同じ言葉を説いています。

その最初の言葉は、神の善良さへの疑いをほのめかすものでした。彼は今日も常にこれをしています。常に神の性格を中傷しています。常に自分の毒袋から目に見えない矢を射て、神の善良さについて再考させようとしています。彼は言います、「神はなんと残酷なのか、なんと厳しい主であることか!今しがた耳にしたのですが――『神は本当にそう言われたのですか?』。それが本当かどうか、私は理解しようとしているのですが、園の木から食べてはならないと神は本当に言われたのですか?」。なんという暗示でしょう!ああ!神は私たちが知っているような愛の神ではない、という示唆を耳にしたことのない人が誰かいるでしょうか?彼は残酷な神である、私たちをよろめいたままにされる、という示唆を耳にしたことのない人が誰かいるでしょうか?これが悪魔が常にしようとしていることです。あなたは窮地に陥って、「神はお前を見放そうとしている!」という悪魔の示唆を耳にします。彼は常に、神と人を、人と人を、隔てようとしています。これが悪魔の最初の言葉でした。

次の言葉は神の信憑性に関する示唆でした。まず最初に、彼は神の善良さを攻撃し、次に、神の信憑性を攻撃しました。「あなたたちは死ぬことはありません」と彼は言いました。「それは真実ではなくて嘘です。あなたたちが善と悪を知って神々のようになることを、神は知っているのです。そうではないでしょうか?」。これは、不信実という罪状で、神を直接非難するものでした。そして今日、彼はこの言葉を数百万の男女に説いています。彼は言います、「あなたたちは好きなように生きることができます。この説教者たちがあなたたちに告げている、『あなたたちは死ぬことになる』というのは真実ではありません。あなたたちの最後は、彼らが言っているような永遠の死ではありません。あなたたちは決して死ぬことはありません」。今日、数百万人の人々がこの悪魔の嘘に耳を傾けています。

三番目の言葉はこうです、「私があなたたちに告げることをしさえすれば、あなたたちはこの知識の領域に入ることができます。あなたたちは神々のようになります。善と悪を知って、神から独立し、自ら神々となります!」。ああ!悪魔は、「あなたたちは自ら小さな神々になれます」と人々に教えることで、なんという混乱・問題を引き起こしたことか。あなたが、私たちの主イエス・キリストとの合一の中で、最後に十字架につけるほぼ最後のものは――神からの独立です。これが自分にまとわりついていることに、私たちは気づきます。自分自身のささやかな予定を立てることを私たちは欲しています。自分自身のささやかな計画を立てることを欲しています。神から独立して、この方面やあの方面に行くことを欲しているのです。

興味深いもう一つの御言葉は二コリント十一・二です。「私は神のねたみをもって、あなたたちをねたんでいます。なぜなら、あなたたちを清純な処女としてキリストにささげるために、一人の夫に婚約させたからです。ところが、私が恐れるのは、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたたちの思いが腐敗させられて、キリストに対する単純さと純粋さを失いはしないか、ということです」。十四節「しかし、驚くには及びません。なぜならサタン自身、光の天使を装うからです」――聖書を開いてやって来て、自分自身を装い、講壇に入り込んで、神の御言葉から説きます。これが蛇です!

この章をもう少し先に進むと、この悪しき者の巧妙さと狡猾さに関する別の示唆を目にします。四節「龍は女の前に立って、彼女の子供を食い尽くそうとしていた」(まさに、彼がヘロデを手先として、幼子のキリストを殺そうとしたのと同じです)。十五節「蛇は口から水を川のように彼女の後ろに吐き出して、その流れによって、彼女を押し流そうとした……」。迫害の洪水です。これにより彼は、イエス・キリストの教会を、その歴史の様々な期間にわたって攻撃してきました。十七節「龍は女に対して怒り、彼女の子孫の残りの者たち、すなわち、神の戒めを守り、イエスの証しを持っている者たちと戦うために出て行った」。

サタンは絶えず戦略を変えます。絶えず新たな方法で、もし可能なら、神の戒めを守り、イエスの証しを持っている者たちを、攻撃し、滅ぼそうとしています――地上を行き来しています。地上を「行き」来しているというこの言葉は、ヨブ記一章で、サタンが地上をさまよっていることを神に述べるために用いられていますが、そのヘブル語は大いに示唆に富んでいます。それは「スパイとして行き巡ること」を意味します。六千年間、悪魔はスパイとして地上を歩いてきました。彼のような旅行者はいません。彼は、この世界のすべての公園、男女が見つかるすべての場所を探索してきました。この惑星上で命の息を呼吸した人で、悪魔の誘惑の対象にならなかった人はだれもいません。この世界の驚くべき多数の人々が彼の力の下で、彼の働きを助けていることを思い出すなら、彼の王国の巨大さについて大体見当がつくでしょう。

しかし、この個所が示しているように、彼の力は制限されていることに注意してください。空間的に制限されています――「地に落とされた」(九節)。ここが闘技場であり、この戦いがなされている場所です――また時も限られています――「自分の時が短いのを知って」。そして、時が短くなるにつれて、サタンの怒りは募っていきます。悪魔の力は六つの方法で制限されています。この制限により彼の攻撃は挫かれます。(1)六節と十四節には、神聖な摂理が示されています――「女は荒野へ逃げて行った。そこには、彼女のために備えられた場所があった」。(2)あなたたちに臨んだ誘惑で、人の常でないものはありません――あなたたちに耐えられないものはありません(一コリント十・十三)。どんなに巻き込まれたとしても、常に逃れる道があります。(3)次に、この章は御使いの務めを示しています――「ミカエルとその御使いたちが龍と戦った」(七節)。これは、もちろん、原初の戦いのことではありません。というのは、あの原初の反逆では、攻撃をしかけたのはミカエルではなく、サタンと堕落した使いたちだったからです。ここでは、攻撃をしかけるのはミカエルとその御使いたちです。これは大きな違いです――「ミカエルとその御使いたちは出て行って戦った。龍とその使いたちは戦った。天にはもはや、彼らの場所はなくなった」。(4)次に、神の恵みという対抗力があります――「私の肉体に一つのとげが与えられました。それは、私を打つためのサタンの使いです。(中略)『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は、弱さの中で完全に現れる』」(二コリント十二・七~九)。あなたは打たれるかもしれませんし、打たれるでしょうが、いつでもどこでも主の恵みは十分なのです。(5)私が常にありがたく思うのは贖い主のとりなしです――「シモン、シモン、サタンはあなたたちを得ようとして、あなたたちを麦のようにふるいにかけることを求めた。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないようにと、あなたのために祈り求めた」(ルカ二二・三一)。

もしかすると、私が話している人の中には、明日、激しい試練に遭うことになる人もいるかもしれません。その人は、今この時も、麦が放り投げられるのを私が極東で見たように、放り投げられている最中かもしれません。これはふるいわけではなく、放り投げです。麦を空中に放り投げることです。すると、風が籾殻を吹き払って、最終的に、麦から籾殻がすっかり取り除かれます。「サタンはあなたたちを得ようとして、あなたたちを麦のように放り投げることを願った。しかし、わたしはあなたのために祈り求めた」。ああ、明日、戦いは激しいかもしれませんが、彼はあなたのために祈ってくださっています。ペテロの中から他のものはすっかりなくなりましたが、信仰はなくなりませんでした――彼の勇気はなくなりましたが、信仰は決してなくなりませんでした。(6)サタンに対する次の制約は、キリストの次の命令の言葉に示されています、「この人から出て行って、二度とこの人の中に入ってはならない」。ああ、私たちが主の御名と御力の中で、私たちの周囲のすべての悪鬼どもに向かって、「この人から出て行って、二度とこの人の中に入ってはならない」と言えるようになる日は、いつ再び来るのでしょうか?その日はいつ来るのでしょうか?神が私たちを助けて、その日を早めさせてくださいますように。

この黙示録が私たちに与えているとても重要な示唆は、サタンに打ち勝つことは可能であるということです。「彼らは小羊の血によって彼に打ち勝った」。つまり、小羊の血という根拠に基づいて打ち勝ったのです。この書は小羊の血をなんと重んじていることか。小羊の血があなたの宣べ伝えの中でどんな地位を占めていたとしても、覚えておいてください、小羊の血はイエス・キリストがその僕であるヨハネに与えられた黙示録においてとても重大な地位を占めているのです。打ち勝ちたければ、「小羊の血」をおいて他に武器はありません。

ああ、勝利はそこにあることをサタンは知っています。サタンは知っています、私たち自身はみな、哀れで無力な人であることを。また、私たち自身に打ち勝つことは可能であり、私たちを一瞬で打ち負かして戦場から追い払うことも可能であることを。しかし、イエス・キリストとカルバリの血の中に、彼に対する絶対的勝利があります。サタンがあなたに歌ってほしくない一節があります。あなたがこう歌うことに彼は耐えられません。

彼は罪を消し去ってその力をこぼち、
 囚人を解放してくださる、
彼の血は極悪人さえも清める、
 彼の血は私に対して効き目がある。

打ち勝つには、小羊の血の立場の上に立ち、そこに避難して、岩の裂け目の中に隠れなければなりません。そこに安全と勝利があります。「そして彼らの証しの言葉のゆえに」――御言葉です!試練と試みを経た、キリストとその使徒たちの御言葉が、私に対して証しとなります。御言葉はあなたに対して証しとなっているでしょうか?あなたは御言葉を受け入れて、知識としては知っています。あなたはそれを試したでしょうか、吟味したでしょうか?そうするなら、御言葉は理屈ではなく証しになります。彼らが彼に打ち勝ったのは、理屈によってではなく、証しによってでした。非難によってではなく、証しによってでした。偶然によってではなく、証しによってでした。

彼らが打ち勝ったのは、小羊の血と彼らの証しの言葉のみによったのではありません。こう述べられています、「彼らは自分の命を重んじなかった」。あるいは、ウェイマス訳では、「彼らは自分の命を軽んじて、死に至るまでひるまなかった」となっています。私たちが命を捨てて生きないかぎり、カルバリへと至る厳しい道を歩まないかぎり、私たちの証しは何人に対してもあまり価値がありません。これに欠けるなら、証しは弱くなります。主が「自分の命を愛する者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者はそれを保って永遠の命に至る」と言われたことを、あなたは理解しなければなりません。自分の命を失って来世で再びそれを見いだすことの何たるかを知るとき、勝利の何たるかがわかります。

二つの資質が良い兵士の特徴です。戦場で自分の体を犠牲にする覚悟があることと、自分の信念が最終的に勝利することを絶対的に確信していることです。決してこれを疑ってはなりません。

「罪の力との戦いが激しくても、このような指導者と共に、われらは必ず勝利する。」